第16話 旗の内側に王都が引っ越してきた
返書を出した翌朝、諜報卿セラは「返事」を持って帰ってきた。
封筒でも巻物でもない。
「相手、受領はしたよ。ちゃんと“受け取った”って証拠も取れた」
そう言って、机の上に小さな木札を置く。王家の印が押されている。受領証。嫌になるほど実務的だ。
俺は息を吐いた。
「じゃあ、返事は?」
セラがにこっと笑う。
「返事はね……国境に引っ越してきた」
嫌な予感が、形になってやってきた。
「兵が増えた?」
「増えた。テントも増えた。旗も増えた。あと……移動式の礼拝堂まで来た」
礼拝堂。つまり聖具と神官が常駐する。つまり俺の頭の中に広告が流れやすくなる。
机の端に立っていた法務卿アシュが、短く言った。
「“逃げた”と書けないように、こちらを引きずり出したな」
軍務卿グランが、いつもの穏やかな顔で笑う。
「王都はせっかちじゃのう。わざわざ国境まで来るとは」
「せっかちというか……窓口が増えるのが嫌なんでしょうね」
俺が言うと、セラが肩をすくめた。
「うん。窓口が増えると、壊すのに手間が増える。王宮は手間が嫌い」
そこへ財務卿リリアが入ってきた。足音が軽いのに圧がある。金の匂いがする人だ。
「引っ越し? それ、誰の金で動いてるの」
セラが楽しそうに指を立てた。
「王都の金。監察官の名目は“勇者回収と国境安定化のための臨時派遣”」
「臨時派遣、ね」
リリアが目を細めた。
「臨時って言葉は、たいてい永遠に続くのよ」
グランが茶を啜る。
「で、ミキト殿。どうする」
どうする、じゃない。やることは決まっている。
逃げたら“背教の勇者が逃亡”が完成する。行ったら王都の土俵で摩耗して、拘束される。
だから、土俵をこちらに寄せる。
「国境でやります」
俺が言うと、アシュが頷いた。
「そのための紙を作る。会談の議定書だ。まず“手順”に署名させる」
リリアが即座に言う。
「手順に署名させる前に、相手が“会談の場所”をずらしてくるわ。境界線を越えさせるために」
「やりますね」
セラが笑う。
「絶対やる。椅子とか机の位置とか、ほんとにそういうので刺してくる」
刺し方が地味すぎて腹が立つのに、実際に一番効く。
アシュが机の上に黒い紙を置いた。
「会談議定書。内容は四つだ。越境なし。拘束なし。聖具の使用は“確認”に限る。確認結果の取り扱いは“即時執行しない”」
「即時執行しない、が大事ですね」
「大事だ。ここがないと“確認=逮捕”になる」
俺は紙を受け取り、内容を目で追った。逃げ道も入っている。会談が破綻した場合の中止手順、撤退手順、追撃禁止。完璧に嫌なほど完璧だ。
グランが立ち上がった。
「行くか。旗の内側に、王都を入れてやろう」
その言い方が、戦争より怖い。
――
国境へ向かう馬車の中、俺はふと自分の手を見た。
ここ数日、妙に身体が軽い時があった。重い荷を持っても、疲れにくい。歩いても息が上がりにくい。
けれど、今日は少し違う。
重い。普通に重い。
魔王ヴァルは城に残っている。距離が離れた分、あの“基礎が底上げされる感じ”が薄い。昨日の国境でも感じた。戦える気がしない。つまり、なおさら言葉と紙で戦うしかない。
耳の祈祷再生器を軽く押さえる。小さな賛歌が鳴っている。これがないと、国境の礼拝堂で頭が死ぬ。
――
国境が見えた瞬間、セラの「引っ越し」が誇張じゃないと分かった。
白いテントが列を作り、王家の旗が風に揺れている。兵の数も多い。隊列が綺麗すぎて、逆に怖い。戦うためじゃなく、見せるために並んでいる。
そして中央。
小さな礼拝堂。白い布と銀の支柱。入口に神殿騎士が立ち、内側から賛歌が漏れている。
俺の頭の奥が、早速むずっとした。
女神様は――
喉が勝手に動きそうになって、俺は録音札を押した。
「女神様すばらしい」
棒読みの音が耳の近くで鳴り、ぎりぎり持ちこたえる。
グランが、わざと明るい声で言った。
「おお、元気に祈っておるな」
「祈ってません。業務です」
「業務か。便利じゃのう」
笑えない。
境界線の手前に、昨日と同じ机が置かれていた。だが位置が、微妙におかしい。
机が、ほんの少しだけ人間側に寄っている。
「来たね」
セラが楽しそうに言う。やめろ、楽しむな。
王都監察官トルストンが前に出てきた。外套は真新しい。目は疲れていない。つまり昨日は寝ている。こっちが寝不足で削れていくのに、向こうは健康的。腹が立つ。
「王都監察官トルストン=ヴァイス。王命により、国境での正式手続きを執行する」
続いて、聖別官エレナが半歩前へ。掌の聖具が淡く光る。
「古神殿、聖別官エレナ=サルヴァ。確認を行います」
その後ろに、神殿外務のフェリクスと、古神殿付のルーカスもいる。フェリクスの目が「胃が痛い」で統一されている。ルーカスは淡々と机の位置を見ていた。俺と同じところを見ている。
トルストンが机を指した。
「ここで行う。背教の勇者、前へ」
俺は一歩も動かずに、机と境界線を見たまま言った。
「机が越境してます」
一瞬、空気が止まった。
トルストンが眉をひそめる。
「些末だ」
「些末じゃないです。ここは国境です」
俺はゆっくり指をさした。
「机の脚が、線の向こうに一本出てる。これ、会談じゃなくて“侵入”になりますよ」
神殿騎士が槍を握り直す音がした。グランの背後で蔦がわずかに動く。
トルストンは苛立ちを飲み込んだ顔で言った。
「……位置を直せ」
命令が部下に飛び、机が数十センチだけ動いた。境界線のちょうど内側に収まる。
たったそれだけで、場の主導権が半歩こっちに寄った。
アシュが黒い紙を机に置いた。
「会談議定書だ。署名してから始める」
トルストンが鼻で笑う。
「魔族の紙に署名しろと?」
「違う」
俺が言った。
「あなたが昨日言った“確認”を、あなた自身の言葉で固定する紙です。署名しないなら、あなたは“確認”じゃなく“拘束”をしに来たことになる」
トルストンの目がわずかに動く。効いている。
フェリクスが小さく咳払いした。
「監察官殿……署名しておいた方が、王都への報告が整います」
その言い方が、トルストンに刺さったらしい。監察官は「報告が整う」を嫌いじゃない。
トルストンが紙を掴み、速読し、眉を寄せる。
「“即時執行しない”……?」
アシュが短く言う。
「確認の結果を、ここで武力執行しない。それだけだ。必要なら王都で続きをやれ。今日は国境の手順だ」
エレナが口を挟む。
「技術的に妥当です。乱暴に処置すると本人が壊れます」
トルストンがエレナを睨むが、エレナは表情を変えない。道具みたいに事実を言うのが、逆に強い。
署名が落ちた。王印。古神殿印。
紙が成立する音はしない。だが、空気は確実に変わった。
――その瞬間、礼拝堂の中から賛歌が大きくなった。
頭の奥が一気にざわつく。聖具の光と相性が悪い。
女神様は偉大だ。女神様は――
喉が勝手に動く。
まずい。
俺は録音札を押そうとして、手が滑った。焦ったときに限ってこういうことが起きる。
とっさに口から出たのは、別のやつだった。
「ヴァルは、ウザい」
反魔王ログ。業務の悪口。
場が静まり返った。
セラが肩を震わせている。笑うな。今それやるな。
トルストンが怪訝そうに言った。
「……何だ、それは」
俺は真顔で言い切った。
「体調管理の手順です」
嘘ではないのが最悪だ。
フェリクスが咳払いでごまかした。助かった。
エレナが、聖具を少し下げた。
「……反応が落ち着きましたね。興味深い」
興味を持つな。
トルストンが手を叩いた。
「よし。確認を始める。久我幹人、前へ」
俺は一歩前へ出た。線は越えない。机の手前で止まる。
そのとき、視界の端で、王都側の隊列がわずかに割れた。
奥に、布で顔を隠した小柄な影がいる。護衛に囲まれている。若い。十代くらい。
胸が嫌な音を立てた。
あれは――
ルーカスも同じものを見たらしく、目だけが僅かに動いた。フェリクスは気づいていないふりをしている。気づいているけど見ないふりだ。
トルストンが気づかれないように話を進める。
「背教の勇者の祝福層を――」
俺は、目を逸らさずに言った。
「監察官。後ろの子、誰ですか」
空気が止まった。
トルストンの表情が、一瞬だけ固まる。
「関係ない」
「関係あります」
俺は声を落とした。
「また“鉄砲玉”を用意してるなら、確認の意味が変わる。今日の枠は“確認”です。戦力の持ち込みは、別の話です」
トルストンが歯を食いしばる。
エレナが、静かに言った。
「……監察官殿。今日は確認だけです。条文に署名しました」
味方から刺される形。トルストンの眉がぴくりと動く。
グランが、にこやかなまま言った。
「ほれ。紙は便利じゃろう。踏んだら、逃げられん」
トルストンは何も答えず、手を振った。隊列の奥の影が、ゆっくり下がる。見えなくなる。
俺の胃がきしんだ。
あの子は、たぶん次の勇者だ。
つまり王宮は、窓口を壊すだけじゃない。いつでも戦争に戻せる弾を、最初から持ってきている。
エレナが聖具を構え直す。
「確認を続けます。久我幹人、胸元を――」
俺は小さく息を吸った。
今日の確認は、拘束の前振り。
そのさらに後ろに、次の鉄砲玉。
なら俺のやることはひとつだ。
この場で“確認”を終わらせて、紙の枠を増やして、あの子が弾になる前に、弾倉ごと止める道を探す。
旗の内側は、戦場より怖い。
でも、まだ旗は立っている。




