第13話 確認は、だいたい拘束の前振り
翌朝、国境へ向かう馬車の中で、法務卿アシュが俺に紙を渡してきた。
黒い紙だ。嫌な予感がする紙。
「今日の“確認”用の合意書だ」
「昨日もう、口で合意しましたよね」
「口は風だ」
即答。ぶれない。
「監察官は昨日、『確証なら王命に従え』と言った。あれを“合意”にするな。言質は取らせるな」
言われて背中が冷えた。俺、昨日あの場で頷いた気がする。空気を壊さないために。
アシュは淡々と続けた。
「今日はこれを先に署名させる。内容は単純だ。“確認は確認で終える”。拘束、浄化、越境、追撃。全部禁止」
「相手が署名しますかね」
「署名しないなら確認をさせない。あいつらは“確証”が欲しい。だから署名する」
嫌なほど現実的だ。
軍務卿グランが向かいで茶を啜りながら笑った。
「紙で縛る前に、紙を踏ませる。よいのう」
「踏ませるって言い方が……」
「踏むよ。向こうも踏ませに来る」
それも現実だった。
国境に着くと、すでに人間側の一団が待っていた。
王都監察官トルストンは、昨日より機嫌が悪そうだった。隣の聖別官エレナは相変わらず無表情で、掌の聖具だけが淡く光っている。
フェリクスとルーカスもいる。フェリクスの顔色は青い。ルーカスは静かに周囲を見ている。逃げ道の位置を測っている目だ。
こちら側は、グランとアシュ、護衛の不死兵と植物兵。俺は境界線の内側、机の手前で止まった。
グランが穏やかに言う。
「おはよう。今日も線は越えるなよ」
トルストンが鼻で笑った。
「線の内側に用はない。背教の勇者を引き渡せば済む話だ」
昨日と同じ。最短で殴りに来る。
アシュが机の上に黒い紙を置いた。
「確認の前に、これに署名しろ」
「何だ、それは」
「今日の手順だ。確認は確認で終える。拘束も浄化も越境も無し。終わったら解散」
トルストンが目を細めた。
「浄化は神殿の権能だ。王都が口を出す話ではない」
エレナが静かに言った。
「確認の後に行う予定でした。ですが……“予定”は折れます。だから条文は合理です」
トルストンがエレナを見た。意外そうな顔をしている。味方が味方を肯定した形だ。
エレナは表情を変えない。
「私は確認がしたい。確認が終わらなければ、浄めもできません」
トルストンが舌打ちして、紙を掴んだ。読み始める。速い。腹が立つくらい速い。
数秒で読み終えて言った。
「……“拘束の禁止”が入っている。ふざけるな」
俺は一歩だけ前に出た。線は越えない。
「拘束をするなら、戦争をしてからにしてください。今日は“確認”でしょう」
トルストンが俺を睨む。
「背教の勇者が口を開くな」
エレナが、俺を見て言った。
「口を開かせてください。反応を見たい」
……やめてほしい。こっちは広告が勝手に再生される体質だ。
でも、エレナが言ったことで空気が少しだけ動いた。トルストンが紙を机に叩きつける。
「いい。署名してやる。だが確認が終わった時点で、王都へ連行する提案は残す」
アシュが即座に切り返す。
「“提案”は自由だ。だが“実行”は条文違反だ」
トルストンが歯を食いしばり、署名した。王家の印も押した。エレナも署名する。神殿の印は古い意匠だった。
フェリクスが小さく息を吐いた。ルーカスは無表情のまま、紙の端を見ている。抜け穴の匂いを嗅いでいる顔だ。
グランがにこやかに言った。
「よし。では確認だ。派手にやるなよ」
エレナが一歩前に出た。境界線は越えない。線の向こうから、聖具を持つ手だけを差し出す。触れない距離。だが空気が乾く。
「久我幹人。胸元を見せてください」
嫌な頼み方だ。けど“確認”だ。拒否した瞬間、物語ができる。
俺は外套の胸元を少しだけ開いた。
その瞬間、聖具がはっきり光った。
目が痛いほどじゃない。けれど、皮膚の下が熱い。胸の奥が、勝手に引っ張られる感じがした。
頭の奥で、例の声が立ち上がる。
女神様は偉大だ。女神様は素晴らしい。崇めよ。
やめろ。今はやめろ。
喉の奥が勝手に動く。俺は歯を食いしばったが、結局、漏れた。
「……女神様すばらしい」
棒読み。
トルストンが勝ち誇ったように言う。
「ほら見ろ。祝福だ。確証だ」
エレナは勝ち誇らない。ただ、聖具を少し傾けた。
「反応は確かに勇者の祝福です。……ですが、混ざっています」
「混ざっている?」
フェリクスが思わず聞き返した。
エレナが淡々と続ける。
「祝福の層に、別の“契約”の層が重なっている。神殿の契約ではありません」
アシュの視線が俺に飛んだ。俺も息を飲む。合意拘束の痕跡か。
トルストンが声を荒げた。
「魔王の契約で汚された祝福だ! なら回収は正当だ!」
エレナは首を横に振った。
「汚れという表現は宗教的です。私は技術的に言っています。……この状態で乱暴に浄化すると、祝福ごと裂けます。本人が壊れます」
その言い方が、逆に怖い。壊すか壊さないかを選べる道具みたいに扱っている。
トルストンが苛立ったように言う。
「では浄化だ。安全にやれ」
「今日は確認だけです」
エレナが、あっさり言った。
トルストンが固まる。味方に止められた形だ。
エレナは俺を見た。
「久我幹人。あなたは自分が勇者だと自覚していますか」
罠だ。答え方で物語が固定される。
俺は一拍置いて、事実だけ言った。
「召喚されたのは事実です。祝福があるらしいのも、今分かりました。……自覚があるかと言われたら、ないです。俺は交渉の仕事をしてるだけです」
エレナの聖具が、わずかに脈打つように光った。
頭の奥が、またざわつく。
女神様は――
俺は反射で、口の中だけで呟いた。
(ヴァルの顔はなんだ。怖すぎる。この前子供が泣いていたぞ)
少しだけ落ち着く。最低の応急処置が、最善になっている。
ルーカスが小さく言った。
「……反応が不安定です。聖別官、これ以上は危険では」
「分かっています」
エレナが聖具を引いた。光が弱まる。空気が少し湿る。呼吸が楽になる。
トルストンが机を叩いた。
「確認は終わったな! なら――」
アシュが被せる。
「終わっていない。条文を読め。確認は“結果の記録”まで含む。勝手に結論を飛ばすな」
トルストンが歯を食いしばり、フェリクスに怒鳴った。
「記録! 書け! 勇者祝福あり、汚染あり、回収が必要――」
「言葉が過ぎます」
フェリクスが珍しく遮った。
「聖別官は“乱暴に浄化すると壊れる”と言いました。王国にとっても損です。ここは“経過観察”と記すべきです」
トルストンが睨む。
「補佐官が王命に口を出すな」
フェリクスは顔色が悪いまま、でも引かなかった。
「私は現地担当です。現地が燃えたら、王命の紙も燃えます」
……言った。よく言った。胃が痛くなる勇気だ。
エレナが静かに補足した。
「“背教”という呼称は、証明ではありません。政治です。確認の結果としては不適切」
トルストンが言葉を失う。王宮と神殿が同時に釘を刺した形になる。面子が潰れる。
その沈黙を、グランが穏やかに切った。
「では、今日の確認は終わりじゃな。解散だ。条文通りにな」
トルストンが紙を握りつぶしそうな勢いで睨むが、握りつぶさない。握りつぶせば自分が署名した紙だ。自爆だ。
「……次だ。次は王都での正式審問になる」
「提案は自由です」
アシュが短く言った。
「実行は、別だ」
人間側が引き上げ始める。
フェリクスがすれ違いざま、俺にだけ小声で言った。
「……助けられるとは言えません。でも、今日みたいに“紙が先”なら、まだ」
「十分です。窓口を閉じないでください」
「閉じたくありません」
フェリクスの声は震えていた。怖いのは分かる。上から潰される恐怖は、現場の恐怖より長く刺さる。
エレナが最後に、俺を見た。
「久我幹人。あなたの祝福は、放置すると摩耗します。自覚がないまま戦うと、寿命から削れます」
エレナは淡々と続けた。
「戻りたいなら、手順はあります。ですが今のあなたは、誰の手順にも乗っていない」
そこで、彼女は少しだけ声を落とした。
「だから危険です」
言い残して去っていった。
人間側が完全に下がり、国境に静けさが戻る。
俺はようやく大きく息を吐いた。
勝ってない。助かってない。今日も時間を買っただけだ。
グランが穏やかに笑う。
「ほれ。旗の内側は守れた」
アシュが短く言う。
「次は“王都へ来い”で縛りに来る。備えろ」
俺は頷いた。
背教の勇者、という呼び名は消えない。
でも今日ひとつ分かった。
あいつらは俺を“今すぐ壊す”とは言い切れない。壊すと困るからだ。
なら、その“困る”を増やしていけばいい。
紙で。窓口で。旗の内側で。
そしてできれば、俺の寿命が削れ切る前に。




