情報商材屋の末路を幸せに
ひとりの男が居た。
かつてインターネットで情報商材を売り、広く稼いでいた。複数のサロンを開き家賃月100万円を支払えるような暮らしをしていた。表向きはコンサルタントであるが、実際のところは情報商材屋に過ぎない。農業で米を作るわけでもなく、工場でビスを作る訳でもない。食品工場でサンドイッチを作る訳でもなく、町中華でチャーハンを炒めるわけでもない。たまに、家でドーナッツを作ることがあったが、それは気分転換に過ぎない。普段は、寿司を喰い、ビフテキを喰い、ワインを片手にガウンでくつろぐ生活をしていた...と漫画家の陳腐な富裕層表現のような暮らしをしていた。
実際のところ、情報商材屋の仕事はパソコンに向かうことと、サロンを開き金づるを集めることだった。皆がブラウザで広告を見て、皆が金儲けの情報に金を払うわけでもない。しかし、ちょっとした「金が儲かるかも」の気持ちを引っ掛けて100人に1人の割合で引っ掛かってくれればよい。普段の99人には鼻にもかけない状態ではあるが、カリスマ風を装い、実際に観客にはカリスマであるかのような印象を与えればよい。
それを一種の詐欺師の手法と言う人もいるけれども、実に昔からあるビジネス手法ではある。占い師の手法だ。100人が占いにやってくる。いく通りの未来を観客に語る。しかし、それが当たるも八卦当たらぬも八卦というところだ。観客の前で、コインを投げて裏と表を常にあてる必要はない。コインを3回なげて、表表表のときに客を見つければよいだけだ。コイン投げは偶然に過ぎないが、その目の前にいるお客にとっては、表表表のコインは奇跡のように映る。まるで、彼が表のコインしかもっていないかのように見える。手に取ってみれば普通のコインだ。10円玉の表と裏はややこしいので、外国のコインを使うわけだが(顔が描かれているので、表裏がわかりやすい、多分、顔があるほうが表だ)、それを3回投げる。
「わたしは、予想しますね。あなたの目の前では、このコインは3回とも表がでます」
「えっ、ほんとうですか?」
そして、さりげなく3回投げるのである。
確率的に言えば、7人の人はお帰り。1人だけが残る。そう、彼から見れば 1/8 の確率は明らかなのだけど、その観客にとっては奇跡のように見える。
「あ、ほんとうに表が3回も出ましたよ」
「そうでしょう、わたしは予言者なのです。しかも、この奇跡は貴方が起こしたのですよ」
「私がですか」
「そう、私がいて、貴方がいたからの邂逅なのです」
とか何とか云って、観客を引き込むわけである。
観客が情報商材屋の彼を信じるのにそう時間はかからない。度々見せる彼の奇跡は、彼をまるで預言者のように仕立て上げてしまうのだ。
「この株を買うのです。必ず儲かりますよ」
「あの道に進めばいいのです、必ず駅に着きますよ」
「その鞄ではなくて、あの鞄をつかうとよいです。色合いがいいですよ。運が向いてきます」
彼は、あらゆる誘惑を観客に伝えるのだ。たまには外れるかもしれない。しかし、ほとんどは当たるのである。なにせ、当たった客だけが彼の目の前に残るから、客にとって彼は何でも当ててしまう奇跡の預言者のように見えてしまうのだ。まさしく、カリスマ中のカリスマである。
彼はテレビにはでない。それも彼の魅力のようであった。しかし、彼にはテレビに出られない理由があった。テレビの中で作られる事実は、唯一の事実であり分岐はしない。カメラに映される彼の言葉や動きは、逐一記録されてしまう。だから、彼の判断が分岐することができなかった。片方の道に進んでしまったら、片方の道が閉ざされてしまう。現実の分岐は彼にとっては負の遺産に過ぎない。だから、テレビに出ない。目の前のひとりの観客にとって確実にあたる。そして外れれば客が去る。それを繰り返していけば、彼は常に預言者として君臨できるのであった。
もっとも、観客の数はだんだんと減っていた。コインを投げるようにふたつの分岐を繰り返していったら、何回繰り返したら地球の人口を超えてしまうだろうか。地球の人口を超えてしまったら彼の神通力(とは言えないが)も通用しない。情報商材も売れなくなってしまう。彼は貧相な暮らししかできなくなってしまうだろう。漫画家の言うところの片手にワインの富裕層の振りができなくなってしまうのだ。そう、ビフテキも食べられなくなってしまう。
彼の目の前には一人の女性がいた。
彼が占いを何回となく続けて、最後に残った女性だった。
コインを投げて、外れてしまったら、彼女は去ってしまうかもしれない。いや、当たれば残ってくれるかもしれない。
彼は、コインを投げるのをやめた。そして、幸せになった。
【完】
 




