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兎と亀と信号機

作者: 蟹 卓球

 電車賃をケチるためと健康のため、私は学校から4km程度離れたソフトクリーム屋さん に向かって走っていた。


 そのソフトクリーム屋さん と家と学校を結んで三角形を作ると、ソフトクリーム屋さん にあたる角がちょうど直角になるような位置関係であったため私はソフトクリームを食べながらのんびり幸せな気持ちで帰るつもりだった。


 そのソフトクリーム屋さん は世にも珍しく、フレーバーの多さがチャームポイントだった。

 大きな冷凍庫のようなもので保管すれば良いアイスクリーム屋さん と異なり、ソフトクリームの蜷局(とぐろ)を巻くための容器が一つでは足りないらしく、常に10台くらいの銀色の機械が置かれていた。


 それだけ沢山置いてあるものだから、機械達が少しずつ出し合う冷気で店内は常にひんやりとしていた。

 スーパーの冷蔵庫から出てくる大きな板チョコのような冷気ではなく、一つ一つの線が絡まり合ってできた糸屑のような冷気が私は好きだった。


 ここから私のソフトクリームの食レポが始まるかと思った読者は安心して欲しい。

 その日、私が食べたかったチョコミント味はすでに売り切れていたのだ。

 しょんぼりとした私を見送る店員に背中を向けながら、私は店を後にした。





 ***





 ソフトクリーム屋さんから出たとき、太陽は雑居ビルに隠れないほどの高度を保っていた。


 見た目以上に地球を熱くする太陽の下、私は走って帰ることを諦めた。


 どうせ家に早く帰っても有意義なことに時間は使えない。

 夕飯を完食した後の白い皿の汚れでやっと危機感が芽生えて机に向うことになるだろう。

 幸い、このまま歩いて家に帰っても夕飯の時間には間に合う。


 私は五感の中で唯一劣化していない遠距離武器を大事にするために、下から3番目の音量に設定したイヤホンを装着した。先程まで聴いていたランニング用のプレイリストが流れる。

 そして、私は家に向かって歩みを進める。


 ぼーっとしたまま歩き続けるのも勿体ないと思い、何か面白い話を作り出そうと考え始める。

 過去にはこの道で「貨幣の最終進化形は一万円札か、1円玉か」という議論が巻き起こり、あっという間に一人だけが喋る議事録でメモ帳の1ページが埋め尽くされるほどの大熱戦となった。


 今日は調子の悪い日みたいだ。と、思いながら私は信号機の前で立ち止まる。

 信号を待っている間、信号で待たされることに対しての以下のような嫌な感情が思い起こされる。


『車さえいなくなれば信号機なんて存在しないはずであるのに、せっかちな人間にとっては随分と長い時間を待たなくてはならない。』

『私が30分ほどかけて必死に走る距離を、車に乗る人は大した苦労もせずにのうのうと5分で進むくせに生身の人間と道路を使う時間を半分こしている。』


 まあ、要するに嫉妬である。

 このような感情は私の信号待ちの態度にも現れている。

 じゃんけんでグーを出す時を除いて右手の中指を折らないようにする程度であるが。


 信号機に対しての嫌悪感が収まらない中、私は歩き出した。

 すると、「ハッ ハッ ハッ」と小刻みな三拍子が聞こえた。

 私の知っている呼吸音よりも随分と大きいため、犬かと思って振り返ると、後ろから走ってきたのはごく普通の人間であった。


 そして、これは私の良くない性質であるかもしれないが、私は走っている人を見るとその人が自分よりも速いのかどうか目で見て確かめてみたくなるのである。

 私の予想通り、彼は声の大きさの割には、いや、その声の乱れ具合だからこそか、そこまで速くなく、私が本気を出せばすぐにでも彼を追い越して家まで逃げ切れそうであった。


 これは今までの歩行と走行の経験から分かっていたことであるが、どんなに速い歩きと遅い走りを比べても、必ず走ったほうが速いのである。私は歩行速度にも自信があったが、やはり歩きは走りに勝つことができず、その男の背中はみるみるうちに遠ざかっていった。


 いつものことだと思いながら私は家までの一本道を歩く。

 道中でどんなに気が合いそうな人がいたとしても、見知らぬ誰かに話しかけたことはない。

 物語が進むための最低限しか会話文を書かない私の小説を読めば分かるだろう。


 大きな車道のせいで待ち時間が長い信号機が見えてきた。

 ふと、信号待ちをしている人の中に知っている後ろ姿があることに気がついた。


 彼である。

 彼は、前に進んでいる時と同じ息遣い、腕の振り、足踏みのリズムで信号を待っていた。

 それは、私がランニング中に信号を待つ方法と同じであった。

 それによって、私は彼に親近感を覚えた。


 なぜだろうか、どうしても自分との共通点を見つけざるを得ない彼を見ているうちに「走りたい」という気持ちが自分の中にムクムクと湧き上がってきた。


 信号が青になってすぐに走り出した彼に少し遅れて私は、家までの直線を走ることに決めた。


 なにも背負うものがない彼に対して、学校帰りの私は、重いリュックを背負っている。

 そのため、一度離れた差は縮まらない。

 まるで、私が彼を尾行しているみたいだった。

 この距離感のまま私達二名は進んでいくのかと思った。


 しかし、200mほど走ったあたりで彼はまた信号の前で立ち止まった。

 それと同時に、私は精神的な衝撃を受けた。

 彼が横断歩道を渡ろうとしていた時、信号は点滅を始めたばかりであった。そのため、彼はやろうと思えばその目が青いうちに渡りきることができたはずである。


 にも関わらず、彼は信号が自分の歩みを止めることを受け入れて何事もなかったかのように信号の前で足踏みを始めたのだ。


 私は彼の、車も信号も恨まない姿勢に感銘を受けた。


 私は、せっかちなのだろうか?マグロなのだろうか?

 そのとき、私はどうしてもその信号の前で立ち止まりたくないと思い、右の道路の信号が青であることに気がついた。そして、足踏みをする彼を横目にその信号に向かって走り出した。


 私の目論見は成功し、私は彼とは右に一本ずれた道路を走っていた。


 先程の道路と異なり、人通りが少なく、見慣れない景色であった。

 しばらく走った後、信号に引っかかった私は、先ほどと逆のことをして、平行線から元の直線に戻ってきた。


 道中、自分のほうが速く走ってきたという自信があるため、彼がいるとすれば自分の後ろである。

 後ろを振り返ると、彼は見えなかった。

 自分と同じ道を走り続けると思っていた人が急に進行方向を変えて離れ離れになるということはよくあることだ。


 美味しそうなカレーの匂いを嗅いだとき、私は、ソフトクリーム屋さんから家までの道のりの半分まで来たということに気がついた。

 残りの半分も走ろうと思い、足に力を入れようとしたが、入らなかった。

 体力や心肺機能に限界が来たというよりかは自分の精神的なところがブレーキをかけているという感触であった。


 私は童話の「うさぎとかめ」を思い出した。

 兎は自分が亀よりも速く走れることを確信していたから油断して走るのをやめた、というように書かれているが、もしかしたら、一緒に走っていると思っていた亀の姿が見えなくなったことによってやる気を無くして走るのをやめたのではないか。


 しかし、私は走ることをやめながらも一歩ずつノロノロと亀のように歩いている。

 これでは私と彼、どちらが兎で亀か分からない。






 ***






 私は大好きなソフトクリーム屋さんから家までの道のりを歩いていた。


 すると、明瞭な「ハッ ハッ ハッ」という呼吸音が聞こえてきた。

 私の左側を追い越した姿を確認すると、やはり彼である。


 途端に、再び彼に会うことができたという喜びか、一緒に走る仲間がいるという喜びかは分からないが、あれだけ重くなっていた足が嘘のように軽くなっていた。

 耳の中では私のお気に入りの音楽がサビに入ろうとしていたが私はイヤホンを耳から取り出し、充電器に入れた。

 この瞬間に最適なBGMは風を切る音以外に無いと思った。


 私はまた彼の背中を追って走り出した。


 ありえないほど遅い自転車を抜き去り、リュックサックの肩紐を握りしめ、ときどき窓ガラスに映った自分を見てフォームの確認をした。



 今思い返すと、彼のストーカーに思われているのではないかと不安に思ったこともあった。


 本当は、私だって怪しまれないように彼とは違う道を通って家に帰りたかった。

 しかし、ソフトクリーム屋さんから自宅までの道がほとんど一本道なせいで彼の後をついて行かざるを得なかった。






 ***






 そんな感じの道のりがずっと続いていけば面白かったのだけれど、家まで数百メートルというあたりで信号に引っかかり、早く帰宅するには今までの直線から外れなくてはならないという状況になってしまった。


 これ以上彼を追っても自分が怪しまれるだけだと思ったため、私は直線から外れることにした。

 私達が渡る直前に信号が赤になったものだから、少しだけ私は信号待ちをしなければならなかった。


 そうそう、最後に見た彼はもうすぐ青になる信号に体を向けて立っていた。

 私はここでも道が被るのかと思った。


 でも、後ろを振り返ってみたら、数十分間の道のりを共にした彼はいなくなっていた。

 もう後ろを振り返ることもないだろう。

 もう彼を追うことも追われることも無いだろう。


 そう思うと、私がわざわざ重いリュックを背負って走ってきたことが馬鹿らしく思えてきて、走る気力もなくなっていた。


 結局、家までの残り数百メートルの道のりを私は歩いて帰った。

 これから私が街中で信号に止められたときにはいつだって彼の後ろ姿を思い出すだろう。

 あの真っ直ぐな呼吸音と共に。

昨日の話です。

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