8.My Favorites
素っ頓狂な声を出す僕に少しビックリした顔をして、香宮春陽はきょとんとして答えた。
自分から誘っておいて、自分で尋ね返したのだから、全く世話ない。
後で聞いた話では春陽も変な人だなと思ったそうだ。
「えー、あーっ。そう。じゃあ、どうしようか。新宿とかに移動した方がいい?」
テメエが誘ったんだからテメエで考えろよって感じだが、テンパってるバカにそんな真っ当な理屈は通用しない。
「あ、どちらでも。・・・そうだ、差し支えなければ駅前のお店に心当たりがあるんですけど」
香宮の口元に手を当てるしぐさの、その薬指の光を見て『変なことすんじゃないわよ』という野村さんの言葉がフと思い出された。
妙な事になってしまった。
「全然どこでもいいよ。僕も3年目だけど、ここらの店ってそんなに開拓したわけじゃないからさ。」
「あはは。わたしも3ヶ月だから、そんなにたくさんは知らないんですけど。そこは絶対にオススメです!!」
「へえ、どこだろ。楽しみ。」
歩き始めながら、彼女は手に
「グウ」を作って力説を始めていた。
一番の新参者にもかかわらず、部署で最初にそのお店を見つけたのは彼女なのだと言う。
1ヶ月ほど前、残業がたたって
「おなかペコペコ」だった彼女が
「ちょっと外食してかえろ」
と思って駅前通をさまよった挙句に、偶然見つけたのだそうだ。
「わたしって、方向音痴だから・・・あ、でもこんな風にたまに得する事もあるんですけどね」
「そうなんだ。」
後々になって分かることだが、春陽は
「いい店」を嗅ぎ分ける
「鼻」を持っている。
どういう理屈なんだかいくら聞いても全然分からないのだが、彼女がピンと来たお店の暖簾をくぐってはずれくじを引いた事がなかった。
「ここです!」
「え、ここ・・・?」
見覚えのある裏通りを入ったあたりから
「あれ?」とは思っていた。
小さな割烹屋さんと言っていたのも気になってはいた。
そして彼女が目立たない、けれど清潔感のある小さな立て看板の前で、その暖簾を指差した時はあごが外れるほど驚いてしまった。
『桜菜やじゃないか』
そこは職場仲間でもごく限られた人間にしか教えていない、僕のご贔屓のお店だった。
「とってもいいお店なんです。料理も、お酒も抜群だし。お料理を作ってくれるおじさんは面白いし、おかみさんもとっても綺麗で優しいんですよ。私、すっかり顔馴染みになっちゃって」
ああ、その通り。君の言ってるお店は僕の知ってる桜菜やで間違いない。
桜次郎さんはバカみたいに(バカだから)面白いし、菜乃香さんは僕の携帯の待受け画面にさせてもらってたくらい(そして女優と間違えられたくらい)きれいな人だ。
「・・・僕ですら、1年前にやっと見つけたってのに」
「え?」
「いや、なんでもない」
桜菜やは掛け値なしにいいお店である。
けれど、それだけ人に教えることもはばかられるし、お店自体もいささか奥まった所にあることも手伝って、程よい具合に
「流行っていない」店だった。もちろん桜次郎さんは
「儲からないから、広めてくれよお」なんて苦笑いしてしまうんだけれど。でも、いつでも
「おつかれ」
「おやすみ」を言ってもらえるその店の空気を常連である誰もが愛していたから、それはなかなかに出来ない相談と言うものだった。
『つーことは、あれだ。野村さんたちも今後はここに来ちゃうわけだな』
香宮春陽のことは良く知らないが、僕みたいに出し惜しみするようなセコイ人間とも思えなかった。
大人気ないとは思うが、ひどくつまらない気分だった。いうなれば秘密基地が大人にばれてしまった小学生みたいな心境てところだったろうか。