6.Sweet Bitter Coffee
もう半年近く前からそれは続いている。
その頃は、彼女の指輪もバッグの中でなく、きちんとあるべき場所にあった。
僕らが普段いるフロアには紙コップのコーヒーのおいてある自動販売機がある。
所詮は自販機だから高は知れているのだが、『それでも缶コーヒーよりはましでしょ』なんていう後輩の女の子の一言により、僕もなんとなく乗せられて、そこのコーヒーを買うのが習慣だった。
とは言っても、缶コーヒーと紙コップのコーヒーの味と香りを云々できる程、僕は違いの分かる男ではないし。
だいたい仕事中に飲み物を買うなんてのは要するに気分転換である。
そういう訳で、ごくたまにだが『缶コーヒーでも飲むか』といった感じで3階上にあるフロアまで散歩がてらに歩くときがある。
7月のその日もそんな1日だった。
先程も述べたように、僕らの縄張りから離れすぎている事と一部のこだわりのせいもあって、缶コーヒーには人気がない。
だからここには人通りが少なくて、ちょっとした考え事をするのに、実は向いている。
「あ・・・やだ」
そんな場所で香宮春陽が泣いていた。
「どう」
したの?と続けようとした僕の目に、彼女の足下に転がる携帯電話が目に入った。
小さな携帯だった。
彼女の人柄が表れているような、白い、シンプルな折り畳みの携帯。
「・・・。」
黙ってそれを拾いあげる。
「ごめ・・・ありがとうございます・・・」
それを手渡す僕に向かって、どんな顔をして良いか分からないような表情を春陽は浮かべた。
口ではありがとうと言いながら、でも触れたくないようなものを受け取るように、彼女は少し手を伸ばして携帯を受け取った。
「うん」
頷いたけど、何も聞かなかった。そのまま彼女に背を向けて自販機に歩いていって。
そこで缶コーヒーを2つ買って。その1本を黙って彼女に手渡す。
「・・・ぇ?」
小さく首をかしげて、こちらを見る。
泣きたいのを必死に我慢していたのは容易に想像できた。
彼女の目がそれと分かるくらい赤かったから。
「夏だけどさ。今は。」
「は、はい・・・」
「あったかいコーヒーの方が落ち着くから・・・な」
「あ、は、はい。」
そのまま、特に何を言うでもなく。
「ゆっくりしてるといいよ」
振り返って、そのまま階段を降りてしまった。
もう少し、ちゃんと聞いてあげるのが大人なのかも知れない。
けれど、それが上手に出来ない自分を僕はよく分かっていた。
いつも『しっかり者』で、だからそういうやつは遊びに行ってもつまらなくて、『進藤君て真面目だねえ』なんていつも言われてた。
『そんなことないよ』とストレートに返すしかない自分・・・それが何よりも自分の生き方の不器用さを証明しているみたいだった。
そんな自分を変えようとした事はある。けれど僕は数年前から、そんなしたくもない努力を重ねる事に少し疲れていた。
自分を変えるための努力は必要だと思うけど、心を飾ったところで、結局何も変われないのだと分かった。
なら世間といくらずれていても、あるようにあるしかないのだと思う。
思っていても考えていても、上手く言葉にできない、態度に表せない。
でもそれでも、どうしても伝えたい気持ちや想いがあるのなら、僕は黙ってただ動くことしか出来なかった。
『なんだか大変そうだったよな・・・』
別に何が問題なのかは分からなかったけれど、コーヒーを受け取るときに差し出された薬指の光がなんとなく目先にちらついてしまっていた。
それから2、3日も経ったころ。
「おつかれ、さまです。」
珍しく早目に、といってもいつも20時を回っているのだが、タイムカードを『実態通りに』押してオフィスを出た僕の背中に小さな声が投げられた。
「?・・・ああ。お疲れ様」
振り向くとそこに香宮春陽が小さく立っていた。