1.In Snowy Tokyo
夕方から東京は雪になった。
「おい。冗談だろ・・・」
通用口の扉を開け放ったまま、しばらくの間放心してしまった。
毎日の見慣れた、もうとっくの昔に見飽きてしまったと言っていい、街並み。
それが気の利かない小説の決まり文句なんかでなく、本当に「一面の銀世界」と化していた。
『今夜はなんとホワイト・イヴになるでしょう!』
『皆さまも素敵なクリスマスをお迎え下さいね』
ああ、そう言えば。そんな台詞をどこかで聞いた。
何がそんなに楽しいんだか知らないが、出掛けの気象予報士が満面の笑みでそんな事を言っていたっけ。
「はあ」
脱力の中で漏らされる溜め息は感嘆でなく、落胆のそれである。
「素敵なクリスマス、ねえ。」
どこの誰が望んだロマンスなんだか知らないけど、それを見事叶えてやる事もないだろうに。神様は案外とお節介焼きのようだ。
せっかくのお祭り騒ぎの日だというのに、今日は仕事仲間と世間話の一つも出来ていなかった。仕事に集中している時の僕は周囲の何者も寄せ付けないから、きっと職場の皆が遠慮してくれたのだろう。
もっともそれがために、終電が危ういこんな時間になって、しかも通用口なんかで世の中の天気を知る羽目になったのだから、
この集中力はどちらかと言うと長所とはいえないような気がする。
『これだけの大雪が降るなら、まあ普通は知ってて当然だもんな』
周知の事実であるだけに誰も忠告なんてしなかったと言うわけだ。
いや。思い返せば夕方頃に同期の女の子から”今日は早く帰った方がいいよ”って言われたような気がする。
『ああ。うん』なんて生返事をしてしまったのは、『クリスマスイブだからかな?』という思いがあったからだった。
サクリ、サクリとため息混じりに雪を掻き分けて、諦め気味の急ぎ足を駅に向ける。
不幸中の幸いなのだろうか、雪はもう止んでいた。
けれど、無邪気なのか、意地悪なのか、冬の寒さはこの風景を氷細工の中にでも閉じ込めようと、ただひたすらと凍てついて、ひしひしと僕の肩や頬に張付いてきていた。
わずかな高台をゆっくりと下っていく駅までの一本道。見通せる先はさして遠くないのに、それでもたくさんの人々が暮らしている灯りを見渡す事ができる。
浮かび上がる暖かで優しげな街の灯。
その人々の暮らしの証に、微笑ましさと共にかすかな妬ましさを覚えるのは、きっと残業続きで疲れてしまっているせいだろう。
普段なら5分かそこらで歩ける道程を前髪が額に張り付く程に汗ばみながら、やっとの思いで駅に到着する。
東京は雪に弱いが、それ以上に東京人は雪に弱いというところだろうか。
綺麗に彩られた駅前には、赤と白と緑と・・・時折の銀の瞬きがきらめく。
「クリスマス・・・か」
もう一度つぶやいて、足を止める。
子供の頃は、大好きだったこの日。
もちろんキリスト教徒でもないし、サンタも信じてなかったけど。
父さんの買ってくるプレゼントが楽しみだった。
母さんが作るちょっとしたご馳走がうれしかった。
こんな風に街がだんだん綺麗になっていくのにワクワクしたっけな。
子供の頃は本当に大好きだったこの日。
その日がこんなにも憂鬱な日になってしまうなんて、あの頃は思いもしなかった。
北口の傍らに聳えるクリスマスツリーを仰ぎながら、ふと呟く。
「あの頃に、戻れれば・・・な」
詮のないことだ。
咲いてしまった花は、もう蕾には戻れない。
あとはただ散ってしまうのを待つだけ。
そして、それで終わり。
もう一度春がめぐらない限り、その芽吹きさえ訪れないのだ。
そして、それでも同じ花はもう咲かない。
春・・・その言葉の先にある笑顔を思い出して。
暖かくてそして寂しい気持ちまでも思い出していた。
「・・・ふう。ったくもう、やめだ、やめ」
全く。お祭りの日だというのに辛気臭いったらありゃしない。
大体、もう考えないようにしようって決めてたのに、これじゃいつまでたっても本当に進歩ってものがないじゃないか?。
『そうだよ、いい加減に俺も大人なんだからさ』
そう。今日は雪が降って大変な一日で、これからどうやって帰るかを考えれば良い訳で。明日の出勤をどうしようかって悩んでるのが正しい社会人の在り方な訳で。
そう、それだけの一夜だ。
ちょっとオトナになれば、なんて事ないさ。
「そう、それだけ・・・」
肩をすくめて、無理に微笑んで、見上げたその先。
その風景が僕の時間を止めた。
彼女がいた。
案外と疎らな構内だったから。だから、きっとその小さな背中が一番に眼についてしまったのだと思う。
単にそれだけのことだったのだと思う。
「春陽・・・。」
彼女は改札口の前に立って肩を落とした様に、案の定動いていない電車のアナウンスを聞いていた。