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日は天頂に昇り

やや苦戦しつつも三人の生徒と向き合う梓。

そんなある日、千早が梓の家を訪ねてきます。

 梓が呪術の指導を任された若芽、彰彦、勇人の三人は基礎となる瞑想の深さは充分だが、その後の段階で(つまず)いていた。どうも呪術に関する基礎知識が無さ過ぎるためか、集中力を高めた精神を呪術へ転嫁できないようだ。梓は修行も始まらないほど幼い頃、自分がどんな風に呪術についての基礎を大人たちから少しずつ教わっていたかを思い出しながら、彼らにどんな指導をするかについて最近は悩んでいる。

「梓さん、ちょっと良いですか?…まぁ」

 そんな梓を千早が訪ねてきた。梓は最近は彼女らの家で厄介になりっぱなしで、自分に与えられた家の整理整頓を疎かにしており、部屋の惨状に赤面することになった。

「ごめん。どうも誰も来ないと思っていたものだから…」

「判りました。では今度若芽と一緒に掃除しに参ります」

「え?いや、そこまでしてもらう訳には」

「何処まででもしますよ」

 流石に図々しいのではと思って断ろうとした言葉を、千早は梓の手を取ってきっぱりと否定した。憧れの女性からのスキンシップそのものにドギマギしてしまう梓だったが、千早はそのまま言葉を続ける。

「若芽の事、本当に感謝しているんですよ。修業を始めてからどうしても沈みがちだったあの娘が、最近は明るさを取り戻してくれて。父も母も私も結局は鬼狩りですから、どうしても慰めが意味を成さなかったけど」

「それは…でも、それは俺も助かっている。呪術が役に立つかもしれないと、この里で思われるようになって、俺も少しずつ里に馴染めるようになったのだから、お互い様だ」

 助けられたのは自分の方でもあると梓が主張すると、千早は我が意を得たりと微笑んだ。

「じゃあ私たちは助け合う運命ですね。また今度きちんと日を決めて掃除しに参りますから」

 押し切られてしまった梓は話題を変える。

「それで、今日来たのはどういう理由で?掃除の話はこの部屋を見てから思いついたんだろ?」

「そうそう、武芸の稽古をつけて差し上げようかなって思って。この髪を伸ばしている理由、以前にお伝えしたでしょう。加鳥の里に伝わっている技には体力に劣る女性向けの技術もいくつか有るんですよ」

「ふむ…主に稽古をつけてくれる老人方には、諦めずに筋力を付ける事を考えるように言われているんだが」

「ああ、ではそれ向けの訓練メニューも考えますけど」

「並行して、という事か?」

 興味は有った。もともと鬼の膂力(りょりょく)は言うまでもなく人間とは桁違いだ。真っ向から切り結ぶような技よりも、あまり肉体そのものが秀でていない梓が、加鳥の里の体格雄偉の若者を翻弄(ほんろう)できるような技を中心に、鬼狩り全体で共有できる戦術を組み立てた方が良いだろう。

 千早の提案に乗った梓は土間に立てかけてあった愛刀を腰に()げて、ニコニコと微笑む年嵩(としかさ)の女性について歩く。行先はどうやらいつもの鍛錬場のようだ。別に秘伝の技という訳ではないのだから当然だが、淡い恋心を抱く女性と二人きりになりたいと思った梓は、呪術の鍛錬に使っている空き地を提案する。

「別にどこでも構いませんけど…?」

「ああ、その…あの場所がこの里では一番集中できるものだから…」

「それに、あそこなら里の他の皆は来ない?」

「なっ⁉」

「ふふ、良いですよ。梓さんの実力が一番発揮できる場所へ行きましょうか?カッコいい所、見せてくださいね」

 浅はかな策略はあっさりと見破られたが、千早は梓の好意を(わずら)わしいとは感じていないようで、楽しそうに提案に乗ってくる。年長の女性の掌で転がされつつ、楽しくも真剣な稽古を期待しながら梓はいつも四人で瞑想している草地へ案内した。


 梓の淡い期待はあっさりと裏切られた。千早もやはり加鳥の里の一人という事だろう、武芸に関しては全く妥協するという事が無い。千早はその普段のすこしおっとりした雰囲気をかなぐり捨てて、スパルタに梓を指導した。一時間ほどの稽古の後、肩で息をする梓を見かねて休憩を提案した千早に甘え、梓は草の上に寝っ転がって息を整えていた。

「う~ん…梓さん、持久力も少し不安ですねぇ…」

「そうだな…瞬発力ならともかく、スタミナでも開きが有るというのは問題だな…少し自主訓練をすべきか」

「それが良いと思いますよ。大丈夫です、里には体づくりのための様々な献立も伝わっていますから」

 こちらは汗はかいているものの比較的涼しい顔をしている千早は、無様に突っ伏するあずさに困ったような笑顔を向けながら、今後も共に食事を摂ることを前提に話をする。まだ見放されてはいないと少しほっとしかけた梓は、その千早の背後にあの日見た蜃気楼のような風景の揺らぎを見出す。

「千早さん、後ろ!」

「え?」

 突然緊迫した様子を見せた梓に驚きつつも、千早は後ろを振り返って梓と同じ不気味な景色を確認する。

「梓さん、これは?」

「余高の里の時も見た。奴らはこの揺らぎの向こうへ消えていった…今これが見えているという事は…」

 梓が結論を告げるより早く、揺らいだ空気の向こう側からこれで梓には三度目となる、どこが歪んでいるという訳でもないのに醜悪としか形容の仕様の無い、絶望的な巨躯(きょく)が三体現れた。鬼たちはその凶悪な面相にはまるで似合わぬユーモラスな仕草で、しばらくきょろきょろと周囲を見回していたが、すぐに人の気配に気付いて邪悪な喜びを(ただよ)わせる。それもほんの数秒の事、千早のほかにもう一人居ると気付いた。更にその男こそがあの日見たことも無い醜態をさらした青年だと気付いた鬼たちは、異様な雄叫(おたけ)びを挙げた。その胴間声が獲物を見つけたという合図だと、理由もなく悟った梓は次に起こる光景を予想して怖気(おぞけ)(ふる)う。

 予想は数秒の後、現実のものとなった。此岸(しがん)彼岸(ひがん)の境となる蜃気楼を潜り抜けて、総勢十五体もの鬼が姿を現したのだ。三体ですらあの日三十人以上が総掛かりで一体を倒すのがやっとだった人類にとっては絶望的だというのに、今は二十体近くがこの里を襲撃に現れた事になる。梓の弱々しい姿を一目見たいという鬼の事情を知らない千早には、もう自分たちの世代で鬼の襲撃に遭遇することすらないだろうという予想を悪い方向に裏切ったこの事態が全く把握できない。

「こんな…とにかく里の皆に知らせなきゃ!梓さん、この場はなんとか私が引き受けるから、梓さんが里へ!」

 それは的確な判断だった。この大所帯が無警戒の里へ突入したらどれくらいの被害が出るのか、いや間違いなく壊滅することだろう。それを防ぐためには一方が捨て石になって時間を稼ぎ、もう一方が里へと走る他ない。そして捨て石になるのは(わず)かでも接近戦の技量に優れた者。千早の計算違いは、どれほど献身的に奮闘しようとも梓がこの場から、いや鬼の視線の中で立ち上がる事などできない事だ。

「梓さん、何をしているの?早く里へ走って!…梓さん?」

 せめて梓は自分が残って鬼に(なぶ)られる役を務めるから、千早には里への伝令を果たしてくれと言いたかった。しかし二度の鬼との遭遇を経て、梓の心身は完全に鬼に平伏していた。突っ伏して鬼の視線を後頭部に受けていることを感じながら、せめて憎らしい仇敵を(にら)み還す事も出来ない。愛しい女性が勇敢に絶望的な戦力差に挑もうとしているのに、その心意気に応える事も出来ない。

 使命感も復讐心も愛情も、異界の化け物が呼び起こす圧倒的な恐怖には太刀打ちできず、梓はうつぶせで鬼の視線をまともに見ることが無い事にすら感謝していた。

「なんてこと…こんな男に感謝の気持ちを捧げていたなんて…」

 梓が恐怖から鬼にひれ伏していることに気付いた千早は精一杯の侮蔑(ぶべつ)を吐き出すと、死地へと一歩踏み出した。全力を尽くす。例え一体でも良いから数を減らす。彼女もまた一人前の鬼狩り。何の役にも立たない、弟のようでも恋人のようでも有った青年の事などもはや頭には無い。人類への責務だけを胸に、まるで動く壁のような怪物へ向けて、決死の気合を叩きつけて突進した。


 数秒。それが戦乙女に許された舞踏の時間だった。力一杯叩きつけた彼女の愛刀は先頭の鬼の肌に僅かに食い込み、そして鬼に掴まれて千早は刀を手放し、せめてもの意地を込めて鬼の脚を蹴りつけ、そして当然のように反撃された。大木のような武骨な脚が女の腹にめり込み、胃の内容物と血塊(けっかい)吐瀉(としゃ)しながら、千早は力なく草地に転がった。その無造作な一撃が致命傷になったのだろう、彼女は(うめ)き声一つ挙げることなく、梓の隣にどさりと転がった。

 その死体を、梓はやはり視線を上げて見る事すらできない。ただ(ほの)かに漂ってくる血臭と、ほんの少し前まで里にまで届くように響いていた気合いの声が聞こえなくなった事から、千早の鬼狩りとしては一人前と言えど、まだ失われるには若すぎる命がその体から抜け落ちた事を知った。悲しかった。故郷を失ってから得た最も親しい人だった。情けなかった。彼女の勇気に全く報いることができなかった。そしてそれ以上に恐ろしかった、この期に及んでも。おそらくまた自分の惨めな様を笑い者にするだけで、殺しはしないのだろうと思っても。

 平和な時間であればさぞ心和むだろう緑の絨毯を、その資格のない化け物は一歩一歩梓に知らせるように大きな足音を立てて近付くと、その短い髪を掴んで引っ張り起こした。ぶらんぶらんと力無く揺れる首から下になどまるで興味を示さず、その醜い顔面に半分ほどの大きさしかない梓の顔をぐいと引き寄せ、恐怖に支配された表情を確認しようとする。鬼の体からはやはりあの時と同じく、酒のような()えた悪臭が漂ってきた。その臭いと、顔を無理やり起こさせられたことで確認することのできた、千早の無惨な死体に、梓は数度えずくと勢いよく胃袋の中身を吐き出した。

 げえげえと音を立てて口から悪臭漂う茶褐色の半固形物を吐き出し続ける若者の姿に、集まっていた二十弱の怪物たちは得体の知れない叫びを一斉に上げた。何か一定の音律を繰り返している。鬼の言葉などわからない梓にも、それが梓の尊厳を(おと)しめる、卑猥(ひわい)な意味合いであることはすぐにわかった。しかし、梓は抗議することもままならず、その口元から零れ落ちるのは薄黄色の胃酸だけとなっていた。その時。

「せ、先生⁉こいつら⁉」

「な、何だ、この化け物!」

 幼い声が突然呪術の修練場となっていた草地に響き渡った。その声色を梓は直ぐに聞き分けた。なぜならここしばらく毎日のように話し合っていた内の二人だったから。彰彦と勇人だ。呪術の鍛錬が上手くいっていなかったため、自主トレーニングでも行う心算(つもり)だったのだろうか。しかし今は最悪のタイミングだった。ひょっとしたら梓はこのまま鬼どもの玩具となって生き延びたかもしれない。だが、二人はきっと殺される。その想像はしかし、梓に「逃げろ」の一言をすら叫ばせてくれなかった。臆病者の若造が、また何もできぬまま他の命が摘み取られるのを見送るだけなのかと絶望した時、鬼は乱暴に青年の体を放り捨てた。

「こ、来い、鬼め!俺が退治してやる!」

「よ、よせ彰彦!それより里の皆に知らせないと!」

 未熟どころかまだ産まれたてで殻の取れないヒヨコも同然の少年たちは、しかし梓よりはるかに勇敢に鬼狩りとしての使命を果たそうとしている。ところが鬼たちは何を考えたのか、二人を無視して再び蜃気楼の向こうへと消えて行った。

 残されたのは二人のおびえる少年と一人のおびえる青年、そしてもはや何を考えることも無い一人分の死体。

「先生、大丈夫?」

 たっぷり十分はそのまま過ごした後、鬼が戻ってこないと(ようや)く確信できたのか、まず勇人が梓を助け起こしに来た。彰彦はピクリとも動かない千早を微かな希望と共に介抱しようとして、そのどうやっても助かりそうにない出血量にやや呆然としている。

「臭っ」

 勇人が梓の吐瀉物(としゃぶつ)の酷い臭いに思わず苦言を述べると、彰彦がやってきて(たしな)める。

「そんな事気にしてる場合か、先生の傷の具合を…傷が、無い…?」

「え?先生無傷なのか?じゃ、何で倒れてるんだ?」

 梓に外傷が無いことに気付いた二人はまず喜び、そして(いぶか)った。事ここに至って隠すことはできないと思った梓は、鬼が去ってようやく回るようになった舌で真垣、余高の里で起こったこと、最前までの出来事を説明した。少年たちは内心落第者の烙印(らくいん)を押されかけていた自分たちを救い出してくれた恩人の恥部を知って愕然(がくぜん)としている。

「それじゃ…千早お姉ちゃんは何のために死んだんだよ…答えてよ、先生!」

「そうだよ!これじゃ単なる無駄死にじゃないか!」

 尊敬から一転軽蔑(けいべつ)へと変わった生徒たちの視線を受け止めるのは辛い。だが、それだけが今の梓にできる全てだった。

「すまない…すまない…臆病者で、すまない…」

「謝るな!謝るなよ、ろくでなし!謝って…何になるんだよ!」

「お前なんか、里に来なきゃ…真垣の里で死んでりゃよかったんだ!」

「すまない…すまない…」

「うるさい!うるさい、うるさいうるさい!」

 その日、彰彦と勇人が帰ってこないので探しに来た家人が三人と一人を見つけるまで、青年の空しい謝罪と少年たちが臆病者を(なじ)る叫びは続いた。

読んでくださってありがとうございました。

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