明けない夜
加鳥の里で冷遇されながらも、日々を過ごす梓。
その孤闘が報われたのか、鬼狩りであっても人によっては一生巡り合う事の無い鬼が、別の里を襲撃しているという知らせが入ります。
気負いすぎな程に逸る梓ですが…
異界生物対策室の室田に従って救援のヘリコプターの床に直接座り込んだ梓は、術の鍛錬の時と同じ要領で深い瞑想に入って心を落ち着かせようとしている。どうやらまたしても自衛隊からの借り物らしい大型のヘリコプターに乗り込んだ直後は、もしかしたら一生かかっても手にする事が無かったかもしれなかった復讐の機会に目を血走らせていたのだが、救援部隊のリーダーである義嗣から、変に先走られても困るのだから少し頭を冷やせ、と叱られてしまったのだ。
確かに術での後方支援を担当する心算でいるのだから、あまり血気に逸って戦場を俯瞰できないのは避けねばいけない。梓は素直に首肯して移動の間に冷静さを取り戻そうとしていた。彼のように特段の理由が無い他のメンバーも、武芸の里らしく正座に剣印を結んだ姿勢で精神統一している者が多い。彼らのとてもこれから戦場に向かうとは思えない穏やかな表情、そして機内に充満する仄かな消毒液の臭気、梓の集中力を掻き乱そうとするローターの騒音、五感の全てを、自分の意識を離れた色界の自分が見つめているというイメージで極力客観的にそして明確に捉え、それらの欲界の光景を閉ざして自らの裡に潜ろうと努めた。
一時間ほどの移動の間の努力が報われ、目的の危機に陥って救難信号を発した鬼狩りの里に辿り着いた頃には、梓の心は最早手遅れかもしれないという考えを抱いても焦る事のない、平穏の境地に達していた。総勢30名ほどの救援部隊の顔を見渡しても同様だ。真剣な顔や使命への高揚感を表してはいても、焦燥感や恐怖で顔を歪ませている者は一人も居ない。
「征くぞ。里が既に壊滅的な被害を受けていて、鬼どもが周辺を捜索している可能性もある。柾人、晃弘、茜音、和葉、詩織はやや先行して警戒しろ。俺を含めた他の者は真垣を守るように陣を組んで後に続く」
「義嗣、真垣に指揮を任せるという事か?」
「いや、もちろん指揮は俺が執る。真垣は俺たち加鳥の者より腕が劣るし、遠距離でも通用するという呪術が良く判らんからな。なるべく後方に置いて、独自の判断で動いてもらうつもりでいる」
「なるほど、同感だ。真垣、異存は無いな?」
「理にかなっていると思います。よろしくお願いします」
「他に誰か意見のある者は?」
反論は誰からも出なかった。義嗣に対する信頼だけではなく、自信がそうさせるのだろう。不安そうな者は一人も居ない。むしろ初めて経験する生きる意味の発露に、誰もが思考は平静を保ったまま、心を滾らせているようだ。炎は蒼く燃えている時ほど温度が高い、という言い回しをなんとなく思い浮かべた梓を含む救援部隊は、万全の態勢で危急の知らせが有った余高の里へと乗り込んだ。
加鳥の里へと迎え入れられて以来ずっと孤独だった梓だが、共通の敵を目前にすんなりと馴染む事ができた。使命感に燃える同行者たちを頼もしく思い、どうやらあの夜と同じく里を焼いているらしい禍々しい明るさにも、動揺することなく心を研ぎ澄ます事が出来ている。二十人以上の集団と共に早足で明るい方へと向かっていると、先程和葉と呼ばれていた先行隊の一人が駆け戻って来るのが見えた。和葉は流石の速度で主攻部隊へと辿り着く。
「和葉、どうだ余高の里は?」
「何処も彼処も火の手が上がってる。相当の被害だろうけど、まだ幾つかのグループが化け物と戦ってるよ。どうやら間に合ったみたい」
「そうか…周囲の森に鬼が潜んでいるかは判ったか?」
「多分大丈夫だと思うけど、確証は無いよ」
報告を受けて義嗣は周囲への警戒を捨てて全力で里へ突入するか迷っているらしい。今なら撥ね付けられる事も有るまいと、梓は経験者としての助言を出す。
「鬼は均整の取れた体躯だが、見上げる程の巨体ばかりだ。個体差が有るかどうか、正確な所は知らないけど、森に隠れていても木を倒さずに忍び寄ることはできないと思う」
「ふむ…伝承でもそのように語られているな。よし、全速で余高の里を助けに向かおう」
「「応!」」
義嗣の決断に高らかに諾の応えを返して全員が走り出す。そしてあっという間に偵察部隊と合流すると、義嗣が5~6人ずつの班を手早く作る。事前の説明通り梓は班の中には組み入れられず、遊撃として独自の判断で遠距離からの援護に徹することになった。
常人には及びもつかない速さで駆け抜ける森の小路が徐々にその幅を広げる。あの夜を思い出させる焦げ臭さ、そして火の粉の舞う闇夜にも、梓の心は平静を保ったまま。万全の態勢で鬼に立ち向かえるという確信とともに、やや先行する加鳥の里の武人たちに続いて危急の時を迎えた鬼狩りの里へと駆け込んだ。そして…
「1班、2班!目の前の化け物に斬り掛かれ!3班は怪我をしている者を後ろに運び込め!4班以下は散開して危険なグループを探せ!真垣はまず怪我の治療、できるか⁉」
治癒の呪術も梓は心得ている。だが即座に頷けと自らを急かす思考は上滑りして、わななく口からは微かな吐息のみが漏れるだけ。視線は里に入って最初に遭遇した鬼に固定され、指示を出す義嗣すら梓の視界には映らない。
「真垣⁉おい、真垣⁉なんとか言え!」
「う、あ…あ、あぁぁ…」
「ちっ!皆、余所者は使い物にならない!俺たちだけでこの里を鬼から助け出すぞ!」
「任せろ!最初から怪しげな術なんぞ当てにしてねぇ!」
「そうよ!私たちには鍛え抜いた体と技が有るのだもの!」
戦闘にすら入らないうちから1人戦力が欠けても、加鳥の里の俊英たちは些かも怯まずに埒外の巨躯へと立ち向かう。その頼もしい姿にも、鬼を見るなり竦んでしまった心身が励まされることは無い。雄々しい気合いとおぞましい唸り声も、肉と鋼がぶつかっているとは到底思えない鬼の拳と刃が切り結ぶ音もどこか遠いところから聞こえる気がする。梓には未だに扱う事の出来ない、弱者を保護するための結界術式の中に居るような錯覚の中、真垣の生き残りは猛り狂う復讐心を制御した先ほどまでの平常心をどこかに放り捨て、小刻みに震えながら戦場をただ見つめていた。
梓が呆けている間に、戦況は刻一刻と進んでいく。言うまでもなく人の敗北が近づいているのだ。人間らしい生き方の全てを捨てて作り上げた肉体も技も刃も鬼の核心に届くことは無く、ほんの一瞬のミスで木っ端のように散らされていく。ただ1匹、義嗣が余高の里の防衛を放棄して全員を呼び戻し、総掛かりで仕留めることが叶ったがそれだけ。30人の精鋭が集まり、里の生き残りと力を合わせても10匹以上いる内のたったの1匹。それが今夜の人類の戦果の全てだった。その光景を梓は1人蚊帳の外からずっと見ていた。青年から壮年、男も女も区別なく、勇敢に戦って1人また1人と、鬼の何の工夫もなく突き出される拳に叩き潰されていくのを、少し離れた里の入り口からその痛ましい眺めに呻き声1つあげることなく。
ふと、燃えさしの柱が爆ぜるパキンという硬質の音で梓が我に返ると、勝利を飾った鬼たちが1人激しい戦いに加わっていなかった小僧っ子を取り囲み、中の1匹は四つん這いになって不思議そうに顔を覗き込んでいた。醜悪な顔。造作が歪んでいるというのでは無い。どこがどうという事ではなく、ただ本能的に嫌悪感を生じさせる面相を意識した梓は、瞬く間に五感を取り戻す。目の前には自分の倍ほどもある鬼面、残り火に炙られて時々弾ける木材の音、そして灰の焦げ臭さに混じって鼻に届く臓物の焼ける異臭。思わずえずきそうになるのを堪えながら、そっと目を逸らそうとすると、まるで梓の萎縮を嘲るかの如く鬼が吐息を吹きかけてきた。アルコール臭によく似た、しかし年の節目ごとの祭で嘗めた神酒とは決定的に異なる饐えたその息に梓の意識が一瞬遠のき、はっと気が付くと鬼狩りの一員として果敢に立ち向かうように育った筈の若者は、その怨敵の前でへたり込んでいた。
一旦意識が飛んだことで頭の中を埋め尽くしていた恐怖が少し和らいだ。梓は再び立ち上がって、油断しきっている化け物に目にもの見せてやらねば、と思う事は出来た。加鳥の里では未熟ゆえに不適格とされたが、鬼狩りとして呪術だけではなく武術も修めている。真垣の里で鍛えられた梓の佩刀はさほど鋭利ではなくやや刀身も短いが、その分取り回しが容易だという利点がある。本来ならば跳躍しなければ届かない筈の鬼の首筋は、四つん這いになっている為に梓の目の前だ。居合い抜きのの要領でさっと一振り、何度も修練を積んだその動作一つで、少なくとも一匹は鬼を殺すことができる。そこまでは思考が進むのに、まるで生まれたての子鹿のように震える梓の両腕は半身を起こすので精一杯。とても刀を抜く事などできそうもない。自らの不甲斐なさに、目尻から透明な液体が零れ落ちた。
恐らく今まで目の前の鬼が襲ってきた鬼狩りの中に、倒すべき敵を前に泣き出す無様な者など居なかったのだろう。しばらく不思議そうに梓の様子を眺めていた鬼は、ややあってその醜悪な面相を更に歪ませた。それが鬼の嘲笑であること、おそらく周囲を囲む他の鬼も同じ笑みを浮かべているだろうと気付いた梓は、しかしその嘲りの報いを受けさせることも叶わず、このまま殺されるのだろうと涙を拭うことも無く静かに覚悟を決める。だが代わる代わる臆病者の醜態を覗き込んで楽しんだらしい鬼たちの最後の一匹が、その女の腰ほどの太さの腕を振り下ろすのを寧ろ待ち侘びる梓の期待は裏切られた。彼らはそのまま梓の視界を覆うような、蜃気楼のように揺らめく景色の向こうへと消えて行った。
今まで見たことのない不可思議なその眺めが今までどこからともなく現れていた鬼たちの故郷であること、そして梓を見逃したのは情けをかけたのではなくその無様な姿を今後も楽しむためだろうと、何の理由もなく梓は察した。今更のように戦の前に精神統一で押し殺した怒りが沸き上がった梓は、しかしそれでも尚小刻みに震える脚を、幾度となく殴りつけた。哀れで孤独な若者が自らの期待を裏切った肉体を打擲する姿は、一夜にして滅んだ余高の里を包んだ炎の残り火の中、惨劇を見守っていた銀色の月が水平線の下に隠れ、反対側の空が少しずつ明るくなっていくまで続いた。
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