惨劇の夜
Thanks20th参加作品です。
短篇で参加するつもりでしたが、ラストまでの執筆が間に合わなかったので、中篇程度で完結することを目指します。
辺り一面は見渡す限り火の海と化していた。
TVで見る現代の日本の一般的な家屋とは似ても似つかない、粗末なあばら家の群れは言うに及ばず、そこ此処に無造作に植わっていた樹木、幼い時分には同じ年頃の子供たちと駆け回った小さな空き地、そして自分のまだ18年の人生の全てとも言える修練場。この小さな隠里を構成するありとあらゆる物が揺らめく赤い炎に包まれている。その火災が作り出す皮肉めいた明るさの、どこか不吉さを感じさせる不安定さを伴った灯りに照らされて、ぼんやりと浮かび上がる異形の闖入者たち。
「あれが…鬼…」
自分が小さく呟いた事も気付かず、梓はその巨躯の正体を言い当てた。太古の昔より、気まぐれに常世より出でて、何の必要も無くただ弱者をいたぶるのが楽しいからという理由で、人を殺し、犯し、蹂躙していく邪悪な者ども。太古の昔、人は長くただ彼らが楽しみを先に残すために、生き延びさせられたようなものだったらしい。
太平の世となった江戸時代辺りから、この真垣の里のように、日本、いや世界各地に鬼を倒すための武術、呪術を研鑽する小さな集落が国家機密として形成され、漸く反撃も可能になったが、鬼は人間のちっぽけな反抗を嘲笑うかのように、むしろ積極的に隠れ里を襲うようになった。結果として無力な民草が襲われることは滅多に無くなり、結果として世間に人を殺める危険な存在についての情報が出回ることが無くなった。鬼という脅威を知らずに生きている一般人が、常世の存在など時代遅れのオカルトと笑い飛ばして生きることができるのはそのおかげではある。しかしそれでは異形を滅するための修行ではなく、生贄を捧げているのと何が違うのか。里の誰もが不甲斐なさに歯嚙みし、いつか真の意味での鬼狩りとなるべく必死に鍛錬を積み重ねてきた。
ならば、今こそ自らの全てを懸けて立ち向かわなければならない。そう思いながら、梓はただ立ち竦み、鬼どもの傍若無人を見つめるばかり。3メートルを超える、しかも均整の取れた体躯の、赤黒い肌とねじくれた角を持つ化け物に絶望的な闘いを挑む。共に暮らし、笑い、泣き、修行の成果を競った里人たちの輪に加わらなければ。そう頭では思うのに、鬼が恐ろしくて恐ろしくて震える足を一歩も前に進めることができない。
「動け…動け…」
情けなさに涙をこぼしながら、竦んだ脚を殴りつけ、仲間たちを援護しようとする梓の必死の行動をよそに、鬼の攻撃への対応を誤った里人が1人、また1人と倒されていく。鬼は何の技術も持たず、ただ手に持った棍棒で薙ぎ払うだけ。それなのに鍛え抜いた里人の技を凌駕するのだ。その恐ろしい眺めを、見たくはないのに梓は視線を外す事もできない。だが前へ向かって進み出ることもできない。梓が脳内で自分を叱咤して、しかし何の成果もあげられない自分に絶望している間に、状況はまた一段階悪くなった。
「fvsadkjengtoauua」
「eanvgeiganasdga;aagahaeerrr」
村のどこかでまた1つ、戦闘集団が全滅したのだろう。新たな鬼が現れたのだ。鬼が1体ですら劣勢だったのに、数が増えてしまっては満足な闘いになる筈もない。目の前で戦っていた里人たちはあっさりと全滅した。2体の鬼は更なる獲物を求めて周囲を見回し…遂に片方が梓の姿をとらえた。いや、一瞬目が合ったと感じただけだ。しかしそれで梓の脆い心は完全に砕け、彼はまだ残っているだろう仲間たちを見捨て、脱兎のごとく逃げ出した。
「はっはっはっはっ…」
燃える真垣の村から飛び出した梓は、とても長年極めて厳格な修練を続けてきた人間とは思えない、バラバラのフォームで走り続けた。1時間を超えて全力疾走している事だけが、彼が鬼狩りの隠里で暮らしていた超人的な身体能力の持ち主である証だろう。だが逃走を続ける梓には自らの無様な姿を客観視する余裕など無い。鬼は立ち向かえば恐ろしいが、それほど移動能力に長けているわけでは無いし、今は真垣の村を蹂躙するのに夢中だろう。襲われる心配はないはずだ。だがその安堵は別の角度から梓の心を打ちのめす。
(逃げ出した、逃げ出した、逃げ出した!隠里の人間が、戦って死ぬこと無く、鬼の前から無様に!)
隠里の住人はすべからく戦士だ。少なくともそう教え込まれ、教えに従って自分たちを鍛え抜いてきた。多くの人が存在すら知らない脅威に立ち向かうための人生。その認識は凡そ全ての里人が胸に抱いていた一種の選民思想だろう。そしてそれこそは常軌を逸した訓練から一人の脱落者が出る事のない、隠里の異常性を支えてきたものだ。それは確かに今日まで梓の心にも有った。だが今日、戦う事なく逃げ出したことで、その自尊心はあっけなく崩れ去った。これからどうすれば良いのかは見当もつかない。隠里で生まれ育った梓にある現代日本の知識は、里に数台しかないTVを通しての物。今では誰もが当たり前に持っている、パソコンやスマホなども見たことも触れたことも無い。そもそも里の人間には戸籍なる身分証明の方法が有るのやら。一先ず脅威から逃れるとこの先の心配が生まれ始めた。新月の夜とて頼りない星明りの中、驚嘆すべき速度で山道を駆け抜けながら、梓はこの先の身の振り方について覚束ない思考を続ける。
その足取りが、道の先に複数の何者かが立っている事に気付いて急停止する。さてどうすべきか。そのサイズからして鬼ではなく人間だ。だがこんな時間にこんな場所に現れる人間がまともだろうか。彼らはどう見ても偶然ここを訪れたというより、自分を待ち構えているようにしか見えない。ひょっとして、奇跡的な武運に恵まれて鬼たちを撃退した里の者が、逃げ出した臆病者を捕らえて処刑すべく先回りしたのかもしれない。今すぐ踵を返して道を逆戻りすべきか?だがまだ鬼が居るかもしれない。道を外れて隠れるか?だがあれが里の者ならばその程度で逃げおおせられる訳がない。梓がどうすれば良いか悩んでいると、夜間の視力も桁外れの梓にすらまだ遥か遠く人影たちが深々と頭を下げた。梓は面食らうが、そのおかげで彼らに恐らく敵意は無いのだろうと判断できた。意を決した梓は再び駆け出して彼らのすぐ傍まで近寄る。
正体不明の男たちは全部で5人。斑模様の丈夫そうな衣服に身を包み、顔に双眼鏡のような物を付けた屈強な‐梓にとっては何の威圧にもならないが‐男が4人。彼らに守られるような位置取りに、黒いカッチリした雰囲気の上下と、襟元から白いシャツを覗かせている中肉中背の男が1人。前にいる4人は不思議な者で顔を隠しているから全く顔色が読み取れないが、後ろにいる30代と思しき男は端正な顔立ちに安堵の色を浮かべている。里の人間ではない。何者か尋ねたいところだが、里の外を知らない梓にとって、それは些か以上に勇気を必要とする行為だ。まごまごしていると、幸い男の方から声を掛けてくれた。
「真垣村の方ですね」
それは質問ではなく、事実の確認のようだった。実際そうであるのだから、素性が知れているのなら隠しても仕方ない、と梓は素直に頷く。
「大変ようございました。お名前をお聞きしても?」
「梓と呼ばれていた…すまないが、貴方たちは何者だろうか。そしてどうして今ここに?何故真垣村を知っている?」
「これは申し遅れました。わたくし、内務省異界生物対策室の室田と申します。こちらの方々は今回の任務にあたって自衛隊から借り受けた護衛でございます。何故ここに来たかと…」
「話を遮って申し訳ないが、なぜ貴方はそんなに丁寧な言葉遣いを?」
里で育った梓には敬語という物はとんと縁が無かった。勿論村長を含めた指導に当たる数人の長老など、敬意を抱くべき存在はいたが、言葉遣いに関していちいち気にする者など居なかった。というより里全体が家族のようなものだし、重要なのは戦士としての技量だけなので、形式にはほとんど縛られていなかった。たとえ敬語に馴染みが有ったとしても、自分より年長の室田なる男に敬意を払われるのはややくすぐったい。
「それは当然のこと。鬼狩りの皆さまは日本、いや世界を守るためにその命を懸けて日夜戦ってこられたのですから」
「それは…いや、気にしないでくれ。話を続けてください」
その返答はいざ実戦となって逃げだしてしまった梓には如何にも重い言葉だったが、それを告げるのは憚られた。室田もわざわざ出迎えたのが臆病者の失格者では残念だろう。
「では説明の続きを。お迎えに上がったのは、里から緊急事態の連絡があったからでございます。おそらく村長を含めた少数しかご存じなかったかと思いますが、鬼狩りの里には何か返事があった時の為に、我々対策室にホットラインがつながっております」
「その異界生物対策室というのは?」
「これは失礼しました。鬼狩りの里が複数あることはご存知でしょうか」
「それは当然知っているが…」
「日本各地にあるそれらの里やそもそも鬼の存在についての情報を、秘かに管理する日本政府の部署でございます。情報の管理と言っても大したことはしておりませんが。今回鬼の襲撃の連絡を受けて、即座にお迎えに上がることができたのもそれが理由です。鬼狩りの技術は里それぞれに発展し、受け継がれている物です。もし全滅などという事になったら、貴重な技術が可惜失われることとなりましょう。いや、1人でも生存者がいらっしゃって本当に良かった」
「そうか…恐怖に駆られて逃げ出した俺なんかにも意味が有るというのなら、それは喜ぶべきなんだろうな」
思った以上に重要な存在とみなされていると知って、下手に期待されないようにと自分の恥部を晒してしまうが、それを聞いても室田の態度には変化は無かった。
「真に。ではわたくしどもに付いてきてください。ここから一番近い別の鬼狩りの里へ案内いたします。今後はそこで修練を積み、あるいは真垣の里に伝授された技を広めていただきたく思います」
「貴方は俺が逃げ出したことを何とも思わないのか?」
「人によってはあるいは腹を立てるかもしれませんが。わたくしにとっては鬼などという未知の恐ろしい化け物に立ち向かうというのは至極勇気の必要なことだと思えますし、その為に厳しい修練を積むというのもそれだけで尊敬に値することでございます」
それは鬼狩りとして自らを常日頃から鍛え上げ、戦士として一丁事あらば死力を尽くして立ち向かう事だけを胸に刻んできた梓にとっては驚きの言葉だった。恐らくは里の狭い世界で生きてきた自分の方が異常者なのだろう。これから生活することになる別の鬼狩りの里で、どんな扱いを受けることになるかは不安だ。しかし自分が逃げたことをそれでも良しとしてくれる誰かが1人でも居たという事実は、きっとこれからの自分の救いになるのではなかろうか。室田がどこまで梓の気持ちを汲み取ってくれていたのかは定かでないが、梓は感謝せずにはいられなかった。
「ありがとう、室田さん」
「何が、でしょう?」
「正直今の今まで、俺はその為に人生の全てを注いできた筈の闘いから逃亡した臆病者だと、落第者だと、敗北者だと、自分を責めずにはいられなかった。だけど貴方がそれで助かることも有ると言ってくれた…事で…」
もしも鬼が追ってくるような事が有るなら直ちに逃げなくてはいけない。さらっと感謝の言葉を告げて次の行動に移る心算だったが、言葉にしたことで梓の脳裡に赤で染め上げられた里が崩壊する光景が甦り、少年は感謝の言葉を途絶えさせた。駄目だ、考えてはいけない。そう思うのに心は完全に自分の全てを破壊した鬼どもへの復讐心に支配されている。溢れる衝動に支配され、踵を返して約束された破滅へと踏み出した梓を、室田が先んじて止めた。
「いけません」
「な…なに、を?…」
「今から真垣の里へと引き返そうというのでしょう?それはいけません。もしも村が助かったのではれば、改めて生き残った誰かから異界生物対策室へと連絡が有るでしょう。逆に…残念ながら鬼が1体でも生き残ったというのなら、貴方1人ではむざむざと拾った命を捨てに行くだけです。お辛い選択になりますが、今はわたくしどもと共においでください」
その進言への返答には再び時間を必要とした。心の中には未だ憤怒と憎悪が渦巻いている。しかし思考の冷静な部分は室田の言を是としている。2方向に引き裂かれ逡巡を続ける梓を、一刻も早く行動したいだろうに、異界生物対策室の男や、護衛の自衛隊員たちは無言で待ち続ける。その態度への感謝が、最終的に少年の心を今は助言に従って生き延びる、という方向へと動かした。
「待たせて済まない、それじゃ、その目的の里へと連れてってください」
「では直ちに。梓さまの姓は…里の方には無いのでしたか。もしも案内する里で暮らすことになったら、真垣梓、と名乗っていただきます」
もしも、と留保を付けたのは梓への気遣いだろう。
「そうか。普通、人には苗字というものが有るのだったっけ。わかった、もしも俺がただ1人の生き残りとなったのなら、喜んで真垣の名を残すよ」
「少し離れた所にヘリコプターが待っています。行きましょう、加鳥の里へ」
こうして一夜にして故郷を失った少年の新たな里での生活が始まる事となった。その胸には行き場のない復讐心、その手足には真垣の武術、その頭には終わりの無い呪詛を抱えながら。
読んでくださってありがとうございました。
ご意見ご感想、誤字報告などありましたらよろしくお願いします。
次回は新たな里での生活や、鬼と戦おうとしては恐怖に負ける葛藤などを描写する予定です。