②保管庫の破壊ー善と悪4ー
ツワブキがラファエルに引き取られて約二年。彼は目に見えて変化した。
四方八方に跳ねていた頭髪は艶のある絹糸に。棒切れの如き身体は筋肉を得て強靭に。野性味漂う服は清潔な白に。当初は一見して判別できなかった人種も、現在はエルフと一目瞭然の美しさだった。
変化は外見だけではない。ツワブキは文字の読み書きは勿論、計算、魔法、武術に至るまで難なく熟し、周囲の大人を驚愕させた。あまりにも出来が良すぎたため、指導役は二週で交代。遂には大人も頼りにするラファエルやトワが指導役を務めることになった。
尊敬や畏怖の眼差しを受ける一方で、ツワブキは自身の実力に歯噛みしていた。大抵のことを難なくこなしたと言っても、それは一般的な大人に求められるレベルまでの話。一般よりはるかに強いラファエルやトワと同じ段階に立つには、ツワブキの実力はまだまだだった。
腹立たしいことに、直接声に出す無神経野郎もいるもので。
「弱い」
「っ、」
「前回も言ったろう、右に避ける癖があると。何度指摘させるつもりだ?」
真剣を手に、トワがやれやれとため息を吐く。わざわざ肩まで落とすものだから、ツワブキの美しい顔にも青筋が浮かぶ。
武術で右に出る者はいないと言われるトワだが、彼には配慮というものが無かった。魔族で身体能力の高いトワに対し、武術を学んで二年、それもようやく健康的な外見になってきたツワブキ少年十二歳。常識のある大人ならツワブキのレベルに合わせる所を、トワは全力で、暴言で、むき出しの刀で相手をするのだ。魔族は思慮に欠けた者が多いとはいえ、トワのそれは異常だった。
異常な大人がいるならば、割と正常な大人だっているにはいる。
「奇遇ですね、あなた?」
「げ」
トワの肩に、背後から華奢な白い手が伸びる。この辺りでは珍しい黒髪に、着物と呼ばれる重い服を纏う女性。小柄で儚い印象に似合わず、反対の手にはむき出しの刀が輝いていた。
振り返るトワの声が無意識に震える。
「……夜子」
「私も何度指摘させるのかしらと思っていたの。真剣は駄目。言葉は優しく。ツワブキくんに合った教え方を。……なのに何であなたの手には、真剣があるんでしょうねぇ?」
「……スミマセン」
「自覚があるなら直しなさい! 今日という今日は許しませんよ!」
「っご、」
ごめんなさいと謝罪しながら逃げるトワを、夜子が真剣片手に追いかける。着物は動きにくいだろうに、追う速さはトワに負けず劣らずだ。流石魔族のトワを夫に選ぶだけのことはある。
もはや恒例と化した夫婦喧嘩を眺めていると、ツワブキの頭にポンと温かい重みが乗った。瞬く間に消えていく傷に、ツワブキは重みの主をしかめっ面で言い当てた。
「……ラファエルさん」
「お疲れさん。いつも悪いな」
「別に……弱いのは事実だし」
ツワブキは回復魔法の礼も言わず、横に座ったラファエルから視線を逸らす。正確には彼女の腕に抱かれた幼子からだ。小さな幼子はしかめっ面を気にも留めず、ツワブキの汗に濡れた髪をわし掴む。
幼子はトワと夜子の間に生まれた子どもだ。弱い遅いと貶されてばかりのツワブキと違って、少し歩けただけで天才だと褒められる存在。齢十二のツワブキと産まれたばかりの実子では対応が違うと分かっていても、やはり親のいる存在は眩しかった。
見向きもしないツワブキの頭を、ラファエルはぐりぐりと撫でまわす。
「弱くない。おぬしは何時も頑張っている」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「……じゃあ何で僕を戦争に連れて行かないんですか? 弱いと思ってる証拠でしょ」
「……」
ツワブキはようやくラファエルを視界に収め、睨みつけた。
一見平和に思える大陸だが、それは結界に守られた一部の土地だけ。結界を一度超えれば、死の匂いが充満する焼け野原が広がっていた。
十年ほど前に突如現れ、大陸各地を支配した魔王。ラファエルたちドラゴンは残った土地と命を守るため、奪還するために日々戦っていた。当時学の無かったツワブキでさえ認識していた話だ。学び始めれば尚のこと。
しかしいくら学んでも、魔法や武術を習得しても、ツワブキが戦場に出ることはなかった。若いドラゴンと互角に戦えるようになってもだ。兵士にするために育ててきたのだろうに、それを期待していただろうに、何故戦争に出さないのか。自身のゴールは何処なのか。ツワブキはただ与えられるだけの関係が腹立たしく、寂しかった。
しばし沈黙が流れた後、ラファエルは観念したように口を開いた。
「……戦争に連れて行かないのは、おぬしが弱いからではない。必要がないからだ」
「……弱いってことでしょ」
「違う。~ッたく、あのクソ烏め……いや、任せすぎた私も同罪か」
逃げ回るクソ烏を睨みつけながら、ラファエルは一つ咳払いをした。真剣な黄金の眼がツワブキを射抜く。
「戦争に連れて行かないのは、おぬしに待っていてほしいからだ」
「……待つ?」
「ああ。優秀なおぬしのことだ。戦場に連れて行けば、きっと戦力になるだろう。救える命もあるだろう。だが親としては、大切な我が子に戦争を知ってほしくない。命を奪う重みを知ってほしくない。……安全な場所で待っていてくれれば、それだけで私は戦える」
「っ、」
ツワブキは知らなかった。一方的に与えられる関係を。無償の愛を。親と呼ばれる生き物のあるべき姿を。ツワブキが無意識の内に諦めていた、子どもとして受け取って当然の権利だった。
再び頭に伸びる手を、ツワブキは反射で払ってしまった。胸に広がる温かい重みに反し、閊える喉は冷たい言葉を震わせた。
「……じゃあ勉強を、魔法や武術を教える理由は? 戦争に出さないなら、一体何のために教えたんだ!?」
「……」
ツワブキはこの二年、思慮深いドラゴンばかりと過ごしてきたわけではない。彼らが庇護対象と定める弱者——人間たちと共に生きてきた。
種族は違えど、ツワブキも同じ人間だ。ドラゴンに同一視されるのも無理はない。
しかしツワブキは一緒くたに扱ってほしくはなかった。一部の人間たちは守られておきながら、庇護されて当然と考えていた。ドラゴンより弱いから。ドラゴンを崇めてやっているのだから。中にはドラゴンを敵視する者もおり、彼らに近しいツワブキも排除すべきと、嘘の徴兵話を持ち掛けられたこともあった。ツワブキの指導役が短期で交代したのも、彼の優秀さ故でもあるが、一番は人間たちから離れるためだ。嫌いな人間たちから距離を取るため、ツワブキは必死になって勉強した。おかげでさらに化け物扱いされるようになったが、ラファエルらドラゴンと過ごす時間が増えたのだ。例え徴兵されたとしても、ツワブキに後悔はない。
だのにツワブキは出兵を否定された。ツワブキの勘違いといえばそれまでだが、最も心を傾けていたラファエルに否定されたのだ。この二年の努力を無意味とされたも同然だった。
肩で息をし、水膜まで張る眼を前に、ラファエルは伸ばしていた手を下ろさざるを得なかった。
諦めではない。愛していると、抱きしめるために。
「……済まぬ」
「っなに、が」
「優秀だからと、忙しいからと、おぬしから距離を取りすぎた。……声に出しておらぬのだから、伝わるわけがないのにな」
再度の謝罪と初めての温もりに、ツワブキは思わず息をのんだ。鼓動で忙しない頭でも分かるほど、ずっとこうして欲しかったと心が叫んでいた。
「私にとって、おぬしは希望だ。未来だ。今は戦争ばかり見えていても良い。だが終結後、きっとおぬしの力が必要になる。分かる日が来る」
「……」
「だからどうか、力をつけてくれ。相手を傷つける前に、出来ることがあると知ってくれ。おぬしのような者が一人でも居れば、きっと倒れた者たちも報われる。……人間を、嘆かずに済む」
ラファエルはツワブキから身体を放すと、くしゃりと泣くように笑った。白く固い手が確かめるように、ツワブキの頬に触れた。
「その第一号が、おぬしだと嬉しい。例え私が、この眼で見れなくともだ」
戦争で失明しても、そんな意味だったかもしれない。しかしツワブキは、ラファエルの腕を取らずにはいられなかった。死んでしまってもと、考えずにはいられなかった。
見開かれた黄金の眼に、歪んだ顔のツワブキが映る。震える声で、必死になって言葉を紡ぐ。
「なるよ。なるから……未来でも僕を見てよ。隣に居させてよっ」
かあさん。絞り出した言葉は、ずっとツワブキが呼びたくとも呼べなかったものだった。泣き喚くかつての自分が、呪い、封印していた呼び名だった。
瞬きを繰り返すばかりのラファエルに、やっぱり言わなきゃよかったと赤面していた時、パキッと軽い音が耳に届いた。俯いていた顔を上げれば、ラファエルは腕に生えた己の鱗を、一枚力技で折っていた。ツワブキの顔がさあっと青ざめる。
「な、なに、してっ」
「落ち着け。ちょうど生え変わりだ」
「いや、どう見ても折ってるじゃん!」
何なら血まで滲みだした腕にあたふたしていると、ラファエルの折った鱗が粉々に砕けた。破片は空中でくるくると回ると、一つ、またひとつと集結した。ラファエルの手に、鱗で作られた銀の花がぱたりと落ちる。
「ほい」
「え、」
「? ああ、洗われていない鱗では気分が悪いか」
「っいや、そういうわけじゃないから折ろうとしないで! 見てるだけで痛い!」
もう一枚と鱗に伸びる手を慌てて止めると、ラファエルは子どものように首を傾げた。ツワブキも人のことは言えないが、ラファエルはどうも痛みに鈍い所がある。表情の変化がないため、大したことではないのかもしれないが、血が出ているのは確かなのだ。大切な者が傷つく様は誰だって見たくはない。
ツワブキはラファエルの静止を確認すると、切り替えるように息を吐いた。
「で、その花? は……貰ったら何かあるの?」
「いや、ただの思い付きだが……あえて選ぶとすれば証明かね。私の息子であり、“守護鱗”の証」
「しゅっ……!」
“守護鱗”とは、ドラゴンの王の側近を指す言葉だ。ドラゴンの王は大陸に五体しかおらず、ラファエルもそのひとり。守護鱗は彼らに認められた者しかなれず、家族よりも多くの時間を共有することから、血よりも濃い関係とも言われている。
確かにこれ以上の家族の証明は無いのだろうが。ツワブキは花を落としてはならないというのに、手が震えて仕方がなかった。掌状の銀花もカタカタと揺れる。
「僕が!? まだ全然弱いのに!?」
「弱くないと言っておろうが。話を聞かん奴だな」
「だって……! トワと同等ってことでしょ!? 無理だよ! ボロ負けしてるの知ってるよね!?」
ラファエルの守護鱗はごく少数だが、その全員を以てしても敵わないと噂されるのがトワだ。並外れた身体能力から繰り出される剣技に、魔族特有の再生体質。特別な魔法や武器でもなければダメージすら与えられない男と同じ椅子に座るなど、考えただけでも恐ろしい。座った瞬間蹴り下ろされ、足の一本や二本折られそうだ。
ゾッと背筋を震わせるツワブキを前に、ラファエルは眉根を寄せた。
「? アレは守護鱗ではないが?」
「え、」
「守護鱗に必要なのは強さよりも信頼だ。アレは強さこそ桁違いだが、いざとなれば私を切る。そのような奴を守護鱗に出来る訳があるまいて」
「だって、戦争にも参加して……」
魔王は種族関係なく戦地に送り、強制的に働かせているが、ラファエルたち天軍は違う。戦地は勿論、物資の準備も動くのはドラゴンだ。ドラゴンでない種族など、トワを始めとする守護鱗しかいない。戦争に出ているのだから、てっきりトワも守護鱗なのだと思っていたツワブキは耳を疑った。
ラファエルは目を丸くするツワブキから、未だ逃げ回るトワへと視線を移す。
「アレを参加させているのは利害の一致さ。アイツは魔王を裏切って来たからな。魔王が死なねば、家族や友も共犯者として狙われ続ける。協力するには持って来いの相手だろう」
ラファエルは視線を落とすと、腕の中の幼子の頬をつついた。きゃらきゃらと笑う姿は、共犯者とは思えぬ愛らしさだ。
「……庇うつもりはないが、アイツには焦りがあるのだろう」
「焦り?」
「アレは魔族だ。条件を満たさねば死ぬことすら許されぬ。しかし夜子やこの子は違う。私たちが少し視線を逸らした隙に、命のほとんどを終えてしまう」
「……」
「この子たちが生きている内に戦争を終わらせ、母国に帰る。そのためなら使えるものはすべて使う。おぬしに厳しく当たるのも、私が守護鱗に選ばぬのも、そういう理由さ。お互い勝手が過ぎるな」
「……」
自嘲するように笑うラファエルは、どこか謝っているようにも見えた。
魔族を夫にしても、夜子が人間である事実は変わらない。今でこそ夫の行いに腹を立て、何処までも追いかけて行けるが、日に日に時間と体力は失われていく。速度は走りから速足へ、速足から歩きへ。杖を持つ頃になれば、きっとトワは逃げるのではなく、隣をゆっくりと歩くようになるのだろう。魔族の血を半分受け継ぐ娘も、もう半分は人間だ。きっとトワが見送る側になってしまう。ツワブキはそれが、どうしようもなく寂しく思えてならなかった。
「あっあっ」
「フフ、どうした? おぬしも私の守護鱗になるかい?」
「え、」
小さな掌でぺちぺちと鱗を叩くものだから、ラファエルの顔も綻んだ。しかしその提案は聞き過ごせない。危険だからという理由ではない。せっかく座れた息子の椅子に、幼子も並ぶことになってしまうからだ。ツワブキにはそれが、心臓を掻きむしりたくなるほどには複雑だった。
顔色を悪くするツワブキに、一筋の影がかかる。影の持ち主は幼子を奪い取ると、ラファエルをキッと睨みつけた。
「人の娘に勝手な提案をせんでください」
「冗談だろう? ま、その子が望むなら話は別だが」
「ぜっっっったいになりません。一生なりません。娘に金輪際関わるな」
「失礼な奴め。手始めに消してやろうか?」
「やれるもんならやってみろ、このクソ女!」
「あなた! いい加減になさい!」
夜子も加わり、一転して賑やかになった輪の片隅で、ツワブキは掌状の花を見下ろした。
責任感の強いラファエルのことだ。ツワブキを守護鱗にしたのは、守ってもらうためではなく、守るため。息子であるツワブキを安心させるためだろう。トワは断固拒否しても、ツワブキには何にも代えがたい喜びだった。
ツワブキは掌状の花をそっと握りしめ、賑やかな輪に加わった。この人に恥じない息子になろう、そう誓いを込めて。
——だが、ツワブキも人間だった。
◆
三年後の春。青く澄み渡った空に反して、ツワブキの胸中は荒れていた。目の前にしかめ面で立つ少年、彼が嵐を連れてきた。
ツワブキと同じ背丈、ツワブキと同じ白髪。違うのは黄金に輝く瞳と、腕に並んだ固い鱗。ドラゴン、あるいは竜人である証明だった。
ラファエルは少年の隣に並び、固まるツワブキと対面した。
「この子はリツハルド。今日から共に暮らすことになる竜人だ。年はさほど変わらぬだろうが、兄弟子として、色々と気に掛けてやってくれると助かる」
「……」
「ツワブキ?」
疑問符を浮かべるラファエルに、ツワブキはごく自然に、自然に見えるように笑みを浮かべた。
「分かりました。あとは僕に任せて、母さんは行って下さい。会合の時間でしょう?」
「……いつも済まんな。夕食までには帰るから」
「気にしないで。いってらっしゃい」
ラファエルは片手を挙げると、背を向けて足早に去っていく。取り残された二人の空気は、これから兄弟弟子になるとは思えぬほど、重く淀んだものだった。
「初めまして。僕はツワブキ。弟なんて初めてだから嬉しいよ」
「……」
「緊張してる? 大丈夫だよ。僕も最初は、」
握手のために差し出した手が、パアンと高い音を立てて払われる。リツハルドは叩いたことを謝罪するどころか、仇でも見るようにキッと睨んだ。
「馴れ馴れしくすんな。ウザい」
ラファエルが連れて来たのだ。きっとリツハルドにも複雑な事情がある。本音は違う可能性だってある。
それでもツワブキが被った皮を脱ぎ捨てるには、十分すぎる程の言葉だった。
「あっそ」
「……!」
予想外の反応だったのだろう。黄金の眼を見開くリツハルドに、ツワブキは嘲るように笑った。払われた手をだらんと下ろす。
「そっちから拒否しておいて、傷ついてんの? ダッサいなあ」
「ア?」
「安心して。僕も君と慣れあうつもりは無いよ。一つ頼まれてくれればそれでいい」
「……頼み?」
「ああ」
ツワブキは笑みをそぎ落とすと、冷酷な声で言い放った。
「あの人を『母さん』と呼ぶな」
ツワブキは知らなかった。己にとって母はラファエルただ一人でも、ラファエルにはツワブキの代わりがいることを。ラファエルの愛する子どもの席は、いくらでも増やせることを。
リツハルドは竜人だ。待つしかできないツワブキと違い、リツハルドは戦争に行ける。ドラゴンの血が流れているだけで、ラファエルの隣に立てる。そんな“いつか”の“もしも”を想像しただけで、ツワブキの平穏だった心は荒れた。心臓を掻きむしるだけでは足りず、武器を取れるほどの力が湧いた。
実際のところ、リツハルドに戦地に赴く予定はない。戦争から逃がす形で送られたのだ。参加しては送られた意味が無いし、ラファエルだって許しはしない。
だがそんな事情を、ツワブキは知らない。リツハルドは己とラファエルの生活を脅かす敵でしかない。
そしてリツハルドも、ツワブキの事情を知らない。嫉妬されている訳を知らない。何処へ行っても同じ視線を向けられるのだと、母国でのどす黒い感情がぶり返すだけだった。
リツハルドは一つ舌を打つと、鏡映しのように睨み返した。
「頼まれなくても呼ばねえよ。マザコン野郎」
リツハルドはしまっていた翼を広げると、ピュンと何処かへ飛んで行ってしまった。一人取り残されたツワブキも舌を打つ。
誰に怒っているのか、誰に怒ればいいのかも分からない。振り上げた言葉の剣は上げられたまま。宙ぶらりんで、何ともみっともない姿だった。
◆
「彼、ミカエル様のご子息だそうよ」
「次代の頭王か」
「だがミカエル様には娘様が」
「彼は竜人だろう」
「ドラゴンはひとりとしか番わないのではなかったのか」
「不義の子ということか」
「止せ。聞かれたらどうなることか」
リツハルドが来て以来、ツワブキの暮らす結界内は騒がしかった。
ドラゴンは賢く、仲間思いな生き物だ。仲間の、それも西側の王の悪い噂など流さない。騒ぐのは愚かな人間だけ。どれだけ人間から距離を置きたくとも、完全に離れることは不可能だ。何処へ行っても人間はおり、耳障りの悪い噂を垂れ流す。それが尚更、ツワブキの胸中を荒れさせた。
だのにリツハルドとは、ほぼほぼ顔を合わせなかった。出会いが最悪過ぎたのか、はたまた気を遣われているのか。どちらにせよ、ツワブキの方が下に見られているようで気に喰わなかった。
そんな結界内にも安定剤はある。母ラファエルによる授業の時間だ。戦争で忙しいラファエルも、ツワブキとの魔法の授業の時間だけは必ず確保してくれた。最近はリツハルドも加わるが、彼は魔法が苦手なようで、まともに聞いた試しがない。ラファエルも半ば諦めているのか、ほぼツワブキとの一対一だ。ツワブキにはそれが数少ない至福の時間だった。
授業の場へ近づくにつれ、ツワブキの脚は軽くなる。意気揚々と部屋へ足を踏み出した時、心を叩きなおす怒号が響いた。
「待てリツ! リツハルド!」
「うっせえババア! 付いてくんな!」
とっさに隠れたツワブキの前を、リツハルドは足早に通り過ぎる。一瞬険しい黄金と視線が交差したが、お互い何も言わなかった。遠くなる背を見つめていると、慌てた様子のラファエルが姿を現した。しゃがみ込むツワブキに気づき、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……ツワブキ」
「すみません。盗み聞きするつもりは……」
「いや、私も済まぬ。驚かせたろう」
「僕は全然。それより何かあったんですか? またアイツがふざけたこと言い出しました?」
リツハルドはラファエルへの当たりが強かった。話しかければ「煩い」、近寄れば「来るな」。その他「キモイ」「ウザい」など、持ち得る限りの罵詈雑言でラファエルを遠ざけた。それでも授業には一応参加するので、ラファエルは出方が分からぬようだった。
ちなみに彼女も初日に何かがあったとは察したようで、詳細を聞くだの、仲直りを勧めるだのといったことはしない。ツワブキが本日まで怒られずに済んでいるのも、彼女が詳細を訊かないからだ。会話の重要性は、お互い嫌という程知っているだろうに。
ラファエルはしゃがみ込むツワブキに手を差し出すと、華奢な身体に見合わぬ力で立ち上がらせた。こんな些細な行動でも、ツワブキの心は浮足立つ。まだ唯一の息子であると、安心できる。
ラファエルはツワブキの気遣いに顔色を変えると、腹からため息を吐いた。ツワブキと揃いの三つ編みをガシガシと掻く。
「あー……いや、私が悪い。あの子が『燐灰石の天秤』の使い方を訊くものだから、つい」
「ヴァーゲ……」
「ああ、『天与の十五錠』の一つで、頭領のドラゴンに稀に与えられる魔法だ。私の『終の光』と同じだな」
ラファエルにとっては、いつもの魔法の授業と何ら変わらない説明だったろう。しかしツワブキは違った。腹に穴が開くような、崖から突き落とされるような衝撃だった。
『天与の十五錠』とは、ドラゴンに時折発現する禁忌の魔法だ。ドラゴンの鱗には魔法式が刻まれているものだが、『天与の十五錠』にはそれが無い。魔法式として表すには危険すぎる代物だからだ。
十五錠とあるとおり、心臓領生まれのドラゴンには三つ、頭領に三つ、尾領に三つ、翼領に三つ、天領に三つの計十五種。発現すれば本人が拒もうと、どれだけ性格に難があろうと、次の王位が約束される。ラファエルも幼少期に十五錠の一つが発現したため、ほぼ強制的に心臓領の王位に収まった。戦争に出ずっぱりなのも、彼女の『終の光』が魔族に有効だからだ。彼女以外に使える者が居れば、ツワブキはもっと彼女と過ごせたことだろう。
そしてリツハルドに発現した『燐灰石の天秤』は、頭領のドラゴンにのみ与えられる禁忌の魔法。ラファエルが王位に就いたように、リツハルドも頭領の王位を、次代ミカエルの座を約束される。
だがそれだけでは済まされない。頭領の王位に就くということは、大陸中の全ドラゴンを従えるのと同等だ。他の王をも従える存在。ラファエルを従え、傍で支えてもらえる唯一の存在。その存在に、リツハルドはなるのだ。
——ツワブキの地雷を踏みぬくには、十分すぎる程だった。
「ツワブキッ!」
気づいた時には駆け出していた。いつもならば心躍る母の心配も、今のツワブキには逆効果だった。
腹に生まれたどす黒い感情は、ただひたすらにリツハルドへと導いていく。リツハルドと顔を合わせる機会が少なかったのは、出会いが最悪だったから。彼が気を遣ったから。そのどちらも正しい。しかし一番の理由は、ツワブキが魔力感知を駆使して避けたからだ。魔力感知で位置を捉え、その周辺を通らぬように行動する。逆を言えば、ツワブキは何時でもリツハルドに会いに行けるということだ。
無我夢中で足を動かしていれば、目的の姿はそこに居た。普段トワに武術を習うその場所で、リツハルドはひとり立ち尽くしていた。魔法が苦手な一方で、武術は得意な彼だ。トワにも感心される彼が選ぶには、ごく自然な場所だった。
ツワブキは踏み荒らすように進んでいくと、無遠慮にリツハルドの肩を掴んだ。強制的に振り返らせ、目を見開く彼の胸ぐらをわし掴む。
「……んで、」
「は?」
「っなんでオマエなんだ! そんなに恵まれておいて、何でさらに奪うんだよ!? 何でオマエが選ばれるんだよ!?」
ツワブキはラファエルにとって代えがたい存在でありたかった。天与の十五錠があったらどんなにいいかと、なぜ自分には発現しないのかと神に問うた。発現したらば、必ずラファエルを守り抜くと、彼女を戦地に送らないと誓ってきた。その長年の祈りすら、天の神には届かなかった。選ばれたのは、彼女にきつく当たってばかりの弟だった。
一方的に怒号を受けるリツハルドだったが、彼も我慢の限界だった。血管の浮き出た手でツワブキの胸ぐらを握り返す。
「羨ましいならオマエがなれよ! 不義の子って言われてくれよ! 化け物って言われてくれよ! 人間のオマエに、半端な俺の気持ちなんて分かんねえだろ!」
リツハルドには親がいる。特別な魔法がある。次の王位が約束されている。ツワブキが欲しいものを全て持って生まれてきた、恵まれた子だ。
しかしリツハルドの母親は二人いる。ドラゴンの育ての母と、人間の実母。ドラゴンは生涯でひとりとしか番わないはずなのに、彼の父は人間を受け入れた。側室がいるドラゴンなど、彼の父だけだろう。
ドラゴンの輪に入ろうとすれば、「人間のオマエには関係ない」。人間の輪に入ろうとすれば、「ドラゴンのオマエには関係ない」。優しさだろうと嫌悪だろうと、拒まれたことには変わりない。リツハルドは大陸初の竜人のため、同族と呼べる相手もいない。恵まれて見える彼は、生まれながらに孤独だった。
ツワブキには親がいない。特別な魔法がない。王位に就くこともない。だのに親以上のヒトが居て、親以上に愛してくれる。種族が違えど愛してくれる。リツハルドにしてみれば、ツワブキの方がどんなに羨ましいか。
もうお互いに避けていたのも関係ない。目の前の恵まれた奴が許せない。目の前の恵まれた奴が妬ましい。地面に転がして、殴って、殴り返して。しかしどれだけ殴ろうと、自身の状況は変わらない。お互いに欲しい物など手に入らない。益々嫌いな自分になっていくだけ。
何回殴ったかも分からなくなったころ、ツワブキは歯を食いしばった。血の味が滲む口を、思い切り開いてしまった。
「出て行け! 二度とその面見せるな!」
荒い呼吸音がその場を支配する。ツワブキが言わなければ、きっとリツハルドが言っていた。ただツワブキの方が、一足早かっただけ。それでも加害者には変わりない。
そんな心無い言葉を、リツハルドも受け入れてしまった。
「ああ、そうかい! お望み通り出てってやるよ、こんな所!」
リツハルドは口元の血を拭うと、ひゅんと空へ飛んでしまった。残ったのは傷だらけのツワブキと、血の跡だけ。リツハルドの姿は何処にもない。
「……くそ」
ツワブキがちいさく呟けば、血と砂の味がした。だがそれをかき消すほど、心が痛かった。
「クソッ!」
地面を殴っても、痛む箇所が増えるだけ。無様な本性が悲鳴を上げるだけ。
「おにい」
覆う影がリツハルドのものならどんなに良かったか。小さな影の持ち主は、独占欲と嫉妬の塊にため息を吐いた。
ツワブキは蹲ったまま、呆れる少女を言い当てた。
「……ヤコウ」
あの日腕に収まっていたトワの娘——八光ももう四歳だ。歩けもするし、言葉も分かる。大人に囲まれて育ったおかげか、はたまた半分の魔族の血がそうさせるのか。八光は四歳とは思えぬほど大人びていた。
母を取らぬなら、本当の妹にならぬなら敵意は湧かぬ。ツワブキは八光を妹分として、ツワブキなりに可愛がれていた。
「……見たのか」
「見ちゃった」
「ぼくが悪いか」
「あたりまえ。じかくがあるなら、どうすればいいのか分かるよね?」
ツワブキは鼻をすすると、ようやく顔を上げた。八光の真剣な顔が視界に映る。
「……あやまる」
「それで?」
「……帰ってこいって言う」
「『かえってきてください』でしょ? でもよろしい。ごほうびに一緒にあやまったげる」
わしわしと頭を撫でる手を払うと、ツワブキは立ち上がった。脚はきしんで痛く、鉛のように重かった。
「オマエも謝ってどうすんだよ……」
「じゃあひとりであやまって?」
「嘘。一緒に謝って」
「『あやまってください』でしょ? しかたのない子」
ツワブキたちは亀の歩みで捜索を始めた。しかしどれだけ探しても彼の姿は見つからなかった。
夜には帰ってくるだろう。明日には帰ってくるだろう。明後日、明々後日と帰ってこない。
探した期間は百を超えた。百年経っても、リツハルドが帰ってくることは無かった。