幻の彼
「なぁ。願いってあるか?」
そんな心地よい風に今日も身を預けていると、不意にナルがそんな事をいいだす。
「願い?う~ん。急に言われてもなぁ」
突飛な質問に瞬発力的に答えられるほどの願いがない僕は頭を悩ます。
「例えば、大金持ちになりたいとか、どこどこに行きたいとか、何々を食べたいとか、それこそ、白馬の王子様に連れ去られたいとかさ」
「だからその話は!!」
折角直した機嫌を再び損ねてしまう七海。
「別に無欲ってことじゃないんだけどさ、願いって言われても、割りと今に満足しているから、それ以上を望んでも叶わないものばかりだと思うし、それはもう願いよりももっと儚い、夢になっちゃうと思うから、軽く導き出せる願いは特にないんだよね」
この青い春な空間のせいか、らしくない言葉がすらすらと声になる。
「叶わない願いは夢となるか。確かに夢ってなんだか現実味がないよね。願いの方が手元にあるように感じる。じゃあ、夢よりももっと儚いものはなんて呼べばいいのかな?幻想?」
そんな僕にあてられてか椿も感傷的に言葉を紡ぐ。
「幻想ね。なら人間なんて、私たちなんて、幻想ばかりを欲する無力な生き物なのかもしれないわね」
「う~ん。なんか皆さん、難しく考えすぎだと思いますけどね。私はどんなに無理だと言われても、望み続ければ、多少形が変わってもいずれ手に入ると思いますけど」
椿に同調した美琴と、それの対に立つ七海。
「ふ~ん。例えばどんな物が手に入ったのかしら?もしかして、最近そんな出来事があったとか?」
「なへっ!?」
きっと美琴の思い付きであろう言葉で、また分かりやすく動揺する七海には、きっと憧れていた物が見つかったのだろう。
「別にそんな事ないもん!そ、そんな簡単に手に入ったら苦労しないし!」
「それが手に入った、もしくは入りそうだからそんなに笑みが溢れているんだ?」
「ふぇ!?わ、私そんなにやけてる!?」
「いや、嘘よ。言ってみただけ」
「美琴先輩!!」
美琴の追撃に翻弄され続ける七海。その光景はさながら姉妹のようだと、本当の姉のいる横で考えるのは野暮だろうか?
「でもそっか。幻想なんだね。この景色は…………」
そんな2人の熱を下げるようにそう小さく吐き出したのは椿だった。
「それってどういう意味?」そう問いかけそうになった所に、椿越しに見える七海の「そうだね」という同意が聞こえる。
「でも、これを幻想のままで終わらせたくはない。そうだよね」
すると今度は誰に問うでもなく、空と海面の境界線を望むようにして漏らす椿。
「ああ。そのための潮騒部だ」
僕の疑問を嘲笑うかのように、ナルのその言葉によって時間は流れを止めてくれない。
皆、ひとつの方向を見つめて感傷的な横顔をするものだから、もっと深みに沈んでしまう。
「みんなにとっての海って一体?」
そんな表情を見て、なんとか絞り出した言葉だった。
直球ではない。それでもみんなの見ている景色と、僕の見ている景色の差異が分かるような気がした。
それから一拍置いて、口を開いたのは潮騒部の長である椿だった。
「ねぇ。刹那君ってさ、この町にいた頃のことって余り覚えていないんだよね?」
「え?う、うん。本当に断片的にしか覚えてないんだ」
「そう。じゃあさ。あの日。あの夏の。あの事も覚えていないんだよね?」
「あの事?」
抽象的な言い回しが頭を悩ませる。
「うん。あの日の海で起きた事故のこと」
「海で起きた事故…………」
椿の言葉をそのまま口に出してみる。
その瞬間だった。脳に浮き上がるイメージ。崖下から見上げた少女2人。儘ならない視界で揺らいだ海の中。浜辺で立ち尽くす少年少女。
僕の唯一といっていいほどの断片的な記憶。そして転校初日に見た夢。
椿の言う事故とはあの日の事だろう。
「もしかして。あの日の事故?崖から転落した女の子を助けに行ったあの?」
その言葉で全員の視線が僕に集まる。
「覚えていたんですね?そうか。覚えていたんだ。あの日、転落した女の子が私です。そして、椿ねぇを巻き込んで。それから、刹那先輩に助けてもらったんです」
七海の潤ませた瞳が、オレンジの空を反射させながら僕を見つめる。
「そうだったんだ。正直、なんとなくそんな気がしてたんだ。でも、なんという僕の中でも本当にあった出来事なのか、夢だったんじゃないかって半信半疑で。そうか」
つまりあの事故がトラウマとなって、今だ海に入ることができないでいるということだろう。
みんなで海に行く。それはトラウマを克服するという事なのかもしれない。
「そうか。じゃあ晴也の事も覚えているよな?」
しかし、その僕の解決間近な潮騒部の真相を、再び迷宮入りさせたのはそのナルの一言だった。
「晴也?」
口に出したその名前を脳の中で文字として浮かべてみる。
いくつもの漢字の組み合わせの中で、何故だが最初に導きだされたその「晴也」という文字列に親近感を覚えた。
「浅井晴也」
そして次に浮かんだそのフルネームを声にする。
その呟いた名前を聞いた一同が、同じように目を大きく見開き僕を見る。
「知ってるのか?晴也のこと?覚えているのか?」
「え?」
覚えている?知っている?いや、その名前に聞き覚えがあるだけ。その名前を知っているだけ。その名前が指す人物がまるで見えていない。
こんな状態で知っているとはとても言えたものじゃなかった。
「その。うっすらと名前が聞き覚えあるなって程度で詳しくは」
「そうか。まぁ、きっとその名前はあの事故の後で知ったんだろうな。晴也はな………」
そうナルがおそらく晴也という人物像を口にしようとした時だった、背後から「あら!」という聞きなれた声がした。
少しシリアスに踏み込んでいた雰囲気が、それによって一転する。
僕らはその声のした方へと顔を向けた。
「あなたたちは!久しぶりじゃない!覚えているかな?刹那の母です」
やはりその声の主は、毎日顔を合わせている紛れもない僕の母親だった。
「あ!お久しぶりです!相変わらずお綺麗ですね!」とナルが返せば母は頬に手をあてながら体をくねらせる。
「ご無沙汰しています。お元気そうでよかったです」と美琴がお辞儀をすれば、相変わらず大人びていて素敵ねと讃する。
「あ、その節はお世話になりました。妹共々」と椿は七海の後頭部を押さえて、一緒にお辞儀を促すと、七海は「お久しぶりです」と続ける。
母はそれを愛でるように見つめて微笑み返す。
「てか、母さんとみんな知り合いだったの?」
そして秒遅れでやってきたその疑問を僕は口にした。
「そうよ!あれ?言ってなかったかしら?私とお父さんとみんなのご両親は、昔から仲が良くてね。みんなとも良く顔を合わせていたのよ」
なるほど。僕を里子として引き取る前にすでに接点があって、僕が里子としてやってきた頃、ちょうどあの事故があって、僕にとってはそれが初対面となったわけだ。
つまり、僕よりも母の方がみんなとの付き合いが長いということになる。なんとも不思議な感覚だ。