63.届け出
翌朝。今日はブルーノと婚姻を結ぶ日だ。
わたしはガブリエラに衣装と髪を整えてもらい、ブルーノと共に馬車に乗った。彼も正装である。
婚姻を結ぶと言っても、結婚式をするわけではない。貴族の結婚は城に届け出ることになっている。城でサインをして、婚姻承諾書をもらう。これで書類上は結婚したとみなされる。
王都で挙式する場合は結婚式中にサインすることができるが、わたしたちの場合は領地で式を挙げる選択をした。それなので届けを先に出し、後から結婚式を挙げることになる。同じ日にはどうしてもできない。
馬車はゆっくり走り出し、王都の街を進む。さすがに王都は道がいい。あまり揺れないので快適だ。
わたしはじっと外を眺めていた。今日やることといえば書類にサインすることだけなのに、少し緊張しているようだ。
「面白いものでもあったか?」
「いいえ。でも、王都も見納めですから」
無事に婚姻の届け出が済めば、わたしたちは今日、領へ戻る。
わたしたちが今向かっているのは城ではなく、王都の外れにある子爵邸だ。貴族の結婚は家どうしの繋がりである。なので、例外もあるが、基本的には書類には当主のサインも必要だ。そのために子爵領から当主である父がきてくれている。
ならわしとして、それぞれの実家から城に入り、控室で落ち合い、書類にサインする、という流れになっているので、わたしは子爵家から父と共に城へ向かうことになる。
本来ならばブルーノは伯爵邸から直接城へ向かえばいいのだが、どうせ城で一緒になるのだし防犯面でも心配だからとついてきている。それにまだ父とブルーノは会ったことがない。挨拶もしなければ、ということで、今一緒に馬車に揺られているのだ。
「子爵邸は小さいから、きっとびっくりしますよ」
「そうか?」
「ブルーノ様、どうかしましたか?」
少し朝から表情が固い。わたしも緊張しているので人のことを言えないかもしれないけれど。
「これから君の父上に挨拶しなければと思うと、少し緊張している。娘はやらないと言われたらどうしようか」
「もう伯爵家で暮らしているのに今更ですか?」
「エレナの家族は反対していたのだろう?」
「それは縁談がきた時の話ですよ。それから何度も手紙を送っていますから、大丈夫です」
「そうだといいが」
縁談がきた当初は、ブルーノの怖い噂ばかりが聞こえてきていた。だから家族は縁談に反対した。だけど今は違う。
それに、もし仮に父が反対したとしても、ブルーノはそれを跳ね返せるだけの権力を持っている。使いはしないと思うが。
「きっと今頃父も緊張していますよ」
馬車が一軒の家の前で止まった。王都の商人の家だと言われた方がしっくりくるその家が子爵邸だ。馬車を降りると、そこには父と弟が待っていた。弟は伯爵家の支援で学園に入ることができたので、今は王都にいるらしい。
二人に最後に会ったのは子爵家を出た時。およそ一年ぶりだ。あまり変わらない様子にホッとする。
「よくいらしてくださいました。狭いところでお恥ずかしい限りですが、まずは中へどうぞ」
父もちょっと表情が固く、ブルーノも固い。わたしはブルーノを促して一緒に中に入った。ここに入るのは何年ぶりだろう。
サロンと呼べるような場所はないが、一応お客様をもてなすための部屋がある。そこに父が案内してくれ、弟がお茶とお菓子を出して下がっていった。
「本来ならばこちらから足を運ぶべきところ、来ていただき恐縮です」
父によれば、もしかしたら子爵家に圧力をかけてこの婚姻を取りやめさせようとする者が現れるかもしれないから、婚姻が成立するまではなるべく子爵邸から出ず、面識の少ない者とは会わないようにと殿下から言われていたらしい。
確かに接触しようとしてきた人たちもいたので、殿下の命令で会えないと断ることができて助かったそうだ。
「グレーデン伯爵、まずはお礼を言わせてください。伯爵のおかげで我が領は持ち直し、今はだいぶ活気が出てきました。当主として情けない限りですが、本当にぎりぎりだったのです。支援がなければどうなっていたことか」
「私は婚約時の取り決めを果たしただけです。私の噂を知りつつもこちらに飛び込んできたエレナの勇気のおかげでしょう。正直あのタイミングで来ると思っていなかったので、とても驚きました」
ブルーノがチラリとわたしを見る。
あの時は子爵家を守らなきゃと必死で、取り引き開始は伯爵家に移動したら始まると聞いて、後先考えず最速で用意して向かったのだった。
「それに、子爵家との取り引きは順調に増えて、こちらにとっても利益になりつつあります。私のおかげというよりは、子爵家の皆様と領民たちの努力によるものだと思います」
「そう言っていただき、救われる思いですよ。伯爵の後ろ盾になるどころか迷惑をかけてばかりの頼りない領ですが、今後ともよろしくお願いします」
父が柔らかく微笑んでわたしとブルーノを見た。
ブルーノはハッと息を飲んだ。後ろ盾になるような家柄ではないけれど、今後もよろしくということは、きっとそういうことだ。
ブルーノはわたしを見て、父に向き直った。
「私は当初、彼女と結婚するつもりはありませんでした。いずれ実家に戻そうと思っていて、つい最近までそうするつもりでエレナにもそう伝えていたんです。だけど、できなくなりました」
ブルーノはゆっくりと語った。わたしが伯爵家でどのように過ごしていたか、ネッケに攫われたこと、それから先日の事件のあらまし。ブルーノから語られるわたしの姿は、なんというかわりと破天荒で、わたしは普通のことをしただけのつもりだったけれど、ブルーノが驚いていた様子が伝わってきた。
「ギルマン子爵。私はご存じの通り呪いの伯爵と呼ばれていて、皆から恐れられる存在でした。それにもかかわらずエレナは私を恐れることなく、子爵家のためにとたった一人で奮闘していました。それが私には眩しく映りました」
ブルーノが何を言っても曲げることなく伯爵家にいると言ったことも、ブルーノは驚いていたらしい。父も「頑固なところがあるのですよ」と笑った。
「エレナは、私にとって光なのです。エレナがいなければ、私はすでにこの世にいませんでした。ここに引き戻してくれたのもエレナで、これからも共に歩んでいきたいと思っています」
ブルーノは一度言葉を切って、父をまっすぐに見た。
「私にできる限り、エレナを守りますし、一生かけて大切にします。だから、エレナとの結婚を認めてもらえますか?」
少しの間、父とブルーノは目を合わせていた。
先に逸らしたのは、父だった。
「正直に言いますと、エレナが伯爵家へ行くと言ったとき、反対したのです。ひどい噂ばかり聞いていましたから。手紙などで状況を聞いていても、どこか信じきれないところがありました」
わたしが「良くしてもらっている」「楽しく過ごしている」、そう書いても、心配をかけないようにしているだけなのではないか、本当は我慢を重ねているのではないか、失礼な話だけど、呪われているのではないか、そんな気持ちが抜けなかったという。
「でも今日二人でここに来て、エレナの幸せそうな顔を見たら、どうして反対することができましょう」
父は柔らかく微笑んで、そして「父としては寂しい気持ちもあるのですけどね」と一度目を伏せた。
「グレーデン伯爵、エレナを頼みます」
父はそう言うと、頭を下げた。
ブルーノは庭を見たいので先に出ると言って、弟の案内で部屋を出て行った。わたしが父と過ごせるように気を使ってくれたのだとすぐにわかった。
父と並んでソファに腰掛ける。こうして並んで座るなんて、いつぶりだろう。
「エレナ、これでいいんだな? 我慢していたり、辛かったりしないな?」
「しませんよ。わたくしが望んだことです」
「そうか」
父はフッと笑ってわたしを見た。変わらないと思っていた父は、少し皺が増えたかもしれない。わたしが家を出てからも、いろんな苦労があったのだろう。
「エレナ、今までお前には苦労をかけた」
「そんなことありませんよ」
「これからは子爵家のことは考えなくていい」
「本当に?」
「……少しくらい、でいい」
わたしはフフッと笑った。ちょっと台無しだ。
「これからは伯爵夫人として大変なこともあるだろう。何かあったら頼りなさい。まぁ、頼りにならないが」
「最後の一言で台無しですよ。こちらに頼ってくれてもいいですよ。できる限りのことはします。そのための婚姻ですから……当初の予定としては、ですけど」
「今でもそう思っているのか?」
わたしは首を横に振る。最初は家のための婚姻だったけれど、今は違う。わたしのために、わたしがそうしたいから。
「お父様、抱きしめてくれませんか? 小さかった頃のように」
父は一度驚いた顔をしてから、ソファに座ったまま、横からわたしを緩く抱きしめてくれた。
「これが俺の娘として最後になるのか」
「あら、書類一枚で家族の絆が消えるとでも?」
「……消えるはずがないな。いつまでもお前は俺の娘で、俺たちは家族だ」
父はわたしの背をポンポンと優しく叩いた。小さかった頃、わたしが泣いたときにそうしてくれていたように。
「幸せになりなさい。皆、お前の幸せを祈ってる」
「はい」
三人で馬車に乗り、子爵邸から城へ向かった。
城に入ると案内係の人に従い、わたしたちは小部屋に入った。机の上に書類が置かれており、少し待ったところで殿下が入ってきた。
わたしたちがやることといえば、この書類にそれぞれがサインをすることだけだ。殿下が立ち合いをしてくれて、まずはブルーノ、次に父が署名をする。
最後にわたしが机の前に立ち、ゆっくり丁寧に名前を書いた。
『エレナ・ギルマン』
そう署名するのは、これが最後だ。
三人が署名すると殿下がそれを確かめ、ブルーノが婚姻承諾書を受け取った。殿下は感慨深そうに「おめでとう」と言ってくれた。
思った以上に短時間で、呆気なく終わった。
この瞬間からわたしは「エレナ・グレーデン」になった。
同じ馬車で子爵邸まで父を送った。父は何度もブルーノにお礼を述べ、結婚式には家族皆で行くから、と言って馬車を降りた。それからわたしとブルーノを乗せた馬車が走りだして姿が見えなくなるまで、ずっと頭を下げていた。
馬車の中がわたしとブルーノの二人となり、父が見えなくなると、ブルーノはふぅーと大きく息を吐き出して力を抜いた。口数が少ないなと思っていたら、どうやらずっと緊張していたらしい。そういうわたしもやっぱり緊張していたらしく、そんなブルーノを見て一緒に力が抜けた。
気が抜けたように外を眺めるブルーノの横顔を見て、この人と夫婦になったんだよな、とどこか他人事のように思う。装いがきっちりしている以外、いつもと変わらない光景だ。
「なんだか実感が湧きませんね」
これから一度王都の伯爵邸で昼食をとって、すぐに伯爵領へ戻る。たぶん領でも忙しくて楽しい、穏やかな毎日をこれからも過ごしていくんだろう。そう、今までと変わらない日々を。
結婚式を挙げて実家から相手の家に移るような人は、環境がまるっきり変わるから、それはもう結婚したんだぞという実感を得るんだろう。だけどわたしはもう移動しているし、変化は少ない。だから名前や立場が変わったはずなのに、あまり実感がなかった。まだ結婚式を挙げていないということもあるかもしれない。
ブルーノもきっと「そうだな」と言うと思った。だけどわたしに降ってきたのは、予想外の答えだった。
「そうなのか?」
「え?」
「俺は結婚したんだって実感してるぞ。最高に嬉しくて、正直けっこう浮かれている」
全然そのようには見えなかった。緊張しているんだろうなとは思ったけれど、浮かれているようには感じていなかった。そもそもブルーノが浮かれている様子なんて、あまり見たことがない。
「エレナ」
「何ですか?」
軽く首を傾げると、ブルーノはフッと笑った。紫の瞳が妖艶に光って、急に顔が近づいてくる。次の瞬間。
「んっ……?」
唇に柔らかいものが重なった。
触れるだけの、短いキス。
だけどわたしにはそれだけで充分だった。何が起こったのか理解した瞬間、顔に思いっきり熱が集まった。見なくてもわかる。きっと真っ赤になっている。
そんなわたしを見てブルーノは楽しそうにクッと笑った。
「夫婦なんだから、このくらいはいいだろう?」
夫婦なんだから……、それは、その。
「少しは実感したか?」
ブルーノがそう言った時、馬車はゆっくりと止まり、伯爵邸に到着した。ガブリエラはわたしとブルーノを一度ずつ見て、そして見なかったことにしたらしい。
「おかえりなさいませ、旦那様、奥様」
「お、おくさ……っ」
目を丸くしたわたしに、またブルーノがクッと笑った。楽しそうだ。浮かれていると言っていたのは、本当かもしれない。
「さぁ奥様。今日はあまりお時間がありません。まずはお召し替えを」
王都から伯爵領まで、片道二日ほど。
わたしはその間に、少しは結婚したということを実感することになりそうである。
次回最終話です。




