57.準備
殿下が王都に戻って一週間。
館の中はようやく日常の静けさに戻ってきた。ブルーノの容態も安定して、まだ全快ではないけれど、無理をしなければ普通に生活できるようになった。
今までは部屋で書類に目を通していたブルーノだったが、今日からは執務室に復帰した。もう少し休んでいてほしい気持ちもあるけれど、わたしでは代われない仕事が積み上がっているという現実もある。
「ヨハネス、これに封をして出してくれるか? 先日の参加者への詫び状だ」
「かしこまりました」
受け取ったヨハネスは丁重に封筒に入れ、シーリングスタンプを押した。それをブルーノに見せてから、送るために部屋を出ていった。
入れ替わるようにマリーがお茶を持って入ってきた。
「少し休憩されてはいかがですか? いきなり本格的にお仕事されて、また体調が悪くなってしまってはいけません」
「もう大丈夫だ」
「大丈夫ではありませんよ」
ブルーノに向けていい笑顔でそう言いながら、わたしにも目線を送る。適宜休ませろ、ということだろう。
マリーは「ご都合のいいときにどうぞ」と茶器を机に置き、にこやかに出ていった。
「……今日も笑顔が冴えわたってたな」
「それだけブルーノ様が心配なのですよ。無理なさるから」
マリーの笑顔には誰にも逆らえない迫力がある。
わたしは机に移動してお茶を淹れる。運ぼうかと思ったけれど、ブルーノの執務机には書類がたくさん載っている。そのまま目の前の机に置くと、ブルーノは少しだけ何かを書いてからペンを置き、素直にやってきた。
「今ごろ王都は大変なことになっているだろうな」
お茶を飲みながらクッキーをつまむ。
「殿下は大丈夫でしょうか」
「心配じゃないわけではないが、ここからできることはほとんどない。王都には殿下の味方も多い。それに、元々王妃様の派閥をなんとかしようと動いてはいたそうなんだ」
ブルーノもひとつ、クッキーをつまむ。
「殿下はああ見えて緻密に策を張り巡らせている人だからね。基本的には寛容だけど、狙った獲物は絶対に逃がさない人だ。きっと上手くやるだろうさ」
今回ここで狙われたことは殿下にとっても想定外で、当然ブルーノを命の危機に陥らせるつもりなどなかったことはわかっている。それでも殿下は「申し訳ないとは思っているが、おかげで王妃派閥を追い込める」と喉を鳴らしていたそうだ。
いつもにこやかに見えるけれど、ホールで対応に当たっていた姿はいくつもの場を抜けてきた鋭いオーラがあった。
同時に妃殿下のことが頭をよぎった。
「あの、妃殿下ももしかして囲い込まれた、とか……?」
狙われて逃げ切れなかったんじゃないだろうか。そうだったら怖い。
ブルーノは一瞬ぽかんとして、クッと笑った。
「たしかに囲い込んではいたが、妃殿下もだいぶしたたかな方だから心配ないと思うぞ。殿下相手でも嫌だったら嫌だとはっきり言うし、黙ってやられるタイプではないな。むしろ殿下がたじたじになるような方だ」
「えっ、あの殿下がたじたじに?」
全く想像できない。
だけどあの殿下にひたすら言い寄られても流せるくらいの強さを持っている人、と考えるとちょっと納得かもしれない。
「まぁ少しばかり殿下からの圧が強い気がするが」
「少しばかりでしょうか」
「……とにかく、無理やり妃にさせられた、というわけじゃないから大丈夫だ。王都に行けば会えるんじゃないか?」
「え?」
会ってみたいと思っていたけれど、わたしは会えるような身分ではない。けれど、これからブルーノと、け、結婚するとなれば、と考えて顔に血が上った。
「あ、あの、お仕事はどうですか。わたくしにできることならば回していただいていいですよ。ほら、その、今後もここにいることになりましたから……」
だんだん声が小さくなる。
今後もずっといるのだから、もういなくなる者にやらせるわけには、ということは心配しなくていい。遠慮する必要もないと伝えたいだけなのに、どうしてこんなに気まずいのだろう。
「そ、うだな、そしたら、いくつか頼みたい」
ブルーノもどこか気まずいらしく、目を彷徨わせてお茶を飲んだ。
コホンとわざとらしく咳をする。
「あの、エレナ。その、結婚式の準備なのだが……進めてもいいだろうか?」
鼓動が跳ねた。さらに顔に熱が集まってきた気がする。
結婚式、するんだ……。
わたしは俯いたまま、ただコクコクと頷いた。
それからさらに一週間後。
わたしは自室で数人の女性に取り囲まれていた。結婚式のドレスを作るのだそうだ。
「サイズは変わっていらっしゃらないようですね」
「どちらの生地がお好みですか?」
「色はどうしましょうか」
「形の好みはありますか?」
次々に質問が飛んでくる。いままであまり服にこだわったことがなく……というか、こだわる余裕などなく過ごしてきたわたしは戸惑うばかりだ。まるで他人事のように、ひたすら指示通りに腕を上げたり後ろを向いたりしている。
普通のドレスでもわからないのに、結婚式のドレスだなんて形も色も全く想像できない。
目を丸くしてばかりのわたしに代わって、マリーとアリーが対応してくれる。
「伯爵様のご意向はいかがでしょうか?」
「ブルーノ様からは、エレナ様のご意向に沿って作るようにと言われております」
ちなみにわたしの意向がわからない場合はマリー、アリーと仕立屋である程度案を出し、わたしが確認する、という方向でと言われているらしい。わたしでは難しいかもしれないから、というブルーノの意見は大正解である。
「それは腕が鳴りますわ」
「最近の主流は白いドレスですよね?」
「そうですね。白を基調に、夫となられる方の瞳の色を入れる、というのが多くなっていますね」
「ブルーノ様の瞳の色というと、紫ですね」
簡素な白い服の上から紫色の布を当てられ、こんな感じです、と示される。
「あまり紫が強いと執着しているようにも見えてしまうので、さりげなく使う感じですね」
「素敵ですね」
「形なのですが、大きく分けてこんな種類があります。もちろん変えることもできますよ」
紙に描かれたドレスを見せてもらい、主流はどれか、わたしに似合いそうなものはどれか、議論がなされていく。仕立屋もマリーもアリーも目がギラギラしている。とても楽しそうだ。わたしが言葉を発しなくても、勝手に進んでいくのはありがたい。
時折「どれがいいでしょうか?」と二つか三つの選択肢を出してくれる。「どうしましょうか?」と聞かれてしまうとわからないけれど、二つのうちのどちらが好きか、程度ならば答えられるのでとても助かる。
「もっと細かい設計図はこれから作りますけれど、イメージとしてはこのような感じでいかがでしょう?」
さらさらとその場で紙に書いてくれた。
白を基調としてスカート部分がフワッとしており、紫で軽く模様が描かれている。
「所々に小さな宝石を散りばめると、光があたるたびに輝いて綺麗ですよ」
「宝石っ? いえ、つけなくて大丈夫です」
今日初めての主張だった。
宝石を散りばめたなら高いに違いない。これからアクセサリーも決めると言われているのだ。もう充分すぎる。いくらかかるんだ。
そんなわたしの意見は一応は聞いてもらえたが、半分は却下された。伯爵家としての格を見せる意味もあるという。
「間に合いますか?」
「ふふっ、実はもう作業が始まっているのですよ。これであれば充分間に合います」
この仕立屋は以前ドレスを一度作ったところだ。確認のために採寸はしたが、以前に測ったことがあるのでサイズのデータはすでにあった。いずれ発注がくるものと予測して、作れるところから手を入れていたらしい。
もし発注しなかったらどうするつもりだったのだろうと思い聞いてみると、店に飾るか、少し形を変えて他の発注品とするか、とにかく無駄にはならないから大丈夫、だそうだ。準備がいいことだ。
ドレスを簡易的に決めた翌日には宝石店がやってきた。結婚式のアクセサリーを決めるためだ。宝石のキラキラが金貨のキラキラに見え、頭の中をお金が飛び交う。
結婚式、一体いくらかかるんだ。目眩がしてきた。
「疲れてるな」
夕食を共に取りながら、ブルーノが苦笑した。
「だって、ドレスにアクセサリーに靴に小物。一体どれだけお金がかかるのですか」
「エレナは使っていいと言ったお金をほとんど使っていないのだから、何でも好きに選べばいいじゃないか」
「でも、一度しか使わないものもあるでしょう?」
「伯爵領の民にお披露目する意味もあるのだから、あまり貧相にするわけにもいかないんだ」
それは理解しているつもりではある。民に領の経済力がないと不安がらせるような衣装は身に付けられない。だけど、貧乏子爵家で常に切りつめた環境で育ったわたしとしては、そんなのなくても生きられるじゃないか、という気持ちがどうしても出てしまうのだ。
「結婚が嫌になったか?」
「そ、それとこれとは別ですよ!」
「そう? それならよかった」
結婚したくないわけではもちろんないのだ。ちょっと準備が大変だなというのと、お金がかかりすぎることや周囲への影響がちょっと怖くなっただけだ。
それから、本当に結婚するんだ、という実感があるようなないような不思議な感覚で、今まではここに残るのが当然という気持ちで突き進んできたはずなのに、いざそうなったらどこか他人事のような気がしてしまったり、とにかくこんな感じで言いたいことがまとまらない。心が変な感じなのだ。
「もし君が結婚は嫌だと言うようになったら、毎日結婚してくれって言わなければいけないところだった」
「……何ですかそれ?」
ついでに、もしわたしが結婚は嫌だと言ったら、今までのブルーノならば即実家に戻れと言ったはずだ。
「殿下に言われたんだ。とにかく毎日言い続けろ、愛を伝えないなんて最低だって」
「え……」
「俺も結婚はしてたけどお互い仕方なくという関係だったし、そういう意味では殿下は先輩だから、教えは聞いたほうがいいかと思って」
「なんで殿下なのですか?」
「他に周りに見習うべき人がいない。俺を構ってくるような物好きは殿下くらいしかいないからな」
「ええ……」
わたしはまだ気まずいような気恥ずかしいような気がするのに、ブルーノはどこか吹っ切れた顔をしている。
ブルーノが実家に戻れと言わなくなったことについては非常に嬉しいのだけれど、今後がちょっぴり不安になって、背筋が少しだけぞくっとした。




