56.殿下の出発
なんとも言えない空気を残したままブルーノの部屋で仕事を始めてしばらく、長めの休憩を取っていたヨハネスが戻ってきた。
彼はブルーノとわたしを見て一瞬ハッとした顔をすると、まるで戻ってきたという事実がなかったかのようにスッと存在感を消してまた出ていった。
顔を拭いて涙の痕は取ったし、そこまで腫れていないと鏡を見て確認もしたはずだ。何かついていただろうか。もう一度鏡を見ても、とくにおかしいとは感じなかった。
なんだろうと思いつつ、書類に目を落とす。当然ながら、まったく頭に入ってこないし進まない。
夕食は殿下とブルーノ、わたしの三人で取ることになった。殿下はホールでの事件があったために本来の日程より一日だけ伸ばし、明日の朝に王都へ戻ることになっている。明日の朝ゆっくりしている時間はないので、ブルーノの調子が大丈夫であれば夕食を一緒に食べようということになったのだ。
場所は体調を考慮してブルーノの部屋である。マリーたちがテーブルを用意し、簡易的ではあるが夕食を囲めるように準備してくれた。
ブルーノは部屋の中くらいならば動けるようになった。さすがに元気よく動き回れるほどではないので、ブルーノは先にテーブルにつき、わたしが代わりに殿下を迎え入れた。せめて立ち上がろうとしたブルーノを殿下が手で制する。
「座ってろ」
殿下がブルーノの向かいに座り、わたしはブルーノの隣の席についた。
「殿下、こんなところで申し訳ないです」
「いや夕食を共に、と言ったのは俺だからね。むしろ忙しい中手間をかけさせた。無理を言ったね。起き上がっていて大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。おかげ様でだいぶ動けるようになりました」
少しは休むことができたのか、殿下の顔色は悪くない。
わたしが殿下の顔色を覗き込むのと同時に、殿下はブルーノとわたしを交互に見て、ニヤリと口端を上げた。
「へぇ……」
「なにかありましたか?」
「いや、なにもないよ、俺はね」
ニヤつく殿下と食事を進めながらお互いに業務連絡をして、それからはたわいもない話をした。殿下がブルーノの学生時代を少し教えてくれたり、わたしが館での様子を話したりした。和やかな時間だった。
食後にお茶を勧めたけれど、殿下がブルーノの体調を気遣って断ったため、早めにお開きになった。
「あぁブルーノ。明日、俺の見送りは不要だからな」
「いえ、でも」
「少なくとも俺は、俺を庇って傷ついたやつに無理して見送れと言うほど、馬鹿ではないつもりだぞ。もし俺を本調子でないのに恩人を表に立たせる無慈悲な奴にしたいなら、出てくればいいさ」
殿下のその言い分にわたしは思わず笑ってしまった。そう言われてしまったら、さすがにブルーノだって出てこれないだろう。
「出発前に寄る。それまでゆっくり休んでろ。まぁ……」
殿下はそこで言葉を切って、わたしとブルーノにニヤリとした笑みを向けた。
「眠れるかどうかは知らないけどな。じゃ、また明日」
殿下は機嫌良く戻っていった。
わたしもやることを終えてから自室に戻り、寝台に横になった。
一人静かになると、先程のブルーノとのやり取りが思い出される。
『俺と結婚してくれるか?』
そう言った。そう言ったよね、夢じゃないよね?
殿下の言っていた通り、全然眠れなかった。
翌日早朝、わたしは殿下を見送るためにサロンへ降りた。外がようやくぼんやりと明るくなったくらいの時間だ。一般的な出発時間よりかなり早い。
この時間なのも、表玄関の外で見送らないのも、殿下を守るためである。殿下はその立場から、いつどこで狙われるかわからない。充分警戒していても先日のようなことが起こる。そのためなるべくひっそりと、潜んでいるかもしれない敵に見つからないように出発するのだ。
姿を現した殿下は、王族というには格の落ちる服を身に着けていた。これも殿下を守るためだ。
「おはようございます、殿下。ゆっくりお休みになれましたか?」
「あぁ、昨晩はよく寝たよ。エレナはよく休めなかったという顔をしているな。さっきブルーノの部屋に顔を出してきたけど、あいつもそんな顔をしていたよ」
殿下はクッと面白そうに笑ってから、真面目な顔になった。
「エレナ、巻き込んでしまってすまなかった。これからしばらく、王都は騒がしくなる。これだけ迷惑を掛けておきながら、すぐに詫びやお礼をすることはできないだろう。すまないが、いずれ必ず」
「殿下のせいではございません。どうぞお気遣いなく……と、ブルーノ様ならばおっしゃるのではないでしょうか」
殿下は虚を突かれたような顔をした。少し慌てて謝る。
「すみません、わたくしにはそのような権限などないのに、弁えのないことを申しました」
「いや、エレナはもう立派にここの女主人だよ。使用人たちにもそう認められているみたいだしさ」
殿下はわたしの後ろに控えているヨハネスとマリーにチラッと視線を向けた。
使用人たちはあのごたごたの中、殿下が命じたことに対して、まだ婚約者に過ぎないわたしに許可を求めた。そのことに殿下はとても驚いたそうだ。王太子という立場からの命令なのに、主であるブルーノならまだしも、わたしの許可なしには答えられないと言ったそうだ。
「最初エレナを追い出そうとしたって聞いたときはどんな使用人かと思ったけど、いい使用人だよね。有事の際にも各々の仕事をちゃんとこなすしさ。さりげなく、王都にこない? って聞いてみても、誰も頷かなかったよ」
「勝手に引き抜こうとしないでくださいよ!」
今度はわたしが驚いてチラッとヨハネスとマリーを見た。二人ともシレッと澄ました顔で目線を少し下げている。
「エレナ、俺は戻る前にブルーノに『そんな態度ならエレナをもらっていくぞ』って脅しをかけてやるつもりだったんだ。だけど、あいつはまた俺の恩人になったから、言えなくなった」
殿下はブルーノが煮え切らない態度だったことにひどく腹を立てていたらしく、王都に戻る時までそのままだったら一度本気で連れ帰ろうか、とまで思っていたそうだ。ブルーノにもそう言っていたらしい。
わたし、知らないうちに王都に連れ去られるところだった。
「でも、必要なかったみたいだな」
「え?」
「あいつに好きだって言われた? それとも、結婚してくれ? 愛してるとかは言わなそう」
「えっと、それは、その……」
目を泳がせると、殿下はわたしをまじまじと観察して、大きく溜息を吐いた。
「今更だよな。遅すぎだろう。好きな女が目の前にいるんだから、毎日口説けばいいのに。むしろよく言わずにいられるよな。信じられない。俺だったら毎日大好き愛してる君なしでは生きていけないって言うね」
殿下は結婚前、今の妃殿下と会うと「おはよう、今日も可愛いね」から始まってところどころに甘い言葉を散りばめながら「結婚して」と言い、帰りの時間になると「君に会えない時間が辛い」で別れていたそうだ。
殿下は「信じられない」と言うけれど、わたしはむしろ殿下の言動が「信じられない」、である。殿下もだけど、妃殿下を尊敬する。殿下の話を聞く限りでは、きっと今も似たような状況だ。わたしにはそんなの耐えられない。
「その、人には向き不向きというのがあると思いますので……」
「そう? 毎日愛を囁いてくれない男でいいの?」
囁かれたら心臓がもたない。
甘いものの過剰摂取はよくないと思うんだ。
「エレナ、その顔を見る限り考えてみてくれと言った件の答えは聞くまでもないようだけど、どう?」
ブルーノでいいのか? と聞かれたことだ。殿下が斡旋した婚約だから、もし駄目ならばそれなりの責任を取ると言ってくれたのだ。
わたしが静かに頷くと、殿下は「そうか」と微笑んだ。
「あいつは俺の友人で恩人だ。でもそれだけじゃなくて、本人は自覚していないようだが国にとっても重要な奴なんだ。だからエレナ、ブルーノを頼むよ」
心から心配しているように殿下は言って、それから「ん?」と眉間に皺を寄せた。
「逆だよな。ブルーノにエレナを幸せにしろよって言うべきところだ。さっき言いそびれたな。なんだかエレナがしっかりしていてあいつがなよなよしてるから、逆に思えてしまう」
苦い顔でそう言うので、わたしは思わず笑ってしまった。
「あぁ、さっきブルーノにはおめでとうって言っといた。ついでに、俺が戻って監視がいなくなっても、結婚するまでまだ季節一つ分あるからなって念を押しておいた」
「え?」
一瞬意味がわからなくて首を傾げ、それからもしかしてと思い当たって顔に熱が集まった。
「そんなことっ」
「クッ。ブルーノも大変だ。まぁ、どうなってもお互いがいいならいいか」
後半をひとりごとのように呟いてから、殿下はわたしに顔を向けた。ちょっと赤くなっている自覚があるので、そんなにまっすぐに見ないでほしい。
「もしここにいるのが辛くなることがあれば、いつでも頼ってくれていい。それだけは忘れないでくれ」
殿下の護衛が「殿下、そろそろ」と声を掛ける。もう時間がないらしい。
一緒に裏口に向かう。表玄関ではなく裏口につけた馬車から、使用人が街へ出るのを装って館から出るのだ。
朝食を取っていない殿下と護衛たちのために、道中で食べられるように軽食を詰めたバスケットを渡す。
「助かるよ。ここの料理人にも美味しかったと言っておいて。毒を入れたと疑われちゃって彼も大変だったよね」
「ありがとうございます。必ず伝えますね」
命を狙われたばかりだというのに殿下の様子は普段と変わらなくて、なんだか切なくなった。こうやって身を潜めて警戒することも、危険な目にあうことも、きっと殿下にとって日常茶飯事なのだろう。
「殿下、道中お気をつけて」
「エレナ、次は王都で会おう。君たちの婚姻承諾書を持って待ってるから」
笑顔で手を振って、殿下は裏口をくぐっていった。




