51.弱気
どのくらいの時間が経っただろう。
様子を見てくると出ていったヨハネスが部屋に戻り、わたしはハッと顔を上げた。決して寝ていたわけではないが、もしかしたらブルーノが……と考えたあたりから、思考能力がなくなっていたように思う。ただ、怖かった。
「エレナ様、大丈夫ですか?」
「えぇ、ごめんなさい。少しぼーっとしてしまったようだわ。ホールの様子はどうだった?」
「王太子殿下の差配により、落ち着いてきたようです」
ヨハネスは水の入った盥と新しい布を置き、わたしに向き直った。
わたしたちが退出した後ホールには、殿下を襲おうとした罪人たち、パーティーの参加者、それから使用人が集められていたそうだ。その中で罪人と疑わしい者以外は部屋に戻されたらしい。
「使用人は誰が?」
「調理をした者とそれを運んだ者です。毒を混入させることが可能だったいうことで残されていますが、殿下は使用人を疑ってはいらっしゃらない様子でしたので、いずれ解放されるでしょう」
ハンスやアリーたちが毒を入れたとは考えられないけれど、可能性がある以上調べないわけにはいかないだろう。この日のために必死に頑張っていたハンスを思い出し、胸が痛む。
「あの、エレナ様。殿下から取り急ぎ罪人たちを伯爵家の牢に入れさせてほしいそうです。許可をいただけますか?」
殿下からの要請であれば、使用人やわたしにとっては実質命令のようなもの。拒否できるとすればブルーノだけだ。ヨハネスがそれをわからないはずがない。
わたしが首を傾げると、ヨハネスは心配そうにわたしを見ていた。
わたしは伯爵家の人間ではない。だから本来であれば、伯爵家のことに口を出すことも、伯爵家の使用人を勝手に動かすこともできない。そういう立場ではない。
だけど、ヨハネスはわたしを見ている。
わたしの許可を求めている。
通常ならば当主が動けない状況になったとき、その夫人や次期当主が代わりに仕事をこなす。でもブルーノにはそういった人がいない。彼だけなのだ。
わたしはブルーノを見た。容態は変わらぬまま、静かに眠っている。
ブルーノが動けない今、代わりに動けるのはわたししかいない。わたしがしっかりしなくてどうする。越権行為かもしれない。でも、今できる限りのことをしなくては。一度目を瞑って、大きく息を吸って吐いた。
「ブルーノ様ならば許可するでしょう。わたくしが伝えに行きます。ヨハネス、少しここをお願いできるかしら?」
「容態に変化があればすぐにお知らせします。エレナ様、まずはご自身のお部屋へどうぞ。マリーが向かっております」
そう言われて初めて、わたしはバーティー用のドレスのままだったことに気が付いた。
「ありがとう、ヨハネス。ブルーノ様の様子を見ながらになるけれど、貴方も少し休んで」
わたしはブルーノをヨハネスに任せると、もう一度ブルーノを見て、部屋を出た。
一度私室に戻ると、マリーが先に扉の前で待っていた。マリーは直接料理を運ばずに差配していたため、ホールに一時的に残されたものの、早めに解放されたそうだ。
部屋に入り、着替えを手伝ってもらう。貴族の服というのは一人で着替えられないのがもどかしい。
「マリー、ブルーノ様は眠っていらっしゃるわ。容態は今は何とも言えない」
マリーが聞く前に、一番気になるだろうブルーノの様子を伝えた。マリーは一瞬だけ手を止め「そうでしたか」と呟くように言い、またすぐに動き出した。
「ホールの様子を教えて」
それから聞いた様子は、ヨハネスが言っていたものとほとんど同じだった。
「マリーも疲れているところ悪いのだけれど、使用人たちが解放されたら最低限どうしてものことだけやって、あとは休ませて。こんなことになってしまって、皆も疲れているでしょう」
きっとブルーノはそうするだろう。そう思いながら告げると、マリーは手を動かしながらふふっと笑った。
「きっとブルーノ様もそうおっしゃるでしょうね」
「そうよね、ブルーノ様ならきっとそう言うと思う」
「そして使用人を休ませて、ブルーノ様一人で働かれるんですよ」
わたしは目を丸くした。たしかにそうだろうと思った。休めと言って皆を休ませて、ブルーノは休まないんだろう。
「エレナ様、使用人を気遣ってくださりありがとうございます。ですが、エレナ様はブルーノ様とよく似ていますね。これから使用人を休ませて一人で戦おうとされていらっしゃる」
「え?」
「主が思うとおりに戦えるようにサポートするのも使用人の務め。私たちにも仕事をさせてください。本当に無理な時は、お言葉に甘えて休ませていただきますから」
マリーの口調は優しかった。コルセットが外され、わたしはようやく息が吸えるようになった心地になる。
「使用人たちもゆっくり休んでいられる気分じゃないのですよ。皆、エレナ様と同じ気持ちです」
おこがましいことを申しました、と付け加えてマリーは手早く着付けを終えると、わたしにパンと水を差し出した。
「調理場が封鎖されているので、今はこれしかお出しできなくて。でも何もないよりはいいかと思って持ってきました。食べていないのでしょう?」
わたしは目を見開いた。まさかこのバタバタした中で食べ物が出てくるとは思わなかった。
「ありがとう」
わたしはパンを受け取ると、その場で食べた。いつもならばお行儀が悪いと言われるところだけど、今は時間がない。マリーもわかった上でパンを出したのだろう。水を口に含んでから、喉も乾いていたことに気が付いた。
「エレナ様、そんな顔をなさらないでください。大丈夫です。ブルーノ様はエレナ様を置いていったりしません」
どうやら不安が顔に出ていたらしい。マリーにそう言われて、くしゃっと顔が歪んだ。
「そうかしら」
「そうですとも。私はブルーノ様が小さい頃からお世話させて頂いていますけれど、好きな人を放置するような軟弱な方に育てた覚えはないんです。絶対に大丈夫です」
マリーはわざとらしく鼻息を荒くした。思わず笑みが零れる。マリーが大丈夫と言うならば、本当に大丈夫な気がしてきた。
ブルーノを心配しているのがわたしだけじゃないように、伯爵家を守ろうとしているのもわたしだけじゃない。むしろわたしよりもずっと長く仕えている使用人たちこそ、そう思っているだろう。心強かった。
「ありがとう、マリー。ブルーノ様が動けるようになるまで、わたくしたちで伯爵家を守りましょう」
マリーは力強く頷いた。
わたしがホールに着いた時には、殿下によってほとんどの差配が済んでいるようだった。争いの跡はあるものの、緊迫した雰囲気は薄れている。
「殿下」
「エレナ。ヨハネスから聞いたか?」
「はい。伯爵領の騎士に罪人を牢まで運んでもらうように手配しています」
「助かる」
殿下はまだこれから調べることが残っているそうだ。軽くお互いに現状を確認すると、すぐにそれぞれのやるべきことへ戻る。伯爵家の使用人への疑いは晴れたようで解放された。
「マリー、皆をお願い」
マリーにこの場を任せ、わたしはお客様の部屋へ足を運んだ。このような状況になったことに関するお詫びと、予定していたおもてなしができないこと、わかっている範囲での状況の説明をして回った。
たいていのお客様は理解を示してくれたが、中には「呪いだ」という人もいた。嫌悪感を示すだけならばまだいいが、怖がる人をなだめるのは大変だった。
それからわたしはまたホールに戻り、殿下と打ち合わせ、使用人たちへの指示にと走り回った。
やるべき事をこなし、ブルーノの私室へ戻る。
「ヨハネス、変わりは?」
「少し熱が上がってきたようです」
ブルーノを見ると、白かった顔に少し血色が戻ってきたようにも見える。熱が上がるということは、少なくとも熱をあげられるだけ体力が回復してきているということだ。
脈を見ると、まだ弱いけれど、先程よりも強くなっているように感じた。
きっと大丈夫。
そう思えた。




