34.温室
秋も半ばを過ぎ、だいぶ涼しい日が多くなった。わたしが伯爵家へ来てからもう半年以上が過ぎた。早いものだ。
わたしはいつものようにブルーノの執務室で手伝いをしていた。室内ではブルーノとヨハネスが黙々と仕事をこなしている。
わたしは少し焦っている。
ここに来た時に、ブルーノから婚約期間が終われば婚約を解消して実家に戻っていいと言われた。
わたしは戻ることなど考えていなくて、一生ここにいるつもりで来たし、今もそう思っている。そのために何とか役に立ってここにいる価値を示そうと頑張っている、つもりである。
だけど残念ながら、婚約解消はしないしここにいていい、という確約は取りつけられていない。
婚約期間は一年間で、次の春までだ。つまり、あまり時間がない。
自分で言うのもなんだが、我ながら執務では結構役に立っていると思うのだ。これ、領外の人に見せても大丈夫なやつ? と思える書類もそこそこやっている気がする。
最近では魔力が使えるということで、調合や研究の補助もやっている。こちらも結構役に立っている、と勝手に思っている。
使用人が困っていたら掃除洗濯などだってやる。ちなみに最近は張り切って掃除すると使用人たちが気を使うから、見つからないようにやっている。それでもよくバレて、使用人たちに謝られる。でもわたしはやれる人がやればいいと思うのだ。もし使用人がたくさんいて、わたしが仕事を奪うような状況だったのならわたしだって手を引くが、今は手が足りていない。余った手があるなら動く。少なくとも実家の貧乏子爵家ではそうしてきた。
ちなみに実家では余った手などどこにもなかったが。
わたしが攫われてからちょっと過保護になったブルーノに外で一人で作業するのを禁止されてしまったので、ヴィムの手があくときにつき合ってもらってアリーも一緒に菜園の手入れをしたり、果物を採ったり、それをジャムにしてブルーノの菓子を作ったりしている。
毎日楽しい。
話が逸れた。
とりあえず、いなくなったら困るなぁ……くらいの存在にはなれていると思うのだけれど、その先に進めない。このままでは子爵家に戻されてしまうかもしれない。むむむ。
「どうかしたのか?」
どうやら唸っていたらしい。執務の手を止めたブルーノとヨハネスがこちらを見ていた。
「いえ、なんでもありません」
「なんでもなくなさそうだったが?」
ブルーノが軽く首を傾げたので、慌ててわたしは書類に目を落とす。全然進んでいなかった。とりあえず、キリのいいところまではやらなければ。
それから少しお互いに執務をしたと思う。ブルーノが立ち上がって、わたしの前に来た。
「昼食に行くぞ」
「もうそんな時間でしたか?」
わたしたちはいつものように食事へ向かう。
「今日は余裕があるから、執務は終わりにする。体調が優れないようなら休め」
「悪くないですよ?」
「そうか?」
ブルーノがわたしの顔を覗き込んだ。これだけで何でも見透かされそうな気がする。
「顔色は悪くないようだが」
「だから、本当になんでもないですって。大丈夫です」
食事の席に着くと、すぐに料理が出てきた。今日の昼食はキッシュのようだ。とても良い匂いだし、実際口にいれると濃厚で美味しい。さすがハンス。
最近は昼も夜も共に食べる日がほとんどになっている。だからといって毎晩コース料理を食べるわけではないが、なぜかハンスはわたしとブルーノが共に食事を取ることをとても喜んでいる。
「ブルーノ様は午後は何をするのですか?」
「先日の調合の続きと、やってみたい調合があるから、それだな」
「わたくしも一緒にやってもいいですか?」
先日の調合は途中までわたしも一緒にやっていた。その続きならば興味があるし、邪魔にはなるまい。そう思ったけれど、ブルーノはキッシュを乗せたフォークを持ったまま止まってしまった。
「邪魔になりますか?」
「いや、そうじゃないが、そんなに無理して動かなくても、休んでいていいぞ?」
「休んでいたら太るんですよ。ハンスのせいです」
わざとキッシュを睨みつけてからガブリと口に入れると、ブルーノはクッと笑った。
食事を終えると、ブルーノは材料を採りに温室に行くという。許可をもらってわたしもついていく。温室には結界が張られており近づかないように言われていたので、入るのは初めてだ。ちょっとわくわくする。
温室に着くとブルーノは入口で手をかざし、術を構築した。術は簡単なもので、その術の形さえ分かれば簡単に解除できるものだった。すぐに結界が溶けていく。
「あの、わたくし見てしまいました」
「何を?」
「術です」
「あぁ、そうか」
今気が付いた、というようにブルーノは手を軽く顎に当てた。
魔力を扱えない人ならば形を知ったところで解除できないが、わたしはできる。つまり、入ろうと思えばわたしはいつでも解除できることになる。
「まぁ、別にかまわん。毒になる植物も多いから、誤って食べたり持ち出されたりするのを防ぐために、念のために弱い結界を張っているにすぎない」
それからブルーノはじぃっとわたしを見て一言。
「中に入ってもいいが、口に入れるなよ」
「入れませんよ!」
「実績があるからな」
「あ、あれは見誤っただけで、何でも口に入れるわけじゃありません」
ブルーノは小さく笑って戸を開けた。
「うわぁ……」
温室の中に入ったわたしの口から漏れた声は、決して、素敵、とか、なんて美しいところなんでしょう、といったものじゃない。むしろ逆だ。
そこに広がっていたのは、なんというか、草むら、といったらいいだろうか。ボウボウと何の秩序もなく、少なくともわたしにはそう見える感じで、見たことがあるようなないようないろんな種類の草が茂っていた。低木っぽいものもある。
「ここは俺しか管理していないからな。以前はもうちょっと整ってたんだが、まぁ、最近は手を入れられる時間もなく、こんな感じだ」
「なるほど」
通路だったらしき名残と思われる足の踏み場はぎりぎり確保されており、ブルーノはそこを通って進んでいく。わたしも後に続いた。無秩序に見えた草むらだけど、ブルーノなりにはどこに何が植わっているかわかるようで、迷いなく進んでいく。
「この温室は、先々代だったかその前だったかの伯爵夫人が花好きで、彼女の為に作られたものらしい。俺の母は別の場所に小さな温室を作っていてこっちは使っていなかったから、俺がもらったんだ」
ブルーノはそれからここで薬草を育ててきたという。
薬草に囲まれたブルーノはどこか楽しそうだ。
「君は畑の草はよく知っているようだったが、薬草も詳しいのか?」
「いいえ、簡単なものしか分からないと思います」
「そうか。それなら教える」
ブルーノは同じ種類の草をいくつか摘んだ。
「この草はイノズチといって、魔力を加えて練ると痛みやしびれに効く薬になるんだ。そうそう、君が飲んだ解毒薬にも使われている。あの解毒薬を作るにはあっちの……」
そう言いながらブルーノは少し進んで別の葉を指差した。
「あれと混ぜる。今日は使わないから取らないが、あれは単体でも整腸薬になるんだ。今日の調合の仕上げに加えてみようと思っているのがこっちで……」
話が止まらない。
わたしは祖母に「一度で覚えな!」と言われて育ち、物覚えは悪くないと思っているけれど、さすがにそんなに一気に覚えられない。
「ブルーノ様、そんなに覚えられないです」
「あぁすまない。覚えろというつもりはないんだ。何となく聞いておけば、いつか役に立つかもしれないだろう? 聞き流しておけばいい」
そうしてまた別の花を摘みながら話し始めた。
楽しそうだから、まぁいいか。
「それをいくつかとってくれるか?」
頼まれたものを摘みながらふと足元を見ると、大きなカブのようなものがいくつもあった。カブと言いつつ、見えている部分は紫色をしている。
「あぁ、それは君が食べたやつだ」
「えっ、これですか?」
たしかに葉の形はわたしが見誤って食べてしまったカブもどきの毒草と同じに見えるけれど、色も大きさも全然違う。
「ポラビという植物で、成長するとこうなる。食べなければ、取ってもいいぞ」
引っ張ってみても抜ける気配がなく、腕に軽く身体強化をかけて思いっきり引っ張った。スポン、と抜けて、その勢いで尻もちをついた先にはシャベルを差し出そうとしているブルーノがいた。笑われた。
抜けたカブもどきは拳二つ並べたよりも大きかった。何より、食べた時はつるりと丸くて白かったのに、この大きなカブもどきは上半分が紫の毒々しい色で、形も不気味にゴツゴツしている。最初からこの色と形だったら食べなかったのに。
「同じ植物じゃないみたい」
「そうだな」
「毒性は同じなのですか?」
「性質は同じだが、大きくなると毒性は弱まる。上手く使えば薬になるが、神経に作用する毒なので、摂取すると身体が動きにくくなる。君もそうなっただろう?」
たしかに身体が動かなくなって倒れ、目覚めてからもしばらくは身体がキシキシする感じが残っていた。
「怖いのが、軽くピリッとする辛み以外あまり味がしないところなんだ。この毒自体はあまりに大量でなければいずれ毒は抜けるが、例えば戦う前にこれを仕込まれたらどうなる?」
強い毒ではないので毒見役も気が付かない。そのまま通されて食べて戦に出るが、身体が上手く動かない、という事態に陥る可能性がある、とブルーノは言った。なるほど怖い。
「まぁ、毒のことを考えるならばそれよりも強くて警戒するべきものはたくさんある。たとえばあれとか」
小さな花を咲かせている草をブルーノは指差した。可愛らしく見えるけれど、猛毒だそうだ。見かけによらない。
それからもブルーノの薬草講座は続き、わたしは覚えきれないまま指示された薬草をひたすら摘んだ。




