10.困惑 (アリー視点)
侍女アリー視点です。
ブルーノ様の婚約者でいらっしゃるというエレナ様が着いた日。
執事長のヨハネス、数人の使用人と共にエレナ様を玄関で出迎える。エレナ様だと思われる女性と共に、顔面蒼白になった母が馬車から下りてきた。
おのれ、母に何をした!
ブルーノ様に迷惑を掛けるばかりか、母にまで。許さん。
母を妹リリーに任せると、エレナ様が建物に入ったのを確認して使用人出入口に急いだ。使用人はお客様を案内する時や主に付き従っている時を除き、基本的に表玄関の扉をくぐってはいけない決まりになっているのだ。
そっとサロンに入ると、エレナ様がヨハネスの案内で入ってくるところだった。彼女は「わぁ~」と間の抜けた声を出し、キョロキョロと部屋を見回している。
値踏みしているのですか?
あなたには何一つあげませんよ!
私にはなんの権利もないけれど、そんなことを心の中で思う。いずれこの財産の一部がこの人のものになるかもしれないと思うと、悔しさがこみ上げてくる。
赤みがかった薄い茶の瞳と、瞳よりは濃い茶色の長い髪。綺麗な顔立ちをしているが、口をぽかんと開けて部屋を見回している表情がそれを台無しにしている。そんな間抜けな顔をする人、ブルーノ様の隣には相応しくない。
ブルーノ様がいらして、エレナ様と挨拶している。初対面ということもあって、お互い緊張と警戒をしているように見える。
そんなブルーノ様もカッコいいです素敵です。
声も好きです全部素敵です!
挨拶を終え、部屋へ案内する。
実は、案内する部屋は、平民のための客室だ。取り引きをしている商人や、他のお貴族様に従ってきた従者など、泊まる必要がある人に貸し出している。一応は平民とはいえ伯爵家がもてなす必要のある客もしくはその付属人を泊める部屋なので、それなりに整えてはあるが、広さ、調度品や内装の豪華さを比べてしまえば、貴族用の部屋との違いは一目瞭然。
さて、どんな顔をするだろうか。
間違えたのかしら、と上品に首を傾げる?
揶揄っているの? と問いただす?
怒りを露わにする?
それとも、内心を隠して従うかしら。
扉を開けてエレナ様を通すと、サロンの時と同じように、また口を開けてほえぇと見ていた。ご令嬢らしからぬ態度だということに自分で気が付いたのか、軽く咳払いをして微笑んだ。
「素敵な部屋ね。ありがとう、アリーさん」
……ありがとう? えっ?
嫌味を言っているようではなかった。心底そう思っていますとでも言うような顔つきだ。内心を隠すのが上手に違いない。今日のところは我慢しておいて、後からブルーノ様に訴える気だろうか?
やばい、強敵の予感がするぞ。
翌朝、声を掛けて朝食を置き、すぐに部屋を出た。
なるべく早く伯爵家から出て行ってほしいけれど、積極的に嫌がらせをすることはない。
伯爵家の評判を落とすことになる可能性があるからだ。
ただし、何もしない。
さすがに倒れでもしたら困るから、食事と水くらいは出すけれど。
貴族女性は通常、なんでも侍女や使用人にやってもらう生活をしていると聞く。朝食の準備、部屋の掃除、洗顔の準備からお召替え、茶の準備、もう朝起きてから寝るまで全てだ。そうしなければ生きられないなんて、なんて脆弱なのだろう、と思わなくもない。
それが全くなくなったらどうするだろう。
こんなところで暮らせないわ、と出て行ってくれるに違いない。
わたしは「必要ならばお呼びください」とちゃんと言った。昨晩は夕食を出す以外何もしなかったのは、呼ばれなかったから。もし指摘されたら「呼ばれもせずに押しかけるのは失礼ですので」とでも言えばいい。
呼ばれなければ行かないし、言われなければやらないし、聞かれなければ答えない。
勝手に怒って、出ていくがいいさ。ふふふふ。
朝食を置いてからしばらくして部屋へ行くと、エレナ様はそこにいなかった。手つかずの朝食が残っている。
食べないのかしら?
いいわ、そういうことにしましょう。
子爵家でどのような生活をしていたのかわからない。朝食は召し上がらない生活をしていらっしゃったようだ、そう認識したことにしてさっさと下げる。
予定は特にないので放置するつもりだったけれど、何かやることはあるかと聞かれ、掃除をお願いすることにした。「何でもいいわよ」とエレナ様が言ったのだ。言質は取っている。やれるもんならやってみな。お嬢様にできるとは思えないけれど。
しばらく使われていない広い部屋に案内して、最低限の説明をした。人手が足りていないのは事実なので、掃除してくれるというならば遠慮なく。
まぁこの広さならば、三日はかかるだろう。どこで音をあげるかしら。ふふふ。
なんだかすごい罪悪感を感じてきたけれど、決していじめるつもりなんてない。さっさと出て行ってほしいだけ。ブルーノ様を困らせる婚約者なんて、いないほうがいい。
昼食を出して、しばらくして部屋へ行くと、そのまま残っていた。昼食も食べないタイプなのね? もしくは誰が作ったのかわからない食事など手をつけられないのかしら。どちらでもいいわ、そういうことにしましょう。
それから自分の仕事をこなして、エレナ様が掃除しているはずの部屋をこっそり見に行った。どこかで適当に終わらせているか、それとも途方にくれているかしら。
どうしてか少しウキウキした気分になりながら、そっと扉を開ける。
ん? いないわね。
さては投げ出したな。
まぁお嬢様だもの、仕方がないわね。
ん……?
綺麗になっている?
全体的に埃が払われ、調度品も光を反射して輝いている。
どこを見ても汚れが見当たらない。たしかに朝ここに来たときは埃だらけだったのに。
まさか、一人で?
そんなはずがない。使用人に命令でもしたのかしら。でも、使用人が素直に従うとは思えないのだけれど。
「あ、リリー? この部屋……」
「エレナ様が全部一人で掃除したわ」
「えっ?」
「嘘じゃないわよ。私、見たんだから。エレナ様、楽しそうに掃除していたわ。ねぇ、あの方は本当に子爵令嬢なの? 掃除の手際は良いし、厨房にも嫌そうな顔ひとつせずに入っていくし、なんかお貴族さまっぽくないんだけど」
貴族のご令嬢は自ら料理したりしないから、厨房という場所には忌避感すらもっているという。掃除も洗濯も料理も、平民の仕事だと下に見ているのが普通である。
掃除なんて、ご令嬢にはできないと思っていた。
たしかに掃除を任せたこの部屋は、使われておらず薄汚れていたはずだ。それは今朝、エレナ様を案内した時に確認している。でも今はどうだ。使用人五人がかりで磨き上げたみたいにピカピカだ。
「どういうことなの……」
その日から毎日、エレナ様は嬉々として仕事をしてくれる。草むしりも掃除も全く文句を言わないし、朝食を出していなかった件に関しても怒ることはなかった。こちらが世話をしなくても何でも自分でやるし、使用人たちを見下すようなことも今のところない。
「何かお役に立てることがあればいいのだけれど……」
エレナ様が呟いた言葉に、わたしは耳を疑った。
役に立つ? ブルーノ様の?
一人目も二人目の奥様も、そんなことは言わなかった。考えてもいないようだった。いつも自分の事ばかりで、ブルーノ様を見下すくせに、要求だけは激しかった。
ある日厨房へ行くと、料理長のハンスが困惑した顔を浮かべていた。
「なぁアリー、あの婚約者様、本当にご令嬢なのか?」
私は肩をすくめる。
「リリーも同じことを言っていたわ。何があったの?」
「お礼を言われた。食事が美味しかったって。最初は皮肉かと思ったんだよ。ほら、出してる食事はあれだろ。だけど、嘘を言っているように見えなかったんだよな」
「子爵令嬢なのは間違いないはずだけど、たしかに今までの奥様と少し違うわね」
ブルーノ様を困らせるだけの婚約者なんていらないと思っていた。さっさと追い返そうと、使用人皆で一致団結していた。
まだわからない。とりあえず取り入ろうと、そう振舞っているのかもしれない。そうだとしたら、なかなかの策士だ。すでに使用人たちには困惑が生まれているのだから。
そして私にも、少し、迷いが出始めていた。
使用人たちが困惑していることにもエレナは気がつかない。




