8 決断の夜
オリヴィアのベッドの傍らに、一人がけソファが二脚用意され、アントワーヌとシャルルが腰掛けている。アンヌは室内に留まり、廊下への扉の側で控えている。
オリヴィアたちの密談は続く。
「そもそもオリヴィア姉上とイワン王太子殿下の婚約は、プルミエール宰相閣下の肝煎りだったと伺っています。二人の婚約が解消されるとなると、貴族の力関係はどうなるのでしょうか」
シャルルがアントワーヌに尋ねた。
「いま現在に限っていえばだが。
先日の王太子暗殺未遂の一件で、プルミエール宰相は責任を問われ、官僚人事を握っていた宰相派の重鎮も辞職せざるを得なかった。発言力は大幅に落ちている。これは王宮内にも影響が出てきている」
アントワーヌはソファに深く身を沈めた。
「さらにこのタイミングで、当家によるなんらかの事態によって、ーーそれはオリヴィアの不慮の死も含まれるが、婚約関係の破棄、あるいは消滅という事態が起きれば、プルミエール側は動けないまま、追い討ちをかけられる、ということだ。
新しい婚約をきっかけに、中立派だったジェイド公爵を自派に取り込み、中立派全体に支持を広げられれば、プルミエールを圧倒して、自分たちの優位性を長く保つことができる、とジョンは大方考えているのだろう。
ただ、中立派というのは、本来それぞれ個別の理由を抱えて、権勢争いの圏外にいるわけで、派としては互助的な意味合いが強い。つまり利権で結束しているわけでない。その辺の読みが、彼奴にどこまでできているのかは分からんがな」
「なるほど。ジョンはこの機会を使って、王都の勢力図を一気に塗り替えようとしているのですね」
「ごく短期の情勢に頼った、リスクの高い愚かな遊びに手を出しているとしか思えないがな。
それ故だろう。いま下手に出れば、王太子側が侯爵家側に負い目を持っていると周囲に見做されるのを、異様に恐れている。魔光を浴びたのは自業自得のことだと、このひと月、殿下を婚約者としての見舞いに行かせる助言すらしない。
この先、婚約を破棄するためには、当家の醜聞を嗅ぎ回るだろうし、場合によっては、でっち上げてくるだろう。婚約を流すぐらいなら、一時流れる風評でも良いのだからな。くだらない遊びに付き合うのも馬鹿らしいが、向こう傷は避けられまい」
アントワーヌは顔を顰めて言う。
「そこで、この瞳の変色です」
オリヴィアは身を乗り出し、自身の赤紫に染まった左の瞳を指して言った。
「この瞳の色の変化は隠しようもありません。謁見の間の事件で、私は魔光を浴び、もう回復の見込みのない後遺障害を負ったということにしてください」
アントワーヌはオリヴィアの瞳を覗き込み訝しんだ。
「その程度の瞳の変化など、なんでもないんじゃないか」
「お父様、それは認識が甘いです。武門を誇りとする家には、大した問題ではないでしょう。
ですが、これは謎の魔光が身体に影響があったという徴なのです。この先、イワン殿下との子どもにどのような影響があるかわからないとすれば、そのリスクをあの王家が取るとは思えません。
なによりプライム家のジョンに婚約破棄の工作を進めさせては、どんな作り話で当家を貶めてくるか分かりません。私の瞳ひとつの話でこちらから落としどころを用意してやれば、馬鹿げた話をそれ以上拡げられずに済みましょう。先んじてうまく利用するべきです」
アントワーヌはオリヴィアを真剣な眼差しで見つめた。
「オリヴィアよ。私はお前のその瞳を誇りに思っているぞ。王太子殿下を護るために負った名誉の負傷だ。騎士ならば、いや騎士でなくとも本来、受勲ものなのだ。お前も誇るが良い。それにしても、悔しいな。あの殿下たちからは、それを汚名のように扱われなければならないのか」
シャルルもオリヴィアに顔を向けて続けた。
「姉上。僕も姉上のこと、誇りに思っているから」
オリヴィアは顔をうつむかせて、「二人とも、有難う……」と小声で呟いたが、再び顔を上げると明るい声を出して言った。
「あ、お父様、私のためとか考えて、条件の悪くなったところで無理に新しい婚約者を探さないでくださいね。女は結婚と出産が第一の幸せというのは嘘ですから。それは条件がちゃんと合ってこそ。ダメな男に嫁いだら、一生の地獄ですので」
「あ、うん」
アントワーヌは目を逸らして気まずげに頷いた。
「ところで、姉上はあの日、表向きには気絶しただけで、大した怪我をしていなかったことになっているけど、そこはどうなるのだろう」
空いた間にシャルルが問いかけると、オリヴィアは首を傾げた。
「それは王太子の側近たちが、自分たちの利益上、そうしておきたいというだけでしょう。
謁見の間にいた方々は私が倒れたのを目撃しておられるわけだし、そういう方々に向けては、オリヴィアは勝手に事件に巻き込まれて倒れたんだとわざわざ言っている。
これまで婚約者だったからこそ、彼らに協力してきたけれども、もう解消するのだから、私たちが私たちに有利なかたちで事実を利用しても構わないでしょう」
オリヴィアは苦いものを飲み込むように言い切った。
「さぁ、私たちの方針は決まりました。今後の具体的な動きについては夕食の後にでも打ち合わせましょう」
三人(と一人)での話し合いは夕食後に再開されたが、オリヴィアの負担にならないよう早めに切り上げられた。
就寝の挨拶を告げ、アントワーヌとシャルルはそれぞれに用意された部屋へと引き上げた。
アンヌもオリヴィアの就寝を手伝い終えると、控えの部屋へと下がった。先日までは昏睡し続けるオリヴィアを看るために、オリヴィアのベッドのすぐ隣で寝ていたが、いまは続きの間に移っている。
「良かったですね。お二人とも、オリヴィア様のことを誇りだと仰っていました。私もですよ。オリヴィア様、お休みなさいませ」
アンヌは最後に部屋の明かりを落して、そう言い残していった。
うす闇の中、ひとりになったオリヴィアは天井を眺めた。
森の奥に棲む魔狼の遠吠えがかすかに聞こえてくる。ここは彼らの領域に近いのだ。王都の本邸、そしてかつて過ごした別の世界での人の生活の気配に溢れた夜とはまったく違う、静かな夜。
オリヴィアが子ども時代を過ごした侯爵領の夜をどこか思い起こしもする。夢のような、ぼんやりとした感覚とはいえ、間には別の世界で過ごした時も挟まるのだ。とても懐かしい気持ちにもなった。
「ここが勝負どころか」
オリヴィアはなかなか眠れなかった。
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