5 ここではないどこかの世界
朝食の前に、オリヴィアの滞在する屋敷は、アンヌの指示で外部の者の出入りを、その時点から数日の間停めた。
オリヴィア付の筆頭侍女であるアンヌは、まだ若いながらオリヴィアの名代として非常の際には屋敷内すべてに指示をすることができる。
今回はその緊急避難の権限を執行した。
オリヴィアの意識が戻ったという情報が広がれば、彼女に関わる事態が急速に動きだすことは間違いない。
それゆえ、侯爵家が今後どのように動くか決める前に、不用意に話が広がるのを防ぐ必要がある。
屋敷の外に広がる敷地については侯爵家騎士団の管轄だが、守備隊長に根回しし、屋敷の周囲に警戒線を厳重に引かせた。
その後、アンヌがエントランスホールに集めた使用人たちにオリヴィアの目覚めを伝えると、屋敷全体が震えるほどの歓声が上がった。
一方、屋敷の執事には、シュッドコリーヌ家の王都本邸へオリヴィアの覚醒を報せる極秘の伝言が託された。
手紙ではなく、口頭で直接当主に伝えるよう念を押されて執事は慌ただしく屋敷を出た。
オリヴィアはいまだベッドから出ることができないが、治癒師たちによる施術の効き目もあり、血色はだいぶ良くなっている。
ただ一箇所、オリヴィアの左眼の瞳はもとの薄緑色から赤紫に染まっており、魔光の何かしらの影響が残っていることが伺えた。
通常の朝食はまだとれないものの、薄いミルク粥と果実を数片とって、いまはアンヌとふたり、柔らかな日差しの入る部屋で、お茶をしている。
ベッドの中で身を起こしたオリヴィアも、アンヌの前では口調を崩して気安く話すことができた。
「まず、先程おっしゃっていた、まったく違う世界というのは、どういうことですか」
さっそくアンヌが尋ねる。
オリヴィアはお茶の入ったカップを口元から遠ざけると、アンヌは身体を寄せてそれを受け取り、ベッドサイドに静かに置いた。
「どう説明するか迷うわね。……私たちの住むこの国は、向こうの世界のどこにもなかったと思う。
私たちのこの世界は、まだ私たちの知らない土地がたくさんあるでしょう?
向こうの世界では、人間のいない土地は、海や砂漠、高い山など、人間が住めない土地を除いてほとんど残っていなかったの。
はるか上空、精霊様の視点から大地の様子を写し取り、精緻な地図がつくられて、それは市場で売られる冬のリンゴのように、とても簡単に手に入ったわ。誰でも見ることができた。
世界はくまなく人間の国に分割されていたけれども、地図にはこの世界で知られている国の名はひとつもなかったわね」
「天上の視点から地図をつくる。だいぶ神の国めいた世界ですね」
「その世界には魔法や魔術の類はないの。魔力や魔素、魔獣といったものがない世界だったわね」
「魔法は私たちの世界でも、魔力が低くて使えない人もいますから、想像はしやすいです」
「そうかもしれないわね。魔力の低い人は、火を点けるのに魔石を利用する。
向こうの世界では、魔石の代わりにライターという、なかに燃える空気を封じた小瓶を使っていたわ。魔法がないかわりに、人々は科学と呼ばれる機械の仕組みをすごく発展させていた」
「魔法がないとしたら、機械はどうやって動かしてたんですか」
「身の回りのものは電気と呼ぶ力で動かしていたわね。電気は雷から引き出す力のようなんだけど、仕掛けについては聞かないでね。私にはまったく分からないから」
「はい」
「それから貴族・平民という身分制度がない。いるのは国民と呼ばれる平民階級の人々と、王族だけ。ただ王はセレモニーのさいに挨拶するぐらいで、王族はなんの政治的実権もないようだったわ。
そういえば、神官も政治的な力を持っていなかったな。いたことはいたのだけれど、そもそも魔力はないし、なんだか歴史的な価値ある存在になっていたわね」
「では、誰が権力者なんですか」
「一応、こちらの枢密院みたいなものがあって、平民のなかから選ばれた有力者たちが話し合って、実際に政治を動かす宰相たちを選んで運営していたわね」
「私たちの世界の、商業連盟の政治の仕組みに似ていますね」
「そうね。実際のところ、政治的な有力者には貴族ではなくても世襲が多かったし、金持ちが表の地位とは別に隠れた力を持っているのは向うの世界でも同じだったわね。
私はその世界で、どこにでもいる平民の娘だったから、そんな重要人物を直接見かけることもなかった。テレビーー動く写し絵のタブレットで見ることはあったけど」
「なんですか。動く写し絵というのは」
「イリュージョンの魔法のような感じ。手元や壁にかけた平たい石板のようなものに、ありのまま遠くのものを映し出すことができたの」
「魔術でなく?」
「そう。魔術ではなく。不思議よね。とにかく、そんな世界で私は生まれ育ち、十代の長いあいだを平民用の学校に通って、社会に出たあとは働いて暮らしていた。
三十歳から先の記憶がないので、もしかしてそのへんで私の人生に何かあったのかもしれないけれど、いまはちょっと思い出せないわね」
「平民用の学校、随分長く通うのですね」
「子どもは皆、だいたい十五歳ぐらいまで学校に通うことが義務づけられていたのよ。でもお金があればもう少し先まで学校に通うことが、ほとんど義務のようだったわね。読み書き計算だけでなく、歴史や科学、音楽も学んでいたわ」
「科学も学ばれたのですか」
「言いたいことはわかるわよ。何か知識として持って帰ってきてるかってことよね。でも期待しないで。細かいところは全体的にモヤがかかってるような感じなの。仕組みには興味もそんなになかったし」
「あー。まぁ、そうですよね」
「私のもう一つの人生について語っていたら、いつまでも話が終わらないから、それは今度時間のあるときで良いかな」
アンヌは了承の相槌をうった。
「ここからが本題。
その世界ではいろんな暇つぶしの娯楽があったのだけれども、若い人たちの間では、ゲームという、さっきのタブレットの一種を利用して遊ぶものがあった」
「ゲーム? 盤上の駒遊びのような?」
「それもゲームだけれど、ここで言うのは、向こうの科学の技術を使った、機械仕掛けのものなの。物語の主人公が、人生の分岐点のエピソードで、読者が選択肢を選ぶことができるようになっているの。
たとえば街道をいく騎士がいて、分かれ道がある。右にいけば敵の城、左にいけば深い森。どちらに向かうか読者が選べる。城にいけば運命の姫に会うかもしれない。森に向かえば魔獣に襲われている人がいるかもしれない。
読者の選択によって結末が変わる、絵で描かれた物語みたいなものね」
「はぁ、すごい仕掛けですね」
「さすがにそこまで魔術的な仕組みじゃなかったけど。その世界では、様々な内容のゲームが楽しまれていたし、ゲームも次々と売り出されていた。将軍になって兵たちを動かして敵と戦ったり、魔法や魔術のある国で、勇者となって魔王と戦ったりね」
「魔力がないのに?」
「そう。想像でつくられたものだから、ある意味、自由自在なものだったわ。たとえば人の心を操って自分を好きにさせる魅了の魔法とかね」
冗談めかしてオリヴィアが言うと、アンヌも笑った。
「私たちの世界の常識では、ありえない設定ですね。もしかして、どこかにあるのかもしれませんが」
笑って間の空いたタイミングで、オリヴィアはアンヌからカップを受け取り、一口飲んで喉をしめらせ、それからゆっくりと話を続けた。
「そのなかに、乙女ゲームと呼ばれるジャンルの物語があったの」
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