3 シュッドコリーヌ侯爵家
「オリヴィアは、まだ起きないのか」
アントワーヌ・シュッドコリーヌ侯爵の家令に尋ねる声が食堂に響く。もはや毎朝の食前の慣例となっていた。
「はい、いまだ意識の戻る兆候はございませぬ。治癒師たちに身体の状態は維持させておりますが、さすがに一月以上となると……良い話はいささか少ないかと」
「そうだな」
アントワーヌはため息をついた。
「父上、気丈な姉上のことです。きっと聖霊様のご加護があります。部屋から出てくる日を信じて待ちましょう」
息子のシャルルは、決まり文句を唱えるように声をかけた。
「ああ、そうだな。精霊のご加護があるように」
アントワーヌもまた、決まり文句として祈りを唱える。
アントワーヌは娘オリヴィアとイワン王子との婚約を後悔していた。
ふたりは、もちろん政略結婚だ。
だが、もともとアントワーヌが望んで結んだものではなかった。
シュッドコリーヌ家は王国の南部に大領地を擁し、その武力で王都の外環を衛る五大侯爵家の一つであった。
五大侯爵はそれぞれの地方に広い所領をもち、王都の防衛のために騎士団と郊外の拠点の維持を負担していた。武力という点では頼りになるが、王に近侍する中央の貴族たちからは田舎の武辺者という侮りと警戒の目で見られる存在でもあった。
そのため彼らは中央の貴族の各派閥に、客分の扱いとして属することになる。
侯爵家側にとっては王家へのスムーズな取次と、中央の情報を得ることが目的だが、中央貴族側からすれば、侯爵家と中央との結びつきを深め離反を防ぐことを兼ねていた。
シュッドコリーヌ家は現宰相プルミエール伯爵の中央閥に属している。
王子イワンの筆頭側近は、先代宰相プライム家のジョン。イワンが即位するとなれば、プライム家が政治の表舞台に上がるようになると見られた。
現宰相プルミエール伯爵家と先代宰相プライム伯爵家は、中央貴族界の二大派閥を形成しており、互いに牽制し合う関係だ。
両者のバランスをとる必要から、現宰相プルミエールの派閥からイワンの妃を出すことが望まれた。とはいえ、それは誰でも良いわけではない。
プルミエール宰相はアントワーヌのもとを訪れ、彼の娘を王家へ嫁がせることを頼んだ。派閥の力学による要請に、アントワーヌは従った。
側近と婚約者が決まったことで、両派の支持を受けたかたちをとり、晴れてイワンは王太子として立った。
その結果がこれだ。
✴︎
ーーその日の昼過ぎ。
アントワーヌの後悔をさらに深める出来事が起きた。王太子の側近、ジョンからの使者が来たのだ。
「オリヴィア様におかれましては、なかなかご出仕できない状況を殿下も憂慮されております」
そう使者の侍従はアントワーヌに切り出した。
「そこで、一度王都を離れられ、空気の良いところでお気持ちを変えられてはいかがかと、王太子殿下は仰せでございます」
使者はジョンから伝えられた内容を流れるように語った。
「ほう、王家の風光明媚な離宮でも、オリヴィアのためにご提供くださるのかな」
わざと明るく尋ねるアントワーヌの混ぜ返しの言葉に、使者は顔をかすかに顰めたが、すぐに笑顔をつくった。
「いえ。侯爵閣下は王都の南に素晴らしい別邸をお持ちであると、ジョン様より伺っております」
「あそこは騎士団の詰める防衛拠点だ。療養中の女性向きではないぞ」
「王太子殿下をお招きになられた際、侯爵閣下のお屋敷のしつらえに、王太子殿下とジョン様はたいそう感心されたとのことです。
これまでもオリヴィア様は騎士や宮廷魔術師の仕事に大きな関心を寄せられて、自らも剣を振るい、魔法を嗜んでおられました。
王太子妃としては、いささか型破りともいえる方には、むしろ望ましいお屋敷と伺っております。それに、いまだ王宮に出仕できぬオリヴィア様の気分を換えるためのことでございます。何も問題ございますまい」
「なんと、殿下はオリヴィアの趣味にまで配慮してくださったと!」
嬉しげに声を上げるアントワーヌに、笑みを見せつつ使者はうなずく。
「ところで、オリヴィアの意識はいまだ戻っておらぬのだが」
アントワーヌが一転して声を低めて凄むと、先ほどまで顎を軽く上げつつ滔々と語っていた使者は、顔を青ざめさせた。
「それは当方は与り知らぬことになっておりますので……」
使者たちは後退りせんばかりに腰を浮かせ、とにかくオリヴィアを早々に、しかも病状については内密にして王都から出すよう念を押すと、逃げるように王宮へと帰っていった。
「なんという奴らだ。オリヴィアを王都から追い出せとは! 殿下は一度もオリヴィアを見舞わないつもりか」
使者を帰らせたのち、アントワーヌは息子と家令を前に吠えた。
「見舞いの使者が一度ございましたな」
「使者まかせか。殿下は婚約者だぞ。婚約者個人として果たすべきこともあるだろう」
「殿下からしたら、やはり姉上のことは見舞いに行くほどではないということでしょうか」
「まず、オリヴィア様は表向きは、軽い不調で出仕を停めているということになっております。
これを言葉を変えていえば、オリヴィア様の自己都合ということになります。
さらに殿下の側近たちは、オリヴィア様が勝手に飛び出して魔光を浴びたと見なし、王宮内で見解を広めております。殿下がこちらに足を運ぶというのは、彼らの名分からすれば、思いもよらないことでしょう」
シャルルの疑問に家令は丁寧に応える。
「ひどい婚約者もいたものだ。表向きの御託はいい。オリヴィアは誰のために身を呈したと思っているんだ。
しかも、言うにことかいて、勝手に飛び出したとはな。
魔法についての基本的な素養があれば、あれは殿下の結界に押し出されたのだと一目でわかったはずだ」
アントワーヌはあの日、謁見の間で他の重臣たちと列席していた。
オリヴィアが暗殺者の魔光を浴びて倒れたのを見て、すぐに駆け寄りたかったが、何人もの騎士たちに強く抑えられ別室へと下げられた。
背中越しに聞こえた「勢い余って自ら魔光に飛び込むとは!」というジョンの大声には、即座に反転して殴り倒しに行きたい衝動に駆られた。
周囲の貴族たちは、何も言わず肩をすくめて同情を見せた。
「僕たちのような子どもの間でも、オリヴィア姉上の状態が深刻であることはもはや公然の秘密となっています。
その上で王太子殿下が、一度も姉上のお見舞いに来られないという事実。
殿下は姉上を婚約者から廃するのではないかと、親たちは噂しているそうです」
「まぁ、このような状況ならそう判断してして然るべきでしょう。
しかし、これほど五大侯爵家を理由なく虚仮にしては、王太子殿下は派閥を越えた形で地方貴族からの支持を失いましょう」
「婚約破棄、それもよかろう。せいせいするさ。だが、奴らの道をこの先順風満帆といかせてなるものか」
アントワーヌは吐き捨てた。
✴︎
アントワーヌの妻は息子シャルルを産んでまもなく亡くなり、その後は後妻を娶ることなく、オリヴィアとシャルルをアントワーヌが一人親で育ててきた。
二人には家の者たちが常に付き添っていたので、問題はないと思っていた。
オリヴィアと婚約者のイワン王太子との間に隙間風が吹いていたことは承知していたが、多少の距離がある関係は政略結婚の常である。貴族の立場からいえば、近年の二人は大過なくやっているように見えていた。
そのオモテの裏側で、どれだけの不満と悲しみを娘は抱えていたのだろうか。
もっと彼女の話をよく聞いておけばよかったと、アントワーヌはほぞを噛んだ。
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