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34 嵐の前


「今日は気分が良いのよ。あなたからのお返事を頂いてから、この一週間、あなたが来てくれるのを、ずっと心待ちにしていたわ。体調管理にも力を入れてね」


 そう言って、一人掛けソファから立ち上がることなく老夫人はにっこりと笑った。ドレスを着ているが、身体にはしっかりと毛布が掛けられている。


 外の寒さを一切感じられないほど、部屋のなかは十分に暖められている。


「それは良かったです。これからはこまめにマリーヤ様をお伺いすることにしましょう」


 近衛騎士の姿のオリヴィアは手に持った花束を、マリーヤの歳のいった侍女に手渡し、にこやかに返した。


 そうしたうえで、腰をかがめソファに座るマリーヤに親愛を込めた挨拶を改めてした。


「あら、こんなうるわしい騎士様に、頻繁に来ていただいてたら、かえってわたし若返ってしまいそうだわね。嬉しいけれど、無理はしなくて良いですからね」


 と言いつつ、マリーヤは「どうぞ座りになって」と向かいの一人掛けソファに視線を向けた。


「いえいえ、とんでもないことです。いつ伺ってもここは居心地の良いお部屋ですね」


 オリヴィアは軽く目礼をするとソファにゆっくりと腰を掛ける。


 手元に位置する小さな茶卓には、すかさず侍女がお茶を用意していた。


 暖かな部屋に豊かな香りが咲くように広がっていく。


「まぁ。せっかくこじんまりとしている家ですから。モノも人もお気に入りのものしか近くに置かないようにしているのよ」


 マリーヤは目尻を下げて言った。



 リュヴォフィ公爵の屋敷は、王都の貴族街のなかでは公爵家と思えぬほどの慎ましいもので、大きめの子爵家か、中位の伯爵家といったところだ。オリヴィアのシュッドコリーヌ侯爵家の屋敷地でいえば、その離れの一棟程度の大きさである。


 それもそのはず、王族だったトゥリーチェイは、晩年に功績が認められ、公爵への昇爵がかなったが、騎士団長に就任するにあたって与えられた伯爵位に長く留め置かれていた。


 彼は公爵に昇った折、「長く住んで愛着のある家のままが良い」と、屋敷の拝領は辞退した。代りに屋敷地相当の王都の土地を取得し、その土地の家々を貸し出すことで、王府支給以外の収入を得た。


 トゥリーチェイが急な病に倒れたあと、まず処置が行われたのが、これらの家産の保全である。


 すでに病床にあった妻マリーヤのために、こうした公爵家の収入が、夫の死後も確実にマリーヤのもとに入るように手当をした。


 公爵家とはいえ、継承者のない家である。何も対策がなければ、悪意のある者が無遠慮に入り込み家産を食い散らかすのは目に見えていた。


 処置はトゥリーチェイが健康なときに、不意の死における遺言として、信頼のおける者に託されていたものだったが、彼は自身の命がもう長くないことを悟ると、それらを生前に前倒して自ら実行していった。


 後顧の憂いを断ち切ったのち、トゥリーチェイは世を去った。


 それがいまから三か月前のことだ。



     ✳︎




「それで、今日はマリーヤ様が私にご用があると伺いましたが」


 とりとめのない雑談をしばらく続けたのち、オリヴィアは思い出した風に尋ねた。


 オリヴィアのかけた糸口に、ハっとしたマリーヤは思わず笑った。


「いけない。お友達とのお話に夢中になって忘れてしまうところだったわ。ちょっと待ってね。いま言葉を探しているから。……、そう、あの人の形見分けについてなの」


「形見分け、ですか?」


 トゥリーチェイの生前。近衛騎士団で配下となったオリヴィアは何度か屋敷に招かれ、マリーヤともそれ以来の関係である。

 子のないトゥリーチェイ夫妻にとって、オリヴィアは血はつながらないものの孫のような存在に近く、夫妻は二人で可愛がっていた。オリヴィアにも何かしらの形見分けがあっても不思議ではない。


 オリヴィアは静かに話の続きをうながした。


 マリーヤはゆっくり話を進めていった。


のこす子のいない私たちの財産はいずれ王家に収公されます。それは私たちも納得していることです」


 トゥリーチェイは、生前にその収公について、王府と枢密院に交渉し、マリーヤの没後時として、それまでの間王府に管理を任せることにしたのだ。


現在は王府から文官が管理官として派遣され、公爵家執事らとともに財産の保全にあたっている。


「といっても領地のない家だから、返すといっても王都の土地と王都近くにいくつか持っている小さな荘園ぐらい。その他についても、王家へ返すべき公爵家の財産は、目録化はもう済んでいます」


 マリーヤは息継ぎをして、オリヴィアに顔を向け直した。


「でもね、実はまだ目録に入れていない屋敷がひとつあるのよ。王都の東の副門から少しいった先に、本当に小さな可愛らしいお家と森があるのだけど……。これをあなたに貰っていただけないかしらと思って」


「え、屋敷地ですか?」


 オリヴィアは驚いた。


「ええ、そうよ」と言いつつ、マリーヤは微笑むと話を続ける。


「屋敷というほどの家ではないけれどもね。夫が若い頃に、私の名前を使って買ったものよ。あなたは、私とあの人が、本来結婚できるような間柄でなかったことはご存知よね」


 マリーヤの問いかけにオリヴィアは頷いた。


 トゥリーチェイは先王の第三王子であるのに対して、マリーヤは騎士爵家の娘だった。


「私の兄が、あの人の部下だったのね。よく私たちの実家に、酔った兄が同僚たちを連れてきていたのよ。あの人もああいった気取らない性格でしょ。部下の家でも平気でついて来ていたわね。そこで私と出会ったわけ」


 急速に関係を深めたふたりは、しかしその間柄を秘密にする必要があった。理由は両者の社会的身分の差だけではなかった。


「彼には五大侯爵家の婚約者がいたから、本当に苦しんでいたわ。当時の婚約者も彼を本当に愛していたから、彼女も苦しかったでしょうね。申し訳ないとは思うけれども、仕方のなかったことだと思うわ」


 マリーヤは軽く振り返る。 


 関係を隠したまま、トゥリーチェイは密かに資金を用意して、王都の郊外に小さな家を買い、マリーヤを囲ったのだという。


 しかしふたりの関係はどういうわけか、たちまちに「露見」することになった。


「夫は臣籍降下でいただけるはずだった公爵位をフイにして、先に私を住まわせていたその家に転がり込んできたわ。『今日から、この庭がリュヴォフィ男爵領だよ』って照れ笑いしてたわね」


 懐かしそうに言うと、マリーヤは手元のお茶を一口飲んだ。


 彼女の眼前には若かりし頃のトゥリーチェイの姿が浮かんでいるようだった。


「それは侯爵家との婚約をダメにしたことで、罰を受けたということでしょうか」


「ええ。王位継承権を返上して、代りにお情けの男爵位を頂戴することになったの。私が騎士爵家の娘だったから、ちょうど釣り合うだろうってことで。まぁ、確かに私は、高位貴族の中に入っていかずに済んで、ほっとしたわね。王子を奪った女ですもの。下手をしたら闇から闇に殺されるかもしれなかったわね」


 マリーヤはオリヴィアに片目をつぶって見せた。


「ということで、我がリュヴォフィ家は、領地もない一代男爵家からはじまりました」


 前述のとおりトゥリーチェイ伯爵が、「公爵」についたのは、騎士団長を退任してからだ。


 もと婚約者の侯爵家も代替わりを重ね、彼女も別の家へと嫁ぎ、亡くなってすでに久しい。咎めるものはもはや誰もいなかった。


 トゥリーチェイの騎士としての長年の貢献に対して、名誉騎士団長の肩書きとともに、王家に連なる者としての爵位を改めて認めることで報いたかたちだ。


「真実の愛……というものでしたか」


 オリヴィアは冗談めかして尋ねた。


 マリーヤは笑いながら答える。


「いやね。それ、最近のお芝居の流行りのフレーズなんでしょう?」


 この頃、身分差のある二人が偶然の出会いで知り合い「真実の愛」で結ばれるという大衆芝居が流行り、手を変え品を変えていくつも演じられていた。


「よくご存知ですね。流行りのといっても、私たちぐらいの若い人たちになんですよ」


「今は家から出られない私でも、うちの若い子たちから、流行りのお芝居のあらすじぐらい聞いているわよ。

 あの人なら、そんなこと言われたら、笑いころげて否定していたんじゃないかしら。真正面から言われたら、私も照れてしまうもの。真実は、ふたりの暮らしがあっただけよ。

 でもそうね、あの人ももういないことだし、今ならこれが私たちにとっての真実の愛だったのですと言っても良いのかもしれないわね。私がそういうことにしておきたいから」


 オリヴィアはただ頷いた。


 マリーヤの語る昔話に対して、気のおけない相槌をついているように振る舞うオリヴィアも、実のところ、彼らの結婚の経緯を何度か耳にする機会はあった。


 当時のトゥリーチェイは抜き差しならない王位争いに巻き込まれていた。


 王位継承者の後見人たちの対立は高位貴族たちを複雑に分裂させ、王国全土を巻き込むかにみえた。そのためトゥリーチェイは有力過ぎで野心も強かった侯爵家との婚約を解消し、貴族としては最底辺の娘をめとることで、その身を慌ただしく王位から遠ざけたのだ。


 関係者たちの間で、どんなやりとりがあったかまではオリヴィアは知らない。


 ただおおやけにされたのは、トゥリーチェイ王子の「不義の愛」の一件であり、その結果としての婚約解消と王位継承権の自主返上、そしてリュヴォフィ一代男爵家の創設だった。


 目の前のマリーヤ夫人も彼の事情をすべてを飲み込んで、トゥリーチェイの手をとりともに生きてきた。


 しかしずっと昔にそうした事情があったにせよ、永年夫人を大切にしてきたトゥリーチェイなら、「真実の愛」という言葉そのものには笑っても、単純な否定はしなかったろうとオリヴィアは思った。


 マリーヤもトゥリーチェイの人となりは判っているはずだ。これは彼女の照れ隠しなのだろう。


「その後、騎士としてのお勤めのため、ほとんどの時間を王都のなかの借り屋敷で過ごしていたから、若い頃は“小さな我が領地”に戻ってくるのは年に数回だったわね。

 騎士として手柄を立てると、爵位と併せてそれに見合うお屋敷を拝領したのだけど、このはじまりの家だけは、個人で手に入れたもので、しかも私の名義にしていたから、ずっと私たちの手元にあったの。

 ちょっとした王都近くの別邸代わりにも使えたのもあって、手放す必要もなかったですしね。今も老いた使用人夫婦をそちらに移して手を入れてもらっているわ」


 マリーヤはそう語ると、オリヴィアを見た。


「そのような、おふたりにとって由緒深い屋敷地を……」


「私たちにとって大切な持ち物はぜんぶ運び出してあるから、好きに使ってくれていいわ」


 繰り返し断るのも礼に反するとは思ったオリヴィアだが、「私などより、もっと相応しい方がいらっしゃるのではないでしょうか。近衛騎士団だけでなく、閣下とマリーヤ様ご夫妻を慕っていた方は多いですよ」と訊いた。


 トゥリーチェイ夫妻が特に可愛がり、「子どもたち」と呼んでいた人々は、水面下で各所に広がり強く結ばれている。彼らに無断で自分だけが受け取るわけにはいかないことをオリヴィアは指摘した。


「他の子たちには、別のものをちゃんと上げているから、気にしないで。騎士の子が多かったから、剣が喜ばれたわね。でも、あの家については、あの人も私も、あなたに貰ってほしいのよ」


「それは、どうした理由でしょう?」


 マリーヤはソファから「よいしょ」と半身を乗り出すようにした。オリヴィアも身体を傾け、マリーヤの口の方へ片耳を近づけるようにする。


 もちろんお互いに身体が届くわけではないので、あくまでフリだ。


「あなたは、あの王太子殿下の婚約者ですもの。もしかして万一のことがあなたにあるかもしれないとあの人は言っていたわ。その時の備えとして、どこにもヒモのない自分だけの小さな家が密かにあると心強いでしょ。これは私たちの自己満足だから、もし要らなければあなたが売ってしまってもいいの」


 それから身体を戻したマリーヤは、ソファに深く身を沈めた。


「近衛騎士団の子たちから聞いているわ。あの人が亡くなって以来、今の団長はどうも自信を失ってるみたいね」


 トゥリーチェイの圧倒的な庇護の傘が失われたのは、オリヴィアにだけではなかった。これまで貴族間の流動的な流れから自立していられた近衛騎士団も、容赦なく高位貴族たちからの様々な要求に直面せざるを得なくなった。


 それに立ち向かうのに騎士団長は自身の力だけでは足らず、次期王位継承者・イワン王太子のもとに次第に摺り寄る気持ちを見せていた。


 トゥリーチェイが直下で庇護していたオリヴィアは、王太子宮への傾斜を見せはじめた近衛騎士団のなかで浮いた存在になりつつあった。

 

 王太子の婚約者でもある彼女が王太子宮に近づく騎士団から追い出されるわけではないが、だからといって居心地がよいわけでもない。


「あの人が亡くなったら、近衛騎士団のなかで、あなたの立場が微妙になるだろうことを、あの人も心配してたわ。現状は、案の定といったところかしら。我が家との縁に縛られて自由に動けないなどというのは、あの人も望んでいないから、あなた自身の良いように今後は行動してちょうだい。

 家はそのための担保よ。

 あなたがそのまま何事もなく王太子の妃になれば、あなたを通じて王家へお返しすることにもなるしね」


 マリーヤはいたずらっぽく笑った。


「忘れないで欲しいのだけれど、あなたも、もう私たちの子どもたちの一人なのよ」


 親のわがままは仕方がないという顔で、オリヴィアも頷き、「分かりました。ありがたく、頂戴いたします」と礼を述べた。




 

「なにか、屋敷のことで、これだけは守ってということはありますか?」


「何もないわ。でも、もしあなたが気にしないのなら、お願いできるかしら。屋敷のお庭にね。チェリーの木があるの。それは屋敷を買ったときに、私たちふたりで植えた木で、もうずいぶん大きくなっていて今は屋敷の屋根にまで枝がかかるようになっているわ。

 毎年初夏に実った果実を取り寄せてみなで頂いていました。

 その根本のところにね。いつか私の髪一房(ひとふさ)と、ここに収めてあるあの人の遺髪を一緒にして埋めていただける?」


 そう言ってマリーヤは、傍らの小卓に置いてある、小さな長方形の宝石箱を指した。


 素朴な、公爵家どころか男爵家でもお目にかからなそうなその古い木の箱は、彼女にとって、大事な思い出の品であることが容易に察せられた。


「必ず」


 オリヴィアはマリーヤに改めて近づくと足をつき、老夫人の小さな手を両手で包んで告げた。


      ✳︎


 それからしばらくの間、オリヴィアは折々に公爵家へ見舞いに訪れ、穏やかな一時を共にした。やがて夫の後を追うようにして夫人は眠るようにこの世を去った。


 その翌初春。チェリーの白く小柄な花が満開に広がる頃に、オリヴィアは王都の東郊外にある屋敷を訪れて、古い素朴な、可愛らしい宝石箱を花咲く樹木の根元近くへと埋めた。


お読みいただき有難うございました。

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