33 父アントワーヌ
婚約式までひと月を切った頃ーー。
シュッドコリーヌ王都侯爵邸の午後のこと。
「お父様、お呼びと伺いましたが」
オリヴィアはアンヌを連れて、アントワーヌの執務室へと入った。
高い天井まで届く、広くとられた窓から明るい日差しを受けて、執務卓で書類をかたづけていたアントワーヌは、顔を上げてオリヴィアを見ると、声をかけた。
「ああ。そこのソファに座っていてくれ。少し話がある。イワン殿下の周囲の人事についてだ。先程、王の認可もでたのでな。正式な発表の前に、オリヴィアにも話しておきたい」
「お嬢様、私はいったん下がらせていただきます」
アンヌがオリヴィアに声をかけると、アントワーヌは片手を上げて制した。
「いや、アンヌも良いよ。どうせすぐ発表になる。それにオリヴィアもアンヌに相談するだろうから、二度手間にもなるからね」
オリヴィアがソファに腰を下ろすと、その向かいのひとりがけソファにアントワーヌは座った。アンヌはオリヴィアの背後の壁際に下がる。
婚約式の前に、イワン王太子の側近は再編することになった。側近たちは、現状では筆頭としてのジョン、そして少し前に側近に入ったばかりの、財務担当を引き継ぐことになったシモンがいるのみだ。財務の混乱の立て直しと引き継ぎのため臨時で入っているアランはいずれ財務部へ戻る。
そのため欠員を埋める話し合いが枢密院の高位貴族の間でされていた。
「出仕を辞退したヤンの代りには、ヨハン・レルヒェが入ることになった」
「レルヒェ……たしか王都騎士団の師団長のうちにいたはずですね」
王都騎士団は、王宮の壁外、王都の防衛をもっぱらにする組織だ。
「レルヒェ子爵家は、プライム伯爵家とは縁戚関係にある」
「なるほど。トゥリーチェイ閣下の流れとは別の方だということですね」とオリヴィアはうなずいた。
長く軍務についてきたトゥリーチェイは、両騎士団にまたがって影響力を持っていたが、王族の出身であるトゥリーチェイは政治にかかわることを避けてきた。
近衛騎士団の名誉団長となってからは、極力自身の影響力をふるわずに、次代に譲る姿勢を見せている。
そのため近頃では、王都騎士団にはトゥリーチェイとかかわりなく登用されてきた者も多くいる。それは一方で貴族の派閥間の鞘当ての場にもなった。
「レルヒェが、プライムの引きで騎士団で出世したと言ったら侮辱になるだろうが、代々の騎士の家というわけでもなかった子爵家出身の者が、長年大過なく務めたということで師団長にまでなったのだから、後ろ盾のプライム伯に恩は感じていることだろう」
「そんな方のご子息が、王太子殿下の側近に抜擢されるとなれば、プライム伯へのご恩は返せないほど大きくなりそうですね」
オリヴィアの言葉に、アントワーヌは苦笑いした。
「トゥリーチェイ閣下がオリヴィアの庇護者になったことが、プライムの警戒心を刺激したようだな」
現国王のもと、王府はプルミエール伯爵が宰相として統括している。
王権を監視し貴族の権利を擁護する目的の枢密院には、プライム派が陣取っている。
次期国王の主要な側近を推薦するのは枢密院の職権であり、王太子のまわりにプライム派の人間が幅を利かすのは当然のことだった。
前国王の代には、プライムとプルミエールの関係は逆の立場だった。
プライム伯爵が宰相を勤めており、プルミエール家が枢密院の幹部として同院を取り仕切っていた。
いつのころからか、王の代替わりで、王府と枢密院で派閥の入れ替えをすることが慣例となっている。
その循環は、この国の貴族や聖職者、大商人などの上流階級には周知のことであり、当然の流れとして、イワンは王太子になる前から、プライム派のものと親しくしている。
「それで、ヤノーシュ様の代りになるのは?」
オリヴィアの質問に、アントワーヌは渋い顔をする。
「イワン王太子付の側近としては、しばらく補充しないことになった。ヤノーシュは王太子に子どもの頃から付き従っていただけに、王太子にとって、彼の死は衝撃だったという。彼の代りは、当面新しく入れることはしないらしい。その代わり、ジョンの側近を増やすそうだ。
ジョンの下で王太子宮の侍従見習いとして働き、その働きをみて殿下の侍従に取り立てることになった」
「まぁ。そうなんですか」
オリヴィアの気のない返事に、アントワーヌは皮肉げな笑みを浮かべる。
「実際のところ、ヤノーシュに見合うちょうど良いのが、プライムの派閥にいなかっただけだろう。さりとてすでにプルミエールから中立派のシモンを財務統括という要職で押し込まれてしまっているからな。側近ポストをこれ以上とられたくない。なので無理にすぐ補充しないことにしただけだろう。
ジョンの下で働いて登用するというのは、プライムにどれだけ忠誠心を示せるかということだからな」
「とすると、イワン殿下のまわりは、今後はプライム家の色がより強まりそうですね」
王や王太子の侍従職に選ばれる家は、原則的には、自立した一家であることが求められる。
ヤノーシュはもと王家の血筋を誇る家の出であり、プライムの派閥に与して協力関係にあるとはいえ、プライム家直系の子飼の家というわけではなかった。
アントワーヌとオリヴィアのシュッドコリーヌ家が、プルミエールの派閥で協力関係にあるとはいえ、プルミエールの風下にたつわけではないのと同じことである。
貴族間はゆるやかにつながっているので、はっきりとした旗色は具合が悪い。具合が悪くないのは、完全に寄り子になっている家である。
貴族家の寄り子の家は王の侍従にならないーーそのゆるやかにあった不文律を、プライムは破ろうとしていた。
「反対はでなかったのですか?」
「旧い家の者たちは難色を示していたが、王太子の側近がいきなり何人も失われる事態はこれまでなかったことだからな。プライムとプルミエールのこれまでの関係性を損なう方が問題ということになった」
アントワーヌはオリヴィアに説明する。
「王家へのプライムの影響力が増したとみるか、プライムの貴族連中に対する握力が落ちて、裏切りの心配の少ない子飼の家から送り込むしかできなかったとみるか、いまはなんとも言えぬが」
「それはどっちもあることでしょうね。婚約式の前に、イワン殿下の身の回りで混乱した様子を見せられない事情もあるでしょう」
オリヴィアはため息をついた。
「そういえば、婚約式のドレスは、どうなった?」
アントワーヌはオリヴィアに尋ねた。
「王太子宮からドレスとひととおりの装身具が届きました」
「おお、そうか。それは良かった。オリヴィアは近衛騎士団の儀礼服で出たいといっていたが、やはりドレスの方がオリヴィアの美しさが映えるだろう」
アントワーヌは顔をほころばせて言った。
「そうでしょうか。近衛の正儀礼服で出ることを王府に打診したとたんに送ってきたんですよ。ただ私に儀礼服で出席させないために、ドレスを送ってきただけだと思いますが」
オリヴィアは軽い憤りを見せて言った。
「いや、ううむ。さすがに王太子との婚約式に、儀礼服で出るのはなしだと、私も思うぞ」
アントワーヌのその言葉に、オリヴィアは即座に応えた。
「近衛の正義礼服は、白いコートに、袖口の華やかな刺繍も美しくて。殿下の隣に立って、とても映えると思いますけれど」
「……それでどんなドレスなんだ」
「王太子宮を表す薄い黄色に、シュッドコリーヌの真紅を差し色にあしらったものでした」
アントワーヌは怪訝な顔をした。
薄い黄色は、王太子の官職としての色だ。
「装身具の方は?」
「金と、主石は、青紫のアイオライトですね」
いずれも、イワンの個人的な色あいというわけではない。
アントワーヌは苦笑いをしながら、「そうか。殿下もまだまだだな」といった。
「イワン殿下ももう少し成長すれば、プライム家べったりの思考から離れて、王家として広い視野を持たれることだろう。それまでしばらくは、お前も殿下たちから距離をとっているのが良いのだろう。なに、イワン殿下もいずれ一家とだけ親しくする愚かさをわかるはずだ」
「はい。お父様、そうあってほしいと私も思います」
アントワーヌの言葉に、あまり信じていなそうな顔のまま、オリヴィアは相槌を打った。
※
アントワーヌとオリヴィアの会話を壁際で静かに聞いていたアンヌは、はたしてそれでオリヴィアとイワンの仲が近づくのだろうかと内心で首を傾げていた。
今回の魔の森での事故の一件でのオリヴィアの動きには、オリヴィアを脅威と認識し、貶めることに傾注していた王太子宮の者たちから逃れるという目的があった。
イワンとオリヴィアの間には明らかな気持ちの隔たりがある。
アントワーヌの頭からは、なんだかその関係性の本質が抜け落ちているようにアンヌには見えた。
アントワーヌ自身ははじまりは政略結婚といえども、妻と愛し愛される関係を得られた男だった。
アントワーヌは、騎士としてはともかく、どちらかというと生活上の気働きには鈍いところがあり、妻のエメロードは彼の足りないところをよく補っていた。いっぽうでアントワーヌも自身の弱みを自覚し、エメロードのことを信頼して、その手助けを心から受け入れていた。
アントワーヌは後に妻を溺愛していた男と巷で評されたが、それはそもそも両者が信頼しあっていたからこそだ。
オリヴィアとイワンとの間に、信頼関係がもともとない。
アントワーヌの貴族間の力関係の見通しに関しては、彼の父、そして派閥領袖のプルミエールからの直接の教えもあり、貴族として鋭くもないが、さほど甘さは見えない。
それに比べると、アントワーヌの結婚についての見通しは、現実を正しく反映しているとは言い難かった。「お花畑」とまではいわないが、オリヴィアが父に王太子との関係を相談するのは難しく感じるのは、アンヌにはよくわかった。
本当に、オリヴィアと王太子の間がうまくいくのか。アンヌは不安が拭えなかった。
そしてアンヌの抱いた不安は、彼らの婚約の終わる最後まで解消されることはなかった。
お読みいただき有難うございました。