15 少しの間のお別れ
夕食の後のひと時を終えて、オリヴィアはアンヌとともに、自分の寝室へと引き上げた。アントワーヌはエメロードの腰を支えるようにして、夫婦の寝室へと入っていった。
明かりを落とし、ベッドボードに上半身を預け、もうすぐ生まれる第二子のことを語りあっていると、エメロードが笑って訊いた。
「ねぇ、私たちがはじめて会った日のこと、まだ覚えている?」
「ちゃんと覚えてるよ。君の淡い水色のドレスを着ていた姿。ちょこんと挨拶してくれた時、こんな可愛い子が自分の婚約者になってしまって、良いんだろうかと思ったことも」
エメロードは自分の身の傍らにあるアントワーヌの片手に自らの指を絡めた。
「あの時は、あなた、ぶすっとしていてね。私、あなたに望まれていなかったらどうしようと心配したのよ」
「悪かった」
この話が蒸し返されるたびに繰り返される、二人にとってのお決まりのやりとりだ。
顔には笑みを浮かべたまま、絡めた指に力の強弱をつけながら、エメロードは続けた。
「まぁ、私もあの時は、猫を全身からかき集めて被っていたのだけれどね。このお屋敷の門をくぐる直前まで、詰まらないことでお母様と喧嘩していたのよ。
確か、その頃お気に入りだった髪飾りを着けさせてもらえなくて、癇癪を起こしたの。馬車の中でずっとぶすっとしていたわ」
「そうだったのか」
「だから、帰りの馬車で、お兄様からさんざん揶揄われたの。外面が違いすぎる、後で侯爵家から詐欺で訴えられるぞって。ほっといて、って今度はお兄様と大喧嘩っ!」
「そんな裏話があったんだな」
「あなたが私のことを、はじめて好き、愛していると言ってくれた日のこと、私、はっきり覚えている」
「恥ずかしいな。もう忘れてくれ」
「魔獣との戦いで右足を大怪我して、もう守備隊の魔術師として一線で働けなくなった時だったわね。
平民だったら、まだ働かせてもらえたのに、さすがに伯爵家の娘は、次のキャリアに差し障るということで退役することになって。
だいぶあの時は私くさっていたと思うけど、よくそんな私に言ってくれたわね。でも、嫁ぎ先の相手は、どうやら私を嫌っていないということがわかって、ほっとしたのも確かよ」
「これは、どういたしましてで良いのかな?」
アントワーヌは上体を起こし、もう片方の手でエメロードの右の太ももあたりを、シーツごしに優しく撫でた。そこには、大きな傷跡が今も残っている。
エメロードは言った。
「私、オリヴィアを王都で育てるのは、まだ早かったなと思っているの」
アントワーヌは訝しんだ。
「オリヴィアは強くて頭の良い子だ。むしろこの屋敷からはみ出るほど、元気が余っているくらいじゃないか。王都でも十分にやっていけているだろう」
アントワーヌの言葉に、エメロードは頭を振った。
「違うのよ。オリヴィアは確かに強い子。だから、王都でもちゃんと大人の淑女になれることは私も分かってる。でも、まだ幼すぎるの。
王都では、オリヴィアの生まれもっての素直な良いところも、押しつぶされて貴族の娘としての鋳型に嵌め込まれてしまう。
王都の高位貴族の社会では、よく躾けられた、お行儀の良い、いつも微笑みを絶やさず目上には従順な娘が望まれているから。私自身、田舎の伯爵領で伸び伸び育ててもらっただけに、嫌でもその風潮を感じるの。
その圧力は、イワン王子の婚約者選びの話で明らかに強くなっているわ。放っておいてほしく思っても、周りはそう見ない。
そしてオリヴィアは聡い子だから、ちゃんとそういったまわりの要求を聞き取ってしまう。
あんなに元気でかわいいオリヴィアが、彼女のことを知ろうともしない者たちの人形にされるのが我慢ならないの。オリヴィアのせっかくの良いところを、もっと育ててあげたい。
これは、私の願いよ」
「そうか……」
「オリヴィアは、もう少しの間、私たちの手で守ってあげて、しっかりと自分で自分を守れるようになってから、改めて王都に出てきたほうが良いと思う」
エメロードがそう語ると、アントワーヌは否定も肯定もせず、再び「そうか」と相槌を打った。
「お腹の子の方はどうする?」
「もちろん、お腹の子も領地で育てましょう。生まれてある程度身体が安定したら、私は子どもたちを連れて、領地に引き下がりたいと思います。
私がいなくなっても、あなた、ちゃんとしてくださいね」
エメロードは決意を伝えるように言った。
「おやおや。私はこれから王都の夜を一人寝で過ごすのか。寂しくなるなぁ」
アントワーヌが冗談めかして言うと、エメロードも笑いながら言った。
「あなた、私が領地でオリヴィアと過ごしていた頃は、王都には最低限にしか行かなかったじゃない。今度は、私のために早々と領地から王都に出て来ちゃったし。
どうせ何かと理由をつけて王都から戻って来られるのでしょう」
エメロードはアントワーヌに身体を傾けた。
「私が隣にいなくても、少しの間、我慢してくださいな」
それから一週間後、王都の侯爵邸で第二子が生まれた。
生まれたのは男子であり、夫婦で予め決めてあった「シャルル」と名付けられ、乳母の手に託された。
一時は喜びに沸いた侯爵邸だったが、エメロードの産後の状況が重いことが明らかになると、翻って緊迫した空気に包まれた。
出産の万一のために控えていた専属の治癒術師たちが呼ばれ、治療にあたったが、彼らのもたらした思わしくない報告に、アントワーヌたちは青ざめた。
「腹部の内側に、かなり大きな魔腫があるようでした。治癒術をかけると、身体のなかに巣食っている悪い腫瘍も魔力を吸って勢いがついてしまうので……場所と大きさからいえば、奥様は、以前から気がつかれていたはずです。
通常、この治療には治癒術とは逆の、身体の一部を壊死させる魔術が使われますが、そうするとお腹の中のお子にも影響がありますから」
そう説明して、治癒術師は言った。
「覚悟の上でのご出産だったかと」
アントワーヌはエメロードの寝かされている部屋に入った。
ベッドの上のエメロードは薄く目を見開いて、アントワーヌを見ると微かに笑った。
「黙っていて、ごめんなさいね」
アントワーヌは頭を振り、それから笑顔を見せた。
「安心しろ。丈夫な赤ちゃんだったぞ。シャルルは、元気に育つ。いや、育ててみせるからな」
「そう。ありがとう。私たちの子どもたちを、よろしく頼むわね。愛しているわ」
出産で家の中が慌ただしい中、オリヴィアとアンヌたちは、離れの部屋で過ごしていた。それでも、エメロードに関する厳しい状況は伝わってきた。
「お母様に、お見舞いのお花を上げたいの」
不安そうに口にするオリヴィアの願いに、アンヌは強いて笑顔を見せて言った。
「それは良いですね。家の者に手配して参りましょう」
「ううん、自分でお庭のお花を摘んで、花束にしたいの」
「わかりました。庭師には私からお願いしますね。一緒に花壇に行きましょう」
アンヌとともに大きな花束を作ったオリヴィアは、その花束を抱えて、エメロードのいる部屋へと小走りで向かった。
ちょうど部屋から出てきたアントワーヌにオリヴィアは言った。
「お母様に、お花を上げていい?」
顔を涙まみれにしたアントワーヌはかがみ込み、オリヴィアを強く抱きしめた。
✴︎
雲ひとつない秋の晴天。
どこまでも高い青空のなか、親しい貴族たちの参列する葬儀を終えた後、花束で飾られた棺を乗せた一頭立ての馬車は、王家より遣わされた弔旗を掲げる近衛騎士一騎に先導されて、教会を離れた。
その馬車に従うように、喪章をかけた侯爵家の騎士たちと、遺族たちの乗る馬車列が続く。
馬車列はシュッドコリーヌ家、そして実家である伯爵家の屋敷の前を横切るときには、速度をゆるめ、葬儀に入れぬ人々からの最後の挨拶を受けた。
エメロードのために、それぞれの屋敷の塀の前には屋敷で働くほぼ全員が居並んでいた。
ある者は帽子を手に取り胸に持ち、ある者は敬礼をして、そしてある者は花束を進む馬車の車輪の前へと捧げた。
それぞれのかたちで弔意を示す人々に見送られると、馬車列はまた速度をゆるやかに戻して王都の外にある侯爵家の墓所へと向かった。
馬車の中で、アントワーヌは号泣し続けた。オリヴィアも泣き続けた。前の席にあい向かいに座る、シャルルを抱いた乳母も、片手で自分の目元にハンカチを当てていた。周りの空気に当てられるようにして、シャルルも泣いていた。
墓所で馬車から降りた時には、みな顔を真っ赤にして、足取りも覚束なくなっていたが、この日、アントワーヌとオリヴィアの涙が尽きることはなかった。
そしてこの日、オリヴィアにとって、子どもの時間が終わった。
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