10 侯爵家のベテラン騎士
「お嬢、それはお嬢にはまだ危ないから、やめといた方が良いでしょう」
オリヴィアが登った木の太い枝から隣の枝にかかった帽子に手を大きく伸ばしたところで、護衛につけられた騎士のジェラールが両手を広げながら、頭を軽く振って言う。
ジェラールは、シュッドコリーヌ家に長く仕えてきた王都本邸付きの騎士のひとりだ。一線を退いたとはいえ、まだまだ騎士としての能力は十分にあった。
オリヴィアはまだ屋敷の門から先に遊びに出られるほど大きくないが、色々と駆け回る性質の持ち主だ。そのため、屋敷内でのお守り役としてつけられた、オリヴィア曰く「動ける爺」だった。ちなみに「あんまり動けない爺」とは、家令のユーゴのことだった。
「ジェラールさん、その注意はオリヴィア様が木に登っちゃう前にお願いします!」
横からアンヌが悲痛な声で口を挟むが、ジェラールは笑いながら取り合わない。
昼下がり、屋敷の裏庭で、先ほどエムロードに教わった風の魔法の自主練習中だった。
指先からゆるやかに広がる風を発生させるはずが、うまくゆかず、オリヴィアの手元から四方に一瞬の突風が吹き上がり、被っていたつばひろの帽子を吹き飛ばしてしまったのだ。
次の瞬間、帽子が引っかかった庭木にオリヴィアが躊躇いもせずに登っていくのを、アンヌは驚きのあまり制止するのを忘れてしまった。ジェラールは腹を抱えて笑って見ているだけだった。
「でも、向こうの枝は細くて近づけないわ」
太めの枝をしっかり抱え込むようにしているオリヴィアは、ジェラールの制止に口を尖らせて言う。
「その危険の判断が出来ていれば上出来です。そうだ。もう一回、お嬢の風の魔法を使ってみたら良いんじゃないかな」
「そんなっ。ジェラールさん、危険すぎます!」
アンヌが憤りを見せると、ジェラールはオリヴィアから目を離さないまま、「まぁまぁ。俺が下にいるから落ちても大丈夫だからさ」とアンヌを宥めた。
「片手はしっかりと枝に捕まって。身体全体で枝を抱えるように固定する。そう。もう片方の腕を帽子に向かって伸ばして、さらにその伸ばした指先から帽子へと風を起こすように。真っ直ぐ風が向かうようにうんと集中する。さぁやってみて」
「うーん」
オリヴィアの伸ばした指先から、ふわりとした風が舞うように帽子へと向かった。ささやかな風は、つば広の帽子を優しく浮き上がらせた。枝から落ちていく帽子を、ジェラールはオリヴィアを見たまま横目で難なく掴む。
「やったな、お嬢!」
満面の笑みを浮かべるオリヴィアに、ジェラールの傍で緊張の糸の切れたアンヌはしゃがみ込みそうになっていた。
「ジェラールも、魔法が使えたの?」
ジェラールに抱えられ木から降ろしてもらいながら、オリヴィアは聞いた。
「騎士も、ある程度は魔術が使えるもんです。騎士も身体強化でしっかり魔力を使っているのは、お嬢も知ってますよね。しかし魔術の能力を飯の種にしてやっていけるかは、当人の実力次第ですかね。魔術に長けていれば魔術師になれるが、そうでなければ、騎士を目指す。俺は難しいことを考えるより、剣の方が性に合ったんでさ。結局、それで十五の歳から今まで四十年、これで食ってこられました」
そう言って、ジェラールは腰元の剣に目をやった。
「そうなんだ。ジェラールは王都生まれ?」
「お嬢と一緒ですよ。俺もシュッドコリーヌ侯爵領の出でさ。もっとも俺は、その侯爵領のなかでも、さらに奥に行った山間の男爵家からですがね。王都に出て来たのは、ずっと後になってからです。お嬢はこれから大きくなって、魔術と剣、どっちの方が得意になるか分かりませんが、これから楽しみですな」
そう言いながら、ジェラールは剣だこだらけの無骨な手でオリヴィアの頭を撫でた。腰を下ろしてオリヴィアの乱れた服を整えていたアンヌがジェラールの言を咎めた。
「ジェラールさん、オリヴィア様は侯爵家のご令嬢なんですよ。どっちにもなりません!」
「そうだった」
「え。アンヌ姉様。私、魔術師になれないの?」
眉を寄せて泣きそうな顔のオリヴィアがアンヌに聞くと、慌ててアンヌは、しゃがんだ姿勢のままオリヴィアの手をとった。
「え、いや、魔術師、なれますよ! 奥様のように、強い魔術師を目指しましょう!」
「アンヌさんも、だいぶお嬢に弱いんじゃないの」
ジェラールは笑った。アンヌも困ったように笑い、二人の様子を見ていたオリヴィアの顔も笑顔になった。
「でも、お嬢、どんな仕事もそうですが、成りたいってだけじゃ、成れるもんじゃないんですぜ。
才能、努力、そして運もあるんでさ。お嬢はシュッドコリーヌのご令嬢という、他の奴らが成りたくても成れないような家に生まれたんです。それは逆に、お嬢が何かに成りたいと願ったとき、良いこともあるし足枷になることもあるでしょう。
まぁ、それはもっと大きくなってからのことです。いまは一生懸命、目の前のことを頑張ればよいでしょう。さぁ、お嬢はそろそろお部屋に戻って。お昼寝の時間ですぜ」
王都の侯爵家の屋敷でも、騎士の詰所に足繁く通い、そこの魔術師や騎士たちと親しく会話を交わしているうちに、オリヴィアは魔術だけでなく、騎士の仕事にも関心を持った。
幼いオリヴィアには剣を持たせるわけにはいかないものの、身体を鍛えるのは良いことだと、護身術の基礎を教わることになった。
もっとも、芝生の庭で、走って向かってくるオリヴィアを、ジェラールたちが軽く転がして受け身をとらせる、遊びの延長のようなものだったが。
一方、これを機会にして、身を入れて護身の剣術を学ぶことになったのは、アンヌの方だった。年嵩のアンヌは模擬の剣を握ることを許され、オリヴィアから離れているときは、護衛としての基本をジェラールに叩き込まれるようになった。
人の口に戸は立てられないーー。オリヴィアの名前は、高位貴族の娘らしからぬ活発さで王都の貴族たちに知られるようになった。
オリヴィアも、年頃の女の子のようなかわいらしいお洒落に、別に関心がない、という訳ではなかった。
ただ魔法や騎士への好意が、女児に見合わぬものとして周囲に際立って印象付けられた。その噂は好意的にも批判的にも、王都に広がっていくことになる。
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