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り・プロビデンス

第五章  姫と英雄                               姫乃は静かな吐息で眠っている速人の顔を、至近距離から見つめていた。         もう少し近寄れば肌が触れ合うほどの距離だ。                     しかし速人が目覚める気配は無かった。                       (どうせならキスしてしまおうか?)                         少し姫乃は考えたが、そうせずに嬉しそうに見つめているだけだった。                                    速人の顔には絆創膏やガーゼが貼られ、腕や足には何箇所も包帯が巻かれていた。     病院のベットに寝かされた速人に付き添うように、横の椅子に座って速人の顔をのぞき込んでいた。                                       事件の後、居合わせた恵利や双子の姉妹の通報で救急病院に運ばれた二人だった。     しかし、姫乃のけがはすっかり治っていた。                      多少の打撲による痛みは残っているものの、飛来物を捌いた手や、物がぶつかった傷などはきれいに無くなっていた。                             「・・・天叢雲剣の力による治癒に間違いないわね・・・。」              姫乃は小さい声で一人ごとを言いながら、速人の手をとった。            「・・・自分のけがも治したら良いのに・・・。」                   きっと速人は無意識に、私のことを心配して力を使ったのだろう。優しい人だから。    薄れる意識の中で速人が自分のことを(・・俺の嫁だからな・・)という声は聞こえていた。 それを思い出すと恥かしさと嬉しさで顔が熱くなってくる。               そして速人の手を両手で握り締めた。                       「・・う~ん・・・」                                速人はうなされたように少し身じろぎしたが目を覚ます様子は無かった。         日が暮れつつある夕暮れの病室で速人の顔を心配そうに見つめていた。

姫乃が自分の特殊な力を自覚したのは小学校に入ってからだった。            相手の本音がわかったり、姫乃が見つめることでその人が何か思いついたりと、自分でも不思議な現象を感じるようになった。                           最初はテレビなどでよく聞くテレパシーのような力が自分はあるのかと思っていた。    そういう要素もあるようだが、それ以上の本質を見極める力だと理解している。      初めは変な能力があるなととまどったが、元々楽観する性格のため気にならなくなっていた。ところが小学校の高学年になる頃、前世の記憶が少しずつ現れるようになった。      厳密の言うとこの記憶は自分が以前に生きた記憶では無い。                過去に生きた人の記憶と使命がバトンを渡すように、自分に委ねられたという事をその能力で理解した。                                     つまり、過去に須佐之男の命の妻として彼を支えた櫛名田姫の使命を、姫乃に果たしてもらいたいので、この力があるという事をその能力ゆえに姫乃は理解した。           まあ何かの使命を果たしてあげるくらいは、元々お人好しの姫乃に抵抗は無かった。    しかし、櫛名田姫と同じように須佐之男の嫁になる事は絶対に遠慮したいと思う。     歴史を調べると姫と須佐之男の仲は良かったようだが、暴れ者の須佐之男に取引の条件として嫁入りさせられたという境遇は許容できないものだった。               「・・・まあ基本的に別人なんだから、全く同じことをする必要はないわね。・・・」   という事で記憶との折り合いをつけていた。

速人のことは中学に入ってから知った。                        高原高校と国津高校の合同体育祭を見学に来たときに初めて見かけた。          本質を理解する能力のおかげで、須佐之男の命の使命を持つ人だと直ぐに分かった。    出会った時は特に何も感じなかった。                         速人の方は全く姫乃に気が付いてもいなかった。                    いずれは自分に課せられた使命を果たすため手助けすることはあるかもしれないが、夫婦とか妻と言った関係になるとは思えなかったし、何より押し付けられたようで嫌だった。    結婚するなら好きな人、自分が選んだ人が良いと考えていた。              櫛名田の家は資産家であり、この街では旧い名家でもあるので、お見合いを受けさせられる可能性はあったが、それでも選択権は自分に残されて良いはずであった。          なので、前世の記憶に引きずられるような事は絶対にしないと誓っていた。        まあそれでも気にはなったし、今後関わりを持つ可能性は高かったので人となりだけは調べることにした。                                    名前は須賀速人、姫乃と同じ学年で妹が一人居てブラコンのようだ。           剣道の腕以外では、特別秀でたものも無く、温和な性格で友人は多いようだが、あまり目立たない存在のようだ。                                 剣道に関しては、この時すでに・・爆発力の須賀・・と一目置かれており、友人の二人と合わせて北中の三羽ガラスと呼ばれているようだった。                           母親は、櫛名田家に匹敵する名家である美神家の出身で、本家とは親密な付き合いがあるようだ。特に速人達いとこ同士は兄弟のように接しているらしい。                                        しかし、その母親が一年前から入院しており、もう長く無いのではという話だった。    母親の健康に関しては同情した姫乃だったが、それ以外は単なる情報としての価値以上のものは感じなかった。

それから少しして速人の母親が亡くなった後、すぐの剣道大会に彼が出場して勝ち上がっていると噂を聞いた。                                  別に興味をあったわけではなかった。                         ちょうど姫乃が出場していた合気道の大会の直ぐ隣の体育館で、速人が試合に出場すると聞き見に行ってみた。                                  怖いくらいの勢いで猛烈な攻撃で勝利していく速人を見て、やはり須佐之男の血は争えないなあと感心すると共に嫌悪を感じていた。                        力で事を押し切ろうとする姿勢、夫婦どころか使命を援助するのも遠慮したい気持ちになった。そして続いて始まった準決勝戦、暴れまくる速人の姿が泣きじゃくる子供の姿に見えた。「・・!・・」                                  その姿を見たとき、はるか昔櫛名田姫と呼ばれた女性が、須佐之男命と呼ばれた英雄とはじめて出会った記憶とリンクした。

その日、櫛名田姫は困惑していた。                          村を襲って来た八又の大蛇が人身御供を要求して来た。                 この地を治める父、足名椎アシナズチの娘として自分が供え物に差し出されることになっている。                                      それは領主の娘としての責任というか義務であり、納得は出来ないが仕方がないと諦めていた。自分一人の犠牲で、この地の人々が救われるならと楽観的に考えていた。         姫を困惑させているのは、昨夜遅くに一夜の宿を求めてこの屋敷を訪れた放浪者であった。 名は建速須佐之命、天界から追放された英雄だと父が興奮して教えてくれた。       天界の主神の実の弟であり、本来なら皇太子のような立場らしい。            その武威は並び立つ者が無く、天軍の主将として英雄の名を最初に許されたほどの猛者との事だった。                                      父はこの人なら私たちの力になって大蛇と戦ってくれるに違いないと、鼻息も荒く語っていた。櫛名田姫が気にしているのは、天界を追放されたという事実だった。           確かに噂通りの力をその半分でも持っていてくれるなら、この危機を何とかしてくれるかも知れない。                                      しかし、たまたま訪れた地の人々からの願いを簡単に引き受けてくれるだろうか?     もし仮に引き受けてくれたとしても、代償を要求されるのでは無いか?          もし代償を要求されるとしたら、金銭か美女を娶るというのがよくあるパターンだ。    代償の要求はある意味仕方が無い。                          問題は、自分で言うのも恥ずかしいが、この地で最も美しいとされているのが他ならぬ自分であるという事なのだ。                                代償に自分を妻にと言ってくる可能性が高いという事なのだ。              それはこの時代よくある事で、国を救ってもらう取引としては悪い話では無い。      しかし問題は相手が天地にその名が轟く乱暴者の須佐之男命だという事だった。         父に教えられるまでも無く、実の姉に逆らって天界を追われた無法者の豪傑の噂は地上のほとんどの人が知る事実だった。                             大蛇への供え物から解放されても、悪名高い乱暴者の元へ嫁ぐとなると、どちらも良いものだとは思えなかった。                                 蛇に食べられるよりは、少なくとも人の妻として生きる方がましかと思っているが、どうしても気が重くなってしまった。                              父から一緒にお願いに行ってくれと言われて、須佐之男命の居る食堂に父と共に向かっていた。 昨夜、一度お願いしてみたが丁寧に断られたそうだ、その災難には同情してくれたそうだが、大蛇に打ち勝つ力を失っているからという理由だった。                 天軍の英雄と呼ばれるほどの猛者が大蛇に遅れをとるとは思えなかった。         きっと見返りを要求するつもりなのだろう、噂の美姫を見定めてからと思っているのかも知れない。                                       そう思うと須佐之男の元に向かう足取りが、さらに重くなった。             進むも引く自分にとってもあまり良い結果が期待出来ない現状に、姫の困惑は深まった。  先に食堂に着いて、改めて大蛇退治の依頼をしている父の声が聞こえた。       「・・・足名椎殿、貴殿やこの国の民たちの災難には深く同情いたします。・・しかし昨日も申し上げたように、私は今その力の大半を失っています。・・大蛇に勝利出来るとは全く思えません。」                                   「・・・・せめてこの天叢雲剣が少しでも復活すれば、戦う術も出てくるのですが・・・。」思っていたのとは違う、静かで優しい声に櫛名田姫は驚いた。              さぞ荒くれ者らしい粗野な野太い声が聞こえてくると思っていた。            しかし聞こえてきたのは吟遊詩人のような涼やかな、しかし強い意思を持つ声だった。

「ちょっとお待ちください須佐之男命様・・。」                    入室の礼儀作法をすっ飛ばして櫛名田姫は、勢いよく入室して父の隣に座り込んだ。   「ご無礼を承知でお願い申し上げます。・・どうかこの国のために、いえこの私のために力をお貸し下さい。」                                  姫は自己紹介も飛ばして勢いのまま叫ぶと平伏した。                  勢いよく乱入して強い語気で迫ってきた美しい姫に、驚きの目を向けた。         そして一呼吸置いてしゃべり出した。                       「・・・美しい姫、先ずは顔を上げて挨拶をさせて欲しい。・・・名も知らぬままでは話も出来ない。」                                   「・・・失礼いたしました。私はこの地を治める足名椎、手名椎の娘、櫛名田と申します。・・建速須佐之男命様にお会いでき幸運でございます。」              顔を上げ須佐之男を真っ直ぐに見つめながら口上を述べた。               そして櫛名田は雷に打たれたような衝撃を受けた。                   どれほどの荒くれた筋骨隆々の毛むくじゃらの野蛮人なのだろうと思っていたが、自分と父の向かいに幅広の大きな剣を抱えて座っている人は全く予想と違っていた。         そこにいたのは、句や歌を詠むのが得意そうな涼やかな青年だった。           身体は鍛えられているようで服の上からでも逞しさが伺えるが、どちらかと言うとしなやかな豹や虎のような印象を受ける。                            目は知性を感じさせる輝きがあり、櫛名田の様子に口元を緩めて微笑む様は、優しく包み込む包容力の大きさを感じさせた。                            服は使い古されたものを身につけているが、青を基調にした落ち着いた着こなしで粗野な感じは全く受けなかった。                                予想外の印象にどきまぎしている事を表に出さないようにしながら、須佐之男の反応を待っていた。                                     「・・・こちらこそ、これほどの美しい姫に出会えて存外の喜びです。もうご存知のようだが、建速須佐之男命と申します。」                            そういうと抱えていた剣を横に置くと櫛名田に頭を下げた。               それから改めて櫛名田の方に向き直り口を開いた。                  「・・今も足名椎殿に話していましたが、私は本来の力を失っています。一宿一飯の恩を受けていながら心苦しいのですが、大蛇に勝てるとは思えません。申し訳ない。」       そう言って頭を下げる須佐之男を櫛名田は値踏みするかのように見つめている。      それを責められていると思ったのか須佐之男は、少し考えてから極まり悪そうに提案してきた。 「・・・まともに戦っては先ず勝ち目は無いでしょう。・・しかし私が身代わりとして姫に化けて行けば虚を突けると思います。」                                「それはどういう事でしょう?」                           娘の態度に驚いていた足名椎が須佐之男の提案に反応した。              「私が姫に化けて大蛇の元に向かいます。大蛇は酒好きですから私が酒を飲ませて寝かせますから、その隙に蛇たちを討ち取りましょう。」                       「・・・それはかなり危険になるのでは?・・見抜かれるかも?」                   櫛名田が鋭く見つめながら尋ねる。                        「・・八又の大蛇とは浅からぬ因縁があります。・・・無傷と言う訳にはいきませんが、何とか退治出来ると思います。」                                     「・・それは願っても無いことですが・・・どう思う櫛名田?」             足名椎は無言で須佐之男を凝視する櫛名田をちらっと見て言った。            足名椎の問いかけに、須佐之男も櫛名田の返事を待って彼女を見つめる。         一度目を閉じて考えをまとめるように少し間を置いてから、櫛名田は顔を上げた。   「・・・須佐之男命様、私はその剣の力を戻すことができます。」           「何だって!・・それは本当ですか?」                          彼女の言葉に驚いて須佐之男は身を乗り出す。                   「・・私にはものの本質を悟る力があります。・・その剣に荒御魂と和御魂を宿らせれば力をとり戻すはずです。・・私が和御魂を、いえ女神の加護を授けます。後はあなた様の荒御魂を宿らせるだけです。」                                櫛名田姫は頷いて答えた。                           「・・・そうか。・・それならば八又の大蛇とも直接戦える。・・あなたの加護が得られるなら足名椎殿の依頼をお受けいたしましょう。」                      「本当ですか?・・・ありがとうございます。」                    足名椎が安堵のため息をつきながら礼を述べる。しかしここで思わぬ言葉が彼の隣から発せられた。                                      「須佐之男命様!・・女神の加護を与える代わりに条件がございます。」         櫛名田姫が冷静だが、有無をいわさぬ迫力で須佐之男を見つめる。           「く、櫛名田、何を言い出すんだ?」                       「・・条件ですか?・・」                              櫛名田は大きく息を吸い込むと決意したように改めて須佐之男を見つめる。        「はい。私をあなたの妻としていただく事です。」                   迷い無く言い切る櫛名田を見て、須佐之男は絶句した。                 須佐之男は逆に心配していたのだ、討伐の代償に娘を差し出すというのはよくある話だった。彼の方から言われると姫が警戒しているのでは無いかと。

自分が高天原を出てから既に四百年近く経っている。                  東方へ飛び去った赤い龍の力、本来須佐之男の中に宿る創世の力を求めて大陸の端から端へと旅して来た。                                    行くべき道を見失うと、父である伊耶那岐命が火や雲で誘ってくれた。          ある時はアマゾンの奥地のような深い熱帯林の中にある集落を訪ね、ある時は砂漠の中に埋没しかけの街を訪れ、極寒の谷間を越えて寄り添うように住まう集落に身を寄せた日もあった。訪れた場所でしばらく共に暮らし、もし飢えに苦しんでいれば、農業の神を高天原から呼び寄せ穀物の育て方を教えた。                              争いが頻発する地域に行けば、自らの武勇を示し協調の道を模索させ、娯楽も無く寂しい集落であれば芸能の神を呼んで踊りや遊びを教えさせた。                  依頼により現われたアメノウズメは不機嫌な顔で須佐之男に言った。          「あんたに呼ばれたから来たわけじゃあ無いわよ!・・天照様がどうしてもって頼むから来てあげたのよ! そこのところ間違えないようにね!」                  と意気高に叫んでいたが、きっちり人の子たちにいくつかの踊りと遊び、絵や編み物なんかを伝授して帰って行った。彼女のポテンシャルはかなり高い。               一つの集落に居るのは一週間だけの時もあれば、何年も居つく時もあった。        二十年ほど留まったのが最長だったように思う。                    姉があまりにも心配するので、何度か誰にも知られずに顔を見せに行ったことはあったが、おおっぴらに帰省したことは無かった。                         高天原を出て数年後、風の噂で姉上に世継ぎの皇子が誕生したと聞いた。            言魂でお祝いの挨拶だけは送っておいた、聞いてくれたかどうかわ分からなかったが・・。                   姉上の元を離れてから初めの百年ほどは、どこに行っても歓迎された。          天界の英雄であり、天帝の弟ということで、高天原の威があまり届いていない場所でも天照と須佐之男の名は知られていて、詳しい説明も必要なく、村々に溶け込めた。        しかし、いつ頃からか分からないが、あまり歓迎されなくなった。            須佐之男は天界の英雄では無く暴れ者、天帝の弟ではあるけれど、姉に逆らった反逆者、追放され放浪しているという話に変わっていた。                      それでも一夜の宿を与え、いやいやながら食糧を分けてくれたのは、拒否することで暴れ者が暴発することを恐れての事だった。                          そんな人の子の態度を気にせず、しばらく寝食を共にすると、すぐに噂がおかしかったと理解してくれ、それまでと同じように人々と暮らした。                   途中、姉上から自分の娘として育てなさいと、三人の女神が送られて来た。        幼い少女たちとの旅は、苦労もあったが随分と楽しいものだった。                 やっと最近になって赤い龍の、いや八又の大蛇の噂を聞きつけた。            東の海に面した水と緑と黄金が溢れる大きな島にいるという。              人の子たちに害をおよぼしているという赤い大蛇を捉えるため東の海を渡る直前に、天孫邇邇芸命が誕生したという噂を聞いた。                          皇子誕生の噂を聞いた時と同じ複雑な思いに囚われた。                 四百年近くも流浪しながら、本来の使命を果たせずこんな最果ての地に来てしまった。    須佐之男は眼下に広がる東の海の、さらにはるか遠くに見える列島の景観を前に愕然として身動き出来なくなってしまった。                            実は須佐之男が巡った国や街々では、彼がもたらしてくれた文化・芸能・農業・武術等の恩恵に深く感謝し、高天原に恭順を申し出たり、救国の英雄として語り告いだりしていた。   赤い八頭の龍を捜し出し、自分の体内に戻すという使命だけを心の拠り所としていた須佐之男にとって、訪れた集落の願いを聞いたり、手助けしたりする事は、ほんのついでであり、心優しい彼にとって、当たり前のことだったので、彼が去った後祭り上げられているとは夢にも思っていなかった。                                  長い旅の末、八又の大蛇が害をなしている出雲の国に入った時、最近自分について回る誤解を解く手間をうっとうしく思っていた。                         ここはなるべく人の子である出雲の民に接触しないで、大蛇の対決に臨もうと思っていたのだが、とある事情で足名椎の招待を受けた。                       やっと捜していた獲物に出会える喜びに水を差す問題があった、今、天叢雲剣は本来の力を失っていた。                                     天叢雲剣は死海の戦いで力を失ったが、戦闘に耐える程度には回復し、意思の疎通も出来るようになっていた。                                    しかし、八又の大蛇ほどの難敵となると、力不足は否めない。                      今の須佐之男は、本来の力を失い、天界の後ろ盾も無い風来坊に過ぎない。        そんな自分に娘を差し出しても路頭に迷わせるだけだ。だから正式な依頼は受けないようにしていた。                                      歴戦の勇者である彼なら、本来の力が出なくても剣術と体術だけで並の敵なら後れを取らない。   依頼としては断るが当然戦うつもりではあったのだ。                  だがなんと言っても相手は元々自分の中にあった荒ぶる力だ、簡単に行かないことは間違いなかった。                                      櫛名田姫が特別な女神の力を宿している可能性があることは分かっていたので、何とか自分の力になってもらえないかと、この館を訪れていた。                      しかし女神の加護を得たいとは思っていたが、加護を与えるにはかなり神力を剣にすい取らせるか、あるいは直接口づけを交わして神力を体内に吹き込まなければならない。                             さすがに出会ってすぐの女性にそれを依頼するのはためらわれた。            恋人などになる必要は無いが、もう少し信頼を得られてからでないと了承してもらえないだろうと考えていた。                                   だが、出会った瞬間彼女の体から溢れ出る神力の勢いに驚かされた。           姉である天照と比べても見劣りしない力の発露だった。                 またその美しさ、愛らしさにも一瞬目を奪われた。                    近隣の話しでも絶世の美女という触れ込みだったから、それなりに期待はしていたが、その愛くるしさにすぐに言葉が出なかった。                         自分に会うことに緊張しているのか、笑顔では無く真剣な瞳でこちらを見つめてきたが、恐らく親しい人々に見せる笑顔は、恋に落ちない方が難しいほど愛らしいものだと想像出来る。    そして当の櫛名田姫から出た言葉は彼の意表を突くものだった。            「・・えっ!・・」                                「私が須佐之男命様の元に嫁ぐのをお許しいただければ、女神の加護を差し上げます。」  櫛名田は追い討ちをかけるように言葉を続けた。                  「・・・む、無理に嫁いで来なくても大蛇退治は行う。」                須佐之男は一瞬呆然としたが、落ち着くように彼女に促した。             「いえ!あなた様には私が必要です。・・・私を得ることで本来の力と居場所、そして使命と存在理由を取り戻すことが出来ます。」                              そう言った目には強い決意に満ちた光が宿っていた。                  櫛名田姫には須佐之男が泣きじゃくっているように見えた。               表面上は穏やかで優しげに見えた。もちろんそれも彼の本質の一部だとわかったが、自分の責任で周りを傷つけ、あまつさえ最愛の人を悲しませてしまった。             泣きながら謝り続ける幼い少年のイメージが彼女の心に充満した。           (私が彼を救ってあげなければ!)                                                      (私が彼を癒してあげなければ!)                                                    (私が彼の居場所になりたい!)                          (私が彼の使命になりたい!)                                                     そんな思いが身体中に溢れてきて止めることが出来なかった。               会う前は顔も見たくないと思っていたのに・・・。                 「・・もう一度言います。あなたには私が絶対に絶対に必要です。私以外に他にいません!」すごい剣幕で須佐之男に顔を寄せて詰め寄る。                          須佐之男も押されてたじたじと少し後ろに下がった。               「・・・・ハッ、ハハハハハハ・・・・・。」                     数秒、間があってから須佐之男が顔をクシャクシャにして笑い出した。          しばらく笑いが止まらないので、櫛名田が眉を吊り上げて怒りだした。         「真面目に言っているのですよ。ちゃんと答えてください!」              やっと笑いが収まった須佐之男が呼吸を整えながら笑顔を彼女に向ける。        「ごめん、ごめん。・・あんまり嬉しかったものだからつい!」             むむ~、と櫛名田が怒りをあらわにしたまま須佐之男を睨んでいる。           しかしその怒り顔は妙に可愛くて須佐之男でなくても微笑んでいただろう。       「・・・それでどうなんですか?条件を呑むのですか?呑まないのですか?」       櫛名田は可愛い怒り顔をさらに近ずけて問い詰めた。               「・・・ありがとう。・・私のような半端者に嫁がせるのは申し訳ないと思うのだが・・・、確かにあなたの言う通り、私と共に生きてくれる者はあなたしかいないようだ・・・。」  須佐之男は横で二人のやりとりを呆然と見つめていた足名椎に向き直った。       「足名椎殿、大蛇退治の見返りという訳では無いが、あなたの娘を嫁にもらいたい。お許し願えないだろうか?」                                 足名椎は須佐之男の言葉に正気を取り戻して、何度も頷いた。             「ええー。ええー。許しますとも。櫛名田も望んでいることです、何を反対することがあるでしょう!」                                     足名椎は大喜びで、これから八又の大蛇との戦いが待っていることも忘れて舞い上がっていた。須佐之男の言葉に満面の笑みで見つめていた櫛名田姫だったが、すぐに表情を引き締めた。 「それでは命様、さっそく私に天叢雲剣をお貸し下さい。」             「・・・ああ、頼む。」                               そう言うと須佐之男は横に置いていた大剣を軽々と持ち上げ、櫛名田にそっと手渡した。  その剣を両手で抱えるように受け止めた櫛名田は、そっと渡されたにも関わらず、あまりの重さに取り落としそうになった。                           「大丈夫か?・・・」                                須佐之男は、よろめく彼女の身体をあわてて支えた。                「・・だ、大丈夫です!」                              身体ごと両腕で支えられて、赤い顔の櫛名田が体勢を立て直した。           「・・少し離れて下さい。」                             そう言うと須佐之男から一歩距離を置き、剣の真ん中あたりに口ずけをした。      「手を出してください。」                              剣を重そうに下に置いた櫛名田が須佐之男に声をかけた。                須佐之男は黙って右手を彼女の顔の前に出した。                    櫛名田も黙ってその手を両手で掴むと、ゆっくりと手の甲に口ずけをした。        すると天叢雲剣が強い光を放った。まるで生き返ったかのような躍動感が剣から溢れている。 「・・確かに復活したようだ・・・。だがまだ力が戻っていない。」           須佐之男は天叢雲剣の柄を握り締めて、感覚を確認する。               「後は命様の荒ぶる魂があれば、自然と力が戻ります。」                そう言ってから櫛名田姫は、崩れ落ちるように倒れ込んだ。               素早く須佐之男が彼女を抱きとめ、ゆっくりと床に寝かせた。             「大丈夫か?」                                   心配そうに顔を覗き込みながら尋ねる。                      「・・・剣に加護を送り込むのに思ったより力を使ったようです。」         「・・・そうか。しばらくはゆっくり休んでくれ、もうお前は俺の妻になったのだからな。・・無理はしないでくれよ。」                          須佐之男が優しく微笑みながら櫛名田姫の頭を撫でる。               「・・須佐之男様・・。」                              顔を真っ赤にしてつぶやく。櫛名田姫は自分の髪から櫛を一つ外すと須佐之男に差し出した。  「この櫛をお持ち下さい。女神の加護が宿っています、あなたの力が暴走しないお守りです。」     「・・・ありがとう。心配しないで待っていてくれ。」                                須佐之男は少し照れたように櫛を受け取った。                     そして、気を引き締めように立ち上がり足名椎に向き直った。             「姫のことをお願いします。そして大蛇のところへ案内願います。」           天叢雲剣を腰に佩き足名椎の後について力強く歩き出した。 

体育館の中で泣きじゃくるように暴れまくる速人を見て、姫乃はそんな記憶を映画でも見るように感じていた。                                  そして、櫛名田姫が須佐之男に感じたものと同じ感覚を速人に感じていた。       (私が彼を救ってあげなければ!)                         (私が彼を支えてあげなければ!)                         (私が彼を癒してあげなければ!)                         (私が彼の力を戻してあげなければ!)                       (私が彼の居場所になりたい!)                          (私が彼の使命になりたい!)                           (私が彼の存在理由になりたい!)                          そんな思いが心に溢れ、胸が苦しい!                         このまま速人が暴走を続ければ、後で悲しむのは速人自身になってしまう。        それでは優しい彼が深く傷つくのは間違い無い、須佐之男が高天原を追放された時のように!  あの時も須佐之男は深く傷ついていた。                        本来の力が使えなくなるほどに。                           自分の力が誰かを傷つけてしまう。                          それを恐れて荒御魂を発動することが出来なくなっていた。               それを察した櫛名田姫が外的には櫛を持たせ暴走を抑えることで、内的には彼女が須佐之男の悲しみを理解してあげることで、心の鎖を断ち切ったのだ。                    そのおかげで彼は八又の大蛇を圧倒することが出来、高天原への復帰も許された。     正しく須佐之男には櫛名田姫が必要だったのだ。                    今、目の前の速人にも自分が必要であることが、自分の悟る能力で一瞬に理解した。    しかし、以前の櫛名田姫のように速人に声を掛けることが出来ない。           面識も無いうえに、もう準決勝の二本目の試合が始まろうとしている。          この試合をこのまま終わらせてはいけない。その思いが強く心に浮かぶ。        (ダメ!戦っては!)                                                                             (あなたの悲しみは私が分かっています!)                      (だからもう泣かないで!)                             二本目の試合の開始の号令がかかった瞬間に、姫乃は客席から速人に向かって心の中で叫んだ。その時、速人の動きが止まった。                           今までは龍が駆けるように、あるいは嵐が吹くように止まることなく、荒々しい攻めで相手を翻弄していた速人が静止して動かなくなった。                     相手選手も戸惑ってしばらく動くことが出来なかった。                 30秒ほどしてから流石に相手も不信に思いながら、真っ正直な攻めで一本を取った。   それまで速人は全く動かなかった。 

姫乃は速人と直接言葉を交わしたことは無い。近くで声を聞いたことはあったが、速人の方も自分の名前すら知らないと思う。                           あの試合の後、姫乃は速人に好意を持っている自分に気が付いた。                                      いつのまにか、自分以外の女性が速人の隣にいることは考えられなくなっていた。    (・・・こんなはずじゃ無かったのに・・・)                   (・・・前世の記憶と私の気持ちは関係無いはずなのに・・・)             否定しても速人への思いは深まるばかりだった。                    そして姫乃は重大なことに気が付く。                         速人には、どうやら前世の記憶が無いようなのだ。                   ということは速人は、櫛名田姫のことはもちろん姫乃についても何の関心も無い。     それどころか全く存在も知らないということだ。                    (自分はこんなに悩まされているのに、向こうは存在さえ知らないなんて!)       自分は人気があることを知っている。学校ではファンクラブもあるほどだ。        もちろんそれを鼻にかけるつもりは無い。                       でも何か不公平というか、納得できない感情が湧いてくる。               でも今、速人は母親の死で深い傷を心に負っている。                  自分の存在をアピールすることで速人の心に負担を掛けたくなかった。        (・・・今はまだ出会うときじゃ無いわ。)                     (・・速人様に相応しい自分になるために、磨きをかける時ね。)            そう決意した彼女は、今まで以上に勉強に習い事にと更なる努力をしていくことになる。 

夕暮れの病室で速人の手を握りながら、姫乃は昔の事を思い出した。           そして段々とウトウトし始めた。                           速人の力のおかげで表面的な傷やけがは無い。                     しかし、天叢雲剣が発動するときに、速人の体に霊力を大きく吸い取られてしまった。   前世で櫛名田姫が女神の加護を与えたときのような、霊力の放出はなかったが、かなり疲労してしまっていた。                                 (・・速人様、出来れば次は口移しでお願いします・・)                そんな事を思いながら姫乃は速人の手を握ったまま眠りに落ちていった。

第六章   交差する思い                              病室で姫乃が寝落ちしていた頃、美神は緑地公園に立たずんでいた。           雨野と兼井が少し離れた位置から彼女を見守っている。                     辺りは速人が力を開放した時のまま、大きな穴が開き周りの木々や建物も吹き飛んでいた。 少しの静寂の後。                                  すでに日は沈んでいるはずなのに、美神の頭上に輝く鏡が出現した。           円形の大きなもので、裏側には細かい装飾が施してある。               「心体の光明なるは、暗室の中に青天あり。念頭の曖昧なるは、白日の下に霊鬼を生ず。」 美神が目を閉じて真言を唱える。周囲から霧のような光の粒子が鏡に吸い込まれる。               美神の頭上で輝く鏡から光が四方に伸び辺りを照らす。                         光が通った後は破壊が無かったかのように、元の状態に再生されて行く。         三、四分ぐらいたっただろうか。輝く鏡は音も無く突然消え去った。            中央広場は完全に元の状態に戻っていた。                       ただ広場に隣接する競技場の壁だけは、大きな刀で切り取られたような傷が残っていた。 「さすがに完全には再生できませんね。」                       美神は肩をすくめながら、少し離れた場所にいる二人に自嘲気味な笑顔を向けた。   「・・仕方ありません。残留している荒御魂が少なすぎます。」            「まったくあの男はいい加減なんだから!」                      兼井が冷静に、そして雨野が感情も顕わにしながら彼女に歩み寄る。         「・・・この霊気は姫乃ちゃんのものかしら?」                   「あの場には二人だけしか居ませんでしたから、彼女としか考えられません。」      兼井が探るように辺りを見回す。                         「・・姫乃ちゃん、今頃疲れて倒れているかもしれないわね。」              美神は心配そうに速人たちが運ばれた病院の方向を見た。               「それにしても、あれは何者なんでしょう?・・姿は見えませんでしたけど・・・」    雨野が首を傾げて腕を組む。                            「かなり大きな霊力の発動を感じました。しかしどこから発生しているのか結局わかりませんでした。」                                    「こんな事が起こるなんて思ってませんしね。」                    またもや兼井が冷静に、雨野が感情も顕わにしている。                    「・・・そうね。・・でも何か知っているような気配だったのよ。・・わからないですけど。」美神は不安を感じながら速人のことに思いを馳せた。

その美神たちが話していた場所からそう遠く無い公園に、男子学生らしい影が現れた。   ここは国津高校の裏にある児童公園。ブランコや滑り台の遊具が並んでいる。       緑地公園に続く丘の途中にあるため、公園の三分の一が斜面になっている。        斜面に設置された屋根付きのベンチに座っていた女子生徒が立ち上がった。       「いかがでしたか?」                               「ちょっとけがをしただけ。力の発動は偶然のようだな。」               女子生徒より頭一つ背が高い男子生徒が答えた。                  「!!!」                                     その時男子生徒が胸を両手で押さえた。その両手から光が溢れ出る。           両手を胸から離すと、手の平と同じ大きさの9の字に似た丸みを帯びた石が現れた。    いわゆる勾玉と呼ばれるものだ。                           水晶のように透明感のあるその石は点滅を繰り返していた。              「美神さんが鏡を使ったようだな・・・。」                     「そのようですね。・・またあの男の尻ぬぐいをしているのですね。」                   「・・・しかし、こんな事をして良いのだろうか?・・あいつ自身が何かしでかした訳ではないからな・・・」                                    「何を言われるのですか!」                             不安げに首を傾げる男子生徒に対して、女子生徒が声を荒げた。            「いつも苦労されているのはあなた様なのですよ!・・・それなのにあの男ばかりが優遇されて、不公平です!」                               「・・まあ、それはそうなんだが。仕方が無い部分もあるし・・・。」          彼女の剣幕に少しうろたえながら横を向いた。                    「あの方に一番貢献されているのは、誰だとお考えですか?」            「・・そ、それはもちろん私以外にいない。」                    「にも関わらず、あの方はあの男の事ばかり気にされています。」            女子生徒は勢いのまま彼に詰め寄る。                        「あまりにも不公平だと思いませんか?・・最も公平でいなければならない立場の方が・・。」男子生徒は知らぬ間に二・三歩後ろに下がっていた。               「・・・・確かに君の言う通りかも知れない。」                   「そうです!あの方にお立場を理解していただくためにも事を進めるべきです!」     彼女は美しい姿から想像できないほどの勢いで畳み掛ける。             「・・・わかった。」                                ゆっくりと頷いて顔を上げる。その整った顔立ちには夜の光が似合っている。     「・・・私が諭してあげるべきだな・・」                       そして静かに夕焼けが僅かに残る夕闇に姿を消した。                  残った彼女は何かたくらむように不敵に微笑んだ。

次の朝、目を覚ますと目の前に姫乃の寝顔があった。                 「ひ、姫乃??」                                  驚いて飛び起きるとベットの上だった。                        何故か同じ白い作務衣のような服を着て(病院の検査着だということは後で分かった)仲良く添い寝していた。                                  「あれ?広場じゃ無いんだ?・・・ここはどこだ?」                   俺は狐につままれたように周囲をきょろきょろと見回した。                それから姫乃の方に目を戻した。気持ち良さそうに小さく寝息をたてている。     (・・何か幸せそうだな・・)                            両手を胸の前で交差させて横向き(俺の方)で眠っている。               作務衣なのに、姫乃が着るとなんか可愛く見える。白が似合うのかも知れない。      そんなことを思って眺めていると、彼女が身じろぎした。                そのせいで作務衣がゆるんで胸元が大きく広がり、目のやり場に困る。                 (お、おい、ひ、姫乃!)                              速人はあせった!                                   姫乃は美人というより可愛いというタイプだ。                     だからいつも引っ付かれていても、あまりいやらしい感じを受けなかった。        しかし、元々細身だが出るところは出ている、モデルができるほどスタイルは良かった。  いや、何回か雑誌に載ったことがあると言っていたな!                 つまり今、スタイルが良くて可愛い家族ではない女の子と、ベットで寄り添っているという現実に気づかされた。                                 しかも病室内は全員寝入っているようで物音一つしない。朝もまだ早いので廊下からも人の気配は無かった。速人はゴクッと唾を飲み込む。                           (・・落ち着け、落ち着け速人。・・たまに恵利が布団にもぐり込んで来る時があるじゃないか。・・それと同じ同じ、気にするな、気にするな・・・・)              心を何とか落ち着かせると、姫乃に毛布をかけようとした。               その時、姫乃が目を覚ました。                         「・・・は、速人様???」                            「!」                                      とろんとした目で速人を眺める。                          「ひ、姫乃さん・・・。お、おはよう。」                         しばらく呆然としていた姫乃だったが、ハッと今の状況を理解すると顔を真っ赤にしながら飛び起きた。                                    「あ、あの、その、こ、これはですね・・・。」                  「・・ひ、姫乃、だ、大丈夫だから、お、落ち着け。」                「は、速人様のことが心配で、よ、様子を見に来て、つ、疲れてそのまま・・・」    「そ、そうか心配かけて悪かったな。大丈夫だから・・・。」             「・・は、はい。そ、それでは失礼します!」                       そう言うなり姫乃は顔を真っ赤にしたまま、慌ててベットから飛び降りると逃げるように部屋から出て行った。                                 「姫乃?」                                     速人は彼女の後ろ姿を呆然と見送るだけだった。

午前中は精密検査であっちに行ったりこっちに来たりと、病院内を動き回って過ごした。  途中何度か姫乃を見かけたのだが、俺の顔を見るなり赤い顔をして小走りに去ってしまった。いつもなら向こうから寄って来てくれるのに、ちょっと寂しさを感じながら検査を続けた。「どうだい速人君、体調の方は?」                          涼やかな笑顔を浮かべてその人がやって来たのは、精密検査が終わって昼食を食べている時だった。                                      「ありがとうございます出雲会長。特に問題はありません。」             「ああこれ、お見舞いの果物詰め合わせ。病院のすぐ近くにお見舞い専用の果物屋さんがあってね、ああいうお店があるのは知らなかった。」                    「ありがとうございます会長。・・でも今日中には退院しますけど。」         「えっそうなのか。・・う~ん。せっかく買ってきたからね~。美神さんたちとでも一緒に食べて下さい。えーと櫛名田さんだったかな。彼女も入院していたよね。彼女のお見舞いもかねてね。」                                      出雲は大きな果物の入った籠を速人の枕元に置いて、ポンポンと速人の肩をたたいた。  「いや~災難だったね。まさかあんな事故がおきるとは。本当に驚いたよ!」           少しおどけたようにイケメンの生徒会長が速人に近づく。              「・・ところで出雲会長。自分たちが中央広場に戻った時、会長を初め誰もあの場にいませんでしたが、どうされたのですか?」                         「そうそう、まさか君があの場所に残っていたなんて、誰も思っていなかったんだよ。」   きどった様子で両手を軽く上に挙げ、首を左右に振った。               「君たちが広場を離れて直ぐに月島君から電話があってね。爆弾テロの予告があったから作業員の人たちを連れて至急駐車場の方に避難するように言われたのさ。」          「え!本当ですか?」                               「ああ。警察もすぐに到着するはずで、速人にも連絡はしておくと言ったから、大急ぎで現場監督さんたちに伝えて、一緒に避難したんだよ。」                  「・・何の連絡もありませんでした。」                      「・・・彼も慌てていたからね、後回しになったんじゃないかな?」         「・・ところで会長、体育祭は大丈夫でしょうか?」                 「うん?」                                    「競技場も壊れましたし、広場は粉々でしょう?本部の設置どころでは無いですよね?」  出雲はあごに右手を当てて考え込む姿勢をとった。                  「実はね私も不思議だったのだけど、さっき確認したら広場はほとんど無傷だったんだよ。」「ええ!」                                    「競技場の一部が崩壊しているから、観客の動員は制限がつくかもしれないけども、競技自体は問題が無いし、何より広場が問題無く使えるからね大会自体は問題無いよ。まあ多少の予定の変更はあるかも知れないけどね。」                        「そ、そうなんですか?・・・・、かなり酷い事になっていたように思ったんですが・・・。」「まあ僕もね、あれだけ大きい爆発音と爆風があったのだから、相当なことになっていると見ていたのだけれど。・・・今言った通りだ。」                     出雲の言葉を信じないわけでは無いが、あれほどの破壊を引き起こした張本人としては、複雑な心境だった。                                  「う~ん?・・・無事に大会が出来るのであれば、庶務としては言うことは無いです。」 「ふっはははは! 君は僕が思っていたより真面目な人物のようだね。」        「そうですか?」                                 「月島君に聞いていた印象とは違うようだね。・・ところで、もう一人の庶務にもさっき挨拶してきたのだが、彼女はとても疲れているように見受けられたのだけれど、大丈夫なのかい?」「姫乃がですか?」                                「ほう? 二人は既にファーストネームで呼び合う仲になっているのかい。」       「・・まあ、その姫乃と呼ばないと怒られるので・・」                       「まあまあ照れなくても良いよ。君ももう高校生になったのだから、恋人の一人ぐらいいても何の問題も無いよ。」                                速人の否定を意にも介さず、うんうんと頷く。                               「いやだから、そういうのじゃ無いんですよ! 出雲会長、人の話聞いてますか?」    「それはともかくとして、彼女けがは無いようだけど、とてもだるそうにしていたよ。」  やっぱり人の話を聞いて無いなとおもいながら、姫乃の事が気になって仕方が無い。   「爆発に巻き込まれたせいで、ショックを受けたかな?・・そんな柔な女の子じゃ無いはずですけどね?」                                   「さすがは恋人のことを良く理解しているね。」                    だから恋人じゃないですよ、と言う前に別の声が二人の会話に介入してきた。      

「こ、こ恋人ってどういう事なのお兄ちゃん!!」                   入り口に目を向けると、速人の着替えが入ったカバンを持った恵利が驚いた顔で立っていた。「よお恵利! もう学校終わったのか?」                       ずかずかと肩を怒らせながら恵利が近づいてくる。                   ベットのすぐ側まで来た時に始めて出雲の存在に気が付いた。             「あ、こんにちは! 須賀速人の妹の須賀恵利です。兄のためにありがとうございます。」 ついさっきまでの怒気はどこにいったのか? 完全な外行き用の顔で微笑んで会釈をする妹を見て、先恐ろしい奴だなと顔を引きつらせる速人だった。                恵利が見つめる方に顔を向けると、何故か出雲が固まっていた。             いつもなら女性相手に洒落た挨拶を、流れるような口調で話す人なのに。         出雲はメヂューサの首に睨まれて石に変化してしまったかのように、動きを止め驚いた表情で恵利を見つめていた。                             「・・・あ、あの?」                                反応の無い出雲を見て、恵利は不思議そうに首を傾げた。               「い、出雲会長? どうしたんですか?」                 「・・・・・・・。」                               「会長? 出雲会長!」                    「・・・・・・・・・・・・」                           「出雲さん!・・出雲会長!」                           「・・あ、ああ、すまない。・・ちょっと驚いてしまって。」                やっと拘束から解放された囚人のように、出雲はぎこちなく速人に返事をした。     「どうしたんですか?」                              「い、いや・・恵利さんでしたね? 以前にお会いした事はありませんか?」       出雲は速人の問いかけには答えず、恵利に視線を戻す。                 様子を伺っていた恵利は、不思議そうにしながらも丁寧に答えた。           「会長さん?とは初めてお会いすると思います。」                         「そうですか・・あまりに可愛い女性でしたので見とれてしまいました。」              速人は生徒会室に四人の美少女を侍らせる姿を思い出した。                「会長。妹にちょっかいは出さないで下さいよ。」                  「なにを言っているのかな速人君? 私は公序良俗に反することは全くしていないよ。」  「そうですか? 公序良俗に反しなければ何をしても良いという訳でもないですが。」  「君も酷いね。私のイメージはどうなっているのかな?」                                 「まあそれは良いじゃないですか。・・ところで」                                         速人が話し掛けようとするのをスルーして、出雲は恵利の正面に向き直った。                     「私は国津高生徒会長の出雲主税と言います。・・あなたとは何か浅からぬ因縁のようなものを感じます。・・以後お見知りおき下さい。」                                                                      出雲の言葉に恵利は目を丸くする。                         「そ、そうですか?・・こちらこそよろしくお願いします。」                                                                     満面の笑みで見つめる出雲に、恵利は深いお辞儀をした、彼女は変に礼儀正しいところがあるのだ。                                       微笑む出雲に顔を少し赤くしながら、言葉を続けようとする恵利の声を別の少女の声が遮った。  「出雲会長!」                                   「こんな所にいたのですか? お探ししました。」                   入口の方を見ると四人の美少女が部屋に入って来るところだった。            言うまでも無く、出雲の取り巻きの生徒会の面々であった。              「姫乃さんと話込んでいたらいつの間にかいなくなって。」              「また女の子を口説いていたのですか?」                      「相変わらず手が早いですね。」                          「困ったものです。」                                四人の美少女が次々と出雲に苦情を述べる。                     「すまないね君たち。速人君と話がしたくてね。・・姫乃君も元気そうだったしね。」                                     笑顔で答える出雲に呆れ顔の四人だった。                      「そちらの可愛い女の子はどなたですか?」                      四人を代表して加山美鈴が尋ねる。                         「あ、初めまして。須賀速人の妹の須賀恵利です。兄がお世話になっています。」     突然の美少女軍団の来襲に、固まっていた恵利が慌てて頭を下げる。                              「ああそうなんですか。速人君の妹さんですか。」                  「私たちは国津高校の生徒会の者です。どうぞお見知りおき下さい。」         「は、はいよろしくお願いします。」                         まじまじと四人の美少女達を見つめながら恵利はまた頭を下げる。           「どうして国津高校の生徒会は綺麗な方ばかり何ですか? 私、ビックリしちゃいました。」 羨望の眼差しで四人を見つめている。出雲のことは目に入っていないようだ。      「まあ! なんて可愛いこと言う方でしょう。」                   「本当に。・・あなたもとっても可愛いらしいのに。」                「本当に可愛い妹さんね速人君。・・私の妹にしたいくらい可愛いわ。」                          「・・そうね、じゃあもう私たちの妹って事でどうかしら?」                         木佐アサミと浜田美里が恵利に抱き着いた。                     「それは良いアイデアですわ。」                           二人の後を追って加山美鈴と沼川仁美が恵利に抱き着く。               「う~ん!・・柔らかくて良い香りですわ。」                          「フフフ・・恵利さん本当に可愛いですね。」                         「本当ですね・・これからはお姉さまと呼んで下さい。」                      「可愛い!・・それに気持ち良い~。」                              代わる代わる言葉を掛けながら四人が恵利を抱きしめる。               「え、あ、あの、そ、その、お、お姉さまって言われても?・・え~と?・・あの・・だから・・お兄ちゃん何とかして!」                                   お昼過ぎの病院に恵利の叫び声が響き渡った。        

呆然とする出雲を立ち直らせ、名残惜しさいっぱいの生徒会の四人を恵利から引き離すと、早々に引き上げてもらった。                             疲れきった恵利はぐったりしながらも一人先に家路についた。              その後速人は病院から診断結果を聞き、かすり傷以外に異常が無いことを確認してから病室を後にした。                                     病院の正面玄関手前のロビーで長椅子に座っている姫乃を見つけた。          「お、姫乃。・・もう終わったのか?」                         近づいて声を掛けると姫乃はハッとして顔を上げた。                 「は、はい。速人様と一緒に帰ろうと思って待っていました。」             嬉しそうにはにかみながら姫乃は立ち上がった。                       しかし、いつもならすぐに近寄って腕にしがみつくはずなのに、何故か近づいて来なかった。                                       不思議に思った速人だったが、周囲には受診を待つ人達でごったがえしていたので、さすがに恥ずかしいのかと思って速人から近づいた。                     「そうか。じゃあ帰ろうか。」                           「はい!」                                     歩き出した速人の隣に、少しだけ間を空けて並んだ姫乃が笑顔で応える。        「俺は一度学校に戻って美神会長に挨拶してくるけど、姫乃はどうする?」       「あ、それでしたら私も学校に・・、こほっ。こほっ。」                見ると姫乃は右手を口に当てて苦しそうに咳きをしていた。              「あれ? 大丈夫か?」                               「はい。大丈夫で・・、こほ、こほっ。」                       急いで速人の方に向き直った姫乃だったが、またも苦しそうに手を口に当てた。     「全然大丈夫じゃないぞ! もう一度病院で見てもらおう。」              速人は苦しそうにする姫乃の、空いている手を掴むと元来たほうへ戻ろうとする。       「ほ、本当に大丈夫です。・・原因は分かっていますから。」             「そうなのか? 原因は何なんだ?」                       「・・学校へ行きながら話します。・・でも原因は速人様なのですよ。」         「え? そうなのか?・・・じゃあまあ歩きながら話そう。」                「は、はい。」                                   速人は掴んだ手はそのままで、ゆっくりと姫乃を引っ張って出口に向かった。       姫乃もつかまれた手をそのままに、少し頬を赤くしながら速人の後に続いた。       市民病院を出た直ぐの通りを、ゆっくり十分ほど歩けば高原高校のある丘の麓に着く。       しばらくは手をつないだまま無言で歩いていた二人だったが、高原高校に続く坂道に差し掛かったところで手を離した。                              見上げると町並みから抜き出て、白い校舎が城砦のように見える。                           「それで、どうした?」                             「・・実は昨日の騒動の時の天叢雲剣の発動に、私の和御霊を大量に持っていかれました。」                                      「そうか。・・迷惑かけたな。」                          「いえ。和御霊を差し上げるのは構わないのですが、・・普通に提供するとかなり疲労していまうので。」                                   「そうか。・・普通に提供というと疲労しない方法もあるのか?」                       「そうです。・・く、口移しなら大丈夫だったのですが・・。」            「え?何?・・良く聞こえない。」                          「い、いえ何でもありません。」                           姫乃が真っ赤な顔をして慌てて首を左右に振った。                  「と、とにかく。それで今、体に力が入らなくて明日は学校を休むかも知れません。」      「そうか。・・明日は全体会議があるけど無理しないほうが良いな。」             「・・・・・」                                  「じゃあもう今日はもう帰れ。今も辛いだろ?」                   「だ、大丈夫です。速人様と一緒に行きます!」                    速人の提案に姫乃は必死な顔で詰め寄って来た。                    速人は優しく微笑んでから、姫乃の肩に手を置き、妹に言って聞かせるように口を開いた。 「今日一日、病院の中で何度も姫乃とすれ違ったけど、全然近寄ってもくれなかった。」                    「え! そ、それはちょっと恥ずかしかったので・・・。」              「いや、悪気は無いのはわかっているからそれは良いんだ。・・でもちょっと寂しかった。」                                     「えっ?」                                    「何て言うのかな?・・近所に恵利と同い年の双子の姉妹が居るんだけど、いつも恵利と三人揃ってお兄ちゃんって寄って来てくれるんだよ。たまに俺と恵利がけんかしてると、察して全く寄って来ないんだ。・・何か同じだなと思って。」             「・・・・・」                                   「だから姫乃には元気でいて欲しい。最近一緒にいる時が多かったから、今日はどうもしっくり来なかった。」                                「・・妹・・」                                  「ま、まあそんな感じかな? ・・姫乃とは同じ年とは思えないからな。」        姫乃は深くため息をついてから、速人を見上げた。                 「・・ま、まあ良いです。意識はしていただいているようですので。・・ちょっと釈然としない部分もありますが・・今日は帰ります。」                     「それが良いと思う・・途中まで送っていくよ。」                            「いえ、大丈夫です。タクシーで帰りますから。」                   ちょうど通りかかったタクシーに片手を上げる、姫乃は速人から一歩離れると深々とお辞儀して、少し首を傾げて微笑んだ・・右京山の天使と呼ばれるに相応しい愛らしい微笑みだった。                           「それでは速人様。今日はこれで失礼致します。・・少なくとも妹ぐらいには認識していただけたようですので・・嫁として受け入れて下さるように頑張ります。会議には出ます。では!」          「お、おう・・じゃあまた学校で!」                          タクシーに乗り込んだ姫乃は、見えなくなるまで手を振っていた。

速人が生徒会室に着くと美神が一人で作業していた。                 「お疲れ様です会長。」                               美神は書き込んでいた書類から顔を上げ、速人を見て微笑んだ。            「どうですか体調は?」                              「ちょっとかすり傷なんかはありますが、特に問題ありません。」            美神は席を勧めながら速人の近くに移動した。                    「そうですか。見舞いに行く時間が無くて申し訳なかったわね。」            「いえ。雨野先輩が朝来ていただきましたし、大事も無かったですから。」      「・・姫乃さんはどうですか? 疲れていませんでしたか?」             「ちょっと体調が良くないようでしたので、今日は帰ってもらいました。」       「やはりそうですか。・・そんなに心配は無いでしょうが明日は休んでもらった方が良いかも知れませんね。」                                  美神は速人の言葉に頷きながら考え込んでいる。                  「・・本当に昨日は大変でしたね。まさか爆破テロがあるなんて。・・今日は午前中、報道の人達が学校や緑地公園に大挙していて大騒ぎになっていましたよ。」          「そうですか。・・爆破テロだったんですか? ・・出雲会長に聞いたら競技場以外は無事だったとそうですが。」                                速人の疑問に美神は微笑みながら応える。                      「一応、表向きにはそういう事になっているわ。・・でも爆発が誰の仕業かは分かっているけど、元々の騒ぎを仕組んだのは誰か分かっていないわ。」               「そ、そうですか・・・、じゃあ爆発が俺のせいだという事はご存知なんですか?」    「もちろん分かっているわ。」                            微笑んで頷いた後、美神は表情を引き締めて速人を見つめた。             「それで、何か思い出しましたか?」                      「・・・・」                                   「力を使ったということは、何か思い出したという事でしょう?」            速人は少し考えをまとめてから口を開いた。                     「天叢雲剣の声が聞こえました。」                         「剣の声?」                                   「はい。自分を使えという声が。」                        「・・・・」                                   「・・それで姫乃だけでも守らないとと思っただけなのですが・・あんな事になってしまって・・・。」                                    「前世の記憶は戻ってないのね?」                          「眠っている時に夢を見ました。天界で天照と須佐之男っていう兄弟が出会う夢でした。・・・でも詳しくは覚えていないです。」                    「ふう~・・・」                                  美神は小さくため息をつくと微笑みながら速人を見た。                「速人らしいわ。思い込んだら考えなしで突っ走ってしまうところは、子供の頃から変わってないわね。」                                    「・・そうですか? 自分は冷静な方だと思いますが。」              「・・ふ~ん自覚が無いのね。まあ良いわ。」                  「・・・・」                                   「ところで話は変わりますが、美神家本家の話なのだけど。」             「本家ですか?」                                  美神家は速人の母である渚の実家で、お盆と正月には毎年親族が集まる。         美神は少し俯いてチラチラ上目使いで速人を見てくる。顔も少し赤いように感じる。    お盆には前当主である祖母を中心に親族会議が行われるが、まだちょっと先の話だ。   「・・実はお祖母様が私と速人のことで・・」                     美神は赤い顔をしてしゃべりにくそうにしていたが、速人が美神の話しだすのを待っていたので意を決したように口を開いた。                              突然、生徒会室のドアが勢いよく開き書記の田所が入って来た。            「会長すいません。明日の全体会議のことなんですが・・・。」             田所の突然の乱入に驚いて動きの止まった美神を見て、田所も動きを止めた。      「あれ?・・お邪魔でしたか?」                          「だ、大丈夫よ。速人君の話も終わったところですから。」               一瞬だけうろたえた美神だったが、すぐにいつもの落ち着いた態度に戻っていた。       「そうですか?・・明日オブザーバーで国津高校に行く時、タクシー使っても良いですか?」「ええ。」                                     田所の差し出した書類を受け取りながら速人の方に顔を向ける。                                                                                                                                        「速人君。じゃあ明日はよろしくお願いね。庶務としての力量に期待しているわ。」     「はい。頑張ります。」                               美神は速人を見つめて満足げに微笑んだ。

「それでは、合同体育祭の中間報告会議を始めます。」                   会議室の前列に陣取る生徒会の席から、この会議の司会を務める副会長の兼井が宣言した。 「今日はオブザーバーとして国津高校生徒会から副会長補佐の朝倉さんに来てもらっています。」                                      「副会長の月嶋の補佐の朝倉です。よろしくお願いします。」              朝倉は立ち上がって全体に礼をした。                        「では先ず美神会長からお願いします。」                       全体の様子を見たあと兼井は隣に座る美神に合図を送った。               すっと美神は立ち上がると会議室全体を見渡した。                   この室内には30人を超す人がひしめきあっていた。                  二重にロの字型に置かれた机には前列には各部活の代表者が座り、後列には各クラスから選抜された実行委員が座っていた。その中には奥津有希の姿もある。             速人と姫乃は上座に陣取る生徒会の机の端、月嶋と朝倉の隣に座っていた。        会議室全員の目が美神に集中する。                          「皆さん。ついに今年もこの時が来ました。」全員をゆっくりと見回して美神は艶やかな笑みを浮かべた。                                   「毎年恒例のこととはいえ、両校の意地とプライドをかけた最大のイベントです。一体化して頑張りましょう。」                                           「「「はい!」」」                                                                                                   二・三年生を中心に会議室全体から意気が上がる。一年生は少し戸惑い気味だった。                                                                              「よろしい!では会議を始めましょう。」                       全体の士気の高さに満足して美神は腰を下ろした。

副会長から体育祭の日程や全体の流れが説明される。                  その後、部活連委員長から試合前の練習時間と場所の割り当てが説明され、その配分について不満のある部からの意見とその調整で多少時間は取られたものの、順調に会議は進んで行く。「では文化部の担当ですが、例年通り文芸部とコンピ研は生徒会の補佐をお願いします。茶道部と華道部、料理研も例年通り模擬店の運営をお願いします。受付は手芸部と天文部でお願いします。それからマラソンの警備ですが・・・・・・」                 書記の小谷野が流れるように担当を伝え、各部の責任者とアイコンタクトで確認していく。  この辺りは速人と姫乃も手伝っていたので、一緒に確認しつつ聞き流していく。 

「それでは応援合戦について今年度庶務の二人から説明してもらいます。」        司会の兼井が速人たちの方に手で合図を送る。                     兼井の合図に頷きで応え、二人は立ち上がった。                   「今年度庶務の須賀速人です。よろしくお願いします。」               「同じく櫛名田姫乃です。よろしくお願いします。」                  速人と姫乃は同時に頭を下げる。                           会議室内がざわつく。                                入学式の校門前での騒動から始まって、二人の事を知らない生徒は誰もいなかった。    しかし、直接全体の場で発言するのは、就任直後の全校朝礼での挨拶以来始めてだった。  姫乃は南中出身でなくても知っている生徒は多い。                   速人は恵利の兄として北中ではよく知られていた。                   ざわめきは直ぐに収まった。                             静かになるのを待って速人は話はじめる。                      「応援団に選抜された皆さん。すでに一度準備会議でお会いしていますが、一応決まり事ですので・・・立候補すれば団長になることが出来ます。やって見たいと思う人はいますか?」   「・・・・・・・・・」                         「・・・・・・・・・」                               速人は二分ほど待って口を開いた。                         「いないようですので、自分が団長、櫛名田さんが副団長と言うことで進めさせていただきます。よろしいですか?」                               会議室にいる全員から拍手が起こる。                        「ありがとうございます。では副団長お願いします。」                 隣の席に座っていた姫乃が資料を片手で持ちながら立ち上がった。            「えーと。今年の応援合戦のテーマは、本校の校是となっている一致団結、完全投入、です。」よく響く澄んだ声で説明する姫乃に、男子生徒達は釘づけになっている。         女子生徒の中にも信奉者が多数いるようで、両手を胸の前で組んで瞳を輝かせて姫乃を見つめる姿が多く見受けられた。                             「それで衣装なのですが。皆さんのお手元の資料にもありますように、男子は去年と同じ詰め襟の学生服です。そして女子なのですが・・・・。」                  そこで姫乃は一度言葉を切りちらりと雨野の方を見て、速人に確認するように顔を向けた。 視線を感じた速人は、やはりちらりと雨野を見てから姫乃に軽く微笑んで頷いた。    「え~と、応援団実行委員の準備会議でいろいろな意見がでまして、去年と同じチアガールの衣装とか多数ありましたが・・・・。厳正な協議の結果、女子も男子と同じ詰め襟の学生服を着ることに決まりました。」                             応援団意外の男子生徒からがっかりしたオーラと「え~」という不満の声が上がりそうになる前に大声で叫んで立ち上がる姿があった。                      「な、なんですって!」                               雨野が驚きに目を大きくまん丸にして立ち上がっていた。室内の全員が注目する。        「バ、バニーガールじゃないの・・・・?」                      あまりの驚きに呆然となりながらも速人と姫乃を交互に見て尋ねる。                    「違います。」                                   速人は座ったまま顔だけ雨野の方を見る。雨野のこの反応を予想していたのだろう落ち着い て答える。                                     「な、なんで?・・・あんなに事前工作をしたのに・・・」               姫乃は立ったまま黙って速人の方を見ると、速人は(俺にまかせて)と片手を挙げた。  「確かに男子生徒はバニーガール一点押しで決まりかけたのですが、女子生徒の強烈な反対で没になりました。」                               「・・そ、そんな・・」                              「去年も雨野先輩主の提案でチアガールになったんですよね?」            「そ、そうよ。応援と言えばチアガールじゃないの。好評だったわよ!」        「主に男子生徒からですよね。女子達からは露出が多すぎると不評だったと聞きましたが。」「そんな事は無いわよ。衣装は私がデザインした特注品でとっても可愛くてセクシーだったんだから。」                                     速人は得意げに話す雨野の姿に、やれやれとため息を一つついた。           「そのセクシーというのが問題だったと思います。」               「・・・・」                                   「とにかく女子生徒からの強い要望で露出の多い衣装は却下になりました。」      「でも詰め襟制服は無いんじゃない?」                        (そうだ!そうだ!)という声が男子生徒の中からいくつか上がったが、周囲の女子生徒に睨まれて静かになった。                                 「去年は華やかさで勝負でしたから、今年は熱血で勝負してみようという事でこうなりました。」                                       姫乃が雨野の迫力に押されながらも説明する。                    「で、でもやっぱり応援合戦はインパクトが必要でしょう?」             「いえ。そういうインパクトは必要ありません。」                   なおも食い下がろうとする雨野を速人はあっさり否定する。           「!・・・・」                                 「とにかくみんなの意見で決まりましたからよろしくお願いします。」          速人が次の議題に進めようと話をまとめに掛かった時、雨野は立ち上がって待ったをかけた。「じゃ、じゃあ私がバニーガールの衣装を着て最前列で応援するわ。それなら良いでしょう?」 どや顔で提案する雨野に(なるほど!)とか(それは見たい)といったつぶやきが、応援団以外の男子生徒たちから聞こえて来た。                        「え、え~と。・・それは見たく無い事はないのですが・・・。」            姫乃と有希がジト目で速人を睨んでいる。美神は楽しそうにしながら様子をみていた。   兼井はあきれたように目を閉じてこめかみを手で押さえている。             姫乃と有希の視線に気が付いた速人が慌てて話し出した。               「そ、そうは言われても、・・先輩は風紀委員長ですから会場警備で応援合戦自体見られないと思いますが?」                                  「何を言っているの。警備の方は副委員長がしっかりと采配してくれるから、私はフリーなのよ。」                                       雨野の隣に座っている風紀副委員長が「えっ!」という顔をして雨野の方を見ている。                                     「いえ、そういう問題ではありません。委員長が現場を抜けるのはどうかと思いますが?」                                      「そんなこと気にしなくていいわ!」                       「・・それに先輩は応援団員でも無いですから。」                  「私は個人参加だから良いのよ!」                         「・・・何でそんなにバニーガールにこだわっているんですか?」            不思議そうに尋ねる速人に、満面の笑みで雨野が答える。               「踊り子と言えば肌を露出するものなのよ! 私が一肌脱げば会場の全てを悩殺してあげるわ!」                                      「味方を殺してどうするんですか?」                         速人はため息をついてから雨野に正対した。                     「とにかく応援団全員で決めたことですから変更はありません。・・先輩は風紀委員長の責任を全うして下さい。」                                速人が少し語気を強めて言った言葉に、雨野は「ぐぬぬー」とばかり悔しそうに歯を食いしばった。二人の様子を楽しそうに美神は眺めている。                  「え~ごほん。話が反れているようだから話を進めてもらえますか。」          わざとらしい咳をして、兼井が速人を促す。しかし・・・               「ちょっと待ちなさい!」                              納得しきれていない雨野が、速人に食って掛かる。                  「あんたは昔から女心がわからない奴なのよ!」                    速人を勢いよく指差して雨野が叫ぶ。                        「前も同じことを言って・・」                            速人が落ち着いた様子で雨野の暴言に対しようと話し始めた。               ところが隣で一旦着席していた姫乃がサッと立ち上がると、速人の言葉を遮って雨野に反論した。                                       「雨野先輩! 昔からと言いますが、あなた今まで一度も速人様に会ったことが無いはずです。言いがかりは止めて下さい!」                            いつも笑顔の姫乃が珍しく険しい顔で雨野を睨んでいた。                雨野は(しまった!)という表情をしていたが、あわてて釈明しようとした時、別の場所から声がした。                                      「櫛名田さん! どうしてあなたが速人の昔の事を知っているの? あなたこそ今まで会ったこと無いでしょう!」                                応援団員たちが座る窓際の席の真ん中で立ち上がった有希が、姫乃を真っ直ぐに見つめていた。「奥津さん。それは今、関係無い話です。余計な口出しはしないで下さい。」       姫乃が有希の方に顔を向け、目を細めながら言った。                 「な、なんですって!」                               姫乃の言葉に有希が目を吊り上げる。                         三人の様子を美神さんがワクワクした目で見守っている。                兼井副会長は呆れ顔で頭を左右に振っている。                     会議室全体もざわつき始めた。                            速人と姫乃の関係は入学式の校門前の出来事で知れ渡っている上に、有希と速人が幼馴染で親しい関係という事も北中出身者から既に全校に広まっていた。              三角関係を疑う噂が飛び交っていたので、みんな興味深々で成り行きを見ている。

「櫛名田さん。奥津さん。今は全体会議中です。関係無い話は遠慮して下さい。」     諭すように速人は姫乃と有希の目を見て、しかし少し強めの口調で話す。        「雨野先輩。お気持ちは分からなくは無いですが、少し大人気ないと思いますよ。その辺で矛を収めて下さい。」                                  同じように雨野にも諭すように言いながら自制を促す。                「悪かったわ。残念だけど従うしか無いようね。ごめんなさい。」           「速人様。申し訳ありません。」                           そう言うと生徒会の二人は直ぐに着席した。                      有希はまだ何か言いたそうだったが、何も言わずそのまま腰を下ろした。  

「すいません。少し脱線しましたが話しを進めます。」                 速人は三人が着席した事を見届けると何事も無かったかのように話始めた。        その様子にざわついていた他の生徒達も静かになった。                「それでは応援の内容として・・・・」                        既に配布してあるプリントに沿って説明を終えると室内が少しざわついていた。     「すいません。ちょっと質問良いですか?」                      「どうぞ。」                                    三年生のネクタイを締めた体育会系のクラブの代表者が立ち上がった。         「この応援の内容ですが、結構ハードな内容ですよね。全員出来るのか疑問です。」    三年生を中心に同意の声がいくつか上がった。                    「完全投入のスローガンは分かるけど、一年生はついて行けないのでは?」        二年生の応援団員が片手を上げながら発言した。                    姫乃が速人に目で確認してから口を開く。                      「はい。全員が同じパフォーマンスが出来ない事は想定しています。習熟度合いでチーム別けをしてバランスをとりながら進めて行きます。」                   「分かりました。」                                 質問した生徒は一応納得したように着席したが、別の一年生が挙手をした。       「チームで別けるにしても、この内容だとチームリーダーの負担は結構大きいと思いますが大丈夫でしょうか?」                                「二・三年生はなんとかなると思うけど、一年のチームリーダーは難しいと思うよ。」   三年生が追随するように発言する。                         (なんとかいけるでしょう。)(無理。無理。)(根性出せば?)(体力勝負?)     会議室全体がざわざわとなった。                          「それで。応援団長はどう思っているの? 原案を出したのは私だけどここまでハードにしたのは速人、・・須賀君ですよね?」                          ざわついていた室内が静かになり、全員が速人に注目する。              「僕は出来ると思っています。なぜなら・・・」                  「・・なぜなら?」                                 全体を見回して一旦言葉を切った速人に、美神が先を促した。            「・・自分のプライベートな話になりますが、僕の母もこの学校の出身です。」    「・・母親・・」                                  今まで全く無言で様子を見ていた咲耶が速人を見つめて呟いた。           「三・四年前でしょうか。一緒にこの体育祭を見学に行った時、母が言っていました。」 (速人。一致団結・完全投入が私の学校のスローガンなのだけど。・・不思議なのよね、自然とそういう人間に知らないうちになっているのよ。・・たぶん先輩たちが皆そうだから、受け継がれて行くのだと思う。・・・伝統っていうのかしら?)              「そう言う母は誇らしげな顔をしていました。・・僕はその言葉と表情をよく覚えています。」「そしてこの高原高校に入って二ヶ月と少し。母の言う通りその伝統が受け継がれているのを実感しています。」                                 会議室内は静まりかえり、全員が速人の話に聞き入っていた。             「先程の雨野先輩のバニーガールにしても、強い熱意の表れであり、我が校の伝統の一端と言えます。・・・まあ方向性に問題はあると思いますが。」                ハハハという笑い声が軽く起こった。                        「つまり。先輩方の熱い指導の下で練習すれば、少しぐらいハードだったとしても我が校の生徒なら可能だと確信しています!」                         「いいぞ!」 「そうだ!」 「よっしゃあ!」                    二・三年生の間から歓声と一緒に気合の入った声が上がった。             「もちろん簡単に出来るとは思っていません。さっそく明日の放課後から練習を始めたいと思いますが、どうでしょうか?」                           (わあ~)という歓声と盛大な拍手が会議室全体から溢れ出した。            全体の興奮が少し収まるのを待ってから、美神が立ち上がった。            「よし! 盛り上がったところで、今日の会議はここまで。お疲れ様!」  

会議の後片付けをしていたら、咲耶に声を掛けられた。                「速人君、お疲れ様。・・なかなか興味深い会議でした。」              「朝倉さんもお疲れ様でした。」                           声を掛けられた速人は咲耶の方に振り向いて軽く礼をした。               速人は以前にも咲耶に感じた焦燥感のような思いと共に、なつかしさをその美しい笑顔に感じてとまどった。                                 「・・あの、朝倉さん。」                             「はい。なんでしょうか?」                            「この前会った時から聞きたかったのですが、以前どこかで会ったことがありますか?」 にこにこと穏やかな笑顔を向けてくる咲耶にとまどいながら質問した。           その質問を聞いて咲耶は少し下を向いて考えてから顔を上げた。            「ちょっとこの後お時間いただけますか? 私も少し聞きたい事がありますから。」    速人はすぐ横で書類を整理していた姫乃の方に目線を送った。             「速人様。片付けの方は大丈夫ですから朝倉さんを途中まで送ってあげて下さい。」   「そうだね。朝倉ちゃんはタクシーでしょう? 下のバス通りまで速人君が送ってあげてくれる?」                                       何も聞かなくて察してくれた姫乃の後ろから、美神が声を掛けた。どうやら話は聞こえていたようだ。                                     「わかりました。・・それじゃあ朝倉さん、話は歩きながらで良いですか?」      「そうですね。よろしくお願いします。」

校門を出ると遠目に小さく国津高校が見えていた。                   間に林立する高層マンションに邪魔されて完全には見えないが、校舎の一部が国津高校のものだとはっきり分かる程度に見ることが出来た。                     聞きたい事があると言っていたのに咲耶は何も話さず、黙って速人の隣を歩いていた。   丘の中腹ぐらいまで来た時、速人が声を掛けた。                   「えーっと、朝倉さん。・・聞きたい事というのは何でしょうか・」           咲耶は何も言わず少し下を向いたまま歩き続けた。速人もそのまま歩き続ける。      少ししてから咲耶が口を開く。                           「県道のところ左に少し行けば神社がありますよね。そこで話しましょう。」       「わかりました。」                                 速人が頷くとそのまま咲耶は隣を黙って歩き続けた。                  その後数分で目指す神社に到着した。                         二人は参道の途中から横に公園があり、その中に足を踏み入れた。               咲耶が三・四歩先に進んだ後、速人を振り返り微笑んだ。                その笑顔を見て速人は気が付いた。何故さっき咲耶になつかしさを感じたのか。     (・・母さんの笑顔に似ている。)                          速人は立ち止まって一瞬動けなかった。

速人の母はいつも笑顔であった。                           母は体が弱くてよく寝込んだり、入院したりしていた。                     しかし、性格は明るく世話好きで、町内会長を引き受けたりイベントを立ち上げたりといつもあちこち飛び回っていた。                                         父が母の体を心配して、おとなしくするよう何度も説得していたが母は動き回ってはその度に寝込んでいた。                                   でも倒れても入院してもいつも母は笑顔で、速人はそれ以外の顔を思い出せなかった。   そんな母も一度だけ、速人に泣き顔を見せた事があった。                速人が小学三年の頃だろうか、いつもより長く入院した時があった。           父に連れられて恵利と一緒に病院に見舞いに行った。                  病室に入ると母はベットの上で上体を起こして夕焼けに染まった窓の外を眺めていた。   目からは静かに涙が流れていた。                          「お母さん?」                                   恵利が涙を流す母を見て不思議そうにしながら声を掛けた。                速人たちに顔を向けた母は、涙は流していたが笑顔だった。              「お母さん。どうして泣いているの?玉葱切ったの?」                 恵利が母に近づいて手を握りながら尋ねた。                     「・・うん。そうよ玉葱切っちゃた。」                        母は空いている手で恵利の頭を撫でながら答えた。                   父は何も言わず入り口の近くで佇んでいる。                      速人もベットの側まで歩み寄り恵利に後ろから抱きつきながら母を見た。        「お母さん大丈夫?・・もう良くなったの?」                     母は黙って涙を流しながら二人を抱きしめた。                    「お母さん?」                                   自分達を抱き締めたまま暫く動かない母を疑問に思いながら首を傾げる。            「・・速人。・・速人はお兄ちゃんだから、恵利を泣かさないように守ってあげてね。・・お母さんとの約束よ。」                                強く強く二人を抱きしめながら話す母の姿を速人は今でも忘れたことが無かった。          その日から一ヶ月ほど、母との約束を果たす為トイレと授業時間以外は恵利から離れない時期があった。                                      学校の休み時間ですら、恵利のクラスに行きずっと一緒にいるようにした。         さすがに見かねた学校の先生が、母に連絡し諭されて止めるまで、速人は妹を守るのが自分の使命だと思って行動していた。                              元々恵利はお兄ちゃん子だったが、あの頃から妹のブラコンぶりに拍車がかかったような気がする。 

優しさと悲しみの混ざった母の笑顔に咲耶の笑顔が似ていると思った時、咲耶が話はじめた。         「先ずさっきの質問に答えます。私はあなたと直接会ったことは無いわ。・・でも美神家の祝賀パーテイーなんかには両親と一緒によく参加していましたから、あなたとすれ違ったことぐらいはあるかも知れません。」                           「あれ! 朝倉さん。身内なんですか?」                       以外な事実に驚きながら尋ねる。                          「いえ。義明さんとは(はとこ)だけれど、須賀家とは他人と言っても良い関係だと思うわ。・・それから私の事は咲耶と呼んでくれますか・・一応同じ一年ですから。」            「そうですか。・・わかりました咲耶さん。」                    (か、顔が近い!)                                 一歩二歩三歩と速人に接近しながら話す咲耶にとまどいながら答えた。         「それにしても速人君。高原高校のアイドル達を独占しているという噂は、本当だったのね。」「な、何か人聞きが悪いですね。」                         「・・会議中にあんな様子を見せられてはね~。」                   会議の時の姫乃と有希の様子を思い出し、速人は苦笑いをした。あの後有希はずっと速人を睨んでいたのを思い出した。                            「・・ま、まあ姫乃は右京山中のアイドルだったそうですから分かりますが、有希は関係ないでしょう?」                                      ふう~と咲耶はため息をついて、呆れたように速人を見た。              「本当に分かってないの?」                            「えっ、何を?」                                 「奥津三姉妹って、美少女姉妹としてこの辺では有名よ! 以前ローカルだけどテレビにも出ていたわよ。」                                    「あ~そういえば・・」                               有希の家は速人の家の近くの商店街の中の定食屋だ。                  有希は中学生の頃から手伝っているし、妹たちも時々一緒に手伝っている。        二年くらい前にローカル放送局の看板娘特集のような番組に取材されたと聞いた。     テレビ出演のおかげで客足は増えたが、娘たち目当てで来る客も多くて困ると親父さんが愚痴を言っていたのを思い出した。                            この店には母が寝込んだ時なんかに、小さい時から頻繁に食べに行っていた。        親同士が友人という事もあり、長居することも多かった。                自然と三姉妹と兄妹は仲良くなり、親たちからは兄と四姉妹と言われていた。       有希は弓道で全国大会の上位に入る腕前のため、大きな大会ではアイドル並の応援があると有希の親父さんが自慢していたことも思い出した。                        「さらに言えば超絶美少女の美神さんのいとこと言うか、姉弟のような関係?・・これだけ揃えばそりゃ嫉妬の対象にもなるよねー。」                       「う~ん」                                      身に覚えが無いことも無いが、特に望んだ立場でも無いので、速人としては濡れ衣を着せられた感覚だった。                                 「・・・と、ところで聞きたい事というのは、姫乃たちの事?」            「何だか話しを逸らそうとしてない?」                        咲耶はじと目で顔を逸らす速人を見た。                        それから一息つくと気持ちを切り替えたようだ。                   「まあそれは良いでしょう。・・・聞きたいのはあなたのお母さんのことよ。」     「母? ・・俺の母のことを知っているんですか?」                 「渚さんに会ったことはないけど、話はよく聞くわ。」                 母の名前まで知っていることに驚きながら、次の言葉を待った。            「本当なら婿養子を取って美神家本家を継ぐはずだったのに、須賀の家、つまりあなたの父上と駆け落ち同然でお嫁に行った人でしょう。一度お目に掛かりたいと思っていたわ。」              「えっ、マジですか?・・そんな話聞いた事無いですけど。」               初めて聞く話に目が点になる。                           「そうよ。それで仕方無く照さんの父上が美神の本家に婿に入ったのよ。まあ渚さんは結局許されて家に戻ってきたから、君の父上が家を継いでもよかったのだけれど、須賀の名前は捨てられないからと断ったそうよ。」                           「・・・そうか、だからあまり美神の本家に行きたがらなかったのか。」        「そうなの?」                                  「美神さんの母親の朱里さんは母さんの妹だから、いつも美神さんを連れて遊びに来ていたげど、実家にはめったに行かなかったな。」                      「まあ気持ちはわからないではないわね。」                      咲耶は速人の正面から近づくと両手で速人の両肩を掴んだ。              「ま。そんな跡継ぎ問題の話はどうでも良いの。・・私が知りたいのはあなたの気持ちなの。」 「お、俺の気持ち?」                                両肩を掴まれているせいで、咲耶の端正な顔が目の前すぐ近くにありドギマギしてしまった。   なんだか良い香りもしてくる。                            速人は目を逸らすこともできず、咲耶を見つめた。                  (やはり母に雰囲気が似ている。)                            性格というか雰囲気は姫乃が母に似ていると会った時から思っていたが、顔立ちというかオーラのようなものが咲耶は似ているように感じた。                     「そう気持ち。・・あなたは渚さんの事どう思っていたの?」             「どうと言われても。・・まあ好きだったと思います。」               「ふ~ん。」                                   「それがどうかしたんですか?」                           腕を組んでこっちをにらんでいる咲耶を、不思議に思いながら尋ねた。        「・・仮定の話ですけど、渚さんがあなたの本当のお母さんでは無いとしたら、どう思う?」                                      「・・どうと言われても。そんな事はあるわけが無いし。」              「だから、仮定の話だといっているでしょう!」                    咲耶の剣幕に一歩引きながら、速人は腕を組んで考えた。               「・・まあ。特に変わらないかな。母は母だから関係無いというか。」        「・・そう。」                                   咲耶は自分の口元に指を当てて、少し考えてから口を開いた。                                   「・・それなら。もちろん仮定の話だけど、今まで兄妹だと思っていた人が実は違っていたとしたらどう思う?」                                「・・恵利のことですか?」                            「さあ、どうかしら?」                               咲耶は速人から一歩距離をとって、挑発するような笑みをうかべた。                            速人は腕を組んだまま暫く考えていたが、苦々しい表情をして顔を上げた。               「ふざけるなって感じですね。本当の家族でなかったとしても一緒にいた時間は本物です。今さら関係無いですね。」                               「ふ~ん、そうなのね。」                              「じゃあ最後の質問だけど、本当は血のつながらない姉弟が、あなたの事を異性として思いを寄せていたらどうする?」                               「・・恵利のことですか??」                           「さあ、どうかしら?」                                  またもや咲耶は妖しい微笑を浮かべて速人を見つめていた。              「恋愛の対象としてという意味ですか?」                      「そうよ。」                                   「・・あくまで仮定の話ですよね?」                        「もちろん! あなたたち姉弟のことを疑う人はいないわ。」              いたずらを仕掛けた子供のような無邪気な笑顔を速人に向け、片目を瞑った。       速人はまたしばらく考えていたが、ため息を一つつくと軽く頭を左右に振って、肩を竦めて咲耶に向き直った。                                 「・・家族として育ったものをいきなり違う立場で接するのは難しいですね。・・実際にその場にならないと分かりませんけど、あまり変わらないように思います。」                                           「・・やっぱり甘いのは変わってないわね・・」                    「えっ、何ですか?」                               「いえ。何でもありません。・・どうもありがとう。聞きたい事は聞けたから。」    「そうですか。・・質問の意味がよくわからないですけど、それで良いのなら・・。」  「ええ。ありがとう。・・見送りはここまでで大丈夫よ。じゃあまた。」         笑顔で片手を挙げて挨拶すると、そのままバス通りの方に向かって歩いて行った。        速人は足早に立ち去る咲耶の後姿を、黙って見送った。 


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