女子高生の友人は蝟ー繧上lました❷
4月10日。
でも、まさか。嫌な予感を振り切るようにして、走るスピードを上げたときだ。楓が、隣にいないことに気が付いた。
後ろで小さな悲鳴が聞こえる。
「楓っ!?」
倒れた道路標識のそばに、楓のスポーツバックが落ちている。
「いやぁあああ!!」
悲鳴に振り返ると、楓の腕がバケモノとなった人の群れに飲み込まれていくのが見えた。
見えた、だけだった。バケモノの中に飛び込む勇気もなければ、飛び込めるだけの用意もない。
楓の手がバタバタともがくが、その上には5人以上のバケモノがいる。
「やめてっ、離して! 触らないでぇえええ!!」
「っ、かえで、待ってて!!」
それでも、と思い、足元の石を相手に投げつけた。けれど相手はどう見ても「人間の形」をしている。覚悟のない私が投げた勢いのない石は、ぽとり、と地面に落ちてしまった。
楓の顔が地面に押し付けられ、制服のリボンが引きちぎられる。それだけじゃない、彼女の足に、腕に、頬に、無事な皮膚はないほどだ。
噛みつかれた端から、血が出ていく。じゅくじゅくと、肉の食べられる音が聞こえた。
「痛い、いたいっ、ぃいい!」
泣き叫ぶ楓の声に、足がすくむ。楓の手を掴んだバケモノが、その腕に歯を立てた。まるで鶏肉みたいに、楓の腕から肉が剥がれる。ぶちゅんと音を立てて、太い血管が切れた。顔を真っ赤にしたバケモノは、無感動に楓の肉を食べて……飲み込んでしまった。
真っ白な骨が見えた楓の腕を、バケモノが引きちぎる。ばきんっ、という音がした。
「ひぃいぃいいい!」
細い悲鳴を上げた楓が、のけぞる。その目から、真っ赤な血の涙がこぼれていた。
「かえで……!」
じんじん、がんがん、頭が痛む私の喉から、酷くかすれた声がでた。それは楓に届いたようで、彼女の残った無事な手が、地面をぱたぱたと撫でる。
「ゆう、たすけて、たすけて……」
楓の悲鳴は濁っていた。力もない。もう手が付けられない、私はそう判断した。判断してしまったのだ。
私は、顔をそむけた。
「ゆぅ、ゆう、どこ、ゆう……」
次第に楓の悲鳴が、か細くなる。地面にゆっくりと血が広がり、私の足元に到達する。
「あ……」
その様子から、ふと気が付いた。彼女は私が、見えていない。
見えていないのなら、逃げてしまってもバレないのではないか……。
私の胸のうちに、そんな思いがよぎった。そうだ、もう、助からない。バケモノとなった人に噛まれれば、直に楓も同じバケモノになってしまう。
「っ!」
響く悲鳴を背に、私は走り出す。家まで、家に帰れば、まだ何とかなるかもしれない。私は、助かるかもしれない。バケモノの動きは緩慢なことが多く、逃げるには十分な距離を保つことができた。
でも……普段は電車通学をする私の家までの道も、バケモノで満ち満ちている。
(隠れて、やり過ごそう。きっと警察や、自衛隊が、なんとかしてくれる……)
すると道の途中に、アパートのゴミ捨て場があった。倉庫の形をしていて、内側から鍵もかけられそうだ。
(ここだっ!)
急いで走り込み、扉を閉じた。中の木材を使って、ドアに簡易的なバリケードを作る。臭いこそゴミ捨て場そのものだけど、我慢できる程度だ。
(大丈夫、だいじょうぶ……)
うずくまって、私は動けなくなった。物音を立てたら、バケモノに気づかれるかもしれない。そう思うと、スマートフォンに触ることさえ、怖かった。
(楓……ごめんね楓……ごめんなさいっ……)
助けられなかった楓の悲鳴が、耳元でぐるぐると渦を巻いているようだ。もう私は何も考えることが、できなくなっていた。何かを考えただけで、その考えが音としてバケモノたちに伝わってしまいそうな気配さえあった。
どれほどそうしていただろうか。
やがて……爆発音もしなくなり、あたりはひっそりと静まり返っていた。もしかすると、もうあのバケモノはいないのかもしれない。
そんな希望を思って、私はゆっくりとゴミ捨て場のドアを開けてみた。
街灯は消え、周辺は夕闇に包まれつつある。ものの輪郭はあいまいで、しかし、少なくとも動く者やモノは見当たらなかった。
恐る恐る外に出て、あたりを見回す。
(誰も、いない……っ、今なら!)
家に帰ろう。そう決意した時、不意に足音が聞こえた。思わず振り返り、私は目を見開く。
「楓っ!?」
夕暮れの中に浮かび上がるシルエットは、確かに楓のものだった。彼女らしい、制服のアレンジも見えた。ブラウスの白いボタンは、ピンク色のボタン。靴下のワンポイントも桜柄だ。
生きていた。生きていてくれたんだ! あまりの嬉しさに、私はそこから飛び出すように楓のそばへ駆け寄った。お腹は空いていて、周りは暗くて、無事な人間が居るとは思えない世界の中で、それはとてつもない希望に思えた。
どんな状態でもいい、楓が生きていてくれるのならそれで、それだけでかまわない!
「楓っ、かえで、よかった、楓! ごめんね、私、あの時、逃げて……!」
そう言いながら、楓の体を力いっぱい抱きしめる。
ぎぢゅっ……。
そんな音が、彼女の体から鳴り響いた。
「ごめん、かえっ……で?」
見上げた楓の顔の左側が、完全に消失していた。肩から骨が見えて、足には歯形がたくさん、制服はボロボロで、体にやっと引っかかっているだけの状態だ。
無事なのは、靴下とブラウスぐらいだった。彼女の残された目は真っ赤で、そこから血がしたたり落ちている。
ずるり、と、嫌な音を立てて、彼女のスカートの裾から肉の塊らしきものが落ちた。テレビで見たことがある、角が丸い三角形をした臓器。制服の向こう側に、まともな皮膚さえないことを想像した。
「楓……!」
彼女の制服が、彼女の皮膚ごと、地面に落ちた。理科室の人体模型のように、ピンクや紫の臓器がひしめく腹の中が露になる。
私は、忘れていたのだ。
楓はバケモノになったのかもしれない……。
その可能性を、忘れていた。
「うっ……」
吐き気が込み上がり、私は思わず口元に手を当てる。止めきれなかった胃液が口いっぱいに広がり、指先から外へ出た。黄色い、何もない、胃液。それが地面に散って、私はとうとう、
「うぇっ、ゴホッ! ゴホッ!」
と、咳き込んだ。
楓に、似ても似つかない姿。でも、そんな彼女に、私は駆け寄ってしまった。抱きしめてしまった。肉を、さらに、潰してしまった。
彼女から最後の尊厳を奪ったのは、私自身だった。彼女を見捨て、彼女を見殺しにし、バケモノに石を投げる勇気さえなかった私自身だ!
「ああっ……!」
私の足から、力が抜ける。思わずしゃがみ込んだその瞬間、楓の残った右顎が開くのが見えた。残された半分の歯が、嫌に白く光っている。それが私の首筋に迫るのを、止める気力ももうない。
「かえで」
彼女の歯が、私の首筋に突き刺さる。痛みを感じることさえないほどに、私は自分に絶望していた。友人の何もかもを裏切り、一人ゴミ捨て場に隠れていた私は、なんと愚かな人間なんだろう。
皮膚に食い込んだ白い歯が、赤く染まっていく。
かつん、こつん。楓の歯と私の骨が、ぶつかり合って音を立てている。
しぎ、しぎしぎ。皮膚がちぎられる感覚でさえ、もうどうでも良かった。ただただ、悲しくて、訳が分からなくて、どうにもならなさに怯えた。
血が落ちて、制服の半分が濡れて、楓の欠けた指先が私の制服をむなしくひっかいた。指先がめくれ、血があふれ、骨が見えて、ようやく私の制服が裂けた。肌へと伸びた楓の指が、皮膚の下にめり込んでくる。
痛い、と、わずかに感じた。
皮膚と肉が引き裂かれて、喉の奥まで血がせり上がってくる。私の手足は、私の意思を無視して、地面をばたばたとひっかいていた。気持ちと体、そして心が、ばらばらになっていく。
(……かえで、きっと、もっと痛かったんだろうな)
私の痛みを消し去っているのは、後悔の念だ。私のように楓1人じゃなくて、多くの人間に囲まれて、噛みつかれて、食いちぎられた。それは……長い苦しみより、きっともっと恐ろしかったし、痛かっただろう。
(あれ……?)
その時、不意に、誰かの視線を感じた。生きている人だろうか、それとも同じように、バケモノだろうか。もし誰かが、私たちを見ているのなら。誰でもいい、だれだっていい、何だっていい。何でもいい。見ているのなら、助けてほしい。
(誰でもいいの)
他の、バケモノかもしれない。でも私は、手を延ばさずにはいられなかった。視線を感じた方へ、手を伸ばす。
メリメリと音を立てて、私の脇腹が開かれた。楓の歯は片側だけで、それがまるでハサミのように私の腹を開いていく。臓器が外に晒される感覚と、流れ出た血の気持ち悪さが、ごちゃ混ぜになる。
(助けて)
私じゃない、楓を助けてほしいんだ。楓を、楓をどうか……いっそ死なせてほしい。殺せない私の代わりに、いっそ。
(誰か、お願い)
意識が、朦朧としていく。真っ赤な血の涙を流す楓が、嬉しそうに私の心臓に食らいつく。ぶづり、と、噛み千切られた心臓から、血が何度か噴き上がる。太い血管が引きはがされて、楓がそれを食べている。
つま先が冷え、指先が消え、目の前が暗くなり、脳の奥底がじりじりと痛む。
4月10日。私は、死んだ。