95、目に見えないもの
ティンクの部屋の鍵を手に、夢がつながらなかったら帰ろうと思いながら、リルルは階段を歩いていた。あんな風に言ってくれたけれど、本当にティンクの夢に行ってもいいのかしら、と躊躇う。
ドアの前に立つと鍵穴から明かりが漏れていた。
私の為に早く眠ってくれたんだわと思うと、あれは、本心から言ってくれた言葉なのだと理解して、リルルは嬉しくて心が震えた。
ティンクの部屋のドアを開けると、いつものティンクのオルフェス領の隠れ家の白い部屋に出た。
食欲をそそるような…、いい匂いがするわ。リルルは香りに誘われるように歩いた。家の奥の台所の、小さなキッチンに立つエプロン姿のティンクの後姿を見つける。
「ティンク、」
「ああ、リルル。来たのか、ちょっと手伝ってくれ、」
かまどの上の鍋にはパスタが茹っていた。フライパンに、ティンクは唐辛子とにんにく、厚切りなベーコンを入れて、炒めていた。
「もうじき出来上がるから、カトラリーを引き出しから出してほしい。客なのに手伝わせて悪いな、」
ティンクは食器棚を指差した。白色を基調にした食器がいくつも並べられていた。リルルは引き出しを開けて、カトラリーとランチョンマットを探し出した。麻の生成り色のランチョンマットを並べると、お揃いなのねとニヤニヤしてしまう。
「これぐらいできるから大丈夫よ?」
リルルは自分の格好を見て、驚きながら答えた。白い半袖シャツに白いズボン、生成り色のエプロンをしているティンクの格好はこの家の住民と理解できる。自分の格好は、男物の白いシャツを羽織っただけの、下着姿だった。ここの部屋に来るとこういう待遇が多い気がするわ、とリルルはちょっと照れてしまう。
カトラリーを並べ終えおとなしく椅子に座って待つリルルに、いい匂いをさせながら、優しく微笑んだティンクが、「さてと。できた、」とランチョンマットの上にペペロンチーノの皿を置いてくれた。
暖かい食事に、好きな人の笑顔、心地よい家。ティンクの世界はなんて素敵なんだろうとリルルは思った。
「リルル、待たせたな、」
自分も席について、グラスに水を入れてくれたティンクは、「どうぞ、」と勧めてくれた。
「ありがとう。ティンクって何でもできるのね?」
「ああ、これぐらいは。私は家を継ぐ人間じゃないからな。何でもできた方がいいと言って、父も母も、料理や家事をさせたがった。」
乳母がいつも手伝ってくれたな、とティンクは懐かしむ。
「それは…、いつかおうちを出るから?」
「そうだな、王都で職があるとは限らないだろう? オルフェス領で兄たちの家にいつまでも居候しているわけにもいかないだろうし、私にはこの家があるからな。」
「そうね、」
ティンクが食べ始めたので、リルルもペペロンチーノを食べ始めた。
夢の中でものを食べるってお姉ちゃんといた時みたいね、とリルルは思う。
お善哉、まだ見つけてないわ。寒天や鰹節は見つけたから、探せばありそうだけど…。
グロケット領の海鮮やの女将さんを思い出す。聞けば探してくれそうだわ。
「今日、どうだったんだ?」
黙々と食べるリルルに、ティンクは優しく尋ねる。
「えっと、お城に帰ってからよね?」
リルルが食べる様子を見て、表情を伺いながらティンクは頷いた。
「夢が当たって…、お姉さまやお父さまが、対応して下さったから、凶夢は…、」
言いかけたリルルの、フォークにパスタを絡める手が止まる。
「私の夢は、その通りにならなかったけれど、その通りになってしまった部分があるの。」
「そうか、」
ティンクは自分で作っておきながら、唐辛子って辛いと思いながら食べる。ベーコンで作るペペロンチーノは、トリュフとはまた違っていていいなと思う。
「食事時に話せる話ではないの。あとでもいい?」
弱弱しく微笑んだリルルに、「ああ、」と微笑んで、ティンクは話題を変えた。父であるオルフェス侯爵が唐辛子酒にハマってしまい、自家製の唐辛子酒を漬け込んで育てている話を楽しそうにし始めた。
食事を終えた二人は、食後のデザートにティンクが剥いたリンゴを食べ、一緒に紅茶を飲んだ。
ふたり一緒に食器を片付けて洗い、並んで一緒にお皿を拭いた。ティンクは手際よく片付けをこなし、リルルにそれとなく指示を出した。
テーブルの上に、指輪を見つけた。小さな鉄の指輪は、クリスマスプディングの中に入っていたものと似ていた。リルルの指輪は、自分の左手薬指に無理矢理嵌めていた。
「これ、ティンクの?」
「ああ。父にもらった。」
「嵌めてもいい?」
「ダメ。」
即答されてリルルは口を尖らせる。もうちょっとはにかむとか嬉しいとか、反応はないのかしら。
「交換は?」
「同じ大きさだろう?」
男の子って、こういうことに拘りがないのかしら。好きな人と持ち物の交換って、ときめかないのかしら。
「気持ちの問題かも。」
自分の指輪を抜くと、リルルは机の上にあった指輪と交換して指に嵌めた。ティンクは黙って紙に包んで、胸ポケットに入れた。
「嵌めたりはしないの?」
「今はそういう気分じゃない。」
リルルが嵌めた指輪を自分が嵌めると壊すようで嫌だと思ったなんて言えない。大事なものだから、大事に取っておきたいと思った。
「まるで新婚さんみたいだわ。」
指に嵌めた指輪を翳して見てリルルが呟くと、ティンクは「バーカ、」と照れて笑った。
「ティンクと一緒に生活をすると、こんな毎日が普通に続くのね、」と気を取り直したリルルは、食器を食器棚に片付けながら微笑んだ。
「中つ国では寮生活が待っているのだろう? これぐらい普通になるさ、」
ティンクはエプロンを外し、椅子の背にかけた。
「そうね、まだ時間もあるものね、」
「来月の、自由登校の期間にでも、出来ることを少しずつでも覚えていけばいいだろう?」
綺麗に片付いた食堂を見回して、ティンクはこともなげに言った。
「私、結婚するって、相手を決めることしか考えていなかったかも、」とリルルは小さく呟いた。
使用人や侍女のいない生活は姉リルルの前世では普通だったけれど、リルルの世界のリルルの立場だと、誰かにやってもらうのが普通だった。それに甘えて、何もしてこなかったし見て見ぬふりをしてきた。
何もできないと呆れられないように、少しずつでも家事を覚えようとリルルは心に決めた。お姉ちゃんができていたことだから、きっと私も出来るはず、と自分を励ましてみる。
「まだ時間、あるんだろう? 外を歩こうか、リルル、」
ティンクがそっと、リルルの手を引いた。
「でも、この格好じゃ恥ずかしいわ。」
「そうだな…、」ティンクは後ろから手でリルルの目隠しをした。背中を押されて歩いて、少しして立ち止まると、ティンクが耳元で囁いた。ティンクの手が外される。
「目を開けて、リルル。これならどうだ?」
リルルが見たのは、姿見に映った白いノースリーブのワンピースを着た自分だった。とってもミニ丈だけど、これはティンクの趣味なのだろうと割り切ることにした。
現実だと、クグロワにこの下にスカートを履かされそうだなと思う。カロヨンなら黙って微笑みながら違う服を持ってきて、強制的に着替えさせられそうよねと思う。
そっか、結婚したら、クグロワやカロヨンたちからも離れてしまうのね。侍女たちを自分の元から手放す覚悟はできていても、自分の元に誰もいなくなる生活は覚悟していなかったのだわ。当たり前の事実に気が付いて、泣かないように唇を噛んだ。
「そうね、悪くないわ。」
鼻の奥がつーんと痛くなる気がして、涙が少し滲んだ。
「リルルは何も着ていなくてもいいのにな、」
「服を着ないなら出かけないから、」
にやりと笑ったティンクを睨んで、涙が途端に引っ込んでしまったリルルは口を尖らせた。
手をつないで、二人は家の外へと出た。
緩い石の階段の坂を下り、港町を抜ける。グロケット公爵領の港町とは違い、オルフェス領の港町は階段が多く、石畳のあちこちから黄色い小さなヒマワリが顔を覗かせていた。一年中ヒマワリって咲くのかしら、とリルルは思った。それとも、ティンクの夢の季節がいつも夏なだけなのかしら。
桟橋を過ぎ、海沿いの、石を組み上げた防波堤の上を歩きながら、リルルはまず、自分が見た凶夢の説明をした。
黙って前を歩いて話を聞いていたティンクは、防波堤から海側の岩場に降りた。さざ波を受ける大きな岩の一つに腰かけて、抱き寄せ、膝の上にリルルを座らせた。腰を抱いて、リルルの耳元で囁く。
「リルル、夢は判った。実際には何があったんだ?」
「実際には…、」
ティンクの手に自分の手を重ねて、リルルは姉のラウラから聞いたことを思い出していた。
「まず、ラウラお姉さまは受験者に混じることにしたのですって。試験会場の大広間は地方から来る学生の為に、朝早くから解放してあったんですって。その会場には、受験生のふりをした執務官や騎士がそれとなく目を光らせていて、おかしなことをする者がいないか見ていたんですって。」
ティンクはよくもそんな作戦に未来の女王を関わらせたなと、違う意味で感心していた。
リルルは頭の中に、映像を思い浮かべて話をしていた。ラウラの声が蘇る。夕食の後、リルルは姉のラウラを部屋に招いて、話を聞いていたのだった。
ラウラは珍しく興奮していて、いつもよりも砕けた話し方になっていた。
「パントレイモスっていう、受験生の一人が、試験会場の真ん中あたりの、ある机の二つのそれぞれにそっと何か包んだものを入れて、何気ない顔をして部屋を出て行ったのですって。机には受験番号が貼ってあったらしいわ。ああ、これがヨハネス殿下の仰っていたものなのだってみんな思って、さりげなく包みを持ち出して、別の部屋で待機させていた者たちに、中身を入れ替えさせて、また元のあった位置にあったように直したらしいの。入れ替えた中身は小型の目覚まし時計を入れたのですって。適当な大きさのものがちょうどそれだったってことみたいよ。」
偶然の選択なのかな。リルルは首を傾げた。時限爆弾って時計みたいだものね。必然って怖い。
「あとは、着席が許可される試験が始まる10分前にお父さまが試験会場に足をお運びになって、『王城では、あらゆる困難に柔軟に対応する度胸が必要になる。皆の者、くじを引いて新しく決まった席に移動してほしい、』って、席替えを提案なさったの。パントレイモスには問題の席のどちらかに座らせるようにあらかじめ仕組んだくじを引かせて、残りの席には私が座ったわ。お父さまはにっこりと笑って、『皆の者、試験が終わるまで席を離れることのないようにしてほしい。体調不良や何らかの理由で席を外した時点で、受験資格は剥奪されるという当初の規定は変わらない、』と仰ったの。」
だから、夢の中ではあんな惨事になってしまったのだろうとリルルは思った。微かな異変に気が付いても、動けなかったのだろう。
ティンクは黙ってしまったリルルの髪を撫でて、「その後は、どうなったんだ?」と優しく尋ねた。
※ ※ ※
「お姉さまは怖くなかったのですか?」
リルルの記憶の中で、ラウラは顔を輝かせていたなと思い出す。
「いいえ。楽しいなって思ったわ。いつも私は、リルルの夢は聞いてはいても、直接関わって解決したことはないもの。役に立てて嬉しいって思ったから、やってみたの。」
「すごいですね。私は動揺してしまって、無理かもしれません。」
「あなたは酷い夢を見て何が起こるかを知っているから、そう思うのでしょう? 未来は変えるから大丈夫よ? それでね、問題の席には私たちが座ったじゃない? パントレイモスは、面白いほどビビってしまって…。」
ラウラは思い出し笑いを浮かべている。
「お姉さまはテストは順調に解けたのですか?」
「ええ。あれなら私、執務官になれるかもしれないわ。試験が始まって30分経った頃かしら。パントレイモスが机をガタガタ揺らし始めて手をあげたの。『体調不良だ』って騒ぐようにして言っていたわ。試験官が黙って首を振っていたら、急に立ち上がっていきなり窓へ駆け出したの。『犬が吠える中、試験を続けるお前らは狂っている、』って言って。」
「犬ですか?」
「もちろんいないわよ? あら、見えたのね、って私は思ったわ。」
自分の座る席に爆薬か何かを仕掛けていたのなら、理由を知っているパントレイモスからすると、知っていて座っているなんてそれだけで重圧だっただろう。しかも犬が吠えていたなら、焦りは増すだろう。
「その後、あっという間だったの。出入り口には警備の騎士がいるでしょう? 何かに追いかけられてるみたいに走り出して窓をいきなり開けて、パントレイモスは飛び降りたわ。」
リルルは犬が追いかけている映像を思い描いて話を聞いていた。ラウラは躊躇うように言葉を切った。言い難いことが起こったのだとリルルは察した。
「…大広間の窓の下って、枯れ木みたいな薔薇園でしょう?」
真冬は薔薇の季節ではなかった。枯れ木のようないばらだらけの庭が広がっていた。
「ええ、あの近くには昔から沢山、薔薇が育ててありますよね? 大広間から眺めがいいから、っていうのもありますし、大広間の下には女官たちの更衣室や休憩室もありますから、防犯も兼ねて。」
「そうなの。ものすごい絶叫と、ものすごい音とで、警備の騎士たちが慌てて事態を収拾しに走ったみたいだったわ。あ、ちなみに試験は続行されたわよ? お父さまがいらっしゃって、『こういう不測な事態はいつでもお城では起こりうる。冷静に対応できない者は今、この場で立ち去りなさい、』って仰ったわ。怯える者もいたけれど、誰もが気にしないようにして静かに試験を続けたわ。」
きっと犬が見えた者もいたんだろうな〜。リルルは怯える者は見えた者なんだろうと気の毒に思った。
「地方からも海外からも人の出入りがある分、お城では何でも起こりうるもの。こんなことで動揺していてはお城では働けないわと、私も納得してしまったわ。」
お父さまもお姉さまもさすがだわ、とリルルは苦笑いをした。
「試験は無事に終わったわ。明日も面接試験を続けるみたいなの。王城ではこれが普通なんだってことが知れ渡っていいって、きっとお父さまはお思いになっていらっしゃるのでしょうね。」
「お姉さまは面接試験もお受けになるのですか?」
「ええ、せっかくだもの、」と優雅にラウラは微笑んだ。
「私は、お父さまにお会いして、その後のお話を聞いたわ。パントレイモスは、薔薇の生垣に身を投げ込んだ状態になってしまって、目を…、傷付けてしまったみたいよ。腕や足も折ったみたい。法務官が呼ばれて、取り調べも医療官たちが治療をしながら行われたみたいだけど、聞かれたら何でも話すような状態だったのですって。」
大広間のある3階から飛び降りて、生きているだけでも良かったのかもしれない、とリルルは思った。
「試験には、父兄も同伴して登城して応接室で終了を待っていいことになっていたの。案の定パントレイモスの親のデリーラル公爵もいたのですって。公爵も呼ばれて、黙っているように言われてパントレイモスの自供する様子を傍で聞いたのですって。黙って涙を流していて気の毒だったって、お父さまは仰っていたわ。」
「理由は、何だったんですか?」
「リルルがカーチェの会の者から聞いていたように、ミハイルとシルフィイに注意された腹いせですって。あの人は賢いから、時計を使った爆弾を作っていたの。お城に軍部から従軍経験のある将校たちを呼び寄せていたから、彼らが処理をしてくれたけれど、子供が作ったにしては悪趣味な機械だったって話よ? 解体して火薬はお城の池に沈めたらしいわ。あんなものが爆発していたら、爆発自体は小さくて済んでも中に釘が沢山仕込んであったから、破裂した勢いで飛んだ釘で周辺にいた誰もがケガをしただろうって言って話よ。」
卑怯だわ、とリルルは思う。注意されて関係ない人を巻き添えに腹いせするって、おかしいわ。
「よくそんな材料が手に入りましたね、」
「そうなのよね、パントレイモスが言うには、エクサトーヴィルの商人から買ったんですって。そんな領はないって法務官が言っても、あるって言い張っているみたいね。」
「パントレイモスはどうなるのです?」
「お父さまが仰るには、一生デリーラル公爵家の私牢に幽閉されるだろうとのことよ。目は見えないし足もあんな状態だと歩くことは難しいだろうってお医者様のお見立てだもの。まあ、幽閉されている方がかえって安全かもしれないわね。」
歩く天災が歩けなくなったら、ただの危険な思想の持ち主というだけになるのだろう。
「私の夢は、その通りにならなかったけれどその通りになってしまった部分がある、とお姉さまが仰ったのは、そういう意味なのですね。」
「ええ。両目を失くしたのは犯人自身になってしまったもの。事件は未遂に終わっても、試験会場で騒ぎを起こしたことも、軍部を動かしたことも事実だわ。何よりも、デリーラル公爵が許さないでしょうね。表に出すと、自分や跡継ぎの長男に厄災が降りかかると認識されたでしょうから。」
黙ってしまったリルルを見て、ラウラは微笑んだ。
「あなたの夢のおかげで、私たちは訓練も兼ねた試験を行うことが出来たわ。問題行動のある人間も隔離することが出来た。感謝しているわ、リルル、」そう言って、ラウラは微笑んだ。
リルルは姉のラウラから聞いた話を、可能な限り丁寧にティンクに伝えた。
「そうか、」とティンクは呟いて、リルルの頭を撫でた。
「リルルはよくやったな、えらいぞ。」
「ありがとう、ティンク、」
ぎゅっとリルルを後ろから抱きしめて、ティンクはリルルの肩に顎を乗せた。
二人で、遠く水平線まで青く続く海を眺める。高く白い鳥が飛んでいた。
「ミハイルとは、会ったのか?」
「いいえ。会っていないわ。」
「会わなくてもいいのか?」
「あの人は、会いに行くと、仕事の邪魔をしないでほしいって言う人だから。」
風に靡いた髪を耳にかけて、リルルは自分を抱きしめるティンクの腕を撫でた。足元の岩場に打ち寄せる波を見つめる。
「ミーシャが無事だったのなら、それでいいの、」
リルルの頬に唇を寄せて、ティンクはリルルを抱きしめる腕に力を入れる。
「ミハイルが目をケガしていたら、リルルはどうするつもりだったんだ?」
「ミーシャが…、あの夢に出てきた人みたいに怪我をしていたら…、」
リルルは目から血を流し、指のない手で自分に覆いかぶさってこようとした男子学生がミーシャに思えてきて、ぶるぶると震えた。
あれは夢だ。あんな怖いことは、現実には起こらなかった。
でも、あれが、本当にミーシャの身に起こっていたとしたら…。
「それでも、婚約者をやめないのか? 目が見えないミハイルでも、リルルは婚約し続けるのか?」
「ええ、傍にいて話しかけて…、例え嫌われても、傍にいるわ。」
きっと、婚約者はミーシャひとりに選んでしまうだろう。私だけのミーシャだと、傍にいるだろう。夢を防ぎきれなかったと後悔しながら、悔いて、一生を捧げるだろう。
嫌われて罵られようとも、それは罰なのだと耐え続けるだろう。
「それが、私だったとしても、そうしてくれるのか?」
「当り前じゃない。ティンクは私の婚約者だもの。」
ティンクは少しだけほっとして、少しだけ、腹を立てた。婚約者ではなかったら傍にいないのか?
「目が見えない私に、何をしてくれるんだい? リルル。」
リルルの頬に唇を寄せて、ティンクは囁きかける。目が見えない私の傍にいて、君は何を思うのだろう。
「そうね、ティンクの為に本を読んで、ティンクの為に手を引いてお散歩でもするかな。あなたの代わりに世界を見て、あなたの耳に世界を囁くわ。私、あなたの腕に手を絡ませたまま、毎日を過ごすかもしれないわ。」
リルルは当然のように言い切ると、ティンクを振り返って微笑みかけた。
「時々、いきなり抱きしめて驚かすかもしれないわね。」
あなたが驚く顔を見て、私は笑うかもしれない。あなたが話す声を聴いて、私はあなたがしてほしいだろうことを考え続けるだろう。
「ああ、悪くないな、」
ティンクはそれを共に生きるっていうのだろうなと思いながら聞いていた。
「ティンクとなら、そういう人生も悪くないかもね?」
目が見えていても、リルルと共に生きたいと思うのは贅沢だろうか、と、心の中で問いかける。
傍にいたい。傍にいてほしい。目が見えないのなら、手を握っていたい。
「バーカ、」と、素直になれないティンクは、笑いながらリルルをくすぐった。
ありがとうございました




