8、いい思い出は懐かしいと思うもの
リルルがミーシャと出会ったのは、お城の探検をしていて小姓部屋を覗いたのがきっかけだった。
小姓部屋は、お城を大まかに5つに分けた時目印となる塔にそれぞれ置かれていた。リルルや王族が住むのは中央棟の居住区部分であり、あとは回廊でつながれた塔が東西南北にあった。中庭やら温室やらもある広い敷地を含む城の周りには、高い城壁が取り囲むように聳え立っていた。
姉のラウラは家庭教師が日替わりでやってきて何かしらの英才教育を施されていたけれど、リルルは基本的に週3回のマナーと語学の勉強があるだけで、他は遊んで暮らしていた。まだ5歳という幼い年齢もあって体力が持たなかったからだった。
ひとり歩き、もとい散歩は許されていたので、リルルは用事もないのに部屋の外へ出てはあちこちを歩いて回った。城の中しか世界がなくても十分楽しかった。
この国で漆黒の髪を持つのは王族の女性だけの特殊な遺伝だったので、どんな格好をしていても「リルル様だ、」とバレてしまうのが玉に瑕だった。誰もラウラがそんなことをするとは思っていないのが、リルルは悔しいなと思う。
あの日も散歩がてらあちこちを見て歩いていた時、珍しくドアが開いたままになっている部屋を見つけた。大抵の部屋はドアが閉まっていて、リルルはさすがに開けて中を覗くことはしなかった。大人の仕事の邪魔をして、立ち入り禁止になるのは嫌だったからだった。
少し開いたドアからそっと中を覗いてみると、男の子が静かに本を読んでいた。小さな子供がお城にいて小姓として働いている事は、リルルもお城の散歩の生活の中で気が付いてはいた。
窓辺に立つリルルよりも年上に見えるその子は、明らかに絵本ではない本を読んでいて、時々眉を顰めて前のページに遡ったりもしていた。日差しの中に柔らかそうな茶金髪が煌めいて、賢そうな薄い黄緑色の瞳が真剣に文字を追っていた。
リルルは初めて見る同じような年頃の子供の真剣な眼差しに、くぎ付けになって見つめていた。何でも余裕綽々でこなすラウラとは違う。父や母のような手慣れた雰囲気もない。リルルがするようにすぐに誰かを頼って教えてもらえばいいやというような甘えも感じられなかった。
「おーい、ミーシャ、あったか?」
中でつながった隣の部屋の方から子供の声が聞こえた。
「あったけど、これかどうかわからない。」
声のした方へ振り向いたミーシャと呼ばれた少年は今まで見ていた本を窓辺の棚の近くにあった机に置くと、別の本を手に隣の部屋に去ってしまった。
リルルはそっと部屋の中に入って、机の上に置かれた本を手に取ってみた。知らない単語が表紙に書かれたその本は、中を開いてみても何が書いてあるのか判らない程細かくて、知らない言葉だらけだった。リルルに判ったのは、これが自分の国の本ではないということぐらいだった。
姉のラウラが学ぶ様子は知っていても聞こえてくる言葉は自分の国の言葉だったので、ラウラも知らない国の言葉だろうと思った。
「あの子、すごい。」
初めて誰かを尊敬した瞬間だった。リルルは初めて見た『ミーシャ』という男の子に興味を持った。自分の部屋に帰り、クグロワたちにお城で働く子供のことを聞き、中央の塔にある小姓部屋の存在も知った。
ミーシャという子にまた会いたいなと思って、散歩のコースをお城の通用門からお城の中央棟までの区間に変更した結果、リルルは道案内をしたついでに婚約者を5人獲得してしまった。
それからは家族の反対にあい、婚約者を作らないように努力はしてきた。弟が生まれた際に海外からの献上品を持って大使がやって来た時も大人しくしていたし、前女王である祖母との使節団として各国に毎年秋に行った海外旅行の際も、言いつけを守ってリルルは名乗らないようにして婚約者を作らなかった。
私、それなりに今までお利口にやってきてるんだけどな。まあ、確かに入学してからまた婚約者を増やしちゃったけど。
ぼんやりとそんなことを考えながら馬車から窓の外を眺めていると、リルルは初等学校が見えて来たのに気が付いた。
3月の終わりに10歳になったリルルは、王族の姫だからと言って特別扱いされるわけでもなく、いつか降嫁する日の為に庶民と同じように初等学校に通うことになった。ただ、初等学校と行っても、お城の近くにある貴族ばかりが通う初等学校で、居住区の関係で庶民は通ってはいなかった。
あーあ、今日もメンドクサイ一日が始まるよ。
リルルは、澄ました顔をして向かいに座る姉のラウラを見つめた。臙脂色の制服をきっちりと着こなすラウラは国民の生活を知るために次代の女王の義務として初等学校に通っていた。ラウラのようにみんなから尊敬される優等生になりたかったけれど、実際のところリルルはどっちかと言うと落ちこぼれでどっちかと言うと嫌われ者だと自覚していた。
「早くいらっしゃい、」
学校の正門近くの馬車寄せに停まった馬車から優雅に降りるラウラに続いて、ラウラに向けられる羨望の眼差しにうんざりしながらリルルも降りた。
※ ※ ※
貴族の子供ばかりが通うこの地区の初等学校は、1学年が60人程で、教室は3つに分かれていた。クラス編成はどのクラスも親の階級が同じ割合になるように分けられていたので、男女の比がすべて同じではなかった。リルルのクラスはリルル以上の身分の者はいなかった。
「おはようございます、リルル様。」
教室に入る前からいろんな学生に声を掛けられ、教室に入る頃にはリルルも挨拶の多さに飽き始め、にこっと会釈する程度の手抜きになってしまう。この辺が姉のラウラとの違いの始まりだった。ラウラはそれでも挨拶をきちんと返すのだから偉いものだなと思うけれど、リルルにはまねが出来なかった。
教室の窓際の一番前の席がリルルの席だった。カバンを置くと特に誰かと話す訳でもなく、窓の外を眺めて一日の大半を過ごしていた。
お城にいた頃と同じ行動をとっているリルルは日々何がいけないのかなと悩みながらも、休まないで通うことを努力していた。
リルルはいわゆる、天然の悪役令嬢だった。ラウラが優等生でみんなの信頼が厚いのと真逆で、学校に入った途端、親切にしてくれた男子にいきなり名乗ってしまっていきなり婚約者を作ってしまったリルルは、状況を理解した周囲の生徒たちから一目置かれ始めた。
しかも、夢を見て眠たくてもダルくても学校は休まないように通っている結果、溌剌とは程遠い生徒になった。
周りにいるのは侍女たちではなく手伝ってもくれない子供ばかりになったため、自然にリルルも自分のことは何でもできる子にはなっていたけれど、さすがにマイナスのスタートから友達を作るのは難しかった。
「お昼、一緒に食べよう?」
隣の席に座る男子生徒は、幼少時にうっかり名乗ってしまってリルルの婚約者になってしまった侯爵家のティンクだった。リルルの婚約者は、このクラスにはティンクの他にも侯爵家の次男モンドがいる。
「リルル様は女子のお友達を作られた方がよろしいのでは?」
毎度嫌味を言われながらも、ティンクたちのグループに入れてもらって学生食堂でランチを食べていた。ティンク以外は公爵家や伯爵家の跡取りなのに、このグループでリルルは婚約者を作らなかった。成長して美少年に育ったティンクが、一番リルルの好みだったからだった。
「どうやったらいいのか判らないわ。」
リルルは何人かいる女子の友達と何回か一緒にランチを食べてみて、判ったことがあった。
彼女たちだけでいると他の学年の男子生徒達に声を掛けられて嬉しそうなのに、リルルがいると男子生徒が声を掛けられない雰囲気になってしまってつまらなさそうな顔になったのだ。
リルルは彼女たちの表情に気が付いてしまい、リルルがいない方が楽しいのだとあからさまにされるといたたまれなかった。いつの頃からかランチを女子と食べるのは諦めたのだった。
「私と一緒にいるのを止めたらいいのではありませんか?」
呆れたようにリルルを見て、ティンクは溜め息をついた。
「あなたと一緒にいた方が、他の人達に気を使わなくていいのよ。」
年相応に背が高くなり年相応に知識も積んだティンクは余裕が出来たのか、リルルが望めばリルルに付き合ってくれた。
「仕方ありませんね。」
ティンクはお城で図書館見習の仕事を週末続けていて、お城でたまにあったりもする。幼馴染のような気安さはあっても、リルルと一定の距離を保ち、手をつないだりしてくれることはなかった。それなりに、友達ではいてくれた。
「リルル様は友達ですからね。」
念を押すようにリルルを見たティンクは、リルルが嬉しそうに小さく微笑むのを見て、少しだけ頬を緩めた。
リルルがこの教室で作り物ではない素の笑顔を向けるのは自分だけだと、彼は気が付いていた。
「ありがとう。」
リルルと婚約していなければ自分の人生は結婚など縁がないだろうと、ティンクは思っていた。
領地経営に励む年の離れた兄のところには、もうじき子供が生まれる。次兄もそれなりに釣り合った女性と婚約して結婚も間近だった。自分が結婚しなくても侯爵家が潰れる可能性はない。
お城の図書館の雰囲気も学ぶことも好きなティンクは、このまま学術の徒として朽ち果てる人生も悪くないと思っていた。
「あなた程、誰も優しくないの。」
そう言って笑うリルルの寂しそうな諦めたような顔も、ティンクは悪くないと思った。
※ ※ ※
友達が少ないリルルは一人でいることが多かったので、割と自由に生活をしていた。入学してそろそろ半年経つけれど、リルルはこれと言って部活動に入るでもなく、特に役員にもならず、学校に通っているだけの生活を送っていた。
婚約者がやたらといることは普通の貴族の令嬢にとっては異常なことで、リルルはそういう点でも『男に節操がない』と一目置かれてしまっていたけれど、本人は世の中の婚約の事情を知らないのでおかしな状況にいる自覚はなかった。
ただ、婚約者が沢山いることであまり女子生徒から好かれていない自覚が一応あったので、これ以上増やさなければいいかという楽観だけはあった。自分は王女で特殊な立場にいるという立ち位置は弁えていたので動じることはなかったけれど、いきなり10人まで増えてしまった婚約者を父に呆れられてしまったのはやり過ぎたかなと反省はしていた。
弟のクリストフ・リヴェールが生まれてから、リルルの生活は時見の巫女としての期待と、将来上級貴族の長子のところへ降嫁する未来とで選択肢が制限されるようになっていた。
初めて時見の巫女としての夢を見て以来、リルルは時々夢を見ては未来を予言してきていた。
成長するにつれて予知夢をみる頻度はあがっていて、自然災害や気候の変化の夢も見たけれど、父が望んだのは主に人物に纏わる未来視だった。夢の中に出てきた人物が何を言ったか何をしていたかを父に伝えると、その夢の判断を元に、王配である父は諸外国の大使や使節団の訪問内容を予測し対策を取るようになっていた。
祖母に何か指南を受けるのかと思っていた役目についても、祖母は特に何も教えてくれることはなかった。ただ、夢を捻じ曲げてはいけないよ、とだけは言われた。夢を見ている時は流れに逆らってはいけないとも言われた。リルルは鍵を使わない時の夢が夢なのだと理解して、祖母の言葉を大切に胸にしまった。
リルルが見る夢は、あとは目が覚めたら忘れる雑夢と呼ばれる情報を処理するための夢を見ていた。夢の鍵は祖母と父の鍵以外に増えてはいなかった。短い睡眠時間に見る夢は雑夢が多かった。
姉リルルに会おうとうとうとしていると、聞き慣れた声がした。
「リルルじゃないか、一人でどうしたんだい?」
放課後、姉のラウラの帰りを待って送迎の馬車が出るので、それまでの待ち時間をリルルは中庭の庭園で過ごすことが多かった。
いくつかある緑色に塗られたベンチに腰かけて、特に何をする訳でもなく暖かな日差しの中で過ごすのだった。カバンや荷物を傍に置き膝の上に手を置いて、リルルは姿勢を正したまま俯いて眠っていた。つかの間の睡眠はリルルにとって貴重な休息の時間だった。
顔を上げると、本を片手にカバンを下げたコニール・フォートが、すぐ近くに立っていた。
「コニール様、こんにちわ。」
中肉中背でこれと言って特徴もなくありふれた容姿のコニールは最高学年の5年生で、リルルとは4歳年が離れていた。リルルの印象では、侯爵家の次男で人がいい真面目な生徒だった。
ラウラの知り合いらしく、入学したばかりの頃に初対面のリルルを観察して、「ラウラに似ているけれど、リルルの方が人間みたいだね、」と言ってきて、気後れせずにリルルに接してくれる珍しい人物だった。気を使う話し方もせず、普通に後輩の一人として扱ってくれた。
「隣、座る?」
「今から部活に行くからやめておくよ。リルルは?」
「何もないからここにいるのよ?」
くすりと笑ってリルルはコニールを見上げた。人当たりの良い柔らかな物腰のコニールを、リルルは気に入っていた。
「部活ってチェスだっけ?」
「ああ、チェス同好会。楽しいぞ。チェスが好きな者ばかりしかいないのは、この学校であの部屋だけだからな。」
コニールはこの国のチェスの大会の入賞の常連だった。大人に交じって何時間でもチェスを差している姿は、大会を見学したことのあるリルルにとっては畏敬の念を抱くばかりの存在だった。
「リルルは何か好きなものはないのか? 部活に何か入れば退屈な時間などないだろうに。」
初等学校に通う貴族のほとんどが何かの部活に所属していた。女子が入れるような部活のほとんどはお茶会がメインになっている気がするのよね、とリルルは思ったけれど黙っておいた。お友達を作りに部活に入るという趣旨をそのまま体現している部活動が嫌だからといって、男子に交じって剣術や馬術を極めたりダンスを極めたいとも思わない。
リルルは幼い頃、血のつながりのある皇室のある島国の『アイキドー』という護身術を幼い頃に中央の塔の小姓たちと習ったりもした。お城では時々そういった他国の武術だったり護身術の講習会もあるし、運動なんてそれぐらいで十分なんじゃないのかなとリルルは思っていた。
「残念ながら何もないわ。ここでこうしているのが一番なの。」
つかの間の休息の時間を部活なんぞで潰されたくないな、とリルルは思った。学校が終わった後お城に帰れば、窮屈なお姫様の生活が待っている。ダンスの時間にマナーの時間、時々学校を早帰りして公務まである。夕食の前にやらなくてはいけないことが沢山待っていた。課題をし終えてくたくたになって眠る頃には、リルルには夢が待っているのだった。
リルルが時見の巫女であることは、国民のほとんどが知らなかった。時見の巫女の扱いは国家機密とされ緘口令がひかれていて、亡くなって初めて時見の巫女であったと公表されるのだと祖母である前女王に教えてもらった。王女として公務も普通にこなさねばならず、リルルの毎日は寝るときですら半分公務だった。
「ラウラは生徒会かい?」
「ええ、お姉さまはなんでもおやりになるから、尊敬するわ。」
4年生のラウラは生徒会の書記として放課後は生徒会活動に勤しんでいた。それでいて成績はいつも上位で人柄もよく人望も厚く友達も多いのだから、ラウラはリルルと同じ人間じゃないのかもしれないなとリルルは思った。
ふふっと笑ってコニールは空いている手で、沈んだ表情をするリルルの頭を撫でた。
「私はリルルはリルルで可愛らしいと思うよ。そんな顔をするな、リルル。」
私のことを可愛いと言ってくれるのはこの人くらいなんだよね、とリルルは頬を染めながら思った。でも、この人は婚約者として付き合うより友達として付き合いたい部類の人だ。
「じゃあ、またな、リルル。」
薔薇の生け垣に囲まれた庭園は、薔薇ばかりが何種類も植えてあった。急ぎ足のコニールが去ると、風に甘い薔薇の香りが漂った。コニールの後ろ姿を見送って、リルルはまた、つかの間の休息の時間へ意識を飛ばした。
そんな二人のやり取りを、学校帰りのミーシャが通りがかって見ているとはリルルは思ってもいなかった。
ミーシャはラウラと同じ学年で、何も部活に入っていなかった。お城での小姓のお仕事を土日や長期休暇に細々と続けていたので、小姓部屋にたまにやってくるリルルと話をすることはあったけれど、学校ではリルルを遠巻きに見ているだけだった。
まだ子供だというのに気怠いような妖艶な魅力を漂わせるリルルは、いつも笑顔を絶やさないラウラに比べて喜怒哀楽の感情が顔に出るので表情の変化が魅力的で、上級生の男子生徒の中では『太陽のラウラ、月のリルル』と評されてラウラ以上に隠れファンが多かった。
うっかり近寄って婚約者にされてしまうのは困るので誰もリルルと距離を縮めようとしなかったけれど、ティンクのように自然に話が出来る関係になりたいと誰もが思っていた。
リルルがこの薔薇園のベンチで眠っているのを知っているのはミーシャぐらいで、誰もがリルルは大人しくラウラを待っているのだと思って見ていた。
「付き合いが長いからリルル様の習慣はお見通しなんだよね、」
ミーシャは静かに近寄ると、リルルの前にしゃがんで、俯いて眠るリルルの顔を見上げて眺めた。
こんなに綺麗な子なのに、この子は起きていると厄介なんだよなあ。
ミーシャの兄がラウラの婚約者で、王族と婚約すると行動を規制されてしまうことを、ミーシャは幼い頃から見てきて知っている。リルルが自分に執着するのもありがたいこと思っても、それでも婚約したいと思わなかった。
ミーシャは恋愛結婚に憧れていた。恋人関係から愛を告げて結婚を申し込みたいと、幼い頃から願っていた。間違っても婚約してから関係を築くのは望んでいなかった。
近くに咲く柔らかい朱色の薔薇の花を手折ると、カバンの中から鋏を取り出して花の額近くで切り直した。
そっとリルルの漆黒の髪に添えて、ミーシャは音を立てずに立ち去ったのだった。
ありがとうございました