6、頭から食べられたら困るもの
父や宰相たちが顔色を変えて部屋を出て行ってしまったので、リルルは一人で部屋に取り残されてしまった。
しばらく窓の外を眺めて待ってみたけれど、誰も来ないのは変わらないので、リルルは諦めて自分の部屋に戻った。待っていなさいという言葉は聞かなかったことに決めた。
部屋に入ると、いつの間にかお茶の用意が済んでいて、姉のラウラが先にお茶を楽しんでいた。ラウラ付きの侍女達が澄ました顔で傍に控えている。
「あの…、お姉さま?」
ここ私の部屋だよね? 気のせいかなと思いリルルは何度か目をこすってみたけれど、やはり現実でラウラが優雅にお茶をしているのは変わらなかった。白い絹のブラウスに紺色のスカート姿のラウラは、胸のあたりで切りそろえた漆黒の髪をハーフアップに括って赤いリボンで纏めていた。
「お帰り、リルル。先にいただいているわ。こちらに来て座りなさい。」
今そんな気分じゃないんだけどなあと思いながら、リルルは椅子に腰かけた。リルルが座る椅子にはふかふかしたクッションが2枚重ねられていて、テーブルとの高さが調節されていた。
「お菓子を持ってきたわ、リルル。あなたが好きな、クルミの入ったクッキーよ。」
手を叩いて、カートの傍に立ち壁際に控えていた侍女を呼ぶと、可愛らしいピンクの箱を持ってこさせた。ラウラは受け取ると、リルルに渡してくれた。
蓋を開けると、甘くて香ばしい香りがした。胡桃入りの大きなクッキーが8枚も入っている。一枚一枚が大きいクッキーは、夢の中で姉リルルがくれるおせんべいよりも大きかった。
「これ、全部私が貰ってもいいんですか?」
くすくすと笑って、ラウラは頷いた。「いいに決まっているじゃない。あなたにあげたんだから、あなたが好きにしたらいいのよ?」
ミーシャは喜んでくれるかな。リルルは蓋を丁寧に嵌めて、自分の侍女に片付けてもらった。
「ありがとうお姉さま。素晴らしいお見舞いだわ。」
「どういたしまして。リルルはこれから大変だもの。」
「ん?」
リルルは目をぱちくりとした。
「どうしてですか?」
「国の使節団に入るのでしょう? これからあなたは大人に混じって訪問国の歴史と日常会話程度の言葉を覚えるのよ? 出国は半年後って話って聞いているから、明日にはもう始まると思うわ。」
「えええ? お父さまはそんなこと仰いませんでしたよ?」
そんな後出しじゃんけんみたいに条件を言われても困るんだけどな、とリルルは思った。
「そりゃ当たり前よ。言わなくてもわかっている事じゃないの。」
そ、そうなんだ…、リルルはドキドキしすぎて息が止まりそうになった。大人の世界の当たり前って恐ろしい!
「お姉さまは一緒に行かれるんですか?」
「私は行くわけないじゃない。将来この国の女王になるのだから、何かあったらそれこそ侍従達の首が飛んでしまうわ。」
人の首が飛んだら死んじゃうよね、とリルルは思った。なんて怖い、大人の世界!
「もしかして、遠く東方の国の使節団が次男や三男だったのって、私と同じ理由ですか?」
「そうね。彼らの場合は自分にとって都合のいい結婚相手を見つける旅でもあったでしょうけれど、リルルの場合は単に学識を深める旅だと思うわ。」
「なんだか違い過ぎませんか?」
私も結婚相手を見つける旅の方が楽そうでいいな。名前を名乗ったら婚約できる王家の特権万歳!
「あなたがおバカさん過ぎるのが悪いのよ。もっと賢かったらこんな目に合ってないと思うわ。」
実の姉のくせに随分な言い方をするなあとリルルは思った。実際ラウラは賢くて、何人かいる家庭教師が毎日日替わりで何かしらを教えてくれていても、音をあげず、余裕綽々で勉学や公務に励んでいた。ダンスが苦手という噂だけれど、女王なのでダンスを披露する機会は、結婚式の後の王配の披露舞踏会ぐらいでそれ以外は恐らくない。
「まあ、お菓子ぐらいなら私も手配してあげるから、頑張って学ぶのよ?」
「はい…。」
しゅんとしたリルルを見て、ラウラは愛おしそうに頭を撫でた。
「ところで、リルル、婚約者達に会いに行ったんですってね?」
耳が早いな~とリルルは思った。そんな事を把握して何の役に立つというのだろう。
「ええ、まともにお話はしてませんけどね。」
「まあ、そういうものよ。」
ラウラは静かに言った。ラウラはリルルがおバカさんなのは、婚約者を長男や跡取りで選んでいないところですっかりバレているのよね、と思った。リルルが降嫁するには相手にも覚悟がいるのだ。
「旅行中は、決して名乗ってはダメよ? 王族というだけで、誘拐されて頭から食べられてしまうからね?」
ひいっとリルルは小さく悲鳴を上げた。子供を誘拐して食べるなんて異国の大人って怖い。
肩を竦めて震えるリルルを見て、ラウラは笑うと、「さて、私は自分の部屋に戻るわ。分刻みで予定が埋まっているの。またね、リルル、」と席を立った。
「ありがとうございまいました、お姉さま。名乗らないように気を付けて旅行に行ってきます。」
すっかり勘違いした様子のリルルを見てニコリと微笑むと、ラウラは自分の侍女達を従えて部屋を出て行った。
台風のようなラウラたちが去った部屋で、ケイティがそっと耳打ちする。
「リルル様、異国では名乗ってはいけませんが、頭からとって食べたりはさすがにしませんよ?」
「ええ?」
「当たり前じゃないですか、あれはリルル様を揶揄っておいでなのですよ?」
今日はカロヨンの代わりにリディアという侍女が仕事をしていた。子爵家出身のリディアは背が高くて一番年長だった。
「私共は2人、リルル様のお世話係として旅行に同行するようにと仰せつかっております。私とクグロワが同行しますから、危険な目には絶対合わせませんから大丈夫ですよ?」
「そうなのね、私、安心しちゃった。一人で使節団で大人と旅行するのかと思っちゃった。」
使節団に子供はリルル一人なので、それであってるけどな、と侍女達は思った。もしかして私達って大人だと思われていないのかしら?
「ねえ、お姉さまに貰ったクッキー、さっそくミーシャにあげたいから、着替えるの、手伝ってくれる?」
「わかりました。リルル様。では、おやつをお済になってからにしましょうか。小姓部屋の者達もおやつの時間でしょうから、今あちらに行くと小姓部屋の者達はおやつが食べられませんからね。」
一緒に食べちゃいけないのか~、とリルルは思ったけれどミーシャに嫌われるのは嫌なので仕方なく頷いた。10時のおやつは小さなイチゴのタルトだった。
※ ※ ※
小姓部屋に行く支度をしていると、慌てた様子で父が部屋に入ってきた。
「探したよ、リルル、こんなところにいたのかい?」
こんなところと言われてもここは私の部屋ですが、とリルルは思ったけれど黙っておいた。仮にも目の前にいるのは自分の父で、王配でもある人物だった。
「お父さまは、リルルに約束があるんだ。」
しゃがんで目線を合わせると、父はリルルの両腕をしっかり捕まえて言った。
「お前は婚約者の捕まえ方を知っているね?」
捕まえ方? 婚約って捕獲なの? とリルルは目を丸くした。やっぱり沢山いた方がいいのね?
「ええ、名前を最後まで言って手を差し出すんでしょう? お父さま。」
「ああ、そうだ。でもね、リルル。今度の旅行では、絶対に名乗ってはいけないよ? 名乗っても『リルル』だけにしなさい。」
リルルはリルルの名前で、次のエカテリーナは守護する先祖の名前だった。リュラーは苗字に当たる。リルル・エカテリーナ・リュラーと名乗って初めてリルルと断定されるのだった。王族が自身の名前にリュラーを付けて名乗る時は、婚約の作法をする時ぐらいに稀だった。
上目遣いに父を見て、リルルは口を尖らせた。とっても可愛い表情に、父はメロメロになりながら心をしっかり持って言い聞かせた。
「お前が帰ってこれなくなってはお父さまは困るんだ。判ったね?」
「はあい。」
納得してない顔でリルルが答えると、父はさらに言った。
「それに、今度から婚約者が欲しくなったら、必ず、この国の子供で、貴族の長男にしなさい。出来れば侯爵家か公爵家の者にするのだぞ?」
どうやって公爵家とか侯爵家とかおうちの身分を知るんだろう。リルルは首を傾げた。そうなると、今迄みたいな騙し討ちの婚約は出来なくなってしまう。
「身分の低い者と名前の交換をしてはいけないし、次男や三男も諦めること。判ったね?」
「…嫌。」
リルルは父の方を見ずに、小さく呟いた。
そんなことをしたらミーシャと婚約が出来なくなってしまう。ミーシャは侯爵家の次男だった。
「どうして?」
「ミーシャと婚約したい。」
「ミーシャ?」
そんな名前の小姓は中央棟にいただろうか? 父は首を傾げた。
「ミーシャ・フォル・ミンクス。」
ミーシャ自身は名乗ってくれなくても、リルルはミーシャの名前を知っていた。他の小姓たちが呼ぶ名前を繋ぎ合わせて理解していたのだった。
ミンクス家にミーシャという名前のものはなかったはずだが…? もしかしてリルルはミハイルのことを言っているのだろうか。父は、この調子だとリルルは一生ミハイルと婚約できないかもしれないなと思った。
「ああ、ラウラの婚約者の弟だね。ラウラが幼い頃にミンクス侯爵家の長男と婚約してしまっているから、あの家の者は名乗ってはくれないだろうね。諦めなさい、リルル。」
ラウラが幼い頃に顔だけを見て選んだ相手だったので、長男だと気が付いた時には婚約が成立してしまってした。おそらく王配にはならないだろうと父は思っていたけれど、まだ決定するまで十年もの時間がある。
「嫌。絶対嫌。」
頬を膨らませて顔を真っ赤にして怒る幼いリルルは、ぎゅっと手を握って父の顔を見た。
「お父さまはお母さまは好きあって御結婚為されたのだと、聞いたことがあるわ。」
驚いた表情になって父はリルルの顔を見つめた。
「ああ、そうだとも。お父さまはお母さまの沢山いる婚約者のうちの一人だったけれど、とても愛していたんだ。お母さまに愛して貰えて、王配に選んで貰えたのだよ?」
そのために容姿も気を配ったしセンスも磨いたし勉学にも励んだ。持って生まれた爵位と家柄と血筋に感謝して自分を磨いた父は、目の前にいる娘がその成果だとしみじみ思った。
「私もそれがいい。」
リルルは怒ったように言った。
「私もミーシャを選んで、ミーシャに好かれて結婚したい。」
そんなことをいくらお前が望んだって、ミーシャがお前を愛さなければそんな希望は辛いだけなんだよ? 父はそう言おうとして、まだ子供には判らないだろうなと思った。こんなに婚約したがるリルルと今の時点でミーシャが婚約を望んでいないのなら、この先だってミーシャがリルルとの結婚を望まない可能性は高い。第一名前すら正しく教えてもらっていないのだから、前途多難だ。
よしよし…と丁寧に頭を撫でて、父は、リルルの瞳を見た。怒りが収まったのか、いつもの顔色に戻っている。
「じゃあ、お父さまと約束しよう。旅行の間、誰とも婚約しないこと。それが守れたら、この国に帰って来てからミンクス家の兄弟のことも考えてあげよう。」
「…約束よ?」
「ああ、約束だ。」
ぎゅっと父にしがみついて、リルルは嬉しそうに笑った。「約束よ、お父さま。」
考えると言っただけで許可は与えてないんだけどな、と父も、侍女達も思った。まんまと騙されたリルルは、周りの表情に気が付かないまま、ミーシャの笑顔を思い浮かべてにっこりと笑った。
※ ※ ※
父が去ったあと、リルルはやっと小姓部屋に行けた。お菓子の箱を手にドアを叩くと、ちょうどお昼休憩になる前だったらしく、書類の片付けをしていた。
「今ちょっといいですか?」
リルルが顔を覗かせると、シルフィイが「いいよ?」と答えた。「今日は何の用? リルル様。」
部屋の中に子供はいつもの六人で、あのズルい新入り達の姿は見えなかった。
「お菓子を持ってきたからあげたい。」
「お菓子ですか? 歓迎します。どうぞ中へ。」
太っちょロードが嬉しそうに言った。ミーシャはちらりとリルルを見て、小さく頷いている。
「お邪魔します。」
「リルル様、今日は珍しく謙虚なんですね。いつも勝手に入ってくる気がしますが?」
「そんなことないわ。いつもと同じだと思う、たぶん。」
父にミーシャとの仲を反対されたばかりなので、ミーシャに嫌われたくはなかったリルルは、思いつく限り丁寧な仕草になるように努力したのだった。
「これ、お姉さまに貰ったの。きっとおいしいわ。みんなに一枚ずつあげる。」
リルルが蓋を取って中を披露すると、さっそくケニーが手を伸ばして一枚摘まんで食べた。
「恐れ多いですが、いただきます。…さすがラウラ様。とっても美味しいです。」
顔を輝かせて食べるケニーをまねて、ウィルやロードたちもクッキーを手に取った。ぱくっと食べて、嬉しそうに笑っている。
「ミーシャも、食べて?」
リルルが誘っても、ミーシャは唇を噛んで黙っていた。
「ミーシャ、美味しいぜ、クッキーに罪はないんだ。食べてみろよ?」
ジャックが誘うと、ミーシャは気まずそうに一枚手に取り、口に運んだ。美味しいのか少しだけ頬を緩ませて、でも表情を殺してミーシャは食べている。
「リルル様、気にしないで? ミーシャはちょっと疲れているんだ。」
「どうしたの?」
「今ここにはいない…、今朝、登城した時にあの二人に、ミーシャの兄上とラウラ様のことを揶揄われて、ちょっと嫌な思いをしたんだ。」
あのズルい二人組はそんな嫌なことまで言うのか…、とリルルは愕然とした。
「あの二人組は、今はどこへ行ったの?」
「あいつらは、昨日、部屋替えがあったんだ。ここじゃなくて、西の塔の警備の班へ行く事になったんだよ。」
年長者のケニーが呆れたように言った。
「この前、前女王様がいらっしゃった時に御預かりしたお仕事を手抜きして雑に扱ったものだから、『この者達は頭ではなく体で仕事を覚えさせなさい』とお叱りを受けてしまったんだ。だから、警備の班で心身を鍛える基礎から学ぶんだって聞いたよ。」
「ふうん、そうなんだ。」
おばあちゃんありがとう、リルルはこっそり心の中で思った。私が来れない間におばあちゃんはちゃんと約束を守ってくれたんだね。
嬉しそうな顔になったリルルは、ミーシャにもう一枚クッキーを手渡した。
「ミーシャにはもう一枚あげる。元気出しなよ。これはお姉さまが下さったクッキーだけど、私があげるクッキーでもあるのよ? だから、私があげたいからあげるの。リルルのクッキーなら食べれるでしょう?」
シルフィイとジャックがくすくすと笑っている。
「小さいけど、リルル様も王女様なんだね。」
「小さいのは余計です。」
拗ねた表情のリルルが可愛くて、小姓部屋の男の子たちは胸がキュンとしていた。やっぱりこの子は小悪魔だ。そう思った。
「ミーシャが私の婚約者になってくれたら、いつだって守ってあげるから、任せてね。」
リルルが胸を張ってそう言うと、ミーシャはくすくすと笑った。
「絶対なりませんから、守ってもらわなくていいです。」
「あー、もー、そういうこと言うんだー!」
リルルが頬を膨らませて不満そうな顔を作ると、誰もが笑い始めた。
「王女様がそんな顔しちゃいけないんですよ、リルル様。それじゃまるで子供じゃありませんか。」
5歳の子供を捕まえて何言ってんの? とリルルは思った。王女様でも子供だし、文句だって言うんだもんね。ぷくーっと頬を膨らませて、リルルは最後に残ったクッキーを自分で食べた。
甘くて香ばしくて胡桃がかりっとしていて、こんなおいしいものを知っているお姉さまはやっぱりすごい、と思った。
ありがとうございました