25 婚約破棄できた弟
「姉上とエレノア嬢に聞いてほしい話があります。不愉快にさせる話で申し訳ないのですが、どうせ明日になれば学院や王宮で知らぬ者はいなくなるでしょうから」
怪訝な顔をする私とエレノアに弟は衝撃の言葉を放った。
「アントニアとの婚約を破棄しました」
「「えっ!?」」
私とエレノアが同時に驚きの声を上げた。
「……それは、今朝の私との事で?」
誰もが遠慮していたのに、エドワードとの事を無神経に、ずけずけと訊いてきたアントニア。むかついた私が殴る前にローズマリーが蹴飛ばしたのだが。
「それは決定打ですけど、ずっと考えていたんです。彼女は王子妃に相応しくないと」
「私」ではなく「王子妃」に相応しくないとアルバートは言った。
弟は常に自分個人としてではなく王子として考えて行動している。
その心構えは充分王として相応しい。ただアーサーのほうが、よりすぐれているというだけだ。
……何にしろ、王女としてよりも個人としての幸福を考えてしまう私とは違う。
「丁度よくローリゲン男爵とアントニアが私を訪ねて来たので、陛下と母上も交えて婚約破棄の話をしたんです」
アルバートは私と二人きりの時は、国王は「あいつ」、妾妃は「メアリー」と言っているが、さすがに今はエレノアもいるので、国王は「陛下」、妾妃は「母上」になっている。
「……それで、あっさりと婚約破棄が決まった訳ね」
国王にとっては息子の妻など誰でもいいのだ。
アーサーを王配に、次代の「王」にできればいい。
だから、唯一の王女である私の夫はアーサー以外、絶対に認めない。……婚約者以外の男の子を孕んだ(嘘だけど)というスキャンダルを起こしてもだ。
……何の苦労もせず、あっさりと婚約破棄できた弟が羨ましい。いや、はっきり言って妬ましい。
どす黒い気持ちになる私に構わず、弟の話は続いた。
「ここからが重要な話なのですが」
アントニアと婚約破棄したというだけで充分だと思うのだけど、まだ何かあるのか?
これ以上驚く事はないと思っていたのだが――。
「彼女、私の子を妊娠したなどと言ったのです。それが、ローリゲン男爵と彼女が私を訪ねて来た理由です」
「……婚約破棄したらまずいんじゃない?」
「……御子ができた以上は結婚したほうがいいと思いますが」
私に続いてエレノアが言った。
《脳筋国家》と言われていようと、やはり婚前交渉は褒められたものではない。だが、それでも、子供ができてしまった以上は責任を取って結婚すべきだろう。いくら彼女が王子妃に相応しくないと思っていようとだ。
「……話は最後まで聞いてください」
弟は溜息を吐いた。
「私の子ではありえません。私は彼女と一度も肌を重ねていないので」
「え、でも、アントニア、あなたの子を妊娠したと言ったんでしょう?」
発言した私ばかりでなくエレノアも困惑した様子だ。
「……それが彼女のおかしいところですね」
アルバートは婚約者(いや、もう元婚約者か)をそう評した。
「……つまり、あなたと一度も『そういう事』をした事がないのに、お腹の子の父親が、あなただと思い込んでいる訳?」
「……そうなりますね」
私の確認にアルバートは疲れたように頷いた。
「……自分の事を棚に上げて、よくもまあ王女に散々偉そうに言えたものだわ」
私は怒るよりも呆れた。
「王子の婚約者という事で彼女も陛下の部下から監視されていました。彼女の胎の子の父親が私でない事は陛下も分かっています。だから、婚約破棄できました」
……そう、普通なら婚約者以外の男の子を妊娠したのなら、あっさりと婚約破棄できるものなのだ。
「……娘が胎の子を王子の子だと偽った事で、いや、彼女にとっては『真実』で偽ったという自覚はないのでしょうが」
弟の言う通り、あの脳内お花畑娘にとっては、胎の子の父親は王子なのだろう。元婚約者と一度も肌を重ねた事がないという事実があってもだ。
「とにかく、それでローリゲン男爵は、ずいぶんと恐縮して見ていて可哀想なくらいでしたね」
弟は以前「ローリゲン男爵は領地経営は下手だが、まともな人間」だと言っていた。娘のした事で恐縮するのは、まともな人間なら当然だろう。
「私ではなくローリゲン男爵が慰謝料を払わなければならなくなりましたが」
婚約破棄を言い出したアルバートが慰謝料を払うはずだった。けれど、アントニアは婚約者以外の男の子を妊娠したのだ。誰がどう見てもアントニアのほうに非がある。
「もともと婚約破棄するつもりだったので慰謝料は受け取らず、領民のためにも今まで通り母上の優秀な部下がローリゲン男爵領の領地経営を手助けします」
一応、息子の婚約者の父親だったので妾妃があれこれと便宜を図っていたようだ。
「……男爵は私の提案に、なかなか納得してくれなくて、爵位を返上する、全財産を私に譲る、果ては娘を殺して自分も死ぬなどと言い出したので、私や陛下、母上が必死に宥めました。……彼女だけが事の重大さを全く理解せず、のほほんとしていたので、はっきり言って殺意を覚えましたね」
その時の騒動を思い出したのだろう。アルバートの顔は仮面越しでも分かるほど疲労がにじみ出ていた。
まあ、とにかく、これで弟に婚約者はいなくなり「独り身」になった。
だったら――。
「私は生涯結婚せず子供も作らない事にしました」
私が言いたい事が分かったのだろう。弟に釘を刺されてしまった。
「エレノアを次の婚約者にしたら?」
私は、そう言うつもりだった。彼女はアントニアなどよりも、ずっと王子妃に相応しいし、何よりアルバートを愛してくれているからだ。
「下手に結婚して子供を作ると王位争いが起きますから。……何より、私には愛する女性がいて妻になる女性を絶対に愛せない。それに、未亡人にしてしまう可能性が高い。幸せにできないのに、結婚して子供を作るなんて無責任な事はできません」
アルバートがアントニアを婚約者にしたのは、ひとえに愛する女性の身代わりで彼女自身を愛していなかったからだ。
アントニアもまた自覚はなかっただろうが、王子妃に、そして王妃になりたかったから弟の婚約者になったのがあからさまだった。決して、アルバート個人を愛していたのではない。
だから、アルバートはアントニアを幸せにできなくても、結果、未亡人にしても何とも思わなかっただろう。
けれど、自分を愛してくれている女性を妻にするのは、アルバートの優しさや責任感が許さないのだ。
「……私は、あなたを殺したりしないわ。アーサーだって」
いろいろと私には理解不能な思考を持つアーサーだが、これだけは分かる。貴族として生まれた義務だけは果たそうとしている。そんな彼だから、王配に、「王」になった以上は、必ずこの国を改革してくれるだろう。アルバートを何とも思ってなくても王の兄弟姉妹を殺す慣習を変えてくれるはずだ。
「……分かってます。貴女がそんなお気持ちならアーサーだって私を殺したりはしない。それでも、私個人としても王子としても、私は結婚すべきではないのです」
私はようやく分かった。アルバートが、なぜ、こんな話を始めたのか。
弟の言う通り、アントニアとの婚約破棄の話は、明日には王宮や学院で知らぬ者はいなくなるだろう。だから、私とエレノアに話した。
そして、もうひとつは、エレノアに王子との結婚を諦めてもらう気持ちもあったのだ。
ペンドーン侯爵家やウィザーズ侯爵家に次いで権力のあるフォゼリンガム侯爵家の令嬢。しかも、婚約者がまだいない彼女は、アントニアという婚約者がいなくなった王子にとって最有力の婚約者候補になる。
エレノアが強請れば、娘である彼女を溺愛しているフォゼリンガム侯爵は、あらゆる手を使って彼女を王子の婚約者にしようとするだろう。それを弟は避けたいのだ。
アルバートの気持ちは分かる。けれど――。
アルバートがエレノアを愛せなくても、彼女は弟を愛してくれている。
愛する女性がいるアルバートは、エレノアに恋愛感情は抱けないだろう。それでも、元婚約者などよりも人間的にすぐれている彼女に好意を持っているはずだ。
私も弟も父親からは愛されなかった。
それでも、私だけは「母」からの愛情に恵まれた。……その「愛」は私に罪悪感をもたらせるものなのだけれど。
それでも「母」からも愛されなかった弟よりは余程ましだっただろう。どれだけ献身を捧げても無関心だったり……本来なら向けられるはずがなかった嫌悪すら向けられているのだから。
……姉だけでも弟を愛せればよかった。けれど、どうしても愛せない。私と同じ「真実」を知っていながら、あの女を憎まず全てを捧げる弟が理解不能で、どうしても愛せないのだ。
家族の愛に恵まれなかった弟。自分を想ってくれる女性と幸せな家庭を築いてほしい。
それが、姉として愛せず、彼が享受するはずだった愛を奪ってしまった私の願いだ。
……分かっている。これは、私の自己満足だ。アルバートが幸せな家庭を築けたとしても、私が彼にしてしまった事……何より、あの人にしてしまった事は、決して許されないのだから。
「……結論を急がないで。王子としても、あなた個人としても、幸せになれるわ」
そのためにも、王女が消えるしかない――。




