御器被とアシナガグモ
あなたがいなくなって、もうじき私も死ぬだろう。あなたにとってはゴミで散らかっていて不純な部屋だったのだろうが、私にとっては住みよい場所であったし、あなたが清い人でなくて嬉しかった。
ある日のこと、それはあなたがいなくなって数日が経った日のことであるが、私は一匹のアシナガグモと出会った。彼は律義にもこう言ったのである。
「掃除をしなければならない。宿主なき今、おまえはどうして生きているのか分かるまい。せめて、そんな哀れなおまえに生きていた意味を与えてやろうというのだ。ありがたく、わしに食われてもらえないだろうか」
アシナガグモは私の無様な体に目をやりながら、どこかでちぎれてしまった後ろ脚と、これまたあなたに殺されそうになった時に失った右の触角を認め、そんなことを私に伝える。
「ああ。それは大いに構わないけれど、なんとも名残惜しいのだ。君が逃げられもしない私に、そうやって声をかけるのは、君が生きるためなのだろうが……いや、食わないでくれと言うのではない。ただ、私は急に、あの人と同じことがしたくなったのだよ。つまりは人間らしく、君の胃袋へ持っていきたくないものが、一つ、私にはある。どうか、私を食べる前に一つ、どうか、どうか、聞いてはもらえぬか」
「わしは先ほど申した通り、ただ掃除をしたいだけに他ならない。しかし、こればかりは誤解しないでもらいたいのだが、わしはそれを聞いたところで、他には伝えないし、この場でわしがおまえをすべて平らげることになる。それでも、聞けと言うのか?」
「そうであるなら、私にとっても都合がいい。広めたいのではない。ただ、死ぬ前に吐き出す場が欲しかったのだ。私にあの世なんぞあるかは知れないが、そこへはどうしても持っていきたくはない。君は益虫だが、私は害虫だ。共に、あの人に生かされた身として、最後まで、聞くだけでいい。言葉など、返さなくともいい」
アシナガグモはそれからずっと黙っていた。私は気持ちの整理をしてから、とうとう、打ち明ける。
「私は数匹の兄弟と共に、卵鞘の中で生を持ち孵化をして生まれ出たのは冷蔵庫の裏と言われるところだった。這い出してみると、温かくて気持ちがよかった。それにあの人はゴミすらろくに処理のできない人間であったから、食べ物も無数にあった。古きは御器被と言われた私たちにとっては、生きやすい場所だった。いつしか私は、あの人は私たちを生かしてくれる良い人間なのだと思い始めた。それで好きにならないはずもなかろう? いつか、この思いを兄弟に話して聞かせたことがあるが、私の思いは理解されなかった。あの人は私たちを殺す。踏みにじったり、叩いたりなどしてね。だから、兄弟はあの人のことを嫌っていたよ。でも、私はそれでもあの人が好きだった。あの人の髪を見つけて食べるのも、あの人が放り投げたゴミをかじることも、なんとも心地が良かった。でも、ある日に私はあの人に殺されそうになったことがある。この体がそうだ。なんとも醜く、生きているだけで無様に思えるけれど、私はあの人に生かされていたし、幸せだった。私たちの寿命は三か月程度のものだが、私の生は、名状しがたいまでに美しく、幸福で満ちていた。でも……なぜだろうな。数日前、部屋の真ん中であの人は首を吊って自殺した。なぜ死なねばならなかったのだろうな。私はあの人から幸せをもらったというのに、私を幸せにしてくれたあの人が、どうして、どうして自殺など選んだかな……。私は、生きていてほしかった。私はいつまでも、あの人から幸せを、貰っていたかったというのに……」
よくわかる。私にあなたを幸せになどできやしない。あなたは私を嫌っていたのだから。それでも、私は、ただただ、生きていてほしかった。どうして、自殺などしたのかな。今でも私は具に思い出すことができる。首を吊ったあなたの髪の毛の味を、それから気持ちの悪いあなたの体温を。ああ、話しても、なんだかスッキリしないものだな。けれど構わない。答えなど、もう知りたくない。
あなたが生きていた世界は、私にとっては良いものだった。あなたがこの世界に嫌気がさしていたとしても、それは変わりようがない。
けれども、もしもあなたに気持ちを伝えることが叶うなら、私はただ、ありがとう、と伝えたいものだ。あなたと話すことすら、許されない私ではあるけれど。
アシナガグモが、なにも言わぬまま、とうとう私を殺し、そして食し始める。ああ、せめて、せめて、このアシナガグモが、幸せであったらいいな。
古きは御器被と言われ、今はゴキブリと呼ばれる私にしては、そう、悪くはない生だった。
はい。最後まで見てくださった皆様、どうもすみませんでしたm(._.)m