56.いいかい、振り向いてはダメだよ
扇彩華は常にニタニタと奇妙な笑みを浮かべている。
適合者ラスターとして自分の欲求に抗うことなく平然とやってのける。沙耶はその対象だった。
サディスティックな扇に対してマゾヒストの一面を持つ沙耶。扇の快楽の矛先は沙耶を虐げる事にある。ラスターとはそのような生き物だ。人間の成りをした人外。モータルとまで行かなくとも近しい存在。
沙耶は状況の整理が出来てはいなかった。東京軍在籍の扇彩華がなぜ福岡の適合者研究所へ。それも一番最初にたどり着いたこと。
「全く……沙耶は悪い子だね。ここまで逃げてきてしまうとは。賀堂さんには話をしたか?」
扇は宮内をそっちのけで沙耶の顔を掴み引き寄せる。頬を片手でギュッと締め付けられる沙耶は目を背けた。
「し……していません」
「ダメじゃないか。きちんと言わないと」
扇は知っている。沙耶が起こした東京での出来事を。半ば強引に脱走する形で荷物となったことを最初から最後まで全てを知っている。
「まぁいいとしよう。沙耶が無事ならば私はそれでいい。私の物だ。傷つけるのは私しかダメだからね」
不気味な笑みを浮かべ沙耶を離した。そして扇は宮内に向く。
「さて、任務を果たそう。宮内さん。何かお分かりですか? お分かりですよね?」
「なぜ僕らまで東京の揉め事に巻き込まれなくてはならないんだ」
「それについては私も同感です。だが残念ながら私は一介の軍人。任務を放棄することは出来ないのですよ。研究員の抹殺が……ありましてねぇ」
宮内は後ずさりをする。
「私も人の事は言えた義理ではありませんが……、宮内さん。あなた、善良な市民やお友達もそこのお仲間にしたようですが」
扇がガラス張りの向こう側のモータルたちを見つめる。今にもガラスを破り飛び出して来そうな勢いだ。
「僕を殺すってか? まだまだ研究をしないと……。データが足りないんだ。まだ死ぬわけには行かない!」
宮内は懐から拳銃を取りだして構えた。
「ヒヒッ……。研究者風情がおもちゃを持つとは世も末だ。私に向けたところでどうにもならんよ」
「それは分かっている」
適合者ラスターの扇に発砲したところで無意味だ。人間の想像を超える身体能力を侮ってはならない。例え扇が倒れたとしても次にやってくる軍人に取り押さえられるだろう。
「僕は死にたくない。でも、ここまで来た以上後には引けない。だから、僕は最後のデータを取ることにする!」
ダンダン……と。ガラスに穴を開けた。みるみると亀裂が入る。
「……これはまずいことになるねぇ」
扇が珍しく焦りの顔色を浮かべる。適合者でさえ後ずさりをする存在。適合者になりえなかった崩壊世界の怪物『モータル』が解き放たれようとしている。
「宮内さん。あなたはとんでもない事をしました。一匹ならまだしも数えきれないほどのモータルを外に出すとは。私でも命が危うい」
「当たり前だ。僕は今から何をしても死しか待っていない。ならば最後に僕の研究成果を披露しようじゃないか」
壊れた人間がやることは末恐ろしい。モータルの流出は宮内も分かっている。まず捕食されるのは一番近くにいる宮内。そして扇、沙耶の順番だ。
時は来た。粉々になったガラス片は地面に落ちると同時にモータルは得物に喰らいついた。
痛みの恐怖。断末魔が響く。
「沙耶……私の後ろにいなさい」
扇は沙耶の手を取って自らを盾となる。
「な、なぜ、私を助けるのですか?」
「何度も言わせないでほしい。私の沙耶だ。誰にも指一本は触れさせない。私の望みは君が生きていることだよ」
複雑な気持ちになる。あれほど扇を毛嫌いしていたはずなのに……。なぜそこまで固執するのか分からなかった。
「さぁて、どうしようか。生憎、拳銃を忘れてきてしまってね。今あるのはこいつだけだ」
扇は腰にぶら下げた軍刀を引き抜く。細身のサーベルだ。
宮内が餌となっている間、静かに後ろへと下がっていく。
扇は決してモータルと相対しても制する力はある。だが、一匹、二匹の場合だ。
モータルは適合者になり得なかった怪物。つまり適合者の身体能力を持ち合わる理性のない動物だ。複数人で襲い掛かればいくら適合者の扇でさえも対処は難しい。軍刀だけならなおさらだ。
逃げの一手。それしかなかった。問題は誰かが残らねば共倒れとなること。
時間を作らねばならない。モータルを背にして逃げるのは不可能なのだ。
「沙耶。君は逃げなさい。いいかい、振り向いてはダメだよ」
普段、不気味な扇はニコリとして沙耶に囁いた。そのような扇を見たことがない。沙耶は言葉が出なかった。
いや、見たことがある。孤児院で育った沙耶の遠い昔の記憶。嫌な記憶が被さり隠れてしまった記憶。幼いころ、同じ表情をした扇彩華を見たことがあった。




