55.ヒヒッ……本当にそうですかぁ?
適合者研究所は想像よりも大きい。所内は迷路のように入り組み、研究員でさえも普段立ち寄らない場所では迷ってしまうほどだ。右へ曲がれば次は左へと曲がる宮内を追いかけるのに精一杯で進んできた道はとっくに分からなくなっている。
所内は銃撃の音が響く。それも遠くの方だ。
研究所の警備員が東京軍と応戦中だが武装が貧弱な警備員では突破されるのも時間の問題だ。
研究国家福岡にも一応の軍は存在するが東京に比べると圧倒的に規模が小さい。東京軍は自ら赴き感染生物を殲滅するのに対して福岡は防衛のみ。
名古屋の様に商隊や傭兵がいるわけでもない。戦力は最低限しか保持していないのだ。
「なぜ東京軍が福岡に入れたのですか?」
他国軍を国内に入れることは滅多にない。元よりあってはならないことだ。入国することは即ち国が機能しなくなった。第三者が入る理由があっての事だ。
「……さぁね。でも、確かなことは福岡軍が入国を許したってことだ」
宮内は口ごもる。
さすがに東京軍でも無理をして福岡に入国することはない。武力介入をしたら国同士の問題になる。そこから導き出せる解答は福岡軍が抵抗せずに入国を許したという他ならない。
それは第三者が入らねばならない問題が福岡にあった。ならそれは何だ。
適合者実験。第一に浮かぶのはこの言葉だ。
非人道。法のない崩壊世界でも守らねばならない暗黙の掟はある。人命無視の行動は慎むべきであること。例えモラルのない人間でも人情は少なからず持ち合わせている。
人の死を悦目的に行うなど言語道断。軍や警備隊に取り押さえられ二度と太陽を拝むことはないだろう。
つまり東京軍は非人道的研究を行う適合者研究所を取り押さえる正当な理由がある。福岡軍が東京軍を入国許可せざるを得ない状況なのだ。
宮内が顔色を悪くして必死に奥へ奥へと走る。逃げなければならなかった。
もし、捕まれば研究内容が暴かれ処罰を食らうことになる。いや、そもそも宮内は適合者研究所に雇われている一介の研究員に過ぎない。弁明の余地はある。
だが、投降しようとはしない。違う。できないのだ。
地下一階ロビー。人気のない薄暗い廊下。宮内は少しでも時間を稼ごうと防火シャッターで封鎖する。そしてまた奥へ奥へと走る。
沙耶は疑問に思っていた。
逃げたところでどうせ最後は捕まってしまう。なのに、なぜまだ逃げようとするのだろうか。
宮内も逃げ場がなく覚悟はしているはずだ。隠れることも脱出することも諦めて沙耶を連れて地下室に逃げた理由。それは……。
とある一室の扉を閉める。薄暗く辺りは良く見えない。宮内は息を切らしながら言った。
「さぁ、始めよう。さっきの続きを……」
「つ、続きって何を……ですか?」
恐る恐る聞いた。ガチャガチャとケースを開けて注射器を取りだした宮内はニタァと笑った。
「実験だよ。実験。君はモルモットじゃないか。さぁ、早く腕を出して」
「い……いや……」
「何を言ってんだよ! 僕は君をどれだけ待ったと思うんだ! 待ちきれなかった……、でも大丈夫。次こそ成功させるから」
次こそ……。その言葉が何度も頭の中で反響する。
「あなたは……何を……」
「くくっ……。ははっ……。ここは適合者研究所だよ。僕のやっていることは立派な研究さ。そうだ! 君に少し見せてあげるよ」
宮内が注射器をしまうと部屋の明かりをつけた。
目を疑う光景。
ガラス張りの向こう側……。人間が大量にいた。でも違う。人間か?
目の色は死んでどこを見ているのかも定かではない。ウロウロと歩き回る姿。白衣を着ているのもいた。そして部屋に飛び散った血痕の数々……。
まさに狂気。狂った人間だ。
宮内は人ならざる『モータル』を閉じ込めていたのだ。
「ひどい……。これが人間のやる事ですか!」
「君もこうなるかもしれないじゃないか。何を今さら」
適合に失敗すればモータルへと化す。ただ、人を襲い食らいつくす怪物。
沙耶は扉に手を掛けた。だが、びくともしない。
「鍵はさせてもらっているよ。そんなに怖がらないでよ。大丈夫。次こそ成功させる自信があるんだ」
宮内は手を差し伸ばす。マッドサイエンティスト。その名にふさわしい振舞だ。
だが、そんな手を掴むはずがない。ドン、ドンと、扉を叩いて助けを呼んだ。
「無駄だよ。声を出したところで誰にも聞こえやしない」
「ヒヒッ……本当にそうですかぁ?」
聞き覚えのある女性の声。そして思いつくとある人物。まさか……。目を丸くした。
「沙耶、離れていなさい」
考えている暇はない。すぐにでも退かなければと這いつくばって移動する。
ガンッと金属が叩きつけられる鈍い音。そしてぶち抜かれた扉から一人の軍人が入って来た。
「やぁ、久しぶりだね。私の沙耶。いつ見てもいじめたくなる。あぁ、すぐにでも縛り上げたい」
狂気に孕んだ表情を浮かべる扇彩華が立っていた。
「き、君は誰だね!」
「これは失礼しました。私は東京軍の扇彩華。ここに面白い物があると聞いてわざわざ出向いてきました」
官帽を外し胸に当てて律儀に話し始める。腰まで伸びた艶やかな黒髪を垂らした姿。軍刀をぶら下げてやって来たのだ。




