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オッサン妖精、明日を行く。  作者: 五陽 朱之丞 
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 幼い頃、迷子になった事がある人間は、人生と言う名の道もまた迷うのだろうか。

 そんな言葉がふと男の頭に浮かぶ。

 生きている事。いや、この世に生まれた事自体がそもそもの間違いだったのではないか。

 両親が聞いたら顔を歪ませるような事を、彼は思った。


気がつくとオッサンと言っても差し支えない年齢に男はなった。

 今更遅いという事も、もう元にはもどらないと言う事も、わかってはいるが、自戒せずに入られなかった。

 彼の名を薄墨 一人かずとといった。

 オッサンは結婚はしていない。もちろん子供はいない。そもそも女と付き合ったためしがない。もちのろんでDTだ。

 オッサンはしみじみと職業の選択を間違ったのではないかと考えていた。


 彼は仏壇の前に座っていた。買って来たビ-ルとつまみをお供えし、誕生日を迎え、四十二歳になった事を報告する。


 小ぢんまりとした仏壇には位牌は二つあった。仏前には線香立てに線香が三本立っている。火がともった線香から白くかすれた煙が立っていた。立ち昇った先は空気に紛れ込むように消えていく。

 煙の形は刻々と変化を重ねる。三本別々に煙が立ち上っていたかと思うと、その内の二本が交わり糸が撚れるように交わり捩じれていく。しばらくすると三本共に煙が交わり、消えていった。そしてはじめとは別の二本の煙が交わり、四散した。

 その様子をぼんやりと見ながら、タバコに火をつけた。火をつけた先から紫煙が立ち上る。

ゆっくりとタバコを吸い込み、線香の煙にぶつけるように煙を吐き出す。

 線香から立ち上る煙は、一瞬交わることを避けるように横へ逃げ、しばらくしてから混ざり、

また別々に立ち上り消えていく。


 その様子を眺めつつ、咥えタバコでオッサンはビールを開けた。

 カシュッ、と心地のよい音を立て、中の泡が噴出す。泡は上蓋から零れ落ち、持ち手を濡らす。

 彼は慌てて、もう一方の手でこぼさぬよう底に手を添えた。幸いにして、持ち手を濡らすだけで添えた手には零れなかった。男はビ-ルでぬれた手を傍にあったティッシュを何枚か取ると拭き取った。それから改めてビールを一口飲んだ。

 外はまだ明るい。昼間は十分に過ぎた時間だが、酒を飲む時間でもない。おまけに平日で、世間ではまだ働いている時間だった。

 終身雇用といわれた時は今昔。

 現在、無職のおっさんであった。目下絶望中。

 首を切られた当時、彼は四十になる前だった。

 職探しをするが、何処も彼処も似たような状況でハローワークには同じように職を失った人があふれていた。

 不況と言う事もあり、求人自体が少ない。職種が違ったり。また、あったとしても少ない求人に群がるように人が殺到していた。

 失業手当があるうちに、何とか決めたいと毎日のように通い、面接をした。

 多少、時給、日給が下がっても仕方がないとよさそうなのがあれば、バイトでも契約社員でも応募した。

 しかし、この御時世、正社員は無理だろうとおっさんは思っていたが、非正規の契約社員、バイトでも落ちるとは思ってはいなかった。

 何回も面接を繰り返し、毎回のように歳がどうのといわれ、面接を二十回を超えた辺りで嫌気がさした。

 手に職があるわけでも、何が技術があるというわけでもない彼は職探しに疲れた。


 そんな、ある日の昼下がり。

 前日、日雇い仕事の帰りに立ち寄った店の出入り口に置いてあるフリーペーパーの求人誌を薄墨一人はみていた。

 タバコを吸いながら、ぺらぺらな求人誌を開く。

 おっさんは中身を見なくても厚みで大方の予想をしていた。

 案の定、一ページ大体十件位載るはずの頁には、二件ほど後はどうでもいい電話の仕方や面接の仕方などの情報が載っている。仕事はスナックの店員、女性のみ。とかトイレ掃除を含む清掃業とか。暗に女性限定な求人しかなかった。

 表紙を含めないで六ページあったが、肝心の求人情報はほとんど無い。わざわざ一件一件数えるつもりも無いが、全体で二十件もないようにおっさんは思った。

 気落ちし、横になる。何気なく、見慣れた部屋を眺めていた。

 視界に入ったカレンダーを見、胸ポケットに入れた携帯電話を取り出し、表示された日付を確認して、今日が自分の誕生日だった事に気がついた。

 それから自分の年齢を数えだす。首を切られ時が一昨年の五月、いつの間にか年をまたいで、今は六月になっていた。

 男はおっさんといって差し支えない年齢になっていた事にふと気がつく。

 思わず声が上がる。

「マジかー」

そして、彼は自分が四十を越えていたことに愕然とした。それから彼は確認しなければ良かったと後悔するのだった。

 彼は落ち込んだ気持ちを振り払うのと厄払いのつもりで、酒とつまみを近くのスーパーに求めに出かけたのだった。

 薄墨一人は酒自体飲めはしたが、人付き合いで飲む事はあっても、日常的に晩酌をするほどでもなかった。

 せいぜい盆暮れ、正月に飲む程度で済んでいたが、仕事を探して以来、暮れ正月と仕事が決まらず、飲んでる場合じゃないと自制していた。

 しかし、自制すれども仕事にありつけない。その反動といえばいいのか、陰鬱な気分を晴らす為、昼間から酒を買いに行った一つの要因だったのかもしれない。


 久々に口にしたビールは酷く苦くおっさんの舌を刺激した。

 おっさんはその苦味をかみ締めるように後味が引くのを待つ。その間、視界に線香から立ち上る煙を何気なくみていた。

 母親は、無職のときに倒れ、救急車で運ばれ一命を取り留めたと思ったら一週間後に亡くなった。

 葬儀や相続と言った雑務に追われ、あわただしく一年が過ぎた。

 ふと、おっさんは自分の父親の事を思い出す。

 何故と言う戸惑いがあった、思い出すなら母親だろうに、と彼は困惑しながら思うのだ。

 薄墨の父親は彼が二十歳のときに病気で亡くなった。

 

 正直、思い出したいとは思わなかったが、出てきたものはしょうがない。と、そう彼は割り切った。が、ビールの苦味とあいまって彼は苦々しい気持ちになっていた。

 薄墨一人の中でまだ明るいうちから酒を飲んでいる彼自身と、酒を飲むと饒舌になり、絡みだす彼の父親が重なった。

 口に広がる苦味を消す為、彼は仏壇に供えたつまみを手で断りを入れて、ポテチの封を開ける。のり風味が広がるはずのそれは、線香の匂いが追いやった。

 彼は弐枚ほどつまみ上げ口に放り込む。口に入れた際の塩味、噛むとからりと揚がった芋の香ばしさと、のりの香りが口の中に広がる。ビールの苦さを上書きする。

 塩味がうまい。薄墨は手についた塩を下品だがなめ取り、再びビールをあおる。

 一口、二口とゴクゴクとのどを鳴らす。ぷはーとため息を吐き、ホッとする。再び苦味がよみがえると同時に、再び父親の影がちらついた。


 酒を飲んでは、仕事上で自分が関わった人間の事を話し出す。薄墨一人の父親はそんな親だった。

 途中、疑問に思った事を聞くと、話の腰を折るなと言って怒る。おまけに話が長い。

 話し始めると一時間二時間ざらに話す。また、途中で席を立とうものなら、烈火のごとく怒り出す。しょうがなく薄墨一人は最後まで付き合うのだが、最後まで聞いても話が見えず、無駄な時間を過ごしただけだった。

 その所為もあって、彼は自分の父親が好きではなかった。子供の頃は絶対に酒飲みにはならん、酒など飲まんと思っていたが、いつの間にか自分も酒を飲むようになっていた。


 初めて飲んだ酒は父親の葬式のときだった。その頃には成人を迎えた直後だったので、親戚に勧められるまま杯を取り飲んだ。その時、飲んだビールの味は苦いだけでうまいとは思わなかったのを彼は覚えている。

 しかし、何時の頃からか、苦味がうまいと感じるようになっていた。

 不思議なものだ、と薄墨は苦笑を浮かべる。

 父親の葬儀のとき男の母が言っていた。一人が成人を迎えたら酒を酌み交わすのが夢だった、と告げられた事を思い出した。

 おっさんの視線の先に音もなく線香の筋となって煙が立ち上るっているのが見えた。

 瞬間、くにゃりと煙は形を崩し、また上へと延びる。


「<光陰矢のごとし>」「<少年老い易く学成り難し>」彼の口から言葉が零れた。

 意味は『月日がたつのはあっという間で元には戻らない』『若いうちから時間を惜しんで勉学に励むべき』だったか、学校で教わったのか、父親から教わったのか、そこら辺の記憶がはっきりしない。酒の成果、それとも彼の記憶力の問題なのか、ただ彼が覚えているのは自分が子供のときに彼の父親が何かにつけて言っていた言葉だった。と言うことは覚えていた。


 三十を越えた瞬間からあっという間に月日が立ったように薄墨一人は感じた。

 二十代までは時間がたつのが遅く感じたものだが、三十歳を越えてからの記憶がない。いや、あるのかもしれないが、記憶を辿ることに追いついていかないぐらい記憶がない。文字通り、光陰矢のごとし。昔の人間はうまいことを言う。

 正直一体何をどうすればよかったのか、さっぱりわからない人生だったなと、缶ビールを一本空にしながら、彼はしみじみは思う。

 親は事ある事に勉強しろ、勉強しろと言っていた。別にその事に反対するつもりもないが、どう勉強すれば良いのか、が薄墨はわからなかった。ようは勉強の仕方がわからなかった。

 勉強の仕方がすんなりとわかる人間は、人生も迷わずに生きているような気がした。人生におけるすべての問題も解決する道筋がわかるのではないだろうか。今まで経験したこと、他の人間の話を見聞きしたことを振り返って、なんとなくおっさんはそう思う。


 父親は書いて覚えろと言っていた。労力を惜しむな、とにかく書け、書けとうるさく言われたのを覚えている。書かないから覚えないのだと。覚えるまで書く、十回書いて覚えなければ、二十回、三十回と書けと。そうすれば身体、手が覚えると。

 確かに漢字は書かないと覚えないから書いてはいたが、算数でも理科でも社会でも教科書一冊書き上げる気で書いて覚えろと。一回で覚えなかったら教科書を模写して二冊でも三冊でも仕上げろといっていた。

 その当時、悪筆で自分の書いた字を見返すことが嫌だった。そのせいもあり、授業中に書いたノートでさえ見返すのが苦痛ですらあった。おっさんはそんな自分自身と折り合いをつけるのに苦労したを思い出した。今現在、何とか見れるぐらいの字になったのはその御蔭といえるかもしれない。

 しかし、自分の字の汚さにやる気がそがれるって、一体どういうことだろう。缶ビールを傾けながらおっさんは当時の事を振り返り改めて思う。

 まぁ、結局、公立の高校に入りはしたが、その学習方法では高校までしか通用せず、大学は無理だった。


 大学に入って入れは、今の状況は変わっていただろうか? 

 おっさんはしばらく考える。変わらない、と言う答えが出る。もっと根本的なものだろう、と思った。

 そもそも、大学に行く事を目標としていた。どんな仕事に就きたいか、では無かった。大学にさえ入っていれば、どこか働けるだろうと安易に考えていた。

 安易に考えた結果が、今の状況になっている。


 そこまで考えると気分が滅入ってきたおっさんは、もう一つの別のつまみの袋を開ける。ビールの友、柿ピーだ。おっさんは柿ピーが好きだった。

 柿の種の辛さがビールを誘う。豆を噛み砕き、ほのかに香るピーナッツ、それに後から来る甘味がビールの苦さを包み込むようにまろやかにする。

 袋を傾け、手のひらいにいくつかこぼす。柿の種を五、六粒つまみ口に放り込む。噛み占めると醤油と米の香ばしさが繰りに広がり辛味が後からやってくる。心地良い辛味がビールを誘う。ビールをあおると、手のひらにある残りの柿の種とピーナッツを口に入れ、ほうばった。


 変な潔癖主義と言うか完璧主義と言うか、拘りと言うのか、をこじらせていたのではないか、自分の思い描いた理想とのギャップがありすぎて嫌になったのではないか。

 と、薄墨は自分の性格と行動を吟味して答えを出す。


おっさんはビールを煽る。苦い。ただ、ただ苦い。

これが味なのか、戒めなのかわからない苦い後味が残る。ポテチの袋に手を伸ばす。二枚まとめて摘み口に運ぶ。パリ、パリとした歯ざわりと噛みごたえと共に程よい塩味とのりの香りが口に広がり、後味の苦味を和らいでいく。もう一枚と口の中にポテチを放り込み、噛むか噛まないかのうちにもう一枚と手を伸ばす。口に塩辛さと油ぽさが行き渡り、それをビールで洗い流す。

それから、おっさんは腹にたまった炭酸を旨いという気持ちを乗せたため息を混じりに吐き出した。


 あの頃、世の中にどんな仕事があるのかさえあまり知らなかった。いろんな職業で社会、この世の中が回っているということは知ってはいても、どんな仕事があるのか、逆にありすぎてわからない。

 今は調べ事はインターネットで大体調べられるが、当時は図書館でそれに関連した本を探すぐらいしかなかった。

 ただ、それでもどうなのだろうか。自分が興味をのある分野の会社に入ったからといって、受け持つ所に配属されなければ結局、嫌になって止めたのではないか。

 おっさん、職場で出合ったバイトや派遣の話を思い出す。

 大体が、自分と思っていた事と違っていた、とか。仕事に生きがいを感じない、とか言っていた。恥ずかしながら、おっさんもその口だった。

 結局どんな仕事に着こうが、自分自身とどう折り合いをつけるのかが、もっとも大事な事じゃないのか、おっさんは思うのだ。


 生きがいか、それとも実利か。難しい選択だ。

 彼の父親はおっさんに<好きこそ物の上手なれ>と言っていた。

 だが、おっさんは自分が何が好きなのか、得意なのかよくわからなかった。

 ちびりちびちと口にしていたビールは気付くと空になっていた。おっさんは冷やしていたビールを冷蔵庫に取りに行く。再び仏壇の前に陣取るとビール缶の口を空け、一口呑み、ポテチをつまむ。

 仏壇の前にある線香立ての線香は、知らぬ間に残り四分の一程になっていた。おっさんが動いたせいで立ち上る煙は左右に揺れ広がり、再び上へと戻ろうとしていた。

 程よくアルコールが回った頭で、おっさんは思う。

 それから、再び考える。おっさんは自分が、あまりにものんびり屋で無知で世間知らずな人間だった、と改めて反省する。

 人生の目標をどんな仕事に就くのかと言う点で言えば、親父は正しかった。自分が限りなく間違っていた。

 おっさんはそこまで考えるとふと小学校の頃に苦労した「将来について」と言う作文の課題の事を思い出す。あれを書かせたのは、そういった意図があったのだなぁ、と思う。

 まぁ、周りの人間も野球選手、とか看護婦とか憧れとかに近い夢を好き勝手に書いていた。

 実際問題その後、彼らは夢を叶えたのだろうか。

 結局、その後のフォローが無いから願望を垂れ流し手いるだけで終わっていたのではないだろうか。

 それをかなえる為にどうすればいいのか、どういう筋道と言うか、計画を立てて行動するのかと言うところまでを考察させれば、違っていたかもしれない。

 そんな事をしみじみと薄墨は思うのだ。

 意味があったかと言われれば、あったのだろう。しかし、おっさん自身、あの作文以降、真剣に考えなかったが。

 ただ、と薄墨は考える。

 ただ、そういったことをしなくても、できる人間がいるのは事実だ。自分はできなかったが、とも思った。

 何が違うのだろう。持っているものが違うと言えばそうなのだが…。

 薄墨は転々と職を変えた時、その職場、職場でそういった人間が一人や二人いた事を思い出していた。彼らはやけにフットワークが軽い、彼らを感心し驚いた事をおっさんは覚えている。

 薄墨はできない理由を見つけやらないが、彼らは違った。薄墨は時間や金を理由に付けしなかったが、彼らはそんな事は理由にならないとやってのける。

 考え方とそれに伴う行動がとにかく軽いのだ。

 大人になれば何でも出来るとさえ思っていた。

 しかし、思った以上に何もできない自分がいる。不器用といえば、そうなのだろう。物ぐさといわれれば確かにそうかもしれない。

 彼らと自分の違いは何だ。薄墨は考える。

 持って生まれたものなのか、それとも環境、両親からの教育か。


「生きるって、本当に難しいなぁ」

 思わず出た言葉が思いのほか声が大きかった。

 もっとも、いくら今ここで反省しようが、もう戻れはしないのだ、と。今更、子供のときに戻れたとしてもトラブルを回避できるほど器用な人間ではない。はっきりいえば自分は同じ事を繰り返す自信がある。嫌な自信だなぁ、とも思うが、絶対やらかすと断言できる。

 プラス思考の自信は限りなくないが、マイナス思考の自信だけは無尽蔵にあった。

 自分にそれだけの頭と行動力があるわけがない。あればそれなりに世の中を渡っているだろう、とおっさんは思う。


 生きるって大変だなぁ。子供の頃はそんなこと考えたこともなかった。早く大人になって、自分のしたいことをする。と考えていたが今では、やりたい、したいと言うことを見つけること自体難しく感じてしまう。自分のしたい事、やりたい事が果たしてなんだったのか。何をしたかったのか、迷いながら生きてきた。それが根底にあるから仕事をしていても中途半端だった。

生きていれば楽しいことがある、と言う人がいるが楽しいことを見つけられること自体が幸運だと思う。

<少年老い易く学成り難し>

 父親が口をすっぱくしていっていた言葉が、心に刺さる。

 早めに進路を決めれば、今の状態を変えられただろうか? そもそも自分にあった適正職業って何だろう? 


 おっさんの母親が亡くなる前に語ったことある。

「お前が子供の頃、泥んこ遊びで作った泥団子は見事な泥団子だった。あれが将来の役に立てれば、よかったのにねぇ」

 それを聞いたおっさんは、何ともいえない顔になった。泥団子作りが役に立ちそうな仕事が想像つかない。左官屋か、粘土で作る焼き物位しか思いつかない。

 自分がどんな表情を浮かべているのかさえ想像がつかないでいた。それを見て、母親はころころ笑っていたのをおっさんは思い出す。


「後は食べることに一所懸命だった。パンを食べるとき隅から隅まで綺麗にバターを塗って。お父さんはそれを見てぼやいてたわ。バターを塗るように勉強すればいいのに、って」

 おっさんはそれを聞いて、何とも居心地が悪かったのを覚えている。

 どうせ食べるのであれば、少しでも美味しく食べたいと思ってやったことで、それについてとやかく言われはないと思っていた。人が見て不快な食べ方をしているつもりはない。

彼の母親はあまり料理が得意とは思えない。今で言う飯マズではないが、旨い物と不味い物が混在している。不味いものが多いが、食えないほどではない、まぁ口にして不機嫌になることはたびたび無きにしも非ず、と言った所だ。その人間に舌が敏感とと言われても判断におっさんは困った。


 料理することが好きか嫌いかといわれれば、嫌いではないと、答えるだろう。たまに作って母親に振舞ったこともある。

 だが、料理人として生きるのかといわれれば、それはまた違うとおっさんは思った。

 自分で食べるものを作る分は構わないが、わざわざ、よそ様の口に入れる為に作りたいかといえばそんな気持ちはない。

 なんにせよ、成人してからどんな仕事に就くかで迷っていた。


 幼い頃、迷子になった事がある人間は人生と言う名の道もまた迷うのだろうか。

 薄墨はビ-ル片手に世迷い言を口走りながらビールを一口飲む。うまいこと言ったつもりなのだろう、ニヤニヤと口元に笑みを浮かべていた。

 アルコールは彼の脳細胞を程よく破壊していた。その結果、両親が聞いたら悲しむような言葉がその後続けざまに浮かんだ。

 心の中ですまないと手おあわせ、残りのビールを飲み干した。


 袋の中のポテチに手を伸ばす。が、袋の中に伸ばした指先に触れるものは割れて小さくなったかけら数個だけだった。

 彼は袋を手にとって覗き込む。粉のようなポテチの残骸を確認する。酷くがっかりした表情をすると袋を持って、残りかすを口に流し込み、咀嚼する。

 塩気がきつかったのか、彼は顔を歪ませるとビールで洗い流す。口直しとばかり柿ピーを摘み口の放り込むとぼりぼりと噛み砕く。


 気がつくと日は落ちていて、薄暗くなっていた。線香の火も消えていた。

 薄墨は窓を開け部屋にこもった煙を逃した。

 程よい外からの風は酒で火照った彼の体を撫でると共に、こもった部屋の空気を入れ替える。

 日が落ちた夜の風がやけに心地良く、部屋の空気を入れ替える間、薄墨はタバコに火をともす。

 窓際の壁に背を預け、吸い込んだ煙を外に吐き出す。

 心地よい風が何処からとも無く魚の焼く匂いと、カレーの匂いを彼の鼻のもとに運ぶ。

 どちらも最近食べてないなぁと薄墨はぼんやりと考えた。


 革靴の踵が地面を叩く音が道路から聞こえてきた。規則正しい乾いた音だ。心なし刻む音のテンポが速く薄墨の耳には聞こえた。

 それとは別に遠くから自転車の音が聞こえる。声変わりの無い高めの声とそれに混じって無邪気な笑い声が聞こえたかと思うと遠くに消えた。

 おっさんはタバコを灰皿に吸殻をこすり付けるように消し、その上から数滴残ったビールをかける。

 日中の日が部屋を暖めていたが、日がなくなると肌寒い。部屋の空気が外と同じぐらいになっただろうか、線香の匂いはもうしなかった。

 ポテチと柿ピーで腹がふくらみ、酔いもまわり、けだるい眠気がやってきた。

 しばらく開けていた窓を閉めて、おっさんは横になった。すぐに睡魔は襲ってきた。おっさんはその睡魔に抗うことなく受け入れる。まどろみの中で母親が死に際に、言っていたことを思い出した。



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