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キュウリ食べたい ナスも食べたい

 朝、鏡の中にいる自分はちょっぴり顔色が悪かった。

 騒音が収まっても一睡もできず頭がぼんやりとする。馬場さんは滅多に外出をしないらしくて、このアパート内にいる以上は二十四時間体制で監視されているも同然だった。

 あと三日。

 あと三日後に、一体何があるというのだろうか。


 滅入る気持ちを晴らそうとカーテンを開けると、ゴミ捨て場に向かう榎本家のご主人の姿があった。

 勝手に病弱な人を想像していたのだが、太陽光の下で見る彼はいたって普通のパパさんだった。ちょっと湿っぽい表情を差し引いても、気さくそうな雰囲気がある。

 奥さんは彼の異変を「馬場さんの悪影響ではないか」と疑っていた。夫婦間のことに首を突っ込むつもりはないが、三日しかないかもしれない私にとって、今はどんなことでも構わないから馬場さんの情報が必要だった。



「おはようございます」

 ゴミ捨て場に飛んで行くと、ご主人が分別し捨てているのは大量の玩具だった。ミニカーや、消防車をモチーフにしたビジーカー、絵本やDVDにいたるまですべて車に関係するものだ。

「達也くん、飽きちゃったんですか?」

 さり気なく分別を手伝いながら聞いてみた。

「車を怖がるようになってしまって。全部僕のせいなんですよ」

「あのくらいのお子さんなら、好みもコロコロ変わるもんなんじゃないのですか?」

「いいや。僕のせいですから」

 顔は曇りがちなのに返事する声にはやや怒気が込められていた。しかしそれは私に向けられているというよりも自分自身に対して怒りを感じているようにも見えた。

「嫁がおかしくなってしまったのも僕のせいだ」

「奥さんが? 先日お会いしましたけど、普通でしたよ」

「……あなたもですか」

「はい?」

「ここの住人はおかしな人ばかりだ! まともな人なんて、お隣さんくらいしかいない!」

 突然大声を上げられてしまい私は身を縮こませた。彼は今にも泣き出しそうなほど顔を真っ赤にし、足早に自宅へと戻ってしまう。

「ちょっと待ってください。おかしいって、何がですか?」

「僕はあなたも信用ができない。信用できないから何も言えない……」

 消え入りそうな声。しかし確固たる意志のこもった言葉だった。振り返りもしない彼をこれ以上引き止めるすべはなかった。



 互いが互いをおかしいと思い合っている夫婦。そして突然車が嫌いになってしまった男の子。いびつな一家に関与していると思われるのは一〇二号室の馬場さん。このアパートきっての問題児だ。

 夫婦それぞれの馬場さんに対する感想がまるで正反対なのが気がかりだった。その気がかりがもやとなり心を埋め尽くしていく。この引っかかりは何なんだろう。


 建物の前に立ってその全体像をまじまじと眺めてみた。

 牛田家のベランダには真っ白のタオルが何枚も風になびいている。私の部屋は……あ、窓が開いたままだ。そのお隣、無人でカーテンもかかっていない部屋は仄暗い空間をぽかりと開けていた。

 そのまま視線を真下に落とす。榎本家のベランダには子供用の布団が干してある。達也くんがおねしょでもしたのだろうか。その横にはシーツもあるがなぜか裏返し。透けている絵柄をよく見るとそこにはパトカーやらバスやらのイラストがあった。


 そして馬場家。ブラウンのカーテンには僅かの隙間もないが、時折かすかに揺れている。室内で扇風機でも回しているのかもしれなかった。



「……そんなところでどうしたの」

「あ、鷹林さん!」

 鷹林さんもまたゴミ出しをしに来たようだった。両手に提げたゴミ袋いっぱいのビール缶。前回の資源ゴミの日は一週間前だから、たったそれだけの期間に飲んだ量であると考えればおぞましい本数だ。

「本当にお酒好きなんですね」

「医者には死ぬからやめろって言われてるんだけどねえ。やめたら死んじゃうよ」

 豪快に笑った弾みで腹が揺れる。冗談抜きでドクターストップがかかっているなら断酒すべきだろうに。

「ところで榎本さんと何か話していたね?」

 窓から見えていたよと鷹林さんが言った。

「それは……」

 ゴミ箱に山盛りの玩具たちを見やる。


「……そんなことがねえ」

 奥さんと話をした時はそんなこと言っていなかったのにと、鷹林さんは眉を下げた。いつも聞かされるのは達也くんのアレができるようになった、コレができるようになったというような、微笑ましい話題ばかりであったのだそうだ。

「ところでご主人の話は聞きましたか」

「ああ、なんでも最近雰囲気が変わったとかなんとか言っていたなあ。いっそのこと今度うちに来させなさいと言ったんだよ。飲みながら世間話でもすれば気分転換にもなるだろうって。でも結局、一度も来ないままだなあ」

 なるほど確かに、男同士でしかできない会話、酔った勢いでないとできない会話もあるのだろう。もしかしたら、馬場さん相手でないとできない会話も。

「……馬場さんって、普段なにをしている人なんでしょう」

「本当に不思議な人だよね。仕事に行く様子もないし、いつも家にいるみたいだ」

 馬場家には一回だけ訪問したが、はっきり言って一日中時間を潰せるような娯楽など見当たらなかった。奥の部屋までは見ていないが、たった六畳の広さではたかが知れている。

「思いついたぞ。馬場さんも誘ってみようかな。三人で飲む方が楽しいし、またあのキュウリ、食べたいんだよねえ」

「ええっ!」

 名案だぞと言わんばかりに鷹林さんの顔が輝いた。

「どうせなら君も来るかい? 牛田のおばあちゃんと、お子ちゃまが平気なら奥さんも呼んでさ」

「……ほかの女性陣も多分、遠慮すると思いますよ」


 お酒はちゃんぽんすると悪酔いするって言うじゃない。

 日本酒と焼酎とウイスキーに梅酒やビール、ついでにどぶろくまで併せ飲むような酒盛りなんて絶対に行きたくない。

 鷹林さんはすっかりキュウリな気分になっているが、私はというと牛田さんにおすそ分けしてもらった煮浸しのことを思い出していた。いつも牛田家の前を通りかかると換気扇を通してとても良い匂いがする。料理上手と見受けられるし、ここはひとつ料理を教わるのもいい。鷹林さんとの会話は適当に切り上げて、私はスーパーに出かけることにした。


 ナスを始めとした旬の夏野菜を大量に買い込んで牛田家のチャイムを鳴らした。

 突然の訪問にも関わらず、牛田さんはいつも通りの笑顔で出迎えてくれる。

「昨晩のナスとても美味しかったんで、いろいろと教えて欲しくて」

「あらまあ。もちろんよ」


 牛田家には玄関マットのみならず、いたるところに手作りの生活グッズが並べられていた。ドライフラワーが飾られている容器は爪楊枝や竹串を筒状に接着して作られたものであったし、部屋の片隅には大きなミシンが鎮座している。テーブルには作りかけの竹かごがあったりと、実に多才な人であるようだ。


「これ、全部手作りですか。すごいなあ。お店で売れますよ」

「実はもう売ってるの。最近は便利よねえ、インターネットのフリーマーケットで、日本中の人に見てもらえるんだから」

 はにかんで笑う牛田さん。ミシンの巨大さに目立たなかったけれどデジカメも傍にあって、さらにその向こうの陰にはノートパソコンまで完備されている。リノベーションはうまく言えなかったけど、その実ハイテクおばあちゃんだったとは。



 それから私は牛田さんに、夏野菜を使った一品料理をいくつか教わった。これだけあれば一夏をローテーションするだけで乗りきれる。

 色々あったけれど、やっぱり煮浸しが一番美味しかった。ナスは特に大量に買い込んであるから、帰宅したら大鍋で仕込むしかないだろう。

 何べんも礼を述べて帰ろうとした時、お土産にと牛田さんが冷蔵庫からタッパーを取り出した。

「もういい頃合いなのよ」

「キュウリの浅漬けですね」

「馬場さんにも時々あげているのよ」

 私はピンときてしまう。通りで馬場さんのキャラクターと結びつかなかったわけだ。

「一階の鷹林さんも、浅漬けが大好物らしいですよ」

「あら、そうだったの。知らなかったわ」

「たくさん入ってるから少し分けてもいいですか?」

「もちろん。知ってたらもっとたくさん作っておいたのに……」


 これで男三人、地獄の宴はお流れになるはずだ。

 裏野ハイツの平和はこの私が守ってみせると、ひとり意気込んだ。あと三日がどうしたというのだ。

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