ナスの人
そして次の日、事件が起こる。
誰もいないはずの二〇三号室側から物音がする。何だろうと扉を開ければ、玄関前に同い年くらいの青年がいた。
「こんにちは」
もしや新しく来た住民だろうか。軽く会釈をするものの、青年の顔色は芳しくない。私はこの印象に覚えがあった。榎本家のご主人だ。声しか知らないけれど、あのご主人もまた憂いた雰囲気があったから。
私は思考を巡らす。私が気付かなかっただけで昨日すでに彼はこの部屋にいたのかもしれない。新居で過ごす初めての夜に住民トラブルときたら顔色も悪くなるに決まっている。
「いつ越されて来たのですか?」
「……昨日来たばかりで」
ビンゴだ。私に出来ることといえば、馬場さんの注意喚起と牛田さんの名誉回復くらいだ。
「一号室の牛田さん……おばあさんなんですけど、その方はすごく優しいですよ。いつも家にいるし、困ったことがあれば相談にも乗ってくれるし」
「はぁ……」
抑揚なく溜め息が落ちる。その顔はすっかりやつれたものだった。
「馬場さんは……一階の真ん中に住んでるんですけど。私も昨晩初めて顔を見たんですけどね? なかなか気難しいっていうのかな、そういう感じで……」
なんと言ったら良いのか分からない。悪口が目的ではなく、先日公園で出会った奥さんの困り顔が脳裏に浮かんだ。今なら彼女の気持ちがよく分かる。
「あなたはいつからここに住んでるんですか」
「一カ月くらい前ですよ」
「馬場さんに何か言われませんでしたか?」
「いや、特には」
私は咄嗟に嘘をついた。本当は言われている。いつ出て行くのかと。でもそんなことはここで出すべき話ではないだろう。
「あなたは何故ここに来たのですか?」
「はい?」
「……いや、何でもないです」
青年は首を振りうなだれながら部屋に帰っていった。
その時、階下から人の話し声が聞こえてきた。共用廊下から見下ろすと鷹林さん、そして榎本家の奥さんがいる。
「昨日の夜はすごかったよなあ」
「私もビックリして飛び起きちゃいました」
「さっき、二〇三号室に入っていくのを見たよ。あそこは空き部屋じゃなかったか?」
あれほどの大騒ぎだったのだ。一階に住む彼らにも聞こえるほどだったのだろう。しかし私の耳は鷹林さんの台詞に囚われたままだ。二〇三号室に入っていったとは……。気がかりながら私は自室に帰ることにした。
それからほどなくしてだ。壁側、青年の住まう部屋から騒音がする。あれだ。あの音だ。床から突き上げていたあの音と同じだ。
嫌な予感がする。もしかしてこれは通報案件ではないだろうか。壁に耳を当ててみるものの、突き回す音とかすかな話し声がするだけだ。
ベランダに出て、隣の部屋を覗いてみる。
窓が開いていたからかすかながら話し声は聞こえてきた。
「……お前は、あと五日、だな」
確信はないが、このハスキーボイスは馬場さんによく似ている。確信が持てないのは今まで聞いた彼の口調とは随分異なるからだ。ぶっきらぼうで荒々しいというより、とつとつとした向きさえある。
「……ほんと、すみません」
弱々しく震える声はあの青年か。
馬場さんのあの体躯であれば青年どころか裏野全住人を仕留めるくらい訳ないだろう。
何か理由あって馬場さんに暴行され、そして屈服させられた青年の姿が想像された。
そして思い出したのは榎本家のことだ。
ご主人もまた、元気がなさそうだ。奥さんの預かり知らぬところで馬場さんに何か危害を加えられたのでは?
心臓は鳴り止まず私はさらに身を乗り出した。
「……ありがとうございます」
ありがとう、ございます?
声の主は間違いなく青年の方だ。この流れでお礼などどういうことなのか。
しかし通報しなければならないほどの逼迫した状態ではなくなった。私はそっと部屋に戻る。
数日後、ゴミ捨て場で再び青年と会った。
先日は大丈夫でしたかと訪ねれば、不思議そうに首を傾げるばかりだ。
「馬場さんが来ていたようですが?」
「ああ、そのこと。もしかしてあなた、まだ馬場さんと話をしていないのですか」
「いやいや、とんでもない!」
用があっても関わりたくなどない人種だ。しかし青年は予想外の言葉を残した。
「……早くあなたも、馬場さんに本当のことを聞くべきだ」
変なことを言わないで欲しい。声をかけなければ良かったと後悔ばかりがある。
その翌日、青年の気配があった隣戸がまた無人になった。カレンダーを見やると騒動からきっちり五日経っている。
『お前はあと五日だな』
馬場さんの意味深な発言とともに消えた名も知らぬ青年。もしかして。何だか嫌な予感と想像。
私は勇気を出して床にかかと落としを入れた。
少しの間を置いてドンと突き上げてる音がした。馬場さんは在宅だ。
青年に何をした。私の中で正義感がうねり出す。
「入りな」
チャイムを鳴らすなり扉が開かれる。まるで私が来ることを分かっていたかのようだ。
頭二つは大きい馬場さんが私を見下ろしているがその目はどことなく穏やか。促されるままに私は馬場家に入る。内装は牛田家と同じ、古いままである。
「二〇三号室のひとに何をしたんですか」
「何もしてない」
「うそつき!」
私は聞いているのだ。五日前の会話を。それを指摘しても馬場さんは顔色を変えない。
「あんたは……あと四日だな」
「な、何が……」
四日ってなんだ。あと五日と言われた青年は消えた。そして今、同じ言葉が私に囁かれ狼狽えた。
「あの男の人、どこにやったのですか!」
「あいつは分かっていた。あとのことはババアに聞きな。俺はその先を知らねえよ」
「……そうだ、この前だって牛田さんに酷いことして!」
「酷いことだと? それはこっちの台詞だ。あのババア、次から次に容赦ねえ」
「話をそらさないでください。この天井だって、私の家の床と繋がっているんです。ドンドンうるさいったらありゃしない。そうそう、鷹林さんにも、扉蹴ったりしたそうじゃないですか」
ふんと馬場さんは鼻を鳴らす。
「ああ、そんなこともあったな。あの親父も随分と居座りやがる。いつ出て行くことやら」
「榎本さんだってそうです。ご主人、具合よくないらしいですよ。変なことしてるならやめたらどうですか」
「あの男は最初から分かっている。問題はあの女だ……女のせいで男はいつまでもここを出られない」
何を言っているのだろう。突然に恐怖が押し寄せてくる。
「……もういいです」
やめておけば良かった。悶々とした気持ちを抱えて私は部屋を後にした。
その晩、牛田さんが私の家にやってきた。おすそ分けよと小鍋にナスの煮浸しを持ってきてくれたのだ。
「おいしそう。本当にいいんですか?」
「あげるつもりで余分に作ったの。もらってちょうだい」
「そうだ、今晩は豚汁なんですよ。明日も食べようと思ってたくさん煮てるから、一緒にいかがですか?」
「あらまあ、お言葉に甘えて頂いちゃおうかしら」
親子どころか孫ほど年の離れた牛田さんと食卓を囲むのは不思議な感覚だった。しかしながら互いに一人暮らしの身では会話に飢えており、自然とトークも弾む。
「私の孫も、生きていればあなたと同じくらいになっていたかしら」
牛田さんには一人息子がいたのだそうだ。お嫁さんにお孫さんもいたのだが、十五年前の住宅火災で三人とも帰らぬ人になったという。
「建てたばかりの一軒家だったんだけどね。私も主人には早くに先立たれてずっと一人暮らしだし。部屋は余ってるから一緒に暮らそうって誘われていた矢先に……」
おしとやかな牛田さんにもそんな辛い過去があったとは。こみ上げるものがあり私は思わず俯いた。
「婆さんひとり残して往ってしまうなんて、みんな勝手よね。もっとゆっくりしていけばいいのに」
ズズと豚汁をすすりながら牛田さんはため息をついた。
牛田さんを見送って私は床に就く。それを狙っていたようなタイミングで馬場さんがまた突いてきたのだ。
それも今までのとは一線を画するほどの激しさでこの建物ごと揺さぶるようだ。確かに馬場さんは恵体であるけれど、人間離れしてるとしか思えないエネルギーを感じる。
――怖い。
物の怪の類に取り憑かれてでもいるんじゃないかという血迷った想像が駆け巡り、私は布団を頭まで被ってしまう。いつもなら数回で終わるそれは小一時間収まらず、しかし恐怖に怯える私には抗議しに行く選択肢など有り得なかったのだ。
私までどこかに消えてしまうのではないか。もうとっくに騒音は収まっているはずなのに、被った布団から顔を出す勇気はいつまでも出てこないままだった。