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キュウリの人

「なあんだ、案外綺麗じゃない」

 住めば都というキーワードが、暮らし始めてわずか数時間で頭にちらついた。

 真新しいシステムキッチンに浴室乾燥付のバスルーム。自炊にはやや不満の残る二口コンロと膝を折らねば入れないバスタブの狭ささえ我慢すれば非の打ち所のないアパートだった。

 私の生まれるずっと前に建てられたという裏野ハイツだが、リノベーションにより外観とは裏腹に室内は今風で、ボロ屋特有のカビ臭さなども感じられない。これで外壁も新しく塗り替えればそこらの新築アパートと遜色なさそうなほどだ。

「これで家賃四万九千円ならお得だよね」

 洋間のクローゼットを開けて満足に呟いた。元は畳の六畳間で、このクローゼットもかつては押し入れだったのだろう。

「押し入れは押し入れのままでも良かったのに」

 クローゼットは見た目こそスタイリッシュだけれども縦方向の空間利用が難しい。その点、押し入れは日本の狭小な住宅事情と布団文化に適う構造を備えている。なにかと押し入れは便利なのだ。ここにピタリとはまる衣装ケースのサイズを考えながら部屋を出た。



「はじめまして」

 引っ越し当日にはお約束の挨拶回り、まずは同じ二階の二〇一号室から攻めることにした。一軒目だし緊張もする。無意識に見た電気メーターはクルクル回転しており少なくとも在宅中のようだ。

 ドアチャイムを鳴らすとしわがれた女性の声がする。どっこいしょなんていう言葉が続きほどなくして扉が開かれた。

「……あら、可愛いお嬢さんじゃない」

「今日からなんです。よろしくお願いします」

 その女性、牛田さんはこの裏野ハイツ一番の古株なのだそうだ。玄関先には彼女の手作りと思われるパッチワークの玄関マットがひかれている。背後に見えるのは和風のザ・台所。システムキッチンではなく古いガス台だった。電灯の傘まで今どきどこで買えるのだろうという四角形の古いデザインで、築三十年の時流を結集させたような空間だった。

「あなたのお部屋、綺麗だったでしょう。長いこと空き部屋だったのに、リ、リ、リサイクルだったかしら? なんかそういうのでピカピカにしたら一階もすぐに埋まってねえ。それで二階もってね」

 牛田さんは上品な笑顔でそう言った。一階にもまだ入居間もない住人がいるのだろう。

「他の部屋も新しくなってるんですか?」

「未だに古いままなのはうちと馬場さんの部屋だけなの」

 何号室の人なのだろうかと、まだ見ぬ馬場さんに思いを馳せた。


 牛田さんへの挨拶を終えて私は一階に続く共用階段を駆け下りた。

 今度もまた端から攻めることとする。一〇一号室の前に立って気付いたのは、牛田家はチャイムだったのにこの一号室はドアモニター付のインターフォンであったこと。そういえば自分の部屋もインターフォンだ。ここもリノベーション済みの部屋であるらしい。

 鳴らしてみても人の気配はなかった。電気メーターの動きも鈍重で留守のようだ。


 そのまま一〇二号室に向かう。ここが馬場家であることはすぐに分かった。牛田家と同じタイプのチャイムがペンキの剥げかけた扉に据え付けてある。それを鳴らすのとほとんど同時にぶっきらぼうな男性の声がした。

「誰だ」

「今日から上に越してきた……」

「ああ、そう」

 ドアチャイムの下にはスリットが入っていて、外側からでもかすかに人影が見えている。馬場さんにも私の姿が見えているはずだが扉を開けてくれる気配はない。

「よろしくお願いします」

「……」

 返事はない。スリットかもしくはドアスコープから今も私を覗いているかもしれない。失礼にならぬよう扉に向かい頭を下げてその場から退散した。


 次は一〇三号室だ。やはりここもリノベーション済みのようで、最新型のインターフォンに新品同様に塗り直された扉である。

 すぐ脇には幼児用の黄色い傘が立てかけてあり、三輪車のカゴには砂場道具が入っていた。

 インターフォンを鳴らすがまたしても反応がない。しかし一号室と違って人の気配はあるし、電気メーターも牛田家以上の速度で回転していた。

 今一度鳴らしてみても応答がなく、セールスでもないのに居留守は少し傷付く。牛田家や馬場家と違い室内にあるだろうドアモニターで私の姿は確認できるはずなのに。

 諦めようとするとゆっくり音もなく扉が開いた。驚いたのはあるはずの人の姿がなかったこと。室内から流れてくる冷気に鳥肌が立った。

「あっ」

 スカートの裾を引かれる感触に声を上げた。見下ろすと三才くらいの男の子がいる。

「だあれ?」

「はじめまして。上のお部屋に引っ越してきたの。ママかパパはいるかな?」

「うんとね、ママはいないの。パパはいるの……パパー!」

 男の子が室内に向かって叫ぶ。洋間に続く扉は数センチばかり開いているのみで中の様子までは伺えない。

「はじめまして。今日から引越してきました」

 扉を開けてもらえる様子はないから、半身を乗り出して声掛けをした。数センチの隙間に影が見える。身長は高めだ。具合の悪そうな低い声が返ってきた。

「はじめまして。ご苦労様で……」

 ……結局開けないのかい。会釈をし、男の子には手を振ってその部屋も後にした。


 二階に戻り、残す一部屋に挨拶をしようとした時だ。台所の小窓からひょっこり牛田さんが顔を出している。

「その部屋は、今いないのよ」

「そうなんですか?」

「まあ、その内に来るんじゃないかしら」

「わざわざ、ありがとうございます」

 それならば仕方ない。一〇一号室はまた改めるとして、ひとまずのところ初日のミッションはクリアーだ。



 その夜のことだった。

 突然に床から突き上げる振動に飛び起きた。

 時計を見れば午前三時を回ったところ。何事かと思っていると二度目の衝撃がある。無意味な行為と知りながらベランダに出て下を覗いてみようとした。

 やはり角度的に部屋は全く見えない。しかし窓を開けているのだろうか、物音は筒抜けに聞こえてくる。テレビの砂嵐のような、壊れたラジカセのような心地悪いノイズだ。

 再び室内に戻ると三度目がきた。嫌だなあと思いつつ、布団に潜り耳を塞ぐ。しかしその日はそれっきりであった。


 次の騒音被害は三日後だった。またしても下から突き上げる衝撃。長い棒きれのようなもので天井を突いているのだろうか。

 しかしこの日は真っ昼間であったし、その一回きりであった。

 そうしてまた、三日後。今回は夕方だった。再びど突かれいよいよ苛立ちが募る。文句を言いたいが初対面の印象は最悪だったし顔も見ていない。どぎまぎしながらも一階に降りてみると、今まで何度訪問しても会えなかった一〇一号室の住人と遭遇した。


 ビール腹の揺れる鷹林さんは短髪の中年男性だった。鼻の頭が少し赤くてにこやかな笑顔は牛田さんのような安心感がある。騒音について思わず愚痴がこぼれてしまった。

「やめて下さいって言おうか、迷ってて……」

「ああ、君もかい。実はうちもなんだよ。昨日なんてドアをやられてさ」

 困ったように鷹林さんが指差す先には土足で蹴った痕跡があった。

「どんな人かご存知ですか?」

「うーん、実はここに来てから三カ月しか経ってなくて、あんまり知らないんだよ。真上に住んでるおばあちゃんなら分かるんじゃないかな」

「そうですか……」

 私のみならず他の住民にもそんなことをしているのか。今、乗り込むのは愚策かもしれない。まだまだリサーチが必要だ。

「あ、でもね、何日か前にキュウリの浅漬けをもらったんだ。あれはビールとよく合ったなあ」

 この赤ら顔、どうやら二日酔いのせいらしい。



 暮らし始めて一カ月。あの嫌がらせは三日おきのスパンで繰り出されていることが分かった。時間帯はまちまちだがきっちり三日。私にも予定があるから、わざわざ在宅の時間を狙ってそうしているに違いなかった。


 その頃、一〇三号室に住む女性とも会うことができた。それはコンビニからの帰り道、五分ほどのところにある公園であったが、一生懸命三輪車をこぐ男の子が傍らにいて住民であることに気がついた。

「主人から聞いてます」

 その女性、榎本さんは週四のパートで働く主婦だった。木曜日の今日はパートもお休みで、一人息子の達也くんも今日は保育園ではなく公園で遊ぶことができる。あの部屋には私より半月ばかり先に入居したのだそうだ。

「……あの、もしかして主人が失礼なことをしなかったかしら」

 思いがけぬ告白に面を食らってしまう。穏やかな女性なのに、じっくり観察すると目の下にはうっすらとクマがある。あまり眠れていないのだろうか。顔をマジマジ見てしまった私の様子に彼女は気付いた。

「ごめんなさい、変なこと言ってしまって」

「いいえ、大丈夫ですよ。ところで旦那さんのこと、聞いても良いですか?」

 榎本さんは困ったように頬をかきながら話し始めた。

「越してきてすぐです。あんなに明るかったのに塞ぎ込むようになってしまって……かと思えば急に大声を上げたり、変なこと言ったり……」

 俯いた彼女の顔は曇る。

「うるさくないかしらって気になって気になって……」

「え、えっと、大丈夫です。ほら、今の時期って暑いから。窓も閉めたままエアコンガンガンなんで、分からないです」

 えへへと曖昧に笑みも引きつるが、彼女は安心したのか少しだけ表情は緩んだ。

「ところでお隣の馬場さんって、どんな人か知ってます?」

 何気なく切り出したつもりだった。なのに榎本さんは露骨に顔を引きつらせた。

「すみません、私あの方苦手で………」

 達也くんの手を引く指先が微かに震えている。

「主人がおかしくなったもあの方が関係してるんじゃないかって……」

「馬場さんが?」

「あっ、ごめんなさい。別にあの方を悪く言おうっていうわけじゃないんです。今のは忘れてください」

 私にも言いにくいことを言わせてしまった責任がある。気にしないでくださいと手を振っておいた。


「そうだ、達也くんに良いものあげる」

 先ほどコンビニで購入したお菓子の箱を取り出した。

「食玩ってあるじゃないですか。最近それ集めるのにはまってて。でもダブってしまったんですよ」

 差し出したのは赤いスポーツカーだ。榎本さんも「この子、車が好きなんです」と喜んでくれた。しかし達也くんの表情は浮かない。

「……くるま、いや」

「どうしたの。あんなにお気に入りだったじゃない」

「いやー!」

 ジタバタと足を鳴らして達也くんはとうとう泣き出してしまう。

「ああ、ごめんね。赤いのは嫌いだったかな?」

「もう、たっくん! お姉さんにごめんなさいは?」

「いやなのー!」

 余計なことをしてしまったか。達也くんが泣き止む様子もなく、私もすっかりしょげてしまう。

「本当にすみません……全くうちの男は……」

「いえいえ、こちらこそお話できて嬉しかったです」

 これ以上、彼女に何かを問うことはできない。



 この日も普段通りであれば騒音がくるはずだった。今日が終わるまであと一時間ほど、しかしまだ何も起こらない。

 今夜はよく眠られるはずだと身を横たえたときだった。夜の帳を突き破る怒号が轟いた。

「ババア! コノヤロウ!」

 声には聞き覚えがある。下の階に住む馬場さんだ。耳を澄ませばその罵声は牛田家の方から聞こえてくる。

「聞こえてんだろう、コノヤロウ!」

 扉を乱暴に殴る音もある。玄関へ近づいて音を立てぬよう扉を開けると壮年の男性の姿がそこにはあった。

 初めて見る馬場さんの姿にギョッとする。大柄なプロレスラー体型で、スキンヘッドには脂汗が浮いている。玄関先で応対しているはずの牛田さんはどちらかというと小柄な女性であるから、傍目に見ても異様な光景でしかない。

「コノヤロウ、ババア」

「馬場なのは貴方でしょうに」

「どうしろっていうんだ、この状況!」

「ああ、三号室の……」

「こんなに面倒見きれるか!」

 てっきり馬場さんが牛田さんに嫌がらせでもしているのかと思った。だが三号室という単語からその話題は榎本一家のことであるようだ。

 昼間の奥さんの言葉を思い出す。突然大声を上げるようになったというご主人。それは馬場さんの影響ではないかと言っていた。なるほど人は見た目で判断してはならぬというが、馬場さんはハッキリ言って危険すぎる。


 そんな馬場さんは喚き散らしているに等しい状態で何が何やら分からない。牛田さんが何かを言っているがその声は馬場さんの立てる物音にかき消されてしまう。

「あの親父だってそうだ!」

 馬場さんが吠える。馬場さんから見て親父と呼べる年齢は、あのビール腹の鷹林さんだけだ。全方位の住民に喧嘩を売っているなんて正気の沙汰とは思えない。

「おまけにアノ……」

 その先の言葉を継ぐことなく、馬場さんがこちらを向いて私は悲鳴を上げた。

 目があった馬場さんは般若の形相で私を睨む。次に投げつけられたのは「いつ出て行くんだ」という最悪の台詞であった。


 ひとしきり気が済んだのだろうか、馬場さんは牛田家の扉を蹴り上げて階段を降りて行く。私は思わず扉を閉めてしまう。先日までの騒音がかわいく思えるほどの酷い体験であった。

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