夫婦喧嘩はエロぬき いちゃつき ハエタタキつき~ご愛顧感謝の番外編~
さてあの後……ルウと泰司は平凡な夫婦として幸せに暮らしている。
蠅の王はというと……
そのイエバエはひどく浮かれた声を出した。
「ルウた~ん! パパですよ~」
夫とささやかな夕食の最中であったルウは、食卓の上を旋回する蠅の姿に顔をしかめる……とは言っても別に蠅という昆虫の存在が不快だったわけではない。
何を隠そう童顔巨乳のこの新妻は魔王である『蠅の王』の娘であり、この人間の姿を解けば魔界蠅に変身できる。つまりは蠅の化身なのである。
それに彼女が最も愛する夫は……蠅人間だ。
この夫――泰司はれっきとした人間であったが、ある出来事がきっかけで蠅の王復活のための肉体の提供者として『蠅の核』を埋め込まれ、『魔王代理』という称号を与えられ、蠅頭に6本の手足という姿に変えられてしまったのだ。
だから、たかが蠅の一匹や二匹なら気にすることなどもないのだが、ただのイエバエにしか見えないこの蠅の『中身』が彼女の父であるというのが問題なのだ。
「また来たの、パパ! こっちは新婚家庭なんだから、少しは遠慮してよね!」
「いやいや、お茶をいっぱいいただいたらすぐ帰るから、な?」
「そう言って、昨日も夜中までいたじゃない!」
父娘の言い争いの横で、泰司はワカメの味噌汁をゆっくると舐める。
ルウと結婚して半年、もはやこのやり取りにもなれた。
「本当にお茶だけにしてよね!」
そう言いながら台所へ向かうルウの触角がぴょこぴょことはねているのを、泰司は見逃さなかった。
甘ったれでファザコンのルウは、口ではいろいろ言いつつも父親が自分を気にかけてくれているのがうれしいのだ。
「まったく、ルウは口やかましくていかん」
少しむくれた声を出すイエバエの触角も、やはりぴょこぴょことはねている。この父娘は本当に似たもの親子なのだ。
それを微笑ましく眺めていた泰司は、ふと、玄関先で女の声がすることに気が付いた。
耳を澄ます。
「ピンポーン、ピンポーン」
呼び鈴を押せばいいのにわざわざ口で音をまねるという行為にやや不安を感じた泰司は、玄関のドアを開けずに尋ねた。
「どちらさまですか?」
「夜分遅くに申し訳ございませぬ」
ひどく明瞭な、意思の強さを感じさせる声だ。それでいて艶を感じさせる、年増の声である。
「ご挨拶が遅れました不調法、お詫び申し上げます。私、ルウの母親でございます」
その言葉に安心してドアを開ければ、そこにひどく露出の多い女が立っていた。
悪魔だからだろうか、ルウの母親だというのに三十にも届かないようなみずみずしい肌をしている。それを隠すのは下乳と乳首がやっと隠れるくらいの小さなブラトップと、これまた大事な部分をやっと隠せるくらいしか布面積のない小さな股間当てなのだ。それなのに、肩からは大きな裏赤のマントを垂らし、その裾を地面に引きずっている。
そしてそんな衣装よりも見事なのは体だ。
大きく前に張り出した乳を支える筋肉、へそが形良く見えるほどにウエストを締めつける筋肉、太ももをむっちりと彩る筋肉……そして上背は部屋へ案内するために並んだ時に目算しただけでも170センチは軽く超えている。
モデルのような体格をほんのちょっぴりの布で覆った美女、それがルウの母親なのである。
「まあ、とりあえずかけてください」
座布団を進められた女は、それを優雅な手つきで横に避けて畳に直接正座した。それから両手をついて深く頭を下げる。
「婿殿には、本来ならもっと早くにご挨拶にお伺いすべきところ、本日まで延ばし延ばしになってしまいまして面目次第もございません。事の顛末は夫より書状で報せを受けており……」
どれほど長い口上が始まるのかと、泰司も膝を正す。
しかし、お茶をのせたお盆を手に、部屋に入ってきたルウが目をむいて叫ぶ。
「ママ、なんて格好してるの!」
娘を振り向いた母親は、少しきょとんとした表情であった。
「どこかおかしいか?」
「おかしいに決まってるでしょ! いい年してそんな裸みたいな恰好!」
「ふむ、だが人間界から取り寄せた書画にはこのような格好の女人ばかりが描かれておったぞ」
ルウに続いて「ぷ~ん」と飛んできた蠅の王も、呆れきったように前足をすくめる。
「それにな、玄関先で『ピンポーン』と呼ばった、あれはなんじゃ? 呼び鈴を押せばいいだろう」
「はて、呼び鈴とは?」
「ドアの横に押す奴がついていただろう?」
「そんなものには気づかなかった。ただ人間界の作法書では人の家を訪ねると『ピンポーン』と音が鳴るようになっているらしいがな、この家は鳴らなかったから自分で言ってみた」
悪魔というのは人間界の常識に疎いものだ。それは悪魔を妻に持つ泰司には身に染みて解っていることだが、それにしてもこの義母の非常識っぷりは度を過ぎている。
「あの……人間界の作法書って?」
恐る恐る尋ねる泰司に、彼女はしれっと答えた。
「人界の、しかも日本であるということを考慮して『日本が世界に誇る文化』というものを少々な……」
「オタ文化かい!!」
ツッコミは、3人同時だった。
大柄な女が「ひゃっ」と首をすくめる。その姿はモデルのような凛々しい見た目とはギャップがあって可愛いのだが……
「……私は、何か間違っていただろうか?」
「はい、いろいろと」
「では、このような破廉恥な衣装が悪魔の正装だというのは……」
「間違っています。いや、あってはいるんだけど間違っています」
「ふむ、電車内で感じた侮蔑の感は、それであったか」
「その格好で電車乗っちゃったんですか!」
女は再び「ひゃ!」と言った。
その周りを、ぶびぶびと翅を鳴らして蠅の王が飛ぶ。
「まったく、恥ずかしいことしおって!」
「うむ、すまぬな、我が夫よ」
しおらしく謝った女は、イエバエの姿に向かってそっと指を伸ばす……が、それは久しぶりに再会した夫をとまらせるためではなかった。
その証拠に、女はかっと目を見開いて蠅の体を手の平に握りこむ。
「しかし、恥ずかしいことなら……お主もしておるよな?」
拳の中から答えるか細い声と羽音。
「な、なんのことかのう」
「あちこちで随分とおたのしみのようだな」
彼女が放った魔界蠅たちは定期的に蠅の王の行状を彼女に報告することになっている。それによればこの老蠅、確かにお楽しみのようで……実はこちらにいる間中、蠅の王はあっちのメスこっちのメスと、メスをとっかえひっかえで交尾にいそしんでいたのだ。
少し発酵した果物の上、腐りかけた肉の上、交尾を求めるメスはいくらでもいるのだから相手に困ることはない。
「酒池肉林……か」
「あ、あれはな……違うんじゃ!」
ありきたりな狼狽の声にも、彼女の拳が開くことはなかった。
「普通の蠅ごときに、あんなに種付けをして……彼女たちすべてを側室にでもするつもりか!」
「いや、違う! 信じてくれ、愛しているのはお前だけじゃ!」
妻の拳の隙間からもそもそと這いだして、蠅の王は部屋中を飛び回る。
彼女は……ゆらりと立ち上がった。
「愛……か。蠅を統べる王ともあろうお方が、人間風情の感情などに毒されおって」
赤い裏地が彼女の怒りそのままであるように、マントが翻る。
「我が夫よ、しばらく人界で暮らすうちに、あなたは変わってしまったようだ」
シュルリと絹が擦れる音を立てて彼女が腰から引き抜いたのは、一振りの剣……?
「そっ! それは『蠅殺し』の剣!!」
蠅の王をも震え上がらせたそれは、緑色のプラスチックでできていた。
「ほう、ご存じか? なんでも人間界で蠅に対して一番有効な聖剣であるという情報を得て、先ほどヒャッキンという店で買ったのだ」
それは人間たちが蠅を叩き潰すために使う『蠅たたき』と呼ばれる安っぽい道具だ。しかし、イエバエの姿である蠅の王にとっては殺りく兵器以外の何物でもない。
もちろん蠅人間の姿である泰司も、その薄っぺらい、ちゃちな道具が蝿にとってどれほどのダメージを与えるものであるのかを、元人間だからこそ身に染みて知っている。
「あわあわあわ……」
「そんな危ないものを振り回すんじゃない!」
泰司と蠅の王は、這いずるようにして部屋の中を逃げ回った。
しかし彼女は……「ふむ」と呟いてはえたたきの振り心地を確かめる。
びゅおっと風が切れ、薄いプラスチックの網目は大きくしなった。細く頼りない柄はそれでもしっかりと中空を振りぬき、畳に打ち付けられた先端は小気味よい音を立てる。
――ぱしーん!
「ひいああああああああああ!」
二匹の蠅がすくみ上った。
女は薄ら笑いを浮かべ、蠅たたきをゆっくりと振り上げる。
「さて、仕置きの時間じゃ」
蠅の王は畳にはいつくばり、前足をすり合わせて哀切嘆願の体だ。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ! もう浮気はせんから、許してくれえ!」
「我が夫よ、他に女を作るは悪魔の甲斐性……私はそんなことを怒っているのではない」
「じゃあ、何を怒っているのじゃ?」
「そんなことは自分の胸に尋ねるがよい」
重いモーションだ……決してスピードなどつけずにゆっくりとハエタタキを頭上へと振り上げる、ただそれだけの単純な動作なのに、部屋中の空気がちっぽけな網目に引き寄せられるように動く。
「我が夫よ、お別れだ」
天井近くに掲げられたハエタタキは蛍光灯の光を逆光に浴びて、不気味に光っていた。
もはや狙いを外すことなど、決してないだろう。
「うむ、理由はよくわからんが、お主に殺されるなら本望じゃ。やるがよい」
赤い複眼は覚悟のために閉じることなどできぬ。見開いたまま妻を見上げて……蠅の王は畳の上でその剣が己の体を打ち砕くを待っていた。
「良い覚悟だ」
「これでも王だ。死ぬ覚悟などいつでもできている」
「では……」
振り下ろされようとした母の腕に、ルウが飛びつく。
「ママ、そんなことしちゃダメ~!」
「む! 放せ、ルウ!」
「放してあげるけど、パパを叩いちゃダメ! パパも、ちゃんとここに来て座りなさい!」
夫婦は娘の前に並んで座らされた。母は正座、父はもちろん六つん這いで。
ルウは腕を組んで胸をそらし、そんな二人を見下ろす。
「娘の家に来て夫婦げんかをするとか、それって常識ある悪魔のすることだと思う!?」
「はい、ごめんなさい」
「だいたいがママ、浮気じゃないならパパの何が許せなかったの?」
「…………た」
「え? なに、聞こえない」
「寂しかったんだっ!」
吠えるように言う彼女の両目に、涙の粒が膨れるように浮かび上がった。
「我が夫が勇者に肉体を滅ぼされてから幾星霜、私は魔界で帰りを待ちわびていたのだ。肉体を取り戻したらきっと私の元に帰ってきてくれると……」
蠅の王がちっぽけな体で妻を見上げる。
「だってこれ、仮の体じゃよ? 一年ももたずに死んでしまうのじゃよ?」
「それでも、帰ってきてほしかった!」
もはやだれにはばかることもなく、女はべそべそと泣いていた。美しい顔を見る影もなくゆがめて、涙と鼻水まみれにしている様子は駄々っ子のようでもある。
「真っ先に帰ってきて、ただ一言『元気だ』と、それだけでいいから聞かせてほしかった!」
「そんなの、わしの安否は魔界蠅から報告が入るだろう?」
「違う! そんなんじゃなくて、頭を撫でられて、あなたの口から直接聞きたいのだ!」
「え~っと……」
蠅の王は惑う。
何しろ今の彼はちっぽけな蠅の姿なのだ。完全人型の妻の頭を撫でるなど不可能に近い。
「あ~、まあ……やってみるか」
蠅の王は羽を広げて飛び上がり、妻の頭に止まった。それから糸のように頼りない前肢を髪の毛の間に差し入れ、ぐしぐしとかき回す。
「わしはこの通り元気だ」
ボリューミーな肉体をしているというのに、この女は中身が幼いらしい。ぐしっと鼻をすすりあげて両手で涙を拭う。
蠅の王の声はますます優しく、まるで幼子をあやすような調子になる。
「本当はすぐお前のところに帰ってやりたかったが、こんな姿では恥ずかしくてな」
「そんなのは気にせんでよいのだ。悪魔にとって外見など偽りでしかない」
「うむ、そうだったな」
「なあ、人化の術を解いてもいいか? 本当の姿でちゅーしたい……」
甘えきった母の言葉に、ルウはくあっと目を見開いた。
「ママ! こんなところで人化を解いたら、おうちがつぶれちゃうでしょ!」
「ちょっとくらいならよかろう?」
「ちょっともいっぱいもダメですっ! そういうのはお家に帰ってやってね!」
「そうか、ならば帰るぞ、我が夫よ」
彼女は蠅を頭にとまらせたまま勢いよく立ち上がる。
「邪魔をしたな、ルウ!」
玄関に向かう途中でふと立ち止まり、彼女はルウを振り見た。
「そうだルウ、子供のことだが……私は悪魔なので人間式の弔いを知らん。こういうときはどうすればいいのだ?」
「大丈夫よママ、ふっきれたと言ったらウソになるけれど、気持ちの整理はついたの」
「婿殿に大事にされているのだな」
「うん、とても大事にしてもらってる、だから何も心配いらないわ」
「そうか、良かった……」
実に母親らしく表情を緩めた彼女は、泰司の方を向いて深々と一礼した。
「婿殿、ごらんの通りのふつつかな娘だが、末永くよろしくおたの申す」
「あ、は、はい」
「うむ、では私たちは城へ帰るとしよう」
実に悪魔らしく高笑いを響かせながら、ちっとも悪魔らしくなく普通に玄関を開けて、その珍客は帰っていった。
その後で夕食の続きを終わらせて、泰司はビールを飲んでいた。ルウが洗いものをする音が台所から聞こえ、テレビでは無意味なほど馬鹿馬鹿しいバラエティ番組を流している。
静かな夜だ。
先ほどの姦しい珍客を思い出して泰司はくすりと笑った。
ちょうど洗いものを終えて手を拭いながら部屋に入ってきたルウは、そんな泰司に微笑みかける。
「なあに? そんなに面白い番組なの?」
「いや、ルウのお母さんって面白いなあと思ってさ」
「嫌い?」
「むしろ好きだよ。嫌味がない」
「良かった」
ルウの触角がぴょこんと揺れた。
「あのね、パパとママみたいな夫婦になるのが、私の夢なの」
「ああ……」
ひどく優しいしぐさで大柄な女の髪の毛をかき回していたちっぽけなイエバエが思い浮かぶ。だから泰司はまた笑った。
「うん、いいよね、ああいうの」
悪魔なのだから見た目通りの歳のわけがない、いったい何百年か知れぬ時を寄り添って共に過ごしてきた成熟した夫婦なのだ。ただ二人いるだけでその場の空気がひどくありきたりな、こなれたものになるような雰囲気をまとっている。
ありきたりで、当たり前で、平凡な時間を積み重ねて作られる静かな関係……
「そうだな、俺たちもああいう夫婦に……なれるかな?」
「うん、なれるよ」
ルウは夫の口吻に唇を這わせ、そっと吸う。
「だってルウはね、ずっと魔王様の奥さんでいるもの」
「そうだな、ずっと……な」
泰司は四本の腕を広げてルウに向ける。ルウはその腕の中に包まれて、幸せそうに、愛する夫の胸に頬を擦り付けた。