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初夏の木漏れ日に照らされて

「姉さん……! 姉さん!」

 叫んでいた。ほとんど無意識のうちに、私は十メートル先でバスケットボールを抱える少女のことを、姉と呼んでいた。

 私の大声に驚いたのか、若干訝しむような視線で、その少女は振り向いた。

 ……少女、だった。

 私よりもだいぶ背が低い。ショートヘアーの下には幼さの滲む顔。ともすれば少年のようにさえ見える。

 姉とは、相貌も背丈も、似つかない。

 少女は、日曜の昼下がりの、新緑の木々に囲まれたこの小さな公園で、初夏の木漏れ日に照らされながら、バスケットボールのリングの下でボールを抱えている。ついさきほどシュートを打ったボールを、拾っていたのだ。

 そう、シュートだ。

 綺麗な、優雅な、流麗な、芸術的な、それでいて機能的な、いや、機能美に満ちた、ワンハンドのジャンプシュートだった。

 あのとき。彼女の深く曲げられた膝が伸び、下半身の力が体幹を流れ腕を通り、指先でスパークし、力強いバックスピンをかけ、リングから五メートルほど離れた位置から、ボールを放った。ボールは大きく弧を描き、その軌跡はまるで、雨上がりにかかる壮大な虹のようだった。

 数瞬前。そんな少女に、私は見蕩れていた。

 少女に自分の姉を、重ねていた。

『女の子でも、ワンハンドシュートを打てるようにならなきゃだめよ』

 私にシュートを教えてくれた姉。何故だか目の前の少女にその面影を見てしまう。

 ……姉はもう、どこにもいないのに。

「あっ……。ごめんなさい」

 恥ずかしい。恥ずかしい!

 私は徒に伸びた髪を振りかざし、思いっきり頭を下げた。どうかしている。姉とは正反対の容姿の、おそらく自分よりも年下の少女を、姉と重ねてしまうだなんて。

「ごめんなさい、ごめんなさい! あの、姉に、フォームが似ていたもので……。あの、とても、素敵なフォームでした!」

 ああもう! 何を言ってるんだろう!

 見ず知らずの女の子のことを姉と呼び、突然シュートフォームを褒めるとか! 不審者扱いされてもきっと文句は言えない!

 でも彼女は、柔らかく微笑んでくれた。木漏れ日に照らされたその微笑みは、優しかった。

「ありがとうございます。私、シュートフォームを褒めてもらえるのが、何よりうれしいんですよ」

 一緒に、バスケをしませんか?

 彼女は続けて、そういった。

 彼女の微笑みは、世間一般の常識あるまともな人から見れば「無邪気」「可愛い」「清純」に映るはずなのに。何故だか私には、この上なく蠱惑的に映った。

「いいの……?」

「一人でシュートを打つのも、飽きてきたところですから。よろしければ、一緒に」

「……じゃ、ご一緒させてもらおうかな」

 迷ったのは数瞬。

 私はポケットからヘアゴムを取り出し、バスケをやめたあの日からずっと徒に伸ばしていた髪を、後ろで束ねた。

 私は誘われるまま、彼女とリングとボールの下へ、歩いていった。

 懐かしい空気に、包まれてゆく。




 少女のボール捌きは、巧みだった。

 まるで体の一部であるかのように自由自在にボールを操り、いとも容易く私を翻弄する。リングの下での彼女は、まるで水を得た魚のように、生き生きとしていた。私もそれなりのバスケ経験者であるはずなのに、彼女の前では、魚になれない。

15センチほどの身長差があるのに、私のブロックは届かない。少女のシュートは、間近で見ると戦慄を覚えるほどの完成度だった。

 私と同じ、ワンハンドのジャンプシュート。

 添えるだけの左手と、スナップを効かせてボールを放出する右手。基礎は私のシュートとそんなに変わらないはずなのに、少女のシュートは私よりもはるかに性格にネットを揺らし、私よりもはるかに、芸術的だった。シュートを放るタイミングも絶妙で、私が反応できない隙を見事についてくる。

 おまけに、運動能力も高レベルときた。瞬発力とジャンプ力に優れていて、私のシュートは幾度となく叩き落とされてしまった。

 この少女の実力の前では、15センチの身長差による優位など、あってないようなものだ。

「懐かしいな……」

 少女に聞こえないように、小さく呟いた。

 バスケをしたのは、実に五年ぶりだった。

 ブランクがあるから、体が思うように動かないのは仕方ないのかもしれない。そうやって言い訳してみるけど、じゃあ現役時代の私がこの少女に勝てるのかというと、答えはおそらくノーだ。

 中学生時代の私は県内トップクラスのプレイヤーで、強豪の高校から勧誘がやまないほどの実力を持っていた。けれども現在の私は、漫然とした学生生活を送るどこにでもいる成人女性だ。

 バスケは、一生懸命練習していた。

 でも、バスケはそんなに好きじゃなかった。

 私が好きだったのは、姉。

 姉が好きだったものが、バスケ。

 だから私は、姉の他界と同時に、きっぱりとバスケをやめた。

「お姉さん……とても、上手いですね」

 ベンチで私の隣に座った少女は、事もなげにそう言った。

 お姉さん? ……ああ、私のことか。この子から見れば私もお姉さんって年だよね、たしかに。

「冗談よしてよ。君のほうが数百倍上手いよ」

 彼女と話していると、自然と笑みが零れる。こんな小さい体の少女に安心感のようなものを覚えるのは何故だろう。

 バスケを満喫し、ひと休憩することにした私たちは、ベンチに腰掛け、汗をハンカチで拭っていた。私は、彼女がハンカチを首筋に当てる仕草を、こっそり盗み見ていた。

 ……何やってるんだろう。

 ため息をつく。小中学生ほどの歳の、それも同性の、火照った肌と汗に興味があるなんて、そんなわけはない。はずだ。馬鹿馬鹿しい。そのはず……なのに。

 この少女に姉を重ねてしまったから、なのだろうか。

 罪深いことに私は、実の姉の火照った肌と汗には、興味を持っていた。

 彼女に姉を重ねた私だったが、シュートフォーム以外には特に似たようなところはないと思う。それでも、何故か、彼女に強く惹かれてしまう。

「お姉さんのシュートフェイク、何度も騙されました。こんなに引っかかったの、初めてです」

「私こそ、こんなに1on1でこてんぱんにされた経験はあまりないよ。しかも、年下の女の子にね。君、すっごく上手いよ。中学生? 全国大会で通用する実力あるよ。私が保障する。あ、それとも、もう全国経験者だったり?」

「いえ、まだ県大会止まりです。ちなみに今、中学二年生です」

 中二にしては少し背が低いかな、とは思った。それでも、さっきの言葉はお世辞ではない。この子の実力は本物だ。全国大会出場経験者の私が胸を張って言う。

「そっか。私は、大学二年生。あっ、そういえばまだ名乗ってなかったね。私は新城。新城朝。『しんじょう』は新入生の『新』に熊本城の『城』。『あさ』は朝焼けの『朝』ね」

「新城、朝さん。……素敵な名前です」

「よしてよ。褒めたっていいことなんかないって」

 変な名前だなって、常々思ってるんだから。

「いえ。いいことなら既に、訪れましたよ」

 少女は愉快そうに微笑む。

「いいこと?」

「……今日、ここで、朝さんと出会えたことです」

 大事な宝物を宝箱から取り出してこっそり見せるかのように、彼女は慎重に、丁寧に、愛おしげに、そんな言葉をくれた。

 ……真っ直ぐ私の瞳を見つめてくる。なんなの、この子? そんな恥ずかしいこと、会ったばかりの私に言うなんて。

 私の頬が熱いのは、陽射しのせいではなく。

 心臓が早鐘を打っているのも、さっきまで運動をしていたからではないようだ。

「……あ、あのさ、あんまりそういう恥ずかしいこと、言わないでくれるかな。嬉しいんだけど、その……」

「ドキドキするから?」

「うん、そう。……って、違う、べ、べべ、別にそういうわけじゃ!」

「幸川、美夜」

 彼女は言った。

「『ゆきかわ』は幸福の『幸』に天の川の『川』。『みよ』は美しい夜って書きます。幸川美夜。よろしくお願いします、朝さん」

 木漏れ日に照らされた美夜の微笑みは、柔和で、落ち着きがあって、でもどこか活力があって、私の脳髄を痺れさせた。

 ……この子のシュートフォームを、綺麗だと思った。

 姉さんのそれに似ていると感じた。

 けれど、リングから離れていても、彼女は美しかった。

「素敵な名前ですって言った意味、わかっていただけました?」

「へ?」

「夜が明けて、朝が訪れました」

 くすぐったそうに、彼女は笑った。

 私はただ、バクバクとうるさい心臓とドクドクと脈打つ血管を抱え、熱を増す頬を美夜に見られないように背けることしかできなかった。


続く


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