落書き文通
化学室、真ん中の一番前の席。
そこが僕の指定席だった。
視力の悪い僕は席替えで後ろの席になると黒板の文字が読めなくて困る。
だから先生に頼んで、この席を指定席にしてもらったのだ。
クラスメイトにとっては楽しみの1つである数ヶ月に1度の席替えは僕にとっては何の意味もない。
僕の席は、いつもここだった。
ある日、僕は先生の目を盗んで暇つぶしに机に落書きをした。
落書きと呼べるほどたいそうなものではない。
ただ一言「だるい」とだけ書いた。
そして、それが始まりの合図になった。
次の化学の授業、教室に移動し席についた僕は新しい落書きを見つけた。
見慣れた僕の字の下に、可愛らしい文字で「私も」と付け加えられていたのだ。
可愛らしい、というのはいささか主観的かもしれない。
しかし、これが男子の書く字とは思えない。
クラスも学年も違うかもしれない、たまたまここの席に座っている誰かが僕のため息に返事をくれたのだ。
ちょっとおかしくなった僕は、さらに落書きを書いた。
「毎日暑くて困る」と。
次の化学の授業。
想像通り、返事があった。
「もう夏だからね」
授業を聞き流しながら、僕は更に書き加える。
「夏休みまでは遠いな」
そんな風に、僕らはしばらく会話を続けた。
化学の授業の時だけ行われる、一言ずつの会話。
全く脈絡のない、行き当たりばったりの会話。
「夏休みまでは遠いな」
「本当にね」
「腹減った」
「早弁は良くないよ」
「眠い」
「先生にばれない程度に」
「テストがやばい」
「私の方がやばい」
「……思ったより点数取れてた」
「20点くらい私にちょうだい」
「夏風邪引いた」
「気をつけないと」
「暇」
「授業中……だよね?」
………………。
本当に、なんでもない平坦な会話。
でも、僕は正直楽しかった。
楽しかったけれど、終わりはやってくる。
数ヶ月に1度の席替え。
僕にとっては関係のない席替え。
けれど、どこの誰か分からない彼女は近いうちに席が替わるのだろう。
しかし僕は小さな期待を込めて、机に書いた。
「だるい」
あのときと同じように書いた落書きに返事はなかった。
それで悟った。
僕の席にはこれまでとは違う別の誰かが座っている。
そして、その誰かは彼女と違って返事をくれない。
落書きでの会話は、僕と彼女の間でしか成り立たなかったのだ。
返事の来ない落書きを見つめながら思う。
この小さな淋しさは何なのだろうと。
日常の中に存在した非日常的な出来事。
たった数ヶ月のそれは、僕の中でもはや日常になりつつあったのかもしれない。
あの間、確かに見知らぬ誰かと僕は楽しさを共有していた。
この些細な出来事を僕の思い出の1つにしても構わないだろうか。
その問いに返事はない。
けれど誰かもきっと、僕と同じように一瞬の楽しみを感じてくれていただろうと信じている。
そしていつか、こんな風にして行われたくだらない会話が、ふと思い出されて懐かしく感じるときも来るだろう。
僕は筆箱から消しゴムを取り出して、落書きを綺麗さっぱり消した。
僕らの落書き文通は、もうおしまい。
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化学室、真ん中の一番前の席。
そこが私の新しい席になった。
それほど面白みのない学校において、私の楽しみの1つである数ヶ月に1度の席替えは、この日最悪のものになった。
寄りにもよって一番前……。
これから数ヶ月のことを考えると、私はどうしようもなく憂鬱だった。
そんな私の憂鬱を吹き飛ばしてくれたのは、誰かの落書きだった。
落書きと言うよりは呟きに近かった。
ただ一言「だるい」とだけ書かれていた。
私は興味本位でそれに返事を書いた。
「私も」
と。
次の化学の授業、教室に移動し席についた私は新しい落書きを見つけた。
先日書き加えた私の字の下に「毎日暑くて困る」と書かれていたのだ。
これを書いているのが、いったい誰なのかは分からない。
クラスも学年も違うかもしれない。
分かることは1つだけ。
この落書きの誰かは、たまたま私と同じここの席に座っているのだ。
私は、この奇妙なやり取りに少しだけ刺激された。
だから、さらに返事を書いた。
できるだけ当たり障りのないように。
「もう夏だからね」
次の化学の授業。
ちょっぴりわくわくしながら席につくと想像通り、新しい落書きがあった。
「夏休みまでは遠いな」
誰かがぶっきらぼうにそういう姿が何故か頭に浮かんだ。
そんな風に、私たちはしばらく会話を続けた。
化学の授業の時だけ行われる、とっても短い会話。
休憩時間に友だちと交わすような、これといって意味のない会話。
「夏休みまでは遠いな」
「本当にね」
「腹減った」
「早弁は良くないよ」
「眠い」
「先生にばれない程度に」
「テストがやばい」
「私の方がやばい」
「……思ったより点数取れてた」
「20点くらい私にちょうだい」
「夏風邪引いた」
「気をつけないと」
「暇」
「授業中……だよね?」
………………。
本当に、なんでもない簡単な会話。
でも、私は正直楽しかった。
とても楽しかったけれど、どうしても終わりはやってくる。
数ヶ月に1度の席替え。
いつもは楽しみだったそれが、途端に嫌なものに変わってしまう。
もうこれであの誰かと会話をすることはできない。
私は生まれて初めて、一番前の席になりたいと願った。
けれど、現実は厳しい。
前の私なら歓喜に打ちひしがれたと思う。
私は見事に一番後ろの席を引き当てたのだった。
次の化学の授業。
私はわざとのんびりと教科書とノートを閉じて一番最後に教室を出た。
そしてあの席を覗き込む。
そこには「だるい」と書かれていた。
あの始まりと同じ字、同じ内容の落書きだった。
誰かはまた同じこの席になったのかもしれない。
同じでないのは、その下に書かれている文字が私のものではないということ。
「そうだね。わたしも」
それを見た私は何だか無性に淋しくなった。
落書きの彼はこの返事を見て、また新しい落書きを書くのだろう。
私はその考えが頭に浮かぶ前に首を横に振った。
自分だけの楽しみだったそれを他の誰かに取られるのは嫌だった。
たった数ヶ月の短い間だったけど、私は見知らぬ誰かとちっちゃな秘密を共有していたのだ。
これを私たちだけの思い出にしたいと思うのは我がままなのだろうか。
その問いに返事はない。
返事はないが、なんとなく分かった。
彼がまたこうして新しく「だるい」と書いたということは、彼にとって私との会話はほんの暇つぶしに過ぎなかったのだろうと。
そしてすぐに、新しい誰かと彼は楽しく会話をするのだろう。
私は筆箱から消しゴムを取り出して、彼の字の下に書かれている返事を消した。
私の始まってもいない、もしかするとこれから始まるかもしれなかった淡すぎる恋心と共に、消して、払って、捨てた。
最後に私は彼の落書きに指を触れ、それを唇に運んだ。
どうしようもない切なさを胸に私は教室を飛び出した。
私たちの落書き文通は、これでおしまい。
【了】