家庭外内縁内犯罪
先生、優しいな。
先生は怖いくらい優しい。
先生は優しいから怖い。
どこかが欠落しているからこそ、ここまで人に優しくできるんだと思う。
そのくらい人間味が足りなくて、でもその人間味の無さを上回るほど、
先生は優しくて素敵で綺麗な人だ。
俺には人に優しくする余裕なんてない。
だから俺は先生にも優しくなんて出来ない。
だから先生は優しくて怖かった。
それでも先生といると何故か心地よい、暖かい、うとうとする。
「……坂田くん、坂田くん」
先生が俺に呼びかけている、呼びかけている気がする、優しい先生が。
でも俺は言葉を返すことが出来なかった。目を開くことが出来なかった。
俺は何も出来ずに、先生が、優しくて、思ったより大きな手で俺を揺さぶる。
その揺さぶりに身を任せながら、俺は完全に安心しきってしまって、
そのまま堕ちていってしまった。
夢現になり、睡魔に抗おうともせず、俺は目を閉じる。
俺が完全に堕ちた頃、先生は何をしていたのだろうか。
熱い、苦しい、辛い、怖い。
俺は、怖い夢を見た。
9年前、坂田家一室
周りには何も無かった。
部屋の中は暗くて、何もなくて。床も壁もコンクリートで、冷たかった。
俺は薄い服をなんとなく着て、気紛れに用意される冷たい食べ物を貪った。
食べ物のようなものはとてもよく分からない味がするけれど、
俺には味わう舌も頭もないからそんなことはどうでもよかった。
深い深い穴があって、そこに落ちたら出られないくらい深い所が部屋の中にひとつ。
蓋と言えない薄っぺらい板で防いでいるだけの穴からは、常に異様な匂いがする。
排水溝の奥のにおい。
耳を澄ますと水が流れる音がする。
直に排水溝のような所につながっている様だ。
ここに落ちたら、死ぬ。多分、いや、確実に。
それは、嫌だ。
それだけは、嫌だった。
死にたい、そう思ったことは何度でもある。
でも、死のうと思ったことは一度もなかった。
だって、こんな状況下に居たって、俺は、きっと誰かが助けてくれると信じていたから。
この後に及んでまだそんな甘いことを考えていたから。
誰かが助けてくれるって心のどこかで信じてたから。
なんという大馬鹿だろうか、まあ、餓鬼の脳なんてそんなものだろう。
俺は、過去に一度、いや、幾度となく、とても、傷つけられた。
俺はそのとき小さかったから、防ぐ術もなく、考える頭もなく、ただ、されるがままで。
痛かった、憎かった、逃げたかった、許してもらいたかった、媚びて、媚びて、がんばって。
それでも、俺は、出来なかった。俺は許してもらえなかった。
俺は傷ついたままで、俺は何も考えることが出来なくなって、俺は使い物にならなくなって。
だから自分を壊し続けた。
傷付け続けたら、いつか楽になるんじゃないかって、そのうちきっと楽になると思って。
痛いのは今だけだから大丈夫。そのうちきっと、誰かが助けてくれるんじゃないかと思って。
俺はそう信じていた。
信じていないと自我が保てなかったから。
部屋に光が差し込んだ。
俺はもう頭も上がらないほど衰弱していた。
何日ぶりかに見た、明るい世界。
女に人が、食べ物を床に置いた。
「うるさい…静かに…………静かに出来ない………一生ここから出られ………」
久々に聞いた声、大嫌いな人の大嫌いな声だった。
何故だか、声を完全に聞き取ることが出来ない。
「晩御飯は………一時間正座してから食べ………動いたら…」
その言葉の続きなんて聞かなくても分かってたし、聞こうとも思わなかったから、
なんて言ってるかは分からない。
特有の上から目線の言葉遣いがいつものことながら、妙に腹が立った。
でも、お腹が空いたから、ちゃんと正座する。
壊れた脚が、動いてくれなかったけど、それでも無理矢理地面に擦るように足を曲げた。
頭をゆっくりと持ち上げる。久々に頭をあげたら、ぐらぐらした。
頭が、痛い。
「…一時間後……」
くすりと笑おうとせず、無表情でもなく、怒りの表情で扉の方向に歩いていく。
その表情はいつもと変わらず、その表情にさえ憎しみが湧いてくる。
扉が閉じようとする。光の線がだんだんと薄くなる。女の人が見えなくなる。
出して、ここから出して。
我慢した、疲れた、頑張った、だから、出して、出せよ。
でも、喋ったら五月蝿いから出してもらえない。動いたら御飯が食べられない。
どうしよう。
正直、お腹が空いているのかどうかも、分からない。
ただ全身が痛くて痛くて、頭がぼーっとして、眠くて眠くて。
でも寝ちゃったら、一生起きれそうにないから、寝てはいけない。我慢。
そんなことしててもやることはなくて、いつも寝てるか寝てないか分からないくらいの、
中途半端な睡眠の紛い物を摂って。
起きても何もすることはない、でもずっと寝れるわけでもない。
だから、とにかく、暇で暇だった。
始まりは何だっけ。
男の人と女の人が喧嘩して、それにちょっと口出ししちゃって、
女の人が怒って、毎晩毎晩痛いことしてきて、だんだんそれがエスカレートして、
また口出ししちゃって、言われるが侭に少し腹が立つからもっと口出しして、
それにまた女の人が怒って、泣いて、喚いて、
いつの間にかに御飯が貰えなくなって、顔を出すだけで殴られて、
声をあげるだけで蹴られるようになって、男の人は女の人が怖くて怖くてどこかに逃げて、
女の人と二人きりになって、女の人は毎晩泣いて、殴って、
それがとてつもなく悲しかった、寂しかった、わけじゃない。
それがとてつもなく辛かった、悔しかった、憎かった。
そういえばなんか言ってた。
「あんたがいなければ、私はもっと幸せになれたのに」
その意味はよく分からなかったけど、とても悪いことをしたんだと思う。
だから毎晩毎晩謝った、謝るたびに殴られた、でも謝り続けた。
謝るのは嫌だった、謝る度に屈辱を感じたけど、謝り続けた。
謝り続けてたら、いつか許してもらえると思ったから。
そのうち鬱陶しくなって、開放してくれると思ったから。
でも謝り続けると、五月蝿いって泣き叫んで、女の人は何もない部屋に閉じ込めた。
鍵を掛けられた。扉を叩くと、それが一緒に揺れてがんがんと酷い音がした。
だからまた五月蝿いって言われて、五月蝿いからもう出さないって言われて。
泣いたら五月蝿いっていわれて、足音をたてたら五月蝿いっていわれて、
息をしたら五月蝿いっていわれたから、何もしなかった。苛立ちを覚えた。
五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い。
だから、暇。今も暇。
暇だ暇だ暇だ。
早くここから出たい、動きたい、泣きたい、叫びたい、笑いたい。
だから、誰か助けて、ここから出して。
女の人は閉じ込めてからも泣き叫んでた。
泣いて泣いて喚いて喚いて。
そういえば、閉じ込められてからは暴力を振るう回数は減った。
閉じ込めた後は、多分閉じ込めていることすら忘れてるんだろう。
たまに思い出してか、ここに訪れては御飯の様なものを与え、暴力を振るい、ストレス発散して帰った。
もしかして今の方が昔より楽なのだろうか。
毎日毎日殴られてた頃より。あの憎しいと顔を毎日合わせないといけなかった頃より。
たまに男の人の声がした。でもあの男の人の声じゃなかった。
そして、男の人の声は、たまに、じゃなく、毎日、になった。
知らないうちにその男の人の声は聞こえなくなって、代わりに別の男の人の声が聞こえるようになって。
その男の人達は、家の中の一部屋だけ、周りから拒絶された空間があることを多分知らない。
いや、知ってるかもしれない、知っていて、知らないふりをし続けてるのかも。
その男の人はこの世界から切り離された部屋まで届く、キツい臭いの煙草を吸い、
声もガラガラで大きく、五月蝿かった、気持ち悪かった、憎かった。
でも、男の人が来ているうちは楽だった。
御飯は貰えないけど、痛くない、五月蝿くない、憎い女の人の顔を見なくて済む。
男の人達は全員嫌い、何故かは分からない、でも男の人が来てないと、痛いことをされる。
だからここにこう述べようか。
卑しい女に集る男共、女の相手をしてくれて有難う。
今日も女に人は泣いてて五月蝿い。
正直、御飯なんかいらない、中途半端にこの汚い身体を延命させてる気がするから。
そのくらいなら、何も出来ないくらいなら、いっそ死にたいから。
「動いてない………、じゃあ食べ…………」
一時間というのは早かった、というか、時間なんて感覚はもうなかった。
女の人が脚で皿を蹴った、というよりは、床に滑らせた。
すかさずそれを食べる。汚く、貪った。
女の人が汚いものを見る目で見ている。お前なんかがそんな目で見るな。
でもしょうがない、お風呂に入るなんて、出来ないこの身体じゃ、そういう目で見られても仕方ない。
皿はとても古くて、閉じ込められてからずっと変わらない、薄汚れた陶器でできた皿だった。
その皿は少し欠けていて、あまりにも必死に食べているせいで、そこで指を切った。
指から血が出た。
こんな身体でも、血が通っているんだ。
気付いた。
何もないこの部屋、女の人に抗うことも出来ないこの部屋。
抗えないようにする為に何もないこの部屋。
でも、抗う方法をやっと見つけた。
こんなことにも気付けないなんて、やっぱり馬鹿だったんだ。
女の人を殺してしまおうと思ったことは何度でもある。
でもこの部屋には何もなくて、何も出来なかった。
唯一、あの穴に突き落とせば殺せるけど、
あの穴まで女の人を呼び寄せることは出来ないし、
もし呼び寄せることが出来ても、突き落とす前に、かわりに突き落とされるのは目に見えている。
だから、諦めた。相当昔に、諦めちゃったんだ。
でも。
今なら、出来る。
女の人は暇そうに携帯を弄っていて、こちらなぞ気にしていない。
両手に皿を持って、全力で床に突き立てた。
携帯を操作する音だけが響く、静かな空間に、ぱりん、と派手な音がした。
女の人がこっちを見た、汚いものを見る目で。
でも、あの目は、あの目は大丈夫。この腐った身体を汚いものとしか認識していないから。
壊れて、手に負えなくて、目も当てられないようにしか見られていないから。
だから、立ち上がった。
そんな体力、気力なんて、無かったけど。
頑張った。
よろよろと、後ろに三歩ほど下がった。
そして。
勢いよく駆けて、女の人の腕を全力で掴んで、脚を振り払って、床にうつ伏せにさせた。
汚い身体が馬乗りになっているのを見て、感じて、気持ち悪くて吐いた女の人に、
忌々しい女の人の喉元に、欠けた陶器を突き立てて、引き裂いた。
女の人は、とても大きな奇声を上げて数秒悶えてから、痙攣しながら死んでいった。
案外、簡単に殺せた。
人間は、脆かった。簡単に、死んだ。
喉を引き裂いた瞬間のあの肉を切る感触が手に残っていて、気持ち悪い。
女の人の喉から吹き出す血は、思いのほか赤くて、綺麗で。
どのくらいの時間がたったかなんてわからないけど、
けっこう長く吹き出し続けるお母さんの血を浴びて、満足して、
でも無茶して動いたから、心臓がばくばくして、息があがって、脚がつって、
頭がくらくらしたから、倒れ込むように寝た。
安心して、久々に、熟睡した。
今考えると簡単に分かる。
心臓がばくばくした理由、息があがった理由。
それでも、昔の融けきった脳味噌なんかじゃ、答えなんて分からなかった。
何故だろう、こんなにどきどきするなんて。
そんな事さえ分からなかった。
答えは簡単なのに。
純粋に、楽しかったからに、決まってるのに。
眠い!文才の無さが素敵!
坂田くんお疲れ様です。
今回は坂田くんの昔話です。
坂田家には一人称というものが存在していませんでした。
だから坂田くんは自分のことを「僕」、「俺」と呼べなかったのです。
坂田くんは両親のことを「お母さん」、「お父さん」と呼べなかったのです。
その理由は、呼ぶ必要も覚える必要も無かったからです。
というね、感じね。
それじゃあ坂田くんの昔話はもうちょっと続きますのでお楽しみに!!