奪還篇 山奥の名医③
「結局救えたのはその子一人かい?」
「…………すまん」
口数少なく答えるファランの胸では赤茶色の髪の幼児がぐっすりと眠り込んでいた。
まだ幼いあどけない寝顔を見つめるリドナーの胸をどうにもやるせない気持ちが占める。
今年二歳になる息子ミオレイドと同じくらいの年だろうか。
数ヶ月前にカルネイドを揺るがした大量召喚事件。そのたった一人の生き残りがこの小さな女の子だ。
異界へと攫われたのは山間の小さい村一つ分の住民142人。
だが……たった一人の幼子しか救えなかったと嘆くべきではない。
今回の召喚事件が起きたのはカルネイドだけではない。
数多の世界から人々を攫い、滅びゆく世界で”最後の一人”となるための生け贄とした前例のない大規模な違法召喚事件だった。
攫われた世界の強者達が集まり連合軍を結成し召喚主世界へと攻め入ったが、被害者達で最終的に助かった者は百人足らずだという。
ファランが提出した報告書に目を通しながら、あまりの広範囲世界に渡る被害の甚大さに、剛胆なリドナーもしばし言葉を失う。
犠牲者は未だ正確な数は出ていないが数百万単位になるのは確実。
一人だけでも救えた。
誰一人も救えなかった世界の者達からすれば、それがどれほど羨ましい事だろう。
「派遣した魔導騎士の連中に犠牲者は無し……往生際の悪い糞共に止めを刺したのはニホンのクキか。噂だけは聞いたことあるけど実際どうだった?」
「俺は最終決戦時は後方にいたから直接には見ていないが、前線にいた部下の証言では化け物共だそうだ。特に一族の姫は別格……犠牲者の怨念や怒り、恐怖を全て取り込んで、微笑みながら首謀者一族を次々に叩き潰していったらしい。前線にいた連中はしばらく使い物にならんぞ。鬼気に飲まれてしまった」
異界に渡れるほどに心身ともに鍛え上げている精鋭魔導騎士達がしばらく使い物にならないとは。
騎士達に犠牲が出なかったことに胸をなで下ろしながらも、計算外の要素に小さく舌を打ったリドナーはそこでふと気づく。
数多くの犠牲者が生まれた中で数少ない生存者の幼児。ただ運が良かっただけでは片付けられない要素がある。
「噂通りね。お近づきになりたいタイプじゃなさそうだ。その娘が助かった理由は?」
「助かった者達は例外なく自己世界における高位能力者、もしくはその要素をもっていたそうだ……この娘はおそらくお前と同等の素質を持っているのだろう」
ファランの言葉の意味に気づいたリドナーは皮肉気な笑みを浮かべる。
「聖人になるかもしれないか。なるほどね…………運が良いって言うべきかね。その子の身元は分かってるのかい? 名前だけでもいいんだけど」
「ディアナ・クラント……着ていた服に名前が縫い付けてあった」
近い将来に聖人となるかもしれない子供。
これも何かの縁だと思い幼女をリドナーが引き取るのを決めたのは、そのすぐ後であった。
「リドナーさま。みてみて。とべた~」
書類仕事をしていたリドナーは、急に聞こえてきたディアナの声で仕事の手を止める。
声の聞こえて来たのは中庭の方だ。
窓の方へと目をむけたリドナーは目を丸くする。リドナーが普段の執務に使っている部屋で中庭に面した三階の部屋になる
その三階の窓の外に自分の背丈の半分ほどもある大きな聖書写本を抱えながらぷかぷかと宙に浮かび笑うディアナがいた。
どうやらディアナは写本から力を引き出して浮遊の術を使っているようだ。
「ディアナ……あぶないよぉ。それにかあさまにみつかっちゃたら怒られるって言ったのに」
窓の下の方から今にも泣きそうな情けない声をあげる息子の声も聞こえてくる。
五才になったばかりだというのに才能を発揮しはじめたディアナを褒めるべきか、男の子なら情けない声をあげるなと息子ミオを叱咤すべきか。
まだ早いかと思っていたが、ディアナにはそろそろ本格的な教育をする必要があるかもしれないと考えながらリドナーは窓を開け外の二人に声を掛ける。
「二人とも尻百叩き。五分以内に部屋に来るように。一分遅れる事に10増やす」
まずは写本の持つ危険性を何も判っていない悪ガキ共をたっぷりと叱ってからだ。
「師匠。おじさんどう? かっこいいでしょ」
真新しい白い服を身につけくるりと一回転して見せたディアナは誇らしげな顔を見せる。
「あぁよく似合ってるよ」
ファランの短い褒め言葉にディアナは嬉しそうな顔を浮かべる。
ディアナが身につけているのは聖人候補者へと贈られる儀式用の聖衣。
僅か八才で聖人候補者へと選抜された天才児として名前が響きはじめた愛弟子ディアナは、リドナーにとって自慢である。
だが同時に悩みの種でもあった。
秘めたる才能は高いが、精神的にはまだまだ子供。力を持つ者として身につけるべき心構えの一つも判っていない。
八才の子供に自重を覚えさせるのは無理があるかも知れないが、ディアナは既に中級クラスの写本からも力を行使出来るようになっている。何かが起きてからでは遅い。
「はいはい似合ってるよ。それよりディアナ。いいかい。これからはあんたの言動が厳しい目で見られるんだよ。今までみたいに……」
これからは余り甘やかしてはやれないと苦言を呈そうとしたリドナーだったが、
「判ってるってば。ミオ君にも見せてくるからお説教はまた後で」
しかしディアナはリドナーの話半分も聞かず、、止める間もなく笑顔で部屋を飛び出ていってしまった。
届いたばかりの服を中庭で鍛錬をしているミオにも自慢したくてしょうがないのだろう。
「まったくあの娘は。どこが判ってるんだい」
息子ミオレイドとの仲は未だ良好。
四六時中一緒にいるので兄妹として育つかと思ったが、どうやら違う方面にいきそうである。
積極的なディアナに、消極的なミオが引き摺られている感も強いが……それにそうなったとして心配事が一つ。
おそらくこのまま成長を続ければ、ディアナは十年もしないうちに聖人となるだろう。
聖人となれば義務として異界に渡り知識を身につけなければならない。異界へと渡る聖人には護衛として魔導騎士一小隊がつけられる。
これは異界においても力を発揮する為の結界を常時展開できるほどの写本は魔導騎士達が使う最上位の写本しかない為である。
逆にいえば最上位の写本を操ることの出来る魔導騎士以外は異界へとついていくことが出来ないという事でもある。
これがリドナーの不安事だった。
「ファラン……ミオの奴は魔導騎士になれると思うかい?」
「不断の努力を続けていればいつかは辿り着く。私がそうであったようにな」
リドナーの問いかけにファランが短く答える。
だがそれはリドナーが望む物ではなかった。
『いつか』……それは十年先かもしれない。二十年先かもしれない。
リドナーの見る所、息子には文の才能はあるかもしれないが武には乏しい。
父親に似たのだろう。
幼なじみでもあるファランの顔を、リドナーは見つめる。
皺が増え過ぎ去った年月が強く出始めた顔。
髪にもちらほらと白い物が混じってきている。
聖人となったリドナーが異界へ旅立つ時までにファランは間に合わなかった。
それでもリドナーは二年を異世界で耐えた。
ファランはカルネイドで己を鍛えながら二十年も待っていてくれた。
肉体年齢も精神年齢共に十八才も離れてしまったが、こうやって一緒になれたのは強い絆があった事と、一時的に別れた時に二人がそれなりに大人であったからだろうとリドナーは思っている。
ディアナとミオレイドの姿は昔の自分達に被り、そして僅かに違う。
同じような絆はある。だが未だに二人とも子供だということだ。
別れに耐え長い年月を待つ覚悟を決めるには、しばらくの年月が必要だろう。
「ディアナの奴が、せめてもう少し成長が遅ければねぇ……」
息子と娘に残された時間は少ないだろうとリドナーは予想していた。
リドナーの不安はすぐに形となって現れる。
前聖者の死亡と共に年嵩の候補者達を飛び越え弱冠十二才のディアナが十二聖書が一つ『二月の書』によって選ばれたのは四年後のことであった。
「だから行きたくないの!」
「同じ話を何回もさせるんじゃないよ。あんたは行かなきゃならない。それが聖人の義務であり勤めなんだ。小さい頃からそう教えてきただろ」
リドナーとディアナは執務室で対峙する。
絶対に異界へいかないと言い張る聞き分けのない愛弟子相手に、リドナーはただ辛抱強く言い聞かせる。
異界へと赴き知恵を得て新たなる理をこの世界へともたらす。
聖人にとって最も重要な役割を、幼なじみと離れたくないという個人の我が儘で拒否できるはずもない。
「じゃあ聖人なんて辞める。ミオ君と一緒の方が良いもん」
「あんたって子は……我が儘もいい加減にしな!」
リドナーの怒声にディアナは一瞬首を竦めるが、すぐに不満げな顔を浮かべふて腐れる。
「あんたが向かうべき世界と得るべき知識は私を含めた他の十二聖人が決める。私情を挟むのは好ましくないけど、なるべく時間の流れが同一に近い世界になるように工作してあげる。あんたの才能なら三年で帰ってこれるはずだ。だからがまんおし」
懐柔案を口にしたリドナーだが、ディアナはまだ頬を膨らませたままだ。
「嫌……もし行けっていうならミオ君も一緒。ミオ君が一緒なら行く」
「だからそれは無理。ミオはまだ見習い騎士にもなってないんだよ」
まだ見習い騎士にもなっていないミオレイドが聖人の旅に同行できるはずもない。
そんな事はディアナもよく判っているはずだが、意固地になっているようだ。
昔から我は強かったが最近はどうにも小生意気になったディアナは、リドナーの言う事をなかなか聞かなくなっていた。
どう説得したかと思いリドナーは頭を抱え込み、横に立つファランに目をやるが首を小さく横に振るだけだ。
ファランも言うべき言葉を思いつかないのだろう。
「あたしがミオ君の分まで結界を張る……それならいいでしょ」
「ディアナ。異界を舐めるんじゃないよ。結界が途中で切れたらミオは消えちまうかも知れない。それにいくらあんただって結界を二人分も張ってたらすぐにへばっちまう……無茶言ってるのは自分でも判ってるだろ」
「うーーーーーーーー…………じゃああたしが行くんじゃなくて向こうから来てもらえばいいでしょ! 召喚で誰か頭いい人にきてもらえばいいでしょ! 師匠ならできるでしょ!」
不満そうに唸ったディアナはとんでもないことを言い出す。
リドナーは眉間にわき出る皺を指で無理矢理押さえる。
「知恵を授かる側が、お教えくださる方々を自分達の世界に呼びつけるなんて非礼が許されるわけないだろ……それに異界で過ごす事でカルネイドに足りない物、いらない物を見極めるのも、聖人としてのお役目の一つ。第一そんな特例をあたしを含め他の十二聖人が許可すると思うのかい。ポータルポイント管理者としてもそんな身勝手な召喚はしないよ」
カルネイドのポータルポイントは全てリドナーの管理下にある。
ディアナを強く睨みつけたリドナーが冷たい口調で告げると、ディアナは癇癪を起こした。
「師匠の分からず屋! 師匠達は知識さえ手に入ればいいじゃん! 師匠は教えてくれなかったけど召喚術くらいあたし一人でできるもん! 勝手に喚ぶ! 来た人だって、天才のあたしに教えるんだから喜ん……」
確かにディアナは天才である。
教えられた事を次々に吸収していき、教える側も喜びを覚えるほどの成長を見せる。
しかしそのあまりにも傲慢な物言いはリドナーの怒りに火をつけるには充分すぎるほどであった。
「ディアナッ!」
ディアナの言葉を遮るように鋭い叱責の声をあげながらリドナーは右手を振りかぶる。
「あっ!」
だがリドナーの手が振り下ろされる前に、ディアナは大きな手に頬を張られ床に張り倒されていた。
「…………ぇっ?」
床に倒れ込んだディアナは信じられないと言った表情で呆然としてから、小さな疑問の声をあげて自分を叩いた人物を見上げる。
リドナーよりも先に動いた人物。それは普段は寡黙でリドナーの一方後ろで控えているファランであった。
自分勝手な我が儘をいったり、ミオと遊びに行くからと講義をさぼったりして、師であるリドナーから叱られ鞭をもらうことは度々あったディアナだったが、ファランに手をあげられたのはこれが初めてであった。
ディアナにとってファランはとても優しい父親。
自分が叩かれるなど思ってもいなかったのだろう。
今起きたことが現実だとすぐに思えないのか呆然としていたディアナだったが、徐々に腫れはじめる頬の痛みでこれが現実だと思い知らされたのが、ディアナの『赤岩』の目に大粒の涙がうかばせ酷く傷ついた顔になった。
「うぅっ!!!!!」
ばっと立ち上がったディアナは泣き顔のまま何も言わずに部屋を飛び出してしまった
リドナーもファランも、ディアナの余りに悲しそうな顔をみてしまったためか、引き留めることも、後を追うことはできなかった。
「……すまん。つい手が出た」
ディアナを叩いてしまった手を見つめながらファランがこぼす声は沈んでいる。自然と身体が動いてしまったのだろう。
「あんたが叩いてなかったらあたしが叩いてたさ……もう少し大きくなってからと思ったけど、異界渡りの前にあの子にも事件のことちゃんと話してやるべきなのかね」
ファランの肩を軽く叩き慰めながらリドナーは重い吐息を一つこぼす。
まさか違法召喚に手を出すとまでディアナが言い出すとは思わず、リドナーも少なからずショックを受けていた。
規模と召喚主の目的故に影響が大きすぎると多世界召喚事件の詳細は一般には隠し通している。
カルネイド唯一の生き残りであるディアナにすらもリドナーは本当のことを打ち明けておらず、山津波で壊滅した村の遠縁の娘を引き取ったと話していた。
異界より帰還し聖人として強い心を持ちカルネイドを正しく発展させていく事ができるようになったら真実を伝えるつもりであったが、その前に話すべきなのか。
今から再度話に行っても互いに感情的になるだけ。
明日もう一度話し合おう。
自分らしくない先送りをしてしまったことをリドナーはすぐに悔やむことになる。
『聖人なんてやらない。ミオ君と駆け落ちする』
短い手紙だけを残してディアナとミオレイドの二人がリドナー達の元から姿を消したのは、この夜のことであった。
「ディアナ様おはよぉ」
立ちこめる朝霧の中、村の外を流れる小川に沿って造られた細道を獣除けの鈴をつけて走っていたディアナ・クラントは、のんびりとした朝の挨拶をされて立ち止まる。
周囲を見渡し声の主を捜したディアナは、霧の向こうに微かな人影を発見する。
「おはよリーナ婆ちゃん」
そちらに近付いてみると朝取りした野菜を川で洗う村の老婆だった。
便利で裕福な麓の街へと若い者が全員出て行ってしまった、老人ばかりの山奥の村では朝から走り回るほど元気なのは今はディアナ位だ。
鈴の音で気づいたのだろうと思いながら、ディアナは笑顔で挨拶を返す。
「こんなぁ朝も早よから急いでどうなさったんよぉ」
「うん。昨日ねチクシ先生から新しい薬草の事を教わったんだよ。今度の薬草は打ち身とか関節の痛みを和らげるお薬になるんだって。聖書にはもう書き込んで理に組み込んだから、これから山に幾つか作ってみるの。上手く自生したらまた栽培するからね」
「ほーそうかいそうかい。わてぇもぉええ年じゃからね。最近はほんに身体の痛いんでしかたなかったんよぉ。でもディアナ様と若先生。それに大先生のおかげで随分楽になったんよぉ。村ぁなぁみんなぁも年寄りしかおらんでぇ感謝しとるんよぉ。ほんにすまんねぇ」
「もう気にしないでいいっていつも言ってるってしょ。お世話になってるお礼。村のみんなが助けてくれなかったら、行くところ無くてミオ君と二人で路頭に迷ってたんだから」
老婆がうんうんと嬉しそうな柔らかい笑顔を浮かべて頷き何度も頭を下げてくるのを見て、ディアナは照れて真っ赤になった顔で慌てて答える。
カルネイドにおいて薬とは稀少な鉱物、植物を聖書の写本によって変性させた物を示し、効能は極めて高いが非常に高価になる。
過去の聖人が持ち帰った薬草の理もあるが、記されたその数は極めて少数でこれまた貴重。
自給自足で現金収入の少ない老人達には、両者ともとても手が出せる物ではなかった。
だが異世界の医師チクシリョウスケがもたらした知識をディアナが理とし組み込み薬草を生成し、ミオレイドがチクシに指示され見習い薬師として薬を作るようになって少しずつではあるが良い方へと変化してきていた。
「あ。そだ。リーナ婆ちゃん。お昼ご飯の準備までには戻ってくるからさ、また良いお野菜あったらお裾分けしてね」
「はいよぉ。じゃかし気ぃつけてなぁ。ディアナ様に何かあったら若先生も坊もかなしぃけんのお」
老婆は心配顔を浮かべる。今の時期はこの地方は霧が濃く視界が悪くなる。
それに最近は山奥にいる獣が餌がないのか人里近くまで降りてきており、村の老猟師達によって何度も追い払われていた。
だが老女の心配にディアナは笑って答える。
「大丈夫。大丈夫。紛いなりにも聖人だから。ほらこの間だって意地悪師匠を追い返してみせたっていったでしょ」
あのリドナーにすら勝てるのだ。今更獣の一匹や二匹出てきた所で恐れる事など無い。
しかしディアナの言葉に老婆はより心配げな顔を浮かべる。
「わてらぁん為にいろいろしちょくれるのありがたいども、お師様は大層お怒りなんでしょぉ? いいんかい?」
「いいの。あたし達のためだし、みんなのためだもん。鬼ってのも来てるみたいだけど、どうとでもなるって。それにもうじき勉強も終わるし、その頃には先生を帰してあげる事も出来るようになるんだよ。それまでおとなしく待ってろっての……んじゃあ行ってくるね」
だが老婆の心配を大丈夫だよとディアナは笑顔で返すと手を振って立ち去ろうとする。
事情があってより強い力を取り込むためにポータルポイントを作ったのだが、ディアナの計算以上に流入してくる改変力は強かったのは嬉しい誤算だった。
今や完全に支配下に置き、さらに余剰分の力で村の周囲に探知と侵入妨害の結界も張っている。
誰かが近付いてくればすぐに気づくし、今の自分なら戦闘になっても誰にも負けない。
ディアナには絶対的な自信があった。
『くすくす。おはようございます。申し訳ございません。待ちきれませんでした』
涼やかな忍び笑いと共に悪意の籠もった声が背後から聞こえてくるまでは。
「へっ?…………っ!」
聞き覚えのない声に間の抜けた声をあげてディアナは背後を振り返り絶句する。
先ほどまで老婆がいた川縁にはいつの間にやら、動きにくそうなデザインの白い服を身につけた若い女が立っていた。
女性の目の前には赤黒い物と白い物がぐちゃぐちゃに混ざった物体が無残に横たわっていた。
その姿に落石で潰された動物の死骸をディアナは思い出す。
老婆はどこに行った?
無意識に物体が何かを考えるのを止めたディアナへと、女性がにこりと微笑んだ。
可憐で涼やかな笑顔。
だがその下に禍々しい邪気が含まれていた。
『まずはお一人と。次は村にでも行ってみましょうか。ではごきげんよう…………こ~こはどこの細道じゃ♪』
軽やかに一礼した女性は童女のような笑顔を浮かべると、一節の詩を弾むような声で謳うと女性の姿は霞のように薄れ一瞬で消え失せてしまった。
後に一人残された呆然としながらしばらく立ちすくんでいたディアナは鼻につく悪臭で我を取り戻すと、女が立っていた場所へと慌てて駆け寄る。
「っ!!!!!!?」
ボロ布にくるまる血と肉そして内蔵を練り合わせた物体。
布は血にどす黒く染まっているが、先ほどまで老婆が着ていた服のなれの果てだ。
一瞬の間にスリ潰された老婆の死体からは悪臭と湯気が立ち上る。
つい先ほどまで会話をしていた優しい老婆の顔が浮かび上がりディアナの目には自然と涙が浮かび上がる。
「っ! なに!? なんなの!?
のんびりとした平和な朝の会話。
いつだってそこにある当たり前の日常。
ついほんの一瞬前まであったはずの幸せ。
でもそれは永遠に奪われてしまった。
訳も分からない圧倒的な力を持った何かによって。
結界への侵入に気づくことも無く、声を掛けられるまでそこにいたことすら判らなかった謎の女。
「……っ!? 村ってまさか!?」
一体何が起きたのかまるで判らず狂乱しそうになったディアナは、禍々しい女が最後に残した台詞を思いだし意味に気づき青ざめる。
この辺りに村といえばディアナが今暮らしている村しかない。
「『二月の書』写本生成! 髙技戦之章全項目転載!!!」
右手をさっと一振りしたディアナは涙混じりの声で、遠く離れた地に存在する十二聖書『二月の書』へと呼びかける。
金属を打ち合わせたような高い高音が霧の森の中に響くとディアナの周囲の木や大地。何もないはずの空中からさえも無数の文字が溢れ出てきた。
カルネイドに存在する物とは、人も動物も植物も大気すらも須く聖書の管理下にある。
ディアナは周囲の物体を原書の状態へと解除し文字へと変化させていた。
右手に集まった文字を凝縮。分類。再構成。
瞬く間にディアナの右手には白い装丁に赤い飾りが施された一抱えもある本が出現した。
十二聖書が一つ『二月の書』から写された純度の高い写本。
それも高位の戦闘能力の理を記載した戦闘用の写本だ。
ばっと頁を捲ったディアナは高速飛翔の理を顕現させる。
ディアナの身体へと風が集い渦を巻く。
(ごめん。リーナ婆ちゃん。後で来るから)
物言わぬ肉片と化してしまった老婆に心のなかで謝りながら、ディアナは村の方角にきっと目を向ける。
老婆を殺したことに快楽を感じていた邪悪な雰囲気を纏う女。
「許さないんだから!」
悔し涙を堪えながらディアナは術を解放する。
高位の飛翔術は文字通りディアナを疾風へと変化させる。
森の中の狭い道だろうと関係ない!
木々を避ける為に森の上空へと出る時間すらも惜しい!
木を軽やかに避け、藪を突き抜け突き進む!
ただ、ただ一直線に村へと向かいディアナは飛ぶ。
心を表すかのような轟々と唸る風を纏いながら、村までの5分ほどの距離をディアナは文字通り疾風となり駆け抜けた。
瞬く間に森を抜け出たディアナは山間の僅かな平地に作られた村を視界へと捉える。
元々は山越えの街道沿いに作られた宿場町で昔はそれなりに発展していたそうだが、新しく楽な道が出来た今では、高齢となった村人達が一人また一人と減る事に滅びへと向かっていく小さな小さな村。
だがこの村はディアナと大切なミオレイドにとって第二の故郷。
そしてもう一人。とても大切な存在には本当の故郷。
絶対に壊させるもんかとディアナは涙をこぼしながら、村の門へと向かって一気に突っ込んだ。
「おぉ!?……ディアナ様かい!? どうなさったあわてて。忘れもんかい?」
血相を変えて門から飛びこんできたディアナの姿に、門番を引き受けている皺だらけの老人が青石の目を見開き驚きの声をあげる。
のんびりとタバコを吹かしていたのか、その手には薄く煙をたゆらせるキセルが握られていた。
いつも通りののんびりとした雰囲気。どうやらあの女はまだここには来ていないようだ。
だが悠長な事はしていられない。
相手はディアナの結界をくぐり抜け、接近すら気づかせなかった存在。村を囲っている獣除けの低い柵などあの女には意味を成さない。
村の中央にみんなを集めて一番強固な結界を張って安全を確保しその間に炙り出す。
「ゼン爺。みんな集めて。なんかやばい……」
『黒山羊さんたら丸呑みし~た♪』
一瞬で方針を決定したディアナは老人へと頼もうとするが、その脳裏に楽しげな声が突如響いた。
ディアナが何かをする間もなく、門番の老人の足下に炎のようにゆらゆらと揺らめく黒い影が広がり、一瞬で老人の身体が影の中に吸い込まれた。
「ゼン爺っ!?」
「ぎ! がぁつ! がぁぁぁぁっぁ!!!」
バキバキと何かをかみ砕きゴリゴリと何かを磨り潰す音と共に老人の悲鳴が影の中から響く。
喉が張り裂けるような悲鳴は激痛に苛まれている老人があげる救いを求める声。
「光よ! 邪なる影を消し去れ!」
右手の写本の頁を捲りディアナは解除の術を読み上げる。
写本から光輝く文字が飛び出し老人が飲み込まれた影へと飛び込んでいく。
ディアナの知る最高位の破邪の文字。
文字が強い意味を持つカルネイドならばいかなる世界の呪法であろうとも消し去る……はずだった。
老人を飲み込んだ影はディアナの打ち込んだ光の文字を受けても何の変化もみせない。
ゆらゆらと揺らめきながら老人の悲鳴と破砕音を響かせていた。
「なんで!? 光よ! 光よ!?」
ディアナの悲鳴混じりに何度も同じ破邪術を呼び出すが結果は変わらない。
やがて老人の声は力を無くし小さく消えていき破砕音も静まると、影の中ら老人の身体が浮かんできた。
その姿は異形だ。
力なく横たわる血まみれの老人の頭は空気が抜けた風船のように萎み身体とは真逆を向いており、四肢はねじくれ絡まり合っている。
身体中から骨が抜け肉と皮だけになった老人の苦痛に歪んだ顔では血まみれの青石のような目玉が飛び出していた。
「あぁっ……あぁぁ……」
だがそんな状態でも老人は生きていた。意味を成さない呻き声が老人の喉から響く。
「ひっ!」
老人の瞳と目があったディアナは思わず悲鳴をあげ腰を抜かす。
血にまみれたその目は助けられなかったディアナを強く恨んでいるようだ。
しかしその青石の瞳からもすぐに光が消え失せ老人は事切れた。
『あらあらお行儀悪くて失礼いたしました。この子は骨が大好物なんですよ。だからお肉とか皮の柔らかい部分は嫌いですので生き残ってしまったみたいですね。あぁ、それとこの世界では石のような目は重要なようでしたから残させました。貴女にお返しいたしますね……もっと綺麗な物を戴いておりますし。これでお二人目と』
クスクスと笑う悪意の混じった声が腰を抜かした地べたへと座り込んだディアの脳裏にまたも響く。
女の姿は見えない。声の感じから近くにいるような気もするが姿も気配も感じない。
どこから声をかけているのか、どこから見ているのか。
「風! 大地! うぅぅ!!!!!どこよ!? なんで!?」
泣き声で動揺したままのディアナが頁を捲り探知術を放つと、風が吹き、大地が微かに揺れる。
しかしそれだけだ。
探知術は近くにいるはずの女を見つけることができない。
「っ! 何者よ! 出てきなさい! 卑怯よ!」
ディアナは涙混じりに怒鳴り声をあげる。
訳の分からない化け物に対する恐怖を目の前で親しい老人達を殺された怒りで誤魔化しながら。
『あらあらそうですか? 異界の人攫いの貴女に言われたくはありませんね』
「い、異界の人攫い……」
女の言葉にディアナは何者なのかにようやく気づく。
禍々しく異なる気配を醸し出す女……異界人。
『それに私の専売は外道で、卑怯は我が主の代名詞ですので……ですが姿をお見せしないのは不作法ですね。申し訳ありません』
何が楽しいのかクスクスと邪悪な笑い声が響きディアナのすぐ目の前に影が集まり、その中から先ほどの女が浮かび上がってきた。
白い服と小柄な身体。
姿形はディアナ達とはあまり変わらず、ディアナから見ても美人だと思う整った容姿。
しかしその目が違う。
ディアナ達とは異なる柔らかそうな物体で出来ており、何よりも目の奥が邪悪な漆黒で染まっていた。
『申し遅れました私は玖木姫桜。『殲滅の九鬼』と……あぁそうでした。私を知らなかったのですね。失礼いたしました。違法召喚者の方が私共を知らないというのは非常に珍しい事でしたので。私もまだまだですね、もう少し精進しなくては』
涼やかな微笑みでちょこんと一礼した姫桜だったが、すぐに眉を微かに顰め頬に手を当て自らの未熟を恥じるような声をあげていた。
「クキ……師匠の言ってた」
ディアナは呆然と呟く。
目の前に立つ存在が師であるリドナーが言っていた『鬼』
『はい。リドナー様……でしたかしら? おきれいな目をしていらっしゃいましたね。綺麗な真紅の色。綺麗でしたので戴きました。大切にいたしますね』
クスクスと笑いながら姫桜が腰に下げていた袋の中から燃えさかるような真紅の石を二つ取りだし見つめたかと思うと、薄桜色の唇から微かに舌を出し味を確かめるかのようにぺろりとなめあげた。
欲情に潤んだ瞳と妖絶な色気がより姫桜の怪しげで恐ろしい気配を高める。
「その色っ!? まさか!?」
姫桜が愛おしそうに舐めあげた石の色。それはディアナのよく知る真紅。
師であるディアナの代名詞でもある真紅石眼。
まさか師もこの鬼に!?
ディアナの全身を寒気が走り心臓を締め付けられるような恐怖を感じる。
『貴女の関係者。それもお師様だとか。私共の対象としては充分でございました。あぁ、ご心配なくあの方のみでなく、あの城塞にいた者、隣接の街の住人も全て『殲滅』の対象とさせて頂きましたので』
脳裏に響く愉しげな声で姫桜が、ディアナの想像を緩やかに肯定した。
冷たさが全くないが悪意に満ちた声で吐いたのはディアナにとって悪夢のような話。
「な、なんで……師匠を?」
確かに自分がチクシリョウスケを召喚した。
だが師であるリドナーは関係ないはずだ。
何でリドナーが殺されなければならない?
ディアナが呆然としていると姫桜はまたクスクスと笑い出す。
何で判らないのだろうとその笑い声は問いかけているようだ。
『ディアナさん。私共は別名『戒めの玖木』と申します。私共の世界から大切な者を攫った無法な召喚主に下す鉄槌が我らの定め。召喚主の生い立ちに関わった者達。関わっているとおぼしき者達……そして召喚によって恩恵を受けた者達。その全てが殲滅の対象となります。そうすることで他の世界にも広く知らしめる『戒め』とします。『戒めの玖木』その由来です』
「戒め……恩恵を受けた者達……そ、それってまさか!?」
『はい。この村の方々全てですね。後何人いらっしゃるか判りませんが、私も忙しいので一両日中には終わらせたいですね』
ディアナの脳裏をよぎった悪夢をクキはあっさり肯定し、村人を全て殺すなど意図も容易いことだと笑う。
「ふざけないで! なんで!? お爺ちゃんもお祖母ちゃんもなんにもしてないのに! いい人達なのに! それに師匠まで! 何で師匠!? 師匠はあたしに先生を返せって怒ってたんだよ!? あんたの側じゃないの!? 城のみんなもっておじさんも!? おじさん。凄く強いもん! あんたなんかに負けるわけない!」
『おじさん? ……あぁファランさんですか。はいあの方はリドナー様より幾分か上でしたね。久しぶりに歯ごたえのある方で楽しめました。』
「っあああああああああああっ!!!!!!」
伝わってくる姫桜の言葉に嘘はないと心が訴える。
本気でこの村の全てを殲滅するつもりだ。
そしてそれは師であるリドナーと優しい騎士ファランが既に姫桜によって殺されたということでもある。
口うるさく厳しくはあったが、ディアナにとってはリドナーは大切な師であった。
そのリドナーの夫である中年の騎士は余り目立つような人では無かったが、とても優しく強かった。
幼い時に両親を亡くしていたディアナにとっては実の親ともいえる人達。
目の前で起きた親しい隣人達の相次ぐ死と家族の死を知って、混乱したディアナは大声で泣き叫ぶ。
「ディアナ様!? どたっだぁ!? そんなぁ大声出して!?」
突然響いたディアナが泣き叫ぶ声に驚いたのか、近くの家からやせた老婆が飛び出してきた。
姫桜が優しげな目で老婆を見つめ、
『シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ♪』
愉しげな声を響かせながら歌を歌う。
姫桜の詩声に合わせ地面からわき上がった黒い泡が老婆の身体を包み込んだかと思うと、そのまま宙に浮かんでいった。
『屋根まで飛んで弾けて消えた♪』
姫桜が歌を締めくくると共にその詩通りに屋根を越えた所で、黒い泡が軽い破裂音を伴いながら弾け飛んだ。
びちゃびちゃと音を立てて、血と臓物、肉片の入り交じった骨が周囲に降り注ぎ、皺だらけの腕がゴトンと音を立ててディアナの目の前に落ちた。
その腕には死んだ旦那の形見だと老婆が言っていたディアナも見覚えのある飾り気の少ない腕輪が嵌っていた。
空中へと浮かび上がった老婆は黒いシャボン玉と一緒に弾け飛んでいたとディアナに嫌でも悟らせる。
『あら結構残りましたね……たまや~♪』
玖木の謎の呪文と共に老婆の腕がディアナの目の前で再度弾け飛んだ。
「ひっ!」
腕から弾けた血と肉片が口の中に入りこみディアナは引きつった悲鳴をあげる。
それが親しい老婆だと判っていても血生臭く気持ちの悪い感触にディアナは吐き気を覚えるしかない。
『続いてかぎや~♪』
老婆だった物が姫桜の術に合わせて次々に破裂しはじめた。
血風が周囲に漂い、肉と骨の破片が塵となりディアナの身体へと積もっていく。
「いやっ! いやっ! なに!? なんで!? どうやってんの!? わかんない!? わかんないよ!?」
口の中に入っってくる血肉をはき出しながらディアナは必死に写本を捲り、姫桜の術を防ごうとする。
だが判らない。
あの詩が一体どういう作用をして術を発動させているのか?
どうすれば発動を察知出来る?
どうすれば防げる?
姫桜が一体何をどうやっているのかすらもディアナには判らない。
ただ謳っているだけにしか見えず感じられないのだ。
カルネイドの全てを記した十二聖書に選ばれた聖人であり持ち合わせる才とポータルポイントより流れ込む強大な世界干渉力。
この世界……カルネイドの理の中ではディアナは無双の力を発揮するであろう。
だが裏を返せばそれは、カルネイドのことは知っていても異界をよく知らないということでもある。
無量大数に存在する世界に響き渡る『殲滅の九鬼』の姫……玖木姫桜。
貴人を攫う違反者に対する苛烈な対処で知られる日本国異界特別管理区第二交差外路。
通称特二の下部組織『稀鬼院』においても、一際強い悪名を響かせていた『最凶の抑止力』
ディアナに対する姫桜の戒めはまだ始まったばかりである。
「なんだぁ? なんかディアナ様のひめぇが聞こえだぞ」
「門の方でぇねぇが?」
村人達の声がまた聞こえてきた。
捕ってきた猪の肉を差し入れてくれる年老いた猟師と、村で唯一の雑貨商を営むお祖母ちゃん。
この狭く人も少ない村。声を聞いただけで誰かなどディアナにはすぐ判る。
『あらあら今度はお二人ですが。ふふ。自ら来てくださるなら助かります。お昼までには終わればいいのですが』
「っ!!!」
来ちゃダメ。
お願い。止めて。
伝えるべき、叫ぶべき言葉はいくつもあるはずだ。
しかし恐怖に引きつったディアナの喉からは声がでなかった。