奪還篇 山奥の名医①
体中の細胞が一つ一つ引きはがされ己が拡散する。
小指の爪よりもさらに身体が小さく圧縮される。
心から大切なものがこぼれ落ちていく恐怖。
心へと次々に浸食してくる異物に対する嫌悪。
視界は闇に染まり静寂が辺りを覆いつくす中で、引きちぎられ、圧縮され、引き抜かれ、詰め込まれるという相反する感覚が楠木勇也の心身を苛む。
異世界とは文字通り異なる世界。
自然法則も、原理も、在り方すらも違う。
矛盾する感覚とはそんな異界へと対する純然たる拒否反応が生み出した産物だ。
ある程度異世界へと渡り歩き経験を積めば大抵の者ならばそのうちに自然と慣れて、拒否反応を示す事もなくなるはずだが、未だに楠木は慣れることが出来ずにいた。
才能がないのか、向いていないのか、それとも単にそういう体質なのか。
考えてみた所で答えなど無い。
だからただ耐える。
この苦行が始まったのは一瞬前のような気もする。
一時間前だったかも知れない。
否それとも数日、数ヶ月、数年、それとももっともっと長い年月か。
どれもが正解で、どれもが間違っているような曖昧な時間感覚がさらに苦痛となる。
しかしそれでもただ耐える。耐えることが出来る。
別に苦痛が好きなのではない。
痛みは人並みに遠慮したい物であり、ましてや痛みを喜ぶような特殊性癖を持っているわけでもない。
だがこの痛みだけは別物だ。
この痛みの先にこそ今の楠木の根幹を司る目的、目標が存在する。
いつまでも慣れる事ができずにいる偶然に楠木は感謝している。
この痛みこそが失った者の心。
この痛みこそが引きはがされた絆。
己の存在が壊され汚され犯される嘆き。
常に痛みを感じるからこそ、異なる世界へと攫われた者を取り戻す奪還者として歩み続けていける。
「……き。……の坊。いい加減目覚めぬか。着いたぞ」
右の耳を引っ張られる軽い痛みと聞き慣れた声が、朦朧としていた楠木の意識を覚醒させた。
頭蓋骨の裏側に鉛が張り付いているのではないかと思うほどに頭が重く、喉がひりひりと渇き胃は落ち着き無く上下する。
背中にはやけに冷たい汗がだらりと流れてシャツがべったりと張りつく。
異界渡り後の肉体、精神状態は相変わらず最悪だ。
それでも倒れないだけマシ。
二日酔いと風邪が同時にきたような悪寒を覚えながらも、楠木はまだ良い方だと重苦しい肺に無理をして息を吸う。
吸い込む空気はひんやりと冷たく微かな湿り気を帯びており、熱を帯びていた身体には心地良い。
異世界に赴いてまず楠木がするのは深呼吸だ。
気持ちを落ち着けようとする意味もあるが、もっとも大きな理由は 所謂”異世界人”である自分が活動可能なのか確認する為だ。
異世界とは文字通り、理が異なる世界である。
現世とは大気も物質も自然法則さえ異なる世界。
そんな所へ何の準備もせずに行けば呼吸も出来ず身体を維持することも出来ない。
それどころか異物である楠木に世界が防御反応をみせれば一瞬で消滅するか、取り込まれ食われる可能性もある。
そうでなかったとしても世界の外へと弾き飛ばされ、世界と世界の狭間の空間。
世界を変える力の総称『世界改変力』で出来た海に溶け込み永遠に彷徨う羽目になるだろう。
そうならないために異世界に滞在する為に訪問者達がとる方法は、大まかに転生、憑依、結界の三つに分かれる。
転生は目的世界の生物や存在へと、自分や他者を生まれ変わらせる術法。
憑依とは肉体は元の世界に残したまま、精神体だけを目的世界に既存する生命、物質に宿らせる術法。
この二つは存在その物を変質させ世界へと適合させる方法で比較的に楽な方法であるが、自身の肉体精神を変化させることに抵抗を覚える者は多い。
その為に今現在もっともポピュラーな方法は第三の方法、結界である。
己が周囲を常に本来所属する世界の法則へと書き換えながら、同時に滞在世界に取り込まれたり排除されないように調整し続ける高等術。
一昔前はよほど高等な術者でなければ結界の担い手とはなれなかったのだが、今では神機融合技術に基づく神殿結界機と呼ばれる神の宿りし機械が出回り、それこそ異能を持たない一般人であろうが異界への旅行は可能となっている。
だが楠木の場合は違う。
楠木も携帯電話型神殿結界機を一台保有しているが、これはあくまでも非常用でしかない。
八百万の御柱の中でも旧き強き神である縁に使える神官である楠にはその庇護により、理之転と呼ばれる最高位の結界術が常に張られている。
理之転は精神生命体しか存在できない虚無世界であろうが、超高温超高圧環境の煉獄世界であろうが、現世と同じ感覚で活動することを可能とする現世においても数人しか使い手がいない超高等結界術だ。
「…………おいおい勘弁してくれ」
ゆっくりと瞼を開いた楠木は周囲の光景を確認して微かに頬を引きつらせた。
市民体育館ほどの広さと高さを持つ何処かの建物内。
天井にはまばゆい光を放つ文字が幾つも浮かんでおり、真昼のような明るさで屋内を照らし出す。
楠木達が立つ場所は水を張り巡らせた対岸までは5メートル以上はありそうな堀で囲まれて池の中に浮かぶ島のようになっている。
足元に目をむければ黒光りする硬い石の表面を、まるで電光掲示板のように無数の文字が緩やかに流れていく。
だが楠木が驚いたのは、今立っている場所や乱舞する文字ではない。
問題は対岸。
対岸で陣取る目算で50人は軽く上回る西洋風の鎧に身を包んだ完全武装の殺気だった戦士達。
少し変わっているのは対岸にずらりと並んだ戦士達の手には剣や槍といった武器はなく、その代わりに豪華な装飾が施された大きな書物を左手に持っていることだろうか。
「……縁様。モーニングコールのおかげで心地良い目覚めです。それと理之転毎度毎度感謝です」
対岸の武装集団をとりあえずあえて無視した楠は、右肩に腰掛けている縁へと顔を向けると軽く目礼する。
「妾には些事じゃ。礼などいらんといつも言っておるだろうが。それよりもはよ横の狸娘も叩き起こさんか」
眉をしかめた縁は不機嫌そうに顎で楠木の左を指し示す。
縁の指し示した先では異界へと渡る前に抱き寄せていた姫桜が楠木にピタリと身を寄せ少女のようなあどけなさを残し眠っているかのように瞼を閉じているが、名前通りの桜色の口元からはクスクスと小さな笑みをこぼしていた。
どうやら本人も隠す気のない狸寝入りをしているようだ。
「はいよ。姫さんお目覚めを。ひょっとしたらお仕事のお時間になるかもしれないんで」
姫桜の腰から左腕を離した楠は、その華奢な肩をポンと軽く叩いて声をかける。
ちなみに姫桜も理之転を使っているが、こちらは姫桜本人が自ら張っている。
「目覚めの口づけの一つでもいただけると思いましたのに……おはようございます楠木様。ご気分はいかがですか?」
吐息をこぼしてみせた姫桜は一歩離れるとクスクスと楽しげな笑みをこぼしながら楠木の顔をのぞき込んできた。
姫桜が動いた事が原因か相手側から向けられる鋭い警戒心がより強まる。
冷徹な刃を首筋に押し当てられたような寒気に楠木の首筋を冷たい汗がゆっくりと落ちた。
「……そりゃ縁様と姫さんと美女二人に挟まれてたんだ悪い気はしないわな」
今にも襲いかかってきそうな相手を前に楠木は目を逸らさず観察しながらも、平常心を保とうといつもの軽口を叩く。
「ふん。軽口叩いている暇があったら話を進めよ。相手方は熱烈な歓迎じゃぞ」
「そのようで。あれが聖書の写本だとするとあちらの方々が魔導騎士で、ここはカルネイドで間違いないと思いますけど」
『十二聖書』
そう呼ばれる巨大な十二冊の本が世界カルネイドを形作り構成する基本要素である。
この世の全ての動物。この世の全ての植物。この世の全ての現象。
時の流れすらも記載し制御する強大にして絶対なる理を管理する書物。
そして十二聖書を司る聖人達より高位写本を与えられ超越の力を振るう者達が魔導騎士と呼ばれている。
事前情報ではカルネイドは異世界間協力条約加盟世界で、今回の奪還においても協力を得られると楠木は聞いていたのだがどうにも話が違う。
何か情報伝達に間違いでもあったのか?
現地の情勢が急変したか?
あるいは自分達の服装や姿形がこの世界では忌避されるものなのか?
敵意にも近い警戒心を向けられる理由を探ろうと楠木は視線だけを動かし、
「あー……何となく判った」
「あら私の顔に何かついてますでしょうか?」
楠木の視線を受け止めた姫桜が軽く小首をかしげる。だがクスクス笑いは健在のまま。
視線の意味を完全に見抜いた上でとぼけているのは見え見えだ。
「姫さんほどの美人を横に侍らせてりゃ羨望と嫉妬の目線を向けられるなって話さ……まぁこのままお見合いしててもしょうがないんで、とりあえずは日本人らしく名刺交換といきましょうかね」
余裕があると見るべきか、それとも心底から楽しんでいるだけのか。
姫桜の剛胆さに楠木は呆れ半分感心半分で嘆息してから、スーツの左襟に手を掛けてゆっくりと開いていく。
対岸の騎士達の一部が微かに動いたのが見えたが、楠木は気にせずゆったりとした動作で右手を内ポケットへと入れ一枚の名刺サイズのカードを取り出す。
取り出したカードはマヨイガで優菜達にみせた銀色のカードだ。
視覚情報、聴覚情報、色情報、電気情報、はたまた言霊や精神波。世界によって使われる伝達手段は千差万別。
だがこのカードは相手の存在へと直接語りかけることによって、どこの世界であろうとも身の証を証明する事が出来るので重宝していた。
カードを頭の横に掲げた楠木が軽く指を弾くと淡い光を放ちはじめ、楠木達が属する世界や組織名を騎士達へと伝えていく。
もっともカルネイドは比較的現世に近い近似世界。
理之転が有する翻訳機能によって直接会話も可能である。
それでもあえて楠木がカードを使ったのは、騎士達の注意を姫桜から自分へと向けるためだ。
騎士達の意識がこちらに移った瞬間を見計らい楠木はおもむろに話を切り出す。
「日本国異界特別管理区第三交差外路特殊失踪者捜索救助室専任救助官楠木勇也。他一柱と一名。事前にご連絡させて戴きましたが、召喚被害者の捜索救助の為に伺わさせていただきました。どなたか責任者の方にお取り次ぎをお願いいたします」
友好的だろうが敵対的だろうがまずは交渉。それが楠木の基本スタイルだ。
玖木姫桜という強力な鬼札を手に入れた今でもそれは変わらない。むしろ交渉の重要性はより増したというべきだろうか。
楠木の呼びかけに対岸の騎士達の一部が左右に分かれて道が開かれ一人の中年男性騎士が姿を現す。
中肉中背。茶色がかった髪。他の者達と同じ鎧姿だが兜を被っておらず素顔を晒していた。
これといった特徴のない西洋系と似たような顔立ちだが、現世の者とは明らかに違う点が一つあった。
男性の目は硬質な輝きを放つ宝石のような石で出来ていた。
『お待ちしておりました。クスノキユウヤ様。エニシ様、クキキオウ様。管理者である四月の聖人リドナーより貴方方の歓待役を仰せ付かった魔導騎士ファランです』
中年騎士は名を名乗ると軽く一礼する。
周囲の他の騎士達がみせるような強い警戒心は表面上はでていないが、姫桜を警戒しているのか名を呼んだ時に僅かに声の質が変わっていた。
『誠に申し訳ございませんが聖人リドナーはただいま別件の会議に参加しており席を外しております。食事と部屋をご用意させていただいておりますので、戻られるまでしばしお待ちいただけますでしょうか』
口調だけは丁寧だが有無を言わせぬ雰囲気がファランの言葉の端端にはあった。
「……判りました。ではお言葉に甘えて待たせていただきます」
僅かに考えてから楠木は相手の提案に乗ることにする。
楠木の回答にその肩に座る縁も、横の姫桜も口は挟まず異議も唱えない。
交渉事は楠木の役割であることもあるが、おそらく楠木と同じ判断だろう。
『ではこちらへ』
ファランが腰の本を手に取りぱらぱらと頁を捲ると夥しい文字があふれ出す。
出現した大量の文字が空中を飛び堀の上に集まると互いに結びついていったかと思うと、あっという間に一本の頑丈な石橋が出来上がる。
「んじゃあ……いきますか」
武装した騎士達。
歓待という名の強制的な誘い。
何らかの事情があるのは間違いないだろうなと考えながら楠木は出来上がったばかりの石橋へと迷うことなく一歩踏み出した。
魚らしき外観で茸のような形の足の生えた生物の炭火焼きグリルを丁寧にほぐし皮と骨と身により分ける。
ねじくれた螺旋を描く中骨。
石のように硬い瞳。
弾力がありすぎるゴムのような皮。
食欲を著しく減退しそうな部分を持参した箸でより分けると、身を僅かに摘んで添えつけのソースに絡めて、口へ運びゆっくりと咀嚼し味を確かめる。
僅かな苦みと繊維質の食感。そして春を感じさせる香り。
「……春菊のごま和えに近いな。姫さんも食べるか?」
「えぇ。いただきます。楠木様。こちらの薄紫の水飴のような食感のソースは牛肉のお味がいたしますがいかがですか? 少し食感が物足りませんが」
向かい側で別の料理を試していた姫桜はにこりと微笑むとソースの入っている器を持ち上げてみせる。
「お。じゃあさっきのゴボウみたいなのと組み合わせるか。あれ食感は分厚い肉で味はコンニャクだったからな。合いそうだ」
四人掛けのテーブルの上に収まらんばかりに料理が広がる。
皿数は多いが一皿一皿の量が少ないので、どうやら多くの味を楽しませる趣向のようだ。
ただ異界の素材を使った料理の為、見た目とは裏腹な味や食感の物ばかりだ。
そこで楠木と姫桜の二人は少しずつ吟味しながら、食べ合わせることで自分達の嗜好に合う料理へと変えていた。
いきなり食べると驚くような味もあるので、その食事はゆっくりとしたペースだ。
「全くお主らは酔狂じゃの。この状況下でわざわざ異界の料理を楽しむ事に気を取られおって……情報確認が進まぬではないか」
楽しげに料理を批評し交換し合う二人を見ながら縁はぼやく。
最初は食事をしながらこちらへ来る前に仕入れていた情報の確認をしていたはずだったが、いつの間にやら話の中心は出てきた料理へと傾倒していた。
「第一じゃ。異界におる間は飲み食いせんでも力を取り込める『理之転』を張っておるのじゃから無理して食べる必要はあるまいに」
本来は楠木達は食事を取る必要など無い。
結界『理之転』により楠木達は直接的な飲食や排泄行為などの必要もなく、周囲から力を取り入れ不要物を自然と外へと放出する事が出来、適切な睡眠さえ取っていれば十分である。
しかし『理之転』の機能の一つ、異界の物質の本質を見極め、現世の物質から似たような物を探し五感に刺激を与える力。
簡単に言えばは比較的に似た味に変換することが出来る機能を、最大限に活用して異界の食事を楽しんでいた。
「あら。この玖木姫桜。おもてなしとしてお出し頂いたお料理を残すなどの不作法は出来ませんわ」
姫桜はクスクスを笑いながら薄緑の蛍光色を放つスープをスプーンで掬い口に含む。
上質なごまの香りと朧豆腐のような食感が広がり、思わぬ美味に姫桜が満足な吐息を漏らす。
姫桜の仕草一つ一つには天然の色気が滲む。
「これはこれで面白いからな……縁様にはこいつはどうだ? かりんとうの食感で大福の味がするぞ。好きだろ? 和菓子」
楠木は肉らしき料理の端に添えられたスティック野菜の味を確かめると、箸で小さく切って縁にあわせた大きさして目の前に差し出す。
「ふん……所望する」
軽く小鼻を鳴らした縁だったが、箸の先から乱暴にもぎ取った野菜を口に含んだ途端押し黙った。
どうやらこの野菜をお気に召したらしいと、楠木はにやりと笑う。
縁との付き合いも随分長い。縁に捧げる供物として料理や酒を買いそろえておくのが普段からの日課となっているので、縁の好みならほぼ判る。
どうやら今回もその判断に間違いはなかったようだ。
「一々勝ち誇った顔をしおってからに…………妾に今の食物をすべて捧げよ。ありがたく受け取ってやろう」
「はいはい。身に余る光栄です」
縁の言葉を予想していた楠木は既に小皿に分けていた野菜スティックを縁の前に置くと、不機嫌そうな顔のままだが僅かに目元を弛めた縁がかぶりつきはじめる。
「さてと縁様にも怒られたんでお仕事の話と参りますか。姫さんどこまで話したっけ?」
「確か十二聖書に記載されていない薬草が見つかったという辺りだったかと」
「はいよ。んじゃ続きだ。十二聖書ってのはこの世界の全てを記載してあるはずだ。ところがだ一年ほど前に正体不明な薬草と傷薬が少量だが裏の市場に流れているのが摘発されたそうだ。異界から持ち込まれた物でなくてこの世界の物って反応付きでな。聖書に記載できるのは選ばれた十二人の聖人だけ。しかも新たな記載する際には大々的に公表されるのが慣例だが、今回見つかった薬草にはない」
姫桜へと視線を戻した楠木は説明の続きをはじめる。
カルネイド世界と現世では時間の流れは大幅に違う。
現世では一ヶ月の時間の流れが、カルネイドにおいては約一年に該当する。医師筑紫亮介が消え去った二月前はこの世界での二年前に該当する。
「問題視したこの世界の異世界機関は調査を開始。各聖書の記載を確認しようとしていたらしいだが、ところがそれからすぐに別の大事が起きて調査は中途半端になってる。それでも一応は発見された植物に該当する存在が他世界にあるかどうかを条約加盟世界に問いあわせはしていたらしい。そいつがビンゴって訳だ」
若い頃から海外の最貧国などへと赴任していた筑紫亮介は常に不足する薬や医療器具に苦労していたという。
その所為か日本に帰国後は無医村に赴任すると共に地元の老人や猟師から薬草の見分け方や栽培方法や伝来の薬の師事を受け、現代医療との融合を目指していたとの記録がある。 薬草の生育と薬の再現。一年でそこまでの準備は出来るだろうか?
期間は短すぎる気はするが、同じ異世界に薬草学を学んでいた医師がおり出所不明の現世の薬草。繋げて考えるのが自然だろう。
「ふふ……私たちの世界の植物や薬がいつの間に聖書には記載されていたんでしょうね?」
姫桜は楽しげに食事を続けながら疑問を口にする。
だがそれは楠木に対する問いかけではない。
別の者へと対するボールだ。
「さてな。そうする為には世界の理を変える事ができるほどの大物。聖人が関わっているはずだが薬の密売。しかも少量。そんなけちくさいことするのかって問題だわな。この大規模な城塞持ちのリドナーさんって聖人と同等なんだろうから、相当強い権力を持ってるみたいだからな」
ファランの先導で部屋を出た楠木達はすぐに螺旋階段をグルグルと上に向かって登る事になった。
その時に途中にあった出窓から楠木はちらりと外をみて、ここが巨大な城塞である事を確認していた。
そして登っていたのがその中でも極めて高く大きな中央塔である事も。
位置や上がった距離から見ても最初に降り立った場所。この世界における交差外路は塔の真下である地下にあったようだ。
これだけの規模と掛かる維持費を考えれば、違う世界であろうとも城の持ち主が強い権力を有することは自ずと判る。
「それと今回の件と関連しているかは判らないが、リドナーさんとやらが出ている会議の内容だ…………最近なこの世界にもいくつかある交差外路の、っとこの世界じゃポータルポイントって名前か。ほとんどのポータルポイントの力が著しく落ちているそうだ。今までなら直接渡れた世界に渡れなくなった。それどころか世界改変力の流入量までが落ち込んできたそうだ」
リドナーとすぐ面会できない理由をたずねた楠木に対してファランの返答がこれだった。
内容を聞いてみれば確かにこの理由ならそちらを優先するのもある程度なら納得は出来る。
それほどに交差外路の出力低下という問題は大きい。
「あらあら。それは大変ですね……世界の終末が近いと?」
世界を変える力『世界改変力』。これが尽きて終った世界は凍り付く。それは世界の終わり……死だ。
交差外路とは異界へ渡る道であると同時に、世界改変力が世界の外側から流れ込んでくるパワースポットでもある。
交差外路から流れ込んだ世界改変力が世界を変えていく力となり、世界は変化していく。
もし流入する量が落ちれば他世界への出入り口は狭まり道は細まり、熱を失った世界も徐々に死に近付いていく。
「所がそうでもないようだ……これから先は特三の情報だけどな。カルネイド世界全体で見た場合の総改変力は変わっていない。もっとも改変力の総量変動なんて観察を続けてないとそうそうは調べることが出来ないんだが、八菜さんが”たまたま”この世界を観測してたから判ったんだがよ…………ったく。相変わらずどこまでが冗談で、どこからが本当か良くわからねぇ人だよ」
楠木は苦笑を浮かべる。
星の数ほど世界が存在する無量大数世界から、近いうちに召喚事件が起こるカルネイド”だけ”を見ていたのか?
それとも無量大数世界の”全て”を観察していたのか?
普段が普段だけに畏怖を覚えることはないが、金瀬八菜と名乗る存在がどちらにしても人知を越えた存在である事に間違いはない。
「とりあえずはここの異世界機関もそれは掴んでいて、どこかに新たなポータルポイントが、それも周囲の力すら引き寄せちまうとびきり強力なのが出来てるんじゃないかって所らしい。そのだいたいの場所も予想はついている。ただ極秘情報だから俺たちに教えていいのかって揉めてるって所かね?」
事前に得た情報、ファランより与えられた情報から辿り着いた推測。
もっともこの程度のこと姫桜ならば自分が話さなくてもとっくに判っているだろう。そう思いつつも楠木は口にする。
今必要なことは手札をみせる事。全てをさらけ出すわけではないが、それなりの信頼を得られる所までカードを開いていくことだ。
「ふん。回りくどいぞ楠木。妾の感じる縁は、大きな世界改変力を感じる方向と同位にある。とっとと向かえばいいのじゃ。あの姉妹に父親をすぐに取り返してやると大見得を切っておったくせにもたもたしおって」
「いや俺もそうしたい所ですけど…………さすがにこの状況で無理矢理抜け出したら纏まる話も纏まりませんよ」
苛立ち混じりの縁に対して楠木は室内を見渡し肩を竦める。
部屋の隅には魔導騎士が幾人も控えていた。
給仕役という名目だが、それにしては警戒心が極めて強く監視役である事は間違いない。
塔の外にも彼等と同位の騎士が幾人も待機し警戒していることだろう。
幾つもの世界を渡り歩き荒らし回る龍とすら臆すことなく闘うはずの精鋭達。
だが今の彼等はどこかおびえの混じった視線で一点をただ見ている。
視線の先にいるのは楠木ではない。彼等の視線の先にはがにこりと微笑み食事を楽しむ姫桜の姿があった。
姫桜が僅かに動くだけでびくりと震え、何度も本へと手を伸ばしかけては戻す様は滑稽を通り越して哀れになってくる。
「姫さんの悪名高さは知ってたんだが、まさかここまでとは。ここらの異世界にも響いてんのな。さすが最凶の抑止力。有無もいわせず拘束されることになるとは思わなかった。さすがに」
がじがじと頭をかいた楠木は喉を潤そうと杯をとったが、それが醤油味だったことを思いだしそのままテーブルに戻す。
姫桜とは以前にも臨時で組んだ事があるが、その時には所属が違うので現地集合現地解散がほとんどであった為、楠木もいきなりこのような対応を取られるとは夢にも思っていなかったのが正直なところだ。
「戒めの玖木。別名殲滅の九鬼。違法召喚した輩を一族郎党、場合によっては国諸共まとめて叩き潰してきた玖木の中でも群を抜いて悪辣非道な娘じゃからの……気持ちは判らなくはないが。おい楠木。此奴を放置して妾達だけ先行するか?」
花林糖の食感で大福味の野菜をかりかりと囓りながら、縁が深い溜息を吐く。
長い年月を生きる縁は代々の玖木の当主達とも幾人も面識があり関わったこともあるそうだが、その縁をしても姫桜は別格扱いするほどに、数多の世界から恐れられている。
「できませんっての……無駄に死にたくないから俺も」
姫桜の護衛なしで違法召喚者に面会するなど、自他共に認める弱者である楠木にとっては自殺行為も良いところ。
まずは姫桜が自由に動ける環境を作らなければしょうがない。
「模倣者が出ないように叩き潰してきただけですのに……何か後ろめたい所でもあるのでしょうか? いつもならここまで大事になる事はありませんのに、少し話し合って終わりなんですけどね」
元凶の姫桜はこの対応をさほど気にもせずにこりと微笑んでいる。
その外見だけ見れば深窓の令嬢そのものだが、中身は悪鬼羅刹といっても生温いほどに苛烈にして凶悪と知る楠木からすれば、この微笑み自体も一種の罠だ。
「姫さん……あんたはやっぱ大物だよ」
「あら、ありがとうございます。でも楠木様。お急ぎのようでしたらこの程度なら城塞事破壊するのも容易いですよ。楠木様がお望みなら下僕の私はいつでもやらさせていただきます」
姫桜は楠木のぼやきに礼を言ってから、身を乗り出して楠木に顔を寄せると物騒なことを囁いた。
おそらく冗談だろうがここで楠木が頷いたら本当にやりかねないのが姫桜だ。
「無しだっての。後上司と部下」
溜息を吐いた楠木は姫桜の額を指で少し強く弾く。
所謂デコピンだが、楠木の行動に部屋の隅にいた騎士達が身じろぎざわめく。
命知らずやら、何者だという途切れ途切れの言葉が聞こえてくるが、姫桜に対する接し方を見られる度に言われ慣れていた反応なので特に気にも掛けない。
第一肝心の姫桜がこういうやり取りを楽しんでおり、楠木自身も軽口のやり取りは嫌いではないのだから、他人にどうこう言われる筋合いはない。
「楠木様のお手伝いをしたいだけですのに、楠木様にとってやはり私は身体だけの女なのですね」
「はいはい姫さんのことは頼りにしてますよ。訳ありだとは思うけど、そろそろその辺も含めて説明が欲しいところ何だけど……っと動いたか」
額を押さえて楽しげに下手な泣き真似をし始めた姫桜の頭をおざなりに撫でていた楠木は、扉が開く音を聞き入り口側へと目をむける。
部屋へと入ってきた歓待役の中年騎士ファランが微かに青ざめた顔を浮かべながら一礼する。
『大変遅くなり失礼いたしました。聖人リドナーが皆様方のお話を伺いたいとのことです。おこしいただけますか?』
「えぇ。すぐにでも」
自分のみせたカードの効果か。それとも姫桜の直接的すぎる脅しの成果か。
どちらにしろ事態が動いた事に変わりはなく望む所だ。
楠木は食事を中断するとすぐに椅子から立ち上がった。