奪還編 奪われた死②
最寄り駅のロータリーまで送ってくれた警官達に礼を述べた楠木は姫桜を伴い、夕方の帰宅ラッシュで込み合う改札へと続く階段の端を上がっていく。
群衆より頭1つ高く威圧感を伴う巨漢の楠木と、その後ろに続く絶世の和装美女の姫桜。
それぞれがあまりに目立ち、さらに前を行く楠木は、姫桜へと一切の気を向けず硬い顔を浮かべる。その一方で、後ろに続く姫桜の方は楠木の背を見つめ、楽しげでありながら微かに情欲の篭もった微笑を浮かべ続く。
どこぞの令嬢とボディーガード。もしくは身分違いの愛を育む恋人達。
そのどちらとも取れない奇妙な組み合わせに、この二人がどのような関係性なのかと注目を集める羽目になっていた。
自分達へと向けられる無遠慮な好奇の視線。
それに一番苛立ちを覚えていたのは、ほかならぬ楠木の右肩を己の定席とし、一献傾けていた縁だった。
古くそして強き神の一柱である縁は、本神が望まぬ限り常人では見ることはおろか、気配を察することも出来ないが、こうも無遠慮な、そして好奇の視線を楠木に飛ばされると、見えていないと判っていても、どうにも落ち着きが悪い。
せっかくの今年の米で作られたばかり、しかも火入れさえされていない若々しい生酒の味わいもこれでは楽しみ半減だ。
常ならすぐに気づくであろう自らの神官にして契約者である楠木が周囲に気を向けず、さらに普段は忌々しくなるほどに軽い口も言葉も少ない様にも、その心情を察しは出来るが、それ故に逆に苛立ちを覚えてしまう。
自らの歴代の契約者にして継承者達の中では、断トツで弱いと縁自らも認めざる得ない楠木。
常人としてはともかくとして、異能者達と比べれば力は比べるほども無く弱く、かといって術者としての才能も無い。
だがそんな楠木を縁自らが選んだのは、偏にその心故だ。
自らも幼馴染みを拐われた召喚被害者であり、それ故に言われ無き誹謗中傷を受け、常道を外れ、悲しみ、怨みなど様々な葛藤を抱えながらも、常に希望は心の芯に置き続け、決して折れないからだ。
拐われてしまった者を絶対に取り戻してみせる。
その確固たる心が、怨みだけに決して染まらない希望を持つ心が、異界を憎み、怪異を討ち果たすことのみに染まりきってきた代々の継承者が使った怪異をこの世から駆逐する『縁切り』のみならず、初代だけが可能とした失われた縁を再度結ぶ『縁紡ぎ』を可能とさせる。
斬り。紡ぐ。それは縁にとって楠木勇也が、初代より数百年を経てようやく現れた自分の神官にして契約者である何よりもの証。
他者に言われれば、未熟な木偶の坊だと頑なに否定し、認めはしないが、縁にとって楠木はようやく、そう、ようやく待ち望んでいた真の意味での自らの力を託せる者にして、愛しき神官。
その楠木が、悩み、葛藤を覚える理由はその心身と共にあり続ける縁には手に取るように判る。
今回の召喚被害者は死の直前に異界へと攫われ、終わりなき輪の中に捕らわれた深山司と、その妻にして愛しき者の死の日を繰り返させられている深山千尋。
だから今回の奪還は常と違う。深山司を取り返すということは、その死を取り返すこと。
生かすのではない。
夫の死を確定させ、妻を助けるという変則的な奪還となる。
これがもし確定された死でなく、深山司を救うという行為であれば、楠木は何時もの軽薄な口調で、それでも気負わず確実に成し遂げるだろう。
だが深山司の死は既に十数年前に確定した事実。死者は蘇らない。蘇らせてはいけない。
それはこの世の絶対的な法則にして理。
その理を破れば、神ですら砕け散り、無限大数世界に四散する憂き目に遭う。
それはかつて母神伊邪那美命を黄泉より呼び戻した、縁自らが証明している。
今こうやって縁が存在していることは、それこそ奇跡の産物でしかない。
楠木勇也は奪還者である。この世の理を乱し、異界へと連れ去られた者達を取り戻す者。それこそが楠木の芯にして心たる真なる力。
故に楠木勇也は、理を乱し破る者ではない。だから救える者だけを救い、死者の思いは救う事は出来ても、生き返らせることは出来ない。
何より縁が許さず、やらせない。やらせるはずがない。自らの愛しき神官を霧散消散させる真似など。
そして楠木も敬愛する縁が下す本気の勅命であれば決して破らず従う。
だからこそ今回、楠木が行えることは1つしか無い。死を確定させる行為。死という現象を取り戻すしか出来ない。
間接的にではあるが自らが誰かを殺害するという行為でも、行う。行わざる得ない。
その行為の重さ、そして意味を知る故に、言葉少なくなり、周りの事さえ視界には入らないほど気負っているのだ。
(この木偶の坊は……ひと言、妾に尋ねんか)
楠木は救えるかと聞けばいいと縁は憤りながら、その小さな身体にしては大きな杯の酒を苛立ち交じりに一気にあおる。
尋ねてくれば説教をしてやれる。理を乱すな愚か者と。やるでないと勅命を下してやれる。
縁の命によって見捨てなければならないという免罪符を与え、人を殺すという罪へ、神の許しを与えてやれるというのに。
だが楠木はそれに頼らない。無論その道に気づいている。自らが信奉する神にすがり、罪に対する心の拠り所を求めるという逃げ場所を。
だが故に口にしない。縁が自分に許しを与える代わりに、罪を背負うのを良しとしない。
文字通り自らが担ぐ御輿が血に汚れるのを、心優しい神の心に僅かでも重荷を思わせる事を嫌う故。
自分を救ってくれた、認めてくれた縁に対する、恩や敬愛故に頼ろうとしない。
そんな楠木の葛藤が縁には判る、判ってしまう。
だから逆に縁からも声がかけられない。自らの愛しい神官がここまで想ってくれているのだ。その心を無碍にする無粋など縁に出来るはずも無い。
ただそれでも救ってやりたいと、どうしても一声かけてやりたいとどうしても想ってしまう。
それが楠木が望まないと判っていながらも。
「辛気くさい顔を浮かべおって酒がまずくなる。玖木の娘。肩を貸せ」
葛藤に耐えかねた縁は、おもむろに立ち上がると、楠木の肩を軽く蹴って宙に浮かぶと、後ろに付いていた姫桜の肩へと飛び移る。
楠木は振り返らず、軽く肩をすくめるだけでそれを見送る。
縁の言葉の裏にある意味。優しさには当然気づいているのだろう。だからこそ何も言わずに。
「くすくす……縁様も楠木様も相変わらずお優しいですね」
それなりの付き合いになる姫桜は一柱と一人の葛藤が判っているのか、縁だけに聞こえる小声で囁く。
「ふん。あれと一緒にするな。未熟者が思い悩むなど千年早い。妾に頼れば良い。もしくは玖木の娘。お主にだ。今更、人の1人や2人の命で思い悩む事など無いお主に甘えれば良かろうに」
「そうしてくだされば私としましても最上の喜びなのですが、それが出来ぬから楠木様なのでしょう。ただの人の身で分不相応な異界の理に抗う。極上の美酒よりもさらに酩酊させられる殿方の香りに酔ってしまいそうです」
僅かに頬を赤く染めた姫桜は獲物を嬲る蛇のように細めて、楠木の背に熱い視線を送る。
真性の加虐主義者である姫桜にとって、決して折れぬ楠木は飲み尽くせぬ美酒。どれだけ傷つき苦しみ絶望の淵にあろうとも、腐り濁ることの無い人という芯がそこにある。
人の身でありながら、鬼王とも呼ばれる姫桜にとって、そんな人でしか無い、人であり続ける楠木の血、肉、そして性は、かろうじて人の理の中に姫桜を止めおく妙薬にして神酒。
だがらときに甘え、ときにからかい、ときに嬲り、ときに傷口を抉る。楠木の心を揺さぶり、人としての強さをより際立たせ、整える。
他者には理解できない。理解しようが無いが、それこそは姫桜にとって最上の愛情表現であり、楠木を戯れ交じりながらも本心から主と呼び、契約の一種とはいえ褥を共にする理由にほかならない。
「痴れ者が……玖木の娘。此度向かう先は、死が無き世界。終わりの理が存在しないという世迷い言が、歪んだ理が跳梁跋扈する『楽園』を詐称する異界ぞ。お主ほどの気狂いなら努々無かろうが、下らぬ妄言に捕らわれるでないぞ」
自らの神官が結んだ心なる芯にして真なる縁が、力においては現世最強の一角なれど、よりによってもこの性的倒錯娘である玖木の頭領である事に、今更ながらの不満を覚えながらも、縁は、気負いすぎな楠木の背を任せると言葉には出さず伝える。
向かうべき異界は既に判明している。死という概念が存在しない、常世が続く異界。外から見れば歪でしかない異界。『楽園』と称する異世界だと。
それは夢。限られた生しか生きられない者達にとっての理想。そこに死すべき定めの者は召喚された。故に今も生きている。既に死んだはずであるのに。
「畏まりました。クスクス、それにしましても死の無き世界ですが。それでは私の存在はどうなってしまうのでしょうか?」
存在そのものが破滅や死の化身ともいわれる姫桜は、無遠慮なしかしその存在さえ気にもとめない有象無象の視線を一斉に集め魅了する微笑をこぼしながら、前を行く無言の楠木に続き、ICカードを当て改札をくぐり抜ける。
次の瞬間、駅の構内のあちらこちらから寄せられていた好奇の視線は、その対象達が急に存在感を失ったことにさえ気づかずいつの間にやら霧散していた。