帰還編 記憶無き奪還①
校外の静かな山裾に木之崎邸はあった。
今でこそ総合建築資材メーカーとして、業界トップクラスである木之崎総合建材もその元を正せば、一介の材木商がその礎。
初心忘れるべからずという心意気と、木材を用いた伝統建築技能を後世に伝えるためにと、今では珍しくなった木造の門構えから続く平屋の日本家屋には、良質の木材を惜しみなく使い、古き様式による厳かで落ち着いた佇まいを醸し出していた。
居住者も主である老夫婦と数人の住み込みの使用人のみ。
平素ならば静かであるが物寂しい空気が邸宅を包み込んでいたが、数ヶ月前に新たなる住民を迎えてからは、慌ただしくも賑やかな日々が続いていた。
そしてそれは常人には見えず、感じ取れない者達も同様であった。
木之崎邸の中庭に面した日当たりのよい部屋が、新しくこの屋敷の住人となった彼女の部屋だ。
部屋の主はベビーベッドの中で、夢うつつ満足げにすやすやと寝息を立てていた。
そんな赤ん坊のベビーベッドの柵をよじ登って、中を覗き込む者が一柱。
昨今では見かけなくなった結い髪に振り袖姿の身長10センチほどの日本人形のような姿を持つのは、木之崎邸の守神の一柱であり、大黒柱を宿りとする神であるノハヤだ。
「はーい失礼しますね……あらまだおねむでしたか」
赤ん坊を見てノハヤは思わず目尻を緩め、赤ん坊の周囲に漂う強い神気を全身に浴びて、その身を喜びに震わす。
家守とは、家人に降りかかる邪気を払い、加護を与える役目……しかし、今のノハヤは酒に酔ったかのような酩酊感に躍らされ、正気を失っていた。
「あーもう可愛いなこの子はほんともう。ほっぺプニプニだし、髪の毛キラキラしてるし……よしここはあたしの神魄と引き替えに天下無敵な加護の力を」
「よし止めろこの阿保」
「あうっ!」
己の存在と引き替えに赤ん坊に力を授けようと暴走しだしたノハヤの頭に白木拵えの鞘が落とされる。
正気を失っていたノハヤを止めたのは、ノハヤの同僚であり木之崎邸の中庭に植えられた梅の木を住処とするササラメだ。
「また悪酔いしやがって。家守の要であるお前がいなくなって、あとをどうするつもりだ。職務放棄なんぞしたら説教どころじゃすまないぞ。お嬢の警護があの方からの頼まれごとで、加護を与える役目じゃ無いだろうが」
うだつの上がらない中年浪人然とした姿のササラメは無精髭をなでながら、ノハヤに苦言を呈する。
木之崎邸を守護する守神達は数多といるが、屋敷内は大黒柱であるヒノキの精であるノハヤ。
屋敷外は邪気を払い魔を退ける梅を宿りとするササラメ。
この二柱が中心となり、家と家人達の守護を行っているのに、その片輪の要であるノハヤが消え失せてしまったら、役目に支障が出るのは火を見るより明らかだ。
「つぅぅ……判ってますよぉ。叩かなくても良いじゃないですか。でも仕方ないじゃ無いですか。ササラメさんの宿りは外だから良いですけど、一日中あの方の神気に当てられる私の身にもなってくださいよ。酔うなって方が酷ですよ」
たんこぶをさすりながらノハヤが恨めしげな顔を浮かべる。
その力強く清浄なる神気は術を施した残り香とはいえ、若輩なノハヤ達は引かれ己を全て捧げたくなるほどの心地よさ。
だがいくら理由があろうとも、中途半端な仕事をして良い理由にはならない。
「だから前みたいに、たまには中庭に出てこいつってんだろうが。それをなんやかんや言いつつ引きこもりやがって。手本であるべきお前がそんなんだから、こっちの連中もなんやかんやで理由を付けて入り浸ってんだぞ」
最近では中庭を護るべき同僚達までも、この神気に引かれ、宿りとする木や岩から離れ、赤ん坊の周りに集い宴会じみた雑談に興じる有様だ。
「だってあの方の神気に触れていると、お褒めのお言葉を頂いた時の幸福感まで蘇るんですよ。あたしなんてあのお言葉だけで神格の1つや2つ余裕で上がりますよ」
「それで浮かれて守護が疎かになったら本末転倒だろうが」
木之崎邸が建築されてからはもう二十年ほど経つので、ノハヤも昨日今日に守護を始めたばかりの新米では無いが、そのノハヤが思わず自分の役割を忘れてしまう気持ちは、ササラメにも判らなくも無い。
この赤ん坊が木之崎邸を訪れたその日にふらりと姿を現した一柱の言葉は、普段は冷静なササラメさえも多幸感を覚えたほどだ。
何せ赤ん坊から漂う神気の主は、この国の始祖神始母神直系であり、名だたる神の母でもある始剣神『天之尾羽張』
『妾の神気で断っておるから異界よりの手が再び及ぶことは無い。お前達はこの屋敷の心地よさを保て。安心して後を任せられる』
ササラメ達から見れば文字通り天上神はその名を呼ぶことさえ恐れ多いのに、まさか自ら姿を見せさらには屋敷を護っていた守神達の仕事を褒めたうえで、後を任せるとまで宣っていった。
彼ら末端神からすれば最上級の喜びと誉れでもあり、それがノハヤの己を捧げようという暴走振りの根源にもなっていた。
もっとも天之尾羽張こと縁自身は、その由来は最古に近くとも未だ現役の最前線に席を置く身であり、立場的にはノハヤ達とさほど変わらないと思っている。
生まれ故に敬意を持たれるのは良いが、仕事上たびたび関わりのある末神達の反応は度が過ぎる傾向があるので、もう少し気楽に接して欲しいというのが実のところだったりする。
気安すぎる神に対して、その神官である楠木の、
『創業者一族の大物女社長が下請け会社の飲み会に来るようなもんだから、遠慮してください』
という忠告が無ければ、ノハヤ達の労をねぎらうついでに、木之崎邸のゆったりとした落ち着いた雰囲気の中で一献傾けに来るつもりだったと知れば、ノハヤなど緊張のあまり昇天しかねなかっただろう。
「わ、判ってますよ。お仕事はしっかりやります。私はこの子はもちろん、この家の家人全員が好きなんですから」
屋敷の主である木之崎は、ノハヤの元であるヒノキやその兄妹木達を丹精込めて育てて最高の仕事で加工を施してくれた。
こうして大黒柱になったあともその夫人である美也子が、毎日その身を磨き埃1つ無い姿を保ち続けてくれる。
他の手伝いやこの家の建築に関わった大工達も、全員が敬意と誠意を持った仕事を常に心がけ、最高の住宅を建て、それを護り続けようという心意気を感じさせてくれる。
ササラメにしても、宿る梅は常に病気に気をつけ枝振りに一つ一つまで拘って手入れされている。
他家の守神達が羨むほどの扱いを受けているというのは、木之崎邸に宿る守神達全員が抱く気持ちだ。
だからこそ主である木之崎の苦しみ、婦人である美也子の悲しみ。
まだ見ぬ我が子を思う2人の気持ちが、ノハヤ達にとっては長年の重しになっていた。
しかしこの赤ん坊が帰ったことで、その重みは取り除かれ、渋面が多かった木之崎ですらたまに笑顔を覗かせるようになった。
彼らにはノハヤ達の存在は見えず声も聞こえない。
それでも自分達を守護する何かを感じてくれているのだろう。
だから感謝し大切に扱う。
その祈りが守神達に活力を与え、さらに家を栄えさせる。
過剰な儀式も贄もいらない。ただ敬い感謝する。
もっとも原初的な神と人の付き合いをこの屋敷の住人達が自然と行えていた。
そしてそれはこの子も変わらない。
「や? あっああぅぁ」
赤ん坊がぱちりと目を覚ますと、宙へとその小さな手を伸ばす。
その手の先にはノハヤの姿がある。
長年異界へと身を置いた影響なのか、それともまだ残る神気の影響か。
どうやらこの赤ん坊には、ノハヤ達の姿が見えているようで、こうして手を伸ばしたり、無邪気な笑いを見せてくれている。
「あぉ! こ、ここは間を取ってあたしがこの子の守護神に」
そのあどけない仕草にノハヤがまた理性を失い、同じ守神といえどその対象が家と人ではまた違うのに、自らの由来を忘れた無茶苦茶を言い出しはじめた。
「だから酔うな。根源が違うのにどうする気だ。ただでさえこの子の産土神や守護神に誰がなるか揉めてるんだから、余計な口出しするなよ」
さらにこの赤ん坊の場合は、その特殊すぎる事例故に生まれた土地も何とも曖昧で、木之崎達の生まれ故郷を護っていた土地神と木之崎邸の土地神が立候補し、さらには初参りだというのに愛娘を案じた父親が無名、有名関係なく社を梯子した所為で、どの社の神が守護を勤めるか近隣の暇な神々達のもっぱらな話題になっていた。
「はいはい。どうしました? ご飯ですか」
赤ん坊の声を聞きつけたのだろう、隣の部屋との襖が開き編み棒を手に老婦人が姿を現す。
落ち着いたその声の端々には喜びと嬉しさがちりばめられている。
老婦人に限らず、この赤ん坊が声を発すれば誰かしらがすぐに姿を表すのは、神に限らず、人達の間でもこの子が今はこの屋敷の中心にいるからだろう。
「あぅああーぅ」
母親である老婦人の声に赤ん坊が嬉しそうに声をあげて反応をしめす。
祖母と孫ほどに年は離れてしまったが、この母子の間にはしっかりとした絆が築かれているのだろう。
「この親子に祝福を」
ササラメは部屋に流れ込んできた風の中に、己の化身である梅の香りをそっと混ぜ合わせてその平和が何時までも続くようにと祈りを捧げていた。
「お嬢様はお元気のようですな」
異界へと浚われた期間が長ければ長いほど現世へと帰還した後も、その心身に影響が残る事は、確かなデータとして証明されている。
特に木之崎達の娘に至っては生まれる前に召還され、現世から見れば数十年単位の時間を異界で過ごしていた。
あちらの世界との結びつきが強くなりすぎて、少し前であればとても奪還など出来る状態では無かったはずだが、今は当代一の奪還者とも言うべき切り札がこの世界には存在している。
楠木を信じ、奪還を任せたのは間違いでは無かった。
別室から聞こえてきた赤ん坊の笑い声に、特一こと異事庁情報調査局局長畑中洋介は茶を啜りながら安堵の息を吐いた。
「あぁ、健やかに育ってくれておる。昔からニコニコと笑っておった家内はさらに笑うようになった……改めて礼を言う。畑中。よく娘を取り戻してくれた」
対面に掛けていた木之崎は憑き物が落ちたように穏やかな顔でゆったりと頭を下げて謝辞を伝える。
娘を浚われて以来、高圧的で張り詰めた空気を常に見せていた木之崎伸治朗の姿はそこには無く、ただ1人の平凡な家族思いな男の姿があった。
既に娘を連れ帰ってから数ヶ月。それでもこうやって会うたびに礼を言い頭を下げてくる様は、木之崎がどれだけ娘が戻ったことを喜び感謝しているかを強く伝えてきていた。
「いえ召還者を助け出すことが我々の仕事ですからどうぞお気になさらずに。実際に動いた楠木君も同じ事を言うでしょうね。まぁ彼の場合はもっと軽い口調になるでしょうが」
「あの若造……いや青年には、嫌な役目を押しつけてしまったな。未だに非難の声が上がっているようだな」
手元のレポートに目を落とした木之崎は、そこに書かれた内容に理由があるとは言えあまり表立って庇ってやれない申し訳なさを覚える。
今日畑中が木之崎邸を訪れたのは、後の事後処理に関する報告や、仲裁依頼がその主な目的だ。
あらかじめ畑中から聞いていたとはいえ、業界からすれば相当の横紙破りをしたという特三捜救、そして楠木に対する非難は、木之崎が予想していたよりも強い物だった。
「楠木君は今回も相当な無茶をしていましたからね。現地の縁を広範囲で改変し、娘さんがあちらにいた事実さえも全て消してしまいました。過干渉だという声はあちら側からだけで無く、こちら側からも上がっていますが、誰が消えたのかさえも判らないのでは、抗議以上はなにも出来ないでしょうな」
木之崎の娘があちらの世界に召喚され生まれ歩んだ日々は数十年に及ぶ……はずだ。
だがその日々は楠木が行った縁断ちにより全ての繋がりである『縁』が切れ、無かったことになってしまった。
木之崎の娘が、あちら側で誰の子として生まれ、どう過ごしてきたのか、それは誰の記憶にも無い。
事実を調べ特定したはずの異事庁のデータファイルにも、娘が召還された世界の情報はあっても、人物の特定が出来るような記録は残っておらず、霧散していた。
それはあちらの世界フィアットでも変わらない。
楠木がどれだけの広範囲の縁を切り、紡いだのかは畑中にも判らず、その畑中自身も娘が転成した存在の情報を確認した記憶は合っても、その詳細なデータを思い返す事が出来ない。
消え失せてしまった事実を覚えているのは、術者である楠木本人と縁くらいだろう。
「……娘は浚われた先でどういう人生を過ごしていたのだろうな」
生後数ヶ月の姿をした娘が、その何倍もの年月を過ごしていた。
常識人である木之崎にはどうしても実感がもてない事実ではあるが、どうしてもそれが気になっていた。
だがそれを聞き出す勇気は木之崎には娘が戻ってすぐには無かった。
その答えを聞いてもし後悔してしまったらまた娘がいなくなるのではという恐怖で聞く事が出来ずにいた。
娘が戻り数ヶ月が経ち、ようやく落ち着いて聞けるようになった木之崎の問いかけに、
「熟練の奪還者であるはずの楠木君は今回は相当に消耗していました。縁様の宿りである竹刀も砕け散るほど……召還者が戻りたいと思えば思うほど奪還は容易になります……幸せだったのでしょう」
「そうか」
不幸な目に遭っていなくてよかったと思う反面、幸せであったならばその事実が無かった事になったと聞き、木之崎の心中には複雑な思いが駆け巡る。
娘が戻ったことは自分達にとって最上の、代わりになる物などこの世には無いほどの喜びである事は間違いない。
しかし。
しかしだ。
もし、
もし全てのしがらみを捨てて娘の幸せを思えば、自分達が…………
木之崎の表情を見た畑中が息を小さく吐き出し、
「彼は己が『正義の味方』だと吹聴します。その正義に従い彼は行動します。彼の正義とは『召還者を連れ戻すこと』。もし会長が奪還を望んでいなかったとしても、彼は己の判断で動き娘さんを連れ帰って来ていたでしょう。それは誰にも止められません……楠木君は奪還の為ならば何でもする男です」
「畑中。あの若者は儂たちと同じ痛みを抱えていると言ったな……そういう事か」
娘を助けるためにと、死にものぐるいで会社を巨大化させ、異事庁を初めとする異世界機関への出資者となった木之崎には、その壮絶な覚悟と明確な意志の元となったなじみ深い感情の正体がわかった。
飢餓にも似た消失感がその礎なのだと。
「はい」
多くを語る必要などないとばかりに畑中は1つだけ頷いた。
楠木もまた誰かを求め、そしてその願いは未だ果たされていないのだと、短いやり取りの中でも木之崎には伝わってきた。
「…………娘の次は同郷の者達をと思っていたがそれは酷な話か」
生まれ故郷から消えてしまったのは娘だけでは無い。
数十人以上の古なじみや知人達が未だに消息を絶ったままで、娘を助けられたのが奇跡のような物だと木之崎は認識していた。
己の助け出したい者を放置して自分の知古を救え。
娘を助け出して貰った上にそんな厚かましい願いなど、
「それならばご心配なく。彼は動き始めています。既に幾人かは所在を判明させています」
だが木之崎の杞憂を吹き飛ばすように畑中は笑い、あの村から消えた者達を既に発見していたという事実を伝えてきた。
「なっ!? 待て聞いていないぞ! その話は!?」
木之崎の顔が驚愕で染まる。
娘の所在が判るまで数十年。それなのにたった数ヶ月で何故一気にそれだけの話が進んだのか理解できないと。
「会長が聞けばお怒りになるからと、ある程度の成果が出るまで彼から口止めされていましたので」
冗談めかした言い方ながらも畑中の目は笑っていない。
聞けば木之崎が激怒すると知りながらも、伝えようとする強い意志を感じさせる声だ。
「……どんな手を使った」
「あの事件が起こった日あの場所を訪れていた異神。お嬢様を浚った異神レイディアットと取引をして、あの日に繋がってしまった世界などの情報を引き出したそうです」
「ぐっ!」
畑中の言葉に、憤怒しそうになり頭に血でも昇ったのか木之崎の視界が一瞬真っ赤に染まる。
全ての元凶。自分達を数十年苦しめた相手。
自らの手でくびり殺したいと恨むほどの相手。
子を殺してしまう母親から子を浚うという異なる神の一柱。
レイディアット。
その名は木之崎にとって禁句だ。
「ぐっっ……っ……………………助け……助け出せるのだな?」
だが全身を焼き尽くすかのようなその怒りを、木之崎は茶碗に手を伸ばして流し込んだ茶と共に無理矢理に飲み込む。
奪還者たる楠木の心情を聞いていたからこそ、何とか割り切れたのだろう。
「はい。今度は複雑な事情も絡まないので、汚名返上と異事庁の救助チームが中心となり動いております。数年はかかるかも知れませんがなるべく早くによいご報告をさせていただけるかと」
「まったく…………なんて若者だ。召還者を取り戻す為ならば何でもするというのは嘘でも誇張でも無いのだな」
「はい。だから楠木君は当代一の奪還者であり、ある意味で簒奪者だと呼ばれています」
そこに浚われた者がいるなら楠木はすぐに動く。
しがらみも、躊躇も、憐憫も、全ての感情を踏みにじり汚すことになっても。
だからこそ楠木は慕われ、嫌われ、褒められ、蔑まれるのだと。
帰還編は後1話。もし長くなったら2話に分けて書いてからこのエピソード。締めます。
ネタバレやらあるので、その後に2年半も放置していた理由を書いた後書きという名の言い訳+敗北宣言しておきます。
放置作品なのにコメントを頂けた事が本当にありがたく、またお待たせして申し訳ないという気持ちです。
ありがとうございます。




