依頼編 記憶無き奪還②
声が伝える。
憎悪、悲しみ、怒りを。
平穏を奪われ、心休まる日々を無くし、無念と後悔を過ごしてきた者だけが綴ってきた絶望を。
老人が過ごしてきたであろう半生の全てが籠もったそれは言葉の意味がわからず事情を全く知らない者にも、その絶望の片鱗を刻み込み影響を与えるであろうほどに強く深く濃い。
ましてや共鳴しうる慟哭が心の奥底に蠢く楠木には、老人の声は刺激が強すぎた。
幾重にも貼り付け染め上げたイイ性格をした分厚い面の皮を薄紙のようにあっさりと貫かれ、楠木の顔がこわばる。
この怒りに共感するのは簡単。
老人の境遇と己の過去を重ね合わせればいい。
それだけで眼に憎悪が渦巻く老人とは、何の問題も無くわかり合える。
だがそれでは駄目だ。
召還主への憎しみのままに力をふるうのは復讐者の道理。
己の進む先は召還者を取り戻す奪還者の道理。
心中に渦巻いた毒をはき出すように呼気をゆっくりとはき出しながら、普段より軽く心持ち寂しい右肩へと楠木は無意識に左手を伸ばし触れていた。
「あなた駄目ですよ。畑中君や若いお兄さんが困っているじゃないですか。本当にせっかちなんですから」
いつもの己を取り戻そうとしている楠木の耳に、老人をやんわりとたしなめる老婆の穏やかな春の日差しのようなのんびりした声が軽やかに響いた。
楠木に対してにこりと微笑んでからヘリの後部座席に座っていた老婆は緩慢な動作で立ち上がると、ヘリと地面の段差に難儀そうにしながら降りようとする。
「奥方。失礼します」
搭乗口の横に控えていた畑中が一言断りを入れてから腕を差し出した。
「お忙しいのに私たちのことを最優先させてしまっているうえに、うちの人が失礼なことを言って、本当にごめんなさいね畑中君。どんな結果になっても、あなたや理恵ちゃん。もちろんお兄さんを責めないように、この人には言っておきますから」
「今回の事例は私共が至らぬ所為ですので会長のお怒りもごもっともです。ささどうぞ。お足元にお気をつけください」
老婆の謝罪に恐縮した様子を見せながら畑中は老婆を支えてヘリから降ろす。
先ほどからの老人達と畑中の会話やその様子から察するに、この三人は仕事上だけで無くそれなりの顔見知りであるようだ。
老婆を下ろしてから畑中が振り返った。
「では楠木君。遅れてしまったがお二人を紹介しよう。こちらは木之崎総合建材の会長を務められている木之崎伸治朗会長」
木之崎総合建材の名には楠木も聞き覚えがある。木之崎伸治朗が一代で築き上げた建築資材業界の大手総合メーカーで、特に木材資材の品質や品揃えは国内トップと言われている。
畑中や楠木達。異界関係者の立場からみても、木之崎建材は神社、仏閣などの建立に用いられる霊験あらたかにして力がこもり、神仏達が好む霊木を扱う貴重なメーカー。
古来より住まう彼らの力添えをもって日本は異界へとの対抗手段としている諸事情もあり、そのモチベーションを左右する資材メーカー会長の影響力は無視できる物ではない。
「木之崎だ」
自己紹介の時間すらも惜しいと言った雰囲気の木之崎が不機嫌さを隠そうともしない声で告げる。
木ノ崎はいらいらとした様子でコンクリートの地面をかつかつと杖でならしながら、朽ちかけた駅舎や自然へと帰りかけたロータリーなどにちらちらと視線を走らせている。
何かを見るたびに眉根がつり上がる角度がきつくなっているので、今も怒りが蓄積されているのが手に取るように判る。
「こちらは奥方の美也子夫人」
「木之崎美也子です。今回はよろしくお願いいたしますね。お兄さん。どうか、どうか私たちの子供を連れ帰ってもらえますか」
落ち着いたミルク色の仕立ての良いワンピースに身を包む木ノ崎夫人の方は、落ち着いた声で楠木へと丁寧に頭を下げて挨拶をする。
よれよれの作業衣姿でいらだつ木ノ崎とは態度も服装も正反対だが、その声に詰まった真摯さは変わらない。
「異界特別管理区第三交差街路の特殊失踪者捜索救助室で専任救助官を勤めています。楠木勇也です」
動揺を鎮めた楠木は右肩に置いていた手を戻して背を正すと、二人へ深々と頭を下げる。
精神的に持ち直してはいるが依頼内容の難しさと二人の思いの強さを感じ取り、いつものにやけた笑いは影を潜めてその唇の端はまだこわばっていた。
「若造。貴様の名前なんぞどうでもいい。一つ答えろ。貴様も国際関係や諸事情を言い訳に、しばし待てなどと戯言をほざくか」
木ノ崎はきつい声音と鋭い目で顔を上げた楠木を射貫く。
あふれ出る不信感とその言葉からおおよその事情に楠木は気づく。
異事庁は畑中の実子の召還された世界をすでに掴んでいるのだろう。
だが異事庁が所属するのは、異世界向けの日本にとっての顔とも言える第一交差街路。
特二稀鬼院のような強硬手段や、特三捜救のような条約の隙間を抜くような搦め手は対外関係もあって使いづらい。
発見したが救助にはすぐに行えないと伝えられたことが、木ノ崎の怒りの原因だろうか?
「まぁまぁ。あなた。畑中君が太鼓判を押して紹介してくれたんですし、あんなしっかりした理恵ちゃんの部下の方なんですから大丈夫でしょ。そうカリカリしないで」
なだめようとする夫人の声に木ノ崎は怒りを飲み込むように深く息を吸いまぶたを閉じた。
「先ほどもお伝えしましたとおりです。誰が相手でも、どのような状況であろうとも助けます……畑中局長。詳しい話を教えていただけますか」
言葉でいくら語っても木ノ崎のようなタイプには通用しないだろう。
この手の人物には実際に奪還してみせるまでは信用はしてもらえないと経験から予測しながら、楠木は先ほどと同じ言葉を繰り返す。
短く答えた楠木は畑中へと視線を向けて詳細な説明を促すと、なぜか木ノ崎がいらだちをぶつけるように杖で一度地面を強く叩いた。
コンクリートの土台を叩いた音が廃村内に響いて……すぐに静寂を取り戻す。
「畑中。儂らはしばらくここらを見て回る。この若造に説明していろ」
「はい。ただあまり遠くに行かれませんように。駅前でしたら安全ですのでご自由にお楽しみください」
「判っておる! 何度も聞かされたわ! いくぞ美也子」
木ノ崎は一方的に伝えて夫人の手を引っ張るように掴むと、廃屋となった駅前商店の方へと向かって歩いて行ってしまった。
困り顔を浮かべた夫人は目で謝りながらも、大人しく木ノ崎の後に続いた。
木ノ崎の行動に楠木は違和感を覚える。
初対面だからどういった人間かまでは知らないが、ある程度予測はできる。
一代で大企業を築き上げるほどの一角の人物。
ともなれば決断や計画は大抵ワンマンになり、専門外のことでも全てを自分が自分がと先導する部分があるだろう。
そんな人物が説明を畑中に任せて席をはずす。
無論畑中とて異事庁の一局の長。信頼しているという可能性もあるだろうが、先ほどまでの怒りは明らかに畑中にも向かっていた。
そうなると事情説明に聞きたくない内容か。それとも聞かせたく無い内容が混じっているのだろうか。
「…………すまんな楠木君。普段なら会長もあそこまで感情的では無いのだが、今回はいろいろあってな。それに気づいていると思うがここはお二人の生まれ故郷。出産のために地元に戻られていた奥方が召還被害に合われた地でな」
二人が十分離れた所で、畑中が木ノ崎を取りなすように弁明をしながら謝罪する。
夫は悔しそうに顔をゆがめ、夫人はどこか懐かしげな顔を浮かべてあちら、こちらを見ていた。
「いえ、気にはしてませんから。で、何があったんですか」
変わり果てた生まれ故郷の現状を目にしただけでは、尋常では無い木ノ崎の怒りや焦燥感の説明は付かない。
ほかに何か理由があるのだろうと楠木は前置き抜きで尋ねた。
「君のことだからある程度気づいているとは思う。つい先日のことだが八咫鏡が会長のお子様の反応をとらえた。我々もすぐに現地調査と状況判断。場合によっては即時奪還も考慮して人員を派遣したんだが、少し………かなり厄介なことになっていて即時奪還を断念するはめになっている」
「異事庁が諦める厄介事。かなり面倒なことになってそうですね」
発見されていたという自分の予測が当たったが、嬉しくも何ともない。
畑中は謙遜していたが異事庁は決して無能ではない。
むしろ各国の同様の機関の中でも優秀な部類に入る。
八菜の独断で当初創設された個人事務所といった感の残る特三捜救とくらべて、異事庁は人員、装備、練度、情報収集力、その全てが高いレベルにまとめ上げられている。
攻撃力に特化した特二の稀鬼院と比べても、それほど引けを取る物では無い。
問題があるとすれば、元々所属していた姫桜を見れば判るように倫理観など破綻した稀鬼院や、奪還に特化しそれを最優先目標とし動く特三捜救にくらべて、政治的なしがらみに縛られる部分が多い事くらいだろうか。
「レイディアットという存在を知っているか?」
「レイディアットですか……たしか恵まれ無い幼子や、死にゆく無垢な魂を救済するっていうお題目を上げている積極的な召還肯定派の一教義ですよね。まともにやっているのもいるみたいですけど、名目を免罪符に稀少能力者を攫って救世主と崇めている連中もいる玉石混淆ってくらいなら」
名目上の教義そのものは善性に満ちている。
人種、出身地、周囲と異なる能力等の本人にはどうしようも無い要素によるいわれ無き差別により迫害されている者達を助ける為に、新たなる新天地を与え他者を救う救済召還を行っている者達。
いくつもの世界に広まった教義の一つで、ある種の宗教ような物といえば判りやすいだろうか。
基本的には本人達の意思を確認してから召還を行っているようだが、周囲とは異なる力を持つ所謂異能者を助けるという名目で強制的に他世界へと連れ去る強行的な分派も存在する。
彼らの目的は戦乱や災害に見舞われた世界に異能者を召喚し救世主に仕立て上げることでさらなる信奉者を募るためだ。
脳内にあった情報をそのまましゃべった楠木の回答だったか畑中は首を横に振った。
「いや今回の召還主はそちらでは無い。教義の大元となった存在。異神レイディアットによる転生召還だと判明している」
「異神……すみません。そちらは記憶には」
教義としての聞き覚えは楠木にもあったが、その異神名には心当たりが無かった。
かつて存在し終わりを迎えた世界。その終末世界で最後に残り世界そのものとなってしまった一個人。
神と呼ばれる超高密度世界干渉力存在とその生まれは異なりながらも同等の力を持つに至った超越種である異神は、終わりを迎えた無数の世界と同数存在し、楠木の職務と関係していても有名所を除いてさすがに把握していなかった。
「知らなくても無理は無い。君の所の金瀬管理人と違い派手に動く異神ではないようだからな。ともかくこのレイディアットと呼ばれる異神は君の言った同名の教義の大本になった存在でその行動原理は極めて単純。不幸になる子を救うために別世界へと連れ去る事。実際過去には幾度か宣告をおこなってから転生させているので目的は間違いない……会長夫妻に宣告が無かったのは良かったと言うべきかもしれんな」
珍しく言いよどんだ畑中が散策をしている木ノ崎夫妻へと目を向けた。
苛立ち気味な夫を甲斐甲斐しくなだめる優しげな夫人の姿は平穏な状況であればほほえましく映るだろう長年連れ添った夫婦の姿そのものだ
「レイディアットが回避しようとする不幸は近い将来の子殺し。つまり召還されていなければ奥方は実の子を殺していたということになる」
畑中の話に楠木は思わず息をのむ。
温和で優しげな木ノ崎夫人の姿はとてもそういう人物には見えない。
その情報は何かの間違いでは無いか。
「私は個人的にお二人とつきあいがあったので夫人をよく知っている。そういう人では無いと思っているし信じているが、レイディアットの目的は間違いない。召還主について会長にご説明したときにはずいぶん怒鳴られた。奥方には絶対に話すなと釘も刺されたよ」
「……聞かされても困惑するだけで嫌な気分になるでしょうからね」
近々子を殺す運命にあったから子が攫われた。
記憶にもない罪どころか起きてもいない罪を断罪されてもどうしていいか判らないだろう。
「そうだな。ではここからが本題だ。召還主が異神レイディアットと判ったことで問題がいくつかある。まず一つは今までレイディアットによる転生召還者は何千人と存在したが、その召還先が判明したのが今回が初めて。つまり前例が無い。本当にその人物は召還者なのか。もし召還者だとしても本当に現世より攫われた人物であるのかと証明するのが、異神の力もあって難しい」
神と同等の力を持つ異神の行いはある意味自然の行い。
人の手でそこから違和感を探し出し作為的な行いがあったと証明するのは難儀な作業だ。
だがそれが神の手によるなら違う。
「発見したの八咫鏡様なんでしょ。なら間違いないのでは」
三種の神器の一つに宿る神魂は古く強大な神。異神と比べてもひけを取らないはず。
そのお墨付きがあるなら異事庁が動くことに問題は無いはずだが、畑中の様子から何か問題が起きているようだ。
「それが彼の方も発見はしたが途中で判らなくなってしまったそうだ。なにやら急にぼやけてしまったと。今現在確認作業をおこなっているが相手が異神となれば数年単位の調査に及ぶだろうな。会長夫妻お二人の年齢を考えれば最悪な状況だ。見つかった子に生きているうちに会えないかもしれない。それが今回の会長の焦りにつながっている」
「探査妨害……その異神の仕業では? あの方が目を曇らせるなんて普通はないでしょ」
あの古代神が一度見つけた者を易々と見失うはずはない。何らかの介入が合ったと考える方が自然だろうと考える楠木に畑中も頷く。
「あり得るな。だが確証が得られないのは事実。ともかくその所為で相手世界に対して正式な交渉を持ち込めずにいる。それ以外にも大きな問題がもう一つ。レイディアットがおこなうのは転生召還。しかも母体となった者は当時は子を妊娠していてもおかしくない状況で、レイディアットによる召還がおこなわれていた認識や記憶もないそうだ。子供の方にしても胎児の段階で攫われたのだからこちらの記憶など望めない。相手側からすれば普通に子を授かり出産したようなものだ。この状況で奪還を強行すれば人道的な見地から問題視する世界もあるな」
召還主と召喚先が一致せず、しかも召喚者とその召還先がお互いに召喚の事実認識をしていない。
つまりこの場合は普通の親子関係と変わらず、確かに存在する親子間の絆を無理矢理断ち切る事になる。
それを非難する気持ちは楠木にも理解はできる。
お前達は本当の親子ではない。だから本当の親の元に子供を連れていく。
昨日まで幸せに暮らしていたであろう親子にとってこんな横暴な話はない。理不尽だ。
「結果判明前に奪還を強行しても勘違いだった場合は今度は我々が明確な同盟違法行為に該当してしまう。かといって判明してからおこなっても状況的に非難は避けられない。そのため上層部の一部は及び腰になっているわけだ」
結果が判明するまで状況は手詰まり。
召還者だったとしても、今度は人道的な状況がネックとなる。
畑中が異事庁で一定の権力を有していても所詮は一局長。
この状況で強行しようとしても周囲や上から止められる事になるだろう。
「……だから君の出番だ。縁様のお力なら異神が相手だろうとも、その繋がり『縁』を見つけて判断し即時に奪還することができる。しかも金瀬管理人の特三なら我々異事庁が”気づかない”間に事を進めていても誰も違和感は抱かないだろう」
畑中の言葉に含まれた裏の意味に気づき楠木は息を吐く。
やはり理恵の言う通り面倒なことになった。
秘密裏の面談も口頭で情報伝達を済ませるのも余計な証拠を残さないため。
「要はあれですか。八菜さんが今回の件に気づいて横やり入れて、俺が出向いたら召喚者だったので取り返してきました。まぁ結果オーライということで許してくださいと。今回の件に長年関わってきた異事庁と局長の面子はつぶして、ついでに人道的な事を宣う公明正大な世界からは俺らが非難されろと」
畑中自身も面子がつぶされるが、泥の大半は楠木や特三がかぶれという物だ。
一方的にデメリットばかりが目立つ横暴な計画。
一組の親子を救うために一組の親子を壊す。
だがどれだけデメリットがあろうと、心情的に拒否感を覚えようともたった一つのメリットがあれば楠木は動ける。
そしてそのメリットのために、今回のような無茶を通して堅苦しい道理を取っ払ってきた実績がある。
だから畑中の計画にも説得力がある。
特三捜救の楠木勇也ならば召還者奪還のためならばどのような手でも使うと。
「承知しました。洒落者の八菜さんはこういった依頼をおもしろがるでしょうし、俺は取り戻せるなら何でもいいですよ……まずはお二人に縁様に捧げる縁の宿った供物をいただかないとどうしようもないですけどね。ほら俺の場合縁様のお力を借りなければ役立たずなんで」
自分は今いつもの軽薄な笑いを浮かべられているだろうか。
楠木は口元を無様にゆがめながら、軽い右肩へとまた無意識に手を伸ばしていた。