依頼編 記憶無き奪還①
シトシトと雨が降る。
半分朽ちかけた駅舎の軒先から山間の狭い空を見上げれば、薄い雨雲に覆われている。
六月下旬。
梅雨時期の重苦しい湿気と、夏間近の徐々に上がる気温が混ざり合い、どうにも不快だ。
薄手とはいえ長袖の夏用スーツとシャツに身を包む楠木勇也は辟易とした表情でネクタイを軽く緩めて一番上のボタンを外すと、手で仰いで服の中に風を送り込む。
こんな真似をすれば、いつもなら肩に座る御仁から、だらしないと叱責が飛ぶのだが今日はその声は無い。
軽い肩に物足りなさを感じながら、楠木は時刻を確認する。
腕時計は9:50を指し示す。
約束時間まではあと10分ほどある。
「早く来すぎたかな。こりゃ」
人っ子一人どころか野生動物の姿すら無い駅前を見渡して楠木はぼやく。
バス停の標識にはさびが浮きツタが絡まる。
駅前に一軒だけ建つ商店らしき建物のシャッターは風雨で看板の文字がかすれて読み取れず、道路のアスファルトもひび割れ隙間からは雑草が生い茂っていた。
板張りの駅舎の壁にはもはや懐かしいを通り越してアンティークとも言えるブリキの商品看板が打ち付けられている。
数年前まで人が生活していた香りを残しているが、記録上ではこの村が廃村となってからすでに数十年が過ぎているはずであった。
山の中だというのに、鳥の鳴き声一つ聞こえてこないのも相まってその現実感は希薄。
まるでよくできたセットの中に迷い込んだようだ。
ここが非日常。楠木にとっての今の日常世界に属する場所であることを嫌でも認識させる。
どうにも手持ちぶたさな楠木は事前に渡された資料を携帯から呼び出して再度目を通し始めた。
かつてこの地に存在した村の名前は御角志村。
近くにある切り立った岩山がまるで動物の角のように見えたことから天平の頃より呼ばれていたそうだが、もう一つの由来も持っていたそうだ。
曰く『身隠しの村』と。
近隣の山々で育つ最良質の檜を伐採する木こりを職種とする者達によって発展した林業の村だったが、この村では不可解な神隠しに会う者達が時折出現したという。
ある者は閂が下ろされた室内から消えた。
またある者は枝打ちのために登った木から二度と下りてこない。
またある者は祭りにわく群衆の前で忽然と消え去った。
妖異、物の怪の仕業と怯えて村から去る者が続出。
その当時聖武天皇主導で行われていた国分寺建立にさえ建材不足の影響が生じ、事態を重く見た都より陰陽師が派遣されたと伝説が残る。
さすがに千年以上昔のことで祭儀の詳細は不明だが、無事に祭儀は成功し人が消えることは無くなり、檜の村として再建されていったそうだ。
その人隠し伝説の再来は昭和の中頃。
落雷による山火事で、山の中腹にあったお堂や山々に点在していた社が焼失。
結界の基点が消失したことで祭儀による保護が崩れたのか、次々と村人達が姿を消し始めた。
この異常事態に日本国異界特別管理区第一交差街路所属組織『異界事象対応庁』、通称『異事庁』が事態の調査に奔走することになる。
その調査により、この地域には交差街路と呼ぶほどの規模では無いが、異世界へとつながる極小の扉が、しかも無数に存在することが判明。
さらに千年以上も押さえつけられていた力が一気に解放されたことにより、周辺一帯が不安定化し時空が乱れた異世界につながりやすい土地となり、扉のあまりの多さと不安定な空間が作用し召還先の大まかな推定すらも困難な状況となっていた。
消失した村人の救出は絶望視され、事態収拾も現状不可能と判断され村も廃村が決定。
火山性ガスの噴出という表向きの筋書きによって村を中心に半径十数キロを国有化し、立ち入り禁止区域となり数十年。
現在へと至る…………
「第一級危険地帯ねぇ。そら縁様や姫さんの同行を禁止されるわな」
楠木が信奉する神である縁や、信頼を置く玖木姫桜はその存在自体が異質にして強力。
かろうじて小康状態を保たせているこの地にそのような者を連れてくるのは、薄氷の池に巨石を投げ込むような愚行に等しい。
一方で楠木自身といえば、異質な存在を感知できる力以外は縁の力添えが無ければ超常の力など皆無。
そんなカトンボが降り立った所で氷を踏み破れるはずも無い。
自らの力の無さのおかげで問題なく立ち入れたことを喜ぶべき事かと、携帯をポケットにしまいながら楠木は苦笑を浮かべ、雨がシトシトと降る駅前を再度見渡す。
小康状態を保たせているとはいえ、こんな危険地帯を待ち合わせに指定してきた人物の意図を読み取ろうとし、
「………………あの親父さんのことだから考えても無駄か」
相手が裏表の無い人物だったことを思い出し、早々に思考を打ち切る。
特三に籍を置くが、事が奪還であれば他所からの協力要請を断る理由は楠木には無く、また道楽者の最高責任者も喜んで楠木を貸し出す。
実際国内の他組織だけで無く、国外の組織。さらには他世界からの協力要請に基づき楠木は奪還を果たした事も多々とある。
だが今回はその正規のルートを通した協力要請では無く、個人ルートを使った極秘の奪還依頼であった。
きな臭いことこの上ないのだが、そこらの事情も推測せずとも本人自ら話してくれるだろう。
それにどうせ自分にできることは奪還のみと楠木は割り切っている。
ならどんな事情があろうとも、やることはただ一つだ。
肩をすくめた楠木が雲に覆われる空を見上げると、晴れ間が見え始めた雲の隙間にごま粒のような点にも見える一台のヘリコプターがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。
モスグリーンとホワイトの塗装が施されたBK117が、けたたましい音を奏でながらゆっくりと雨の上がった空き地に降りてくる。
民間用であるが信頼性の高さから多くの自治体や警察でも採用されているBK117のC-2型。その底面には国土交通省の文字が見える。
先ほどまで雨宿りしていた駅舎の中からは影になっていて楠木は気づかなかったが、駅の脇は空き地となっており、その部分だけはコンクリートによる補修が施されていた。
追調査の際にでも使うヘリポートとして整備していたのだろう。
ローターが止まったのを見てからと搭乗扉へと楠木は歩み寄り、風防窓越しに乗っている人物を確認する。
しかしこの型のヘリならば7人ほどが搭乗できるはずだが、扉に一番近い位置に座っていた壮年の男性が楠木並みの巨漢だったため、何人が乗っているかは確認できなかった。
そうこうしているうちに扉が開き、
「よう。久しぶりだな楠木君」
ヘリから降りてきた男性が、鬼瓦のような表情の一部をゆがめて楠木に挨拶をする。
本人としては笑っているつもりのようだが、どう見ても威嚇しているようにしか見えないのが欠点だ。
男性の名は畑中洋介。
異界事象対応庁の一部門である情報調査局局長の肩書きを持つ。
情報調査局の主な役割はその名が指し示すとおり、他世界の情報を収集管理する異事庁の中核的な部署である。
「ご無沙汰しています。畑中局長」
所属組織が違うとはいえ階級的には雲の上。また異世界に関わる者としても大先輩。
途中で道を離れたといえ、目上を立てる体育会系の心根が基本の骨子に染みついていた楠木は深々と頭を下げる。
「かしこまるな。君はうちの理恵の部下だ。つまり私の身内も同然。それに今回は無理を頼むのは私のほうだ。頭を上げてくれ。ちょっとばかり厄介な事例だが君なら心配あるまい」
豪快に笑う畑中が楠木の背中をばんばんと叩く。
本人としては軽いスキンシップのつもりなのだろうが、その巨体からくり出される威力は張り手と変わらない。
「あ、ありがとうございます」
この体格と強面の表情と強力を持ちながら制服組である武官で無く、背広組だというのは詐欺だよなと、自らのことを棚に上げつつ思いながら楠木は頭をあげる。
楠木の所属する特殊失踪者捜索救助室室長である畑中理恵の実の父であり、今回の依頼は、その理恵から直接楠木に伝えられてきた。
最も仲介した理恵曰く、『あの親父が極秘依頼なんてどう転がっても相当な面倒事になるから覚悟しておけ』だそうだ。
「それにしても特三はこんな所まで扉をつなげていたんだな。私たちの方が早く着くかと思っていたんだが」
「二、三年前に廃駅、廃路線なんかにはまってましたから八菜さん。たぶんその時にでもつなげたんだと思いますよ。特一の管理区だってのによくやりますよ」
特三のトップである金瀬八菜は古今東西、メジャーな物からマイナーな物まで種類を問わず興味を持ち趣味とする。
おそらくは第一級危険地帯での非常事態に即時対応できるようになどと、お題目でもつけて繋げてしまったのだろう。
「あの人の趣味は横に置いておくとして、今回奪還する方はどなたですか?」
限りなく正解に近い予測をして苦笑を浮かべながら楠木は本題へと切り込む。
このまま雑談をかねた打ち合わせをしてもいいのだが、畑中は忙しい身の上。あまり時間を取らせても悪い。
「……それは儂から話そう。畑中。貴様のでかい図体が邪魔で降りられん。どかんか」
畑中の背後のヘリの中から、しわがれた男性の声が響く。
極めて不機嫌でいらだっているのが声だけで判る。
「これは失礼しました。どうぞ会長」
先ほどまでの気さくな笑顔を消した畑中が一礼してから横にずれる。
ヘリの中には80は過ぎているであろう老人と、同じ年頃の女性が眠るように座っていた。
この二人は夫婦だろうか。
畑中がどいたのを見て老人がヘリから老人が降りてくる。
禿げ上がった頭部。やせ細った枯れ木のような体は小さい。
杖を握る手は青白く、着ている服もよれよれの作業衣で薄汚れた、絵に描いたような貧相で老いぼれた姿。
だが楠木は全く別の印象を抱く。
老いた印象を全て打ち消すほどの強く暗い情念が、老人の目に籠もっていたからだ。
眼光鋭いその目で老人が無遠慮に楠木をなめ回すように観察する。
しばらくしてから老人は失望したように肩を怒らして、横に控えていた畑中へと振り返る。
「畑中。このへらへらと笑いを浮かべた軽薄そうな若造が貴様の言っていた最高の人材か」
明らかな侮蔑混じりの老人の感想に楠木はポリポリと頬を掻く。
いつもだったら笑いながら初対面で失礼な爺さんだなと、軽口でも叩いている所だが押し黙る。
茶化す空気を許さない切迫感を老人から感じていたからだ。
「はい会長。召還者を奪還することにおいてのみならば彼に勝る者は、異事庁にも稀鬼院にも存在しませんと私は断言します。会長の積年の思いを楠木君ならば必ずや成し遂げて見せます」
鋭い眼光に睨まれながらもひるむ様子を見せず、畑中が力強く頷いてこたえる。
とにもかくにも裏表が無く忌憚ないのが畑中の長所であり短所であるが、特一の幹部が自分の所よりもよその人員が優れていると断言していいのかと、楠木は心の中で突っ込む。
何より稀鬼院の名前を出すのは勘弁してほしい。あの化け物揃いの連中は、どこで聞き耳を立てているか判らない。
ただでさえ、姫桜を引き抜いたことやら縁と契約を交わしたことで稀鬼院は楠木のことを忌々しく思っている。
さらには、この上で自分の方が優れていると吹聴しているなんて、デマが流れた日には本気で呪殺されかねない。
「……そこまで言うのならば信じてやろう。じゃがもしこの若造が失敗をしたときは、此奴だけで無く貴様や貴様の娘もただではすまさんぞ」
畑中の肯定に老人は眼光を鋭く語気を険しく強めた。
老人の脅しは虚勢では無いだろう。畑中の老人に対する態度からしておそらくは相当の権力を有す財界の大物でパトロンの一人といった所か。
異世界関連の大本といえど異事庁も国家組織。政治家やその出資者の意向が影響することは避けられない。
さてそうなると面倒な老人の相手を押しつけてきたといった所かと普段なら考えるのだが、相手が畑中の場合だと微妙に違うだろう。
おそらく理恵の言ったとおり、かなりの面倒事が待ち受けているのは事実。
だが楠木なら何とかすると畑中は真剣に考え、老人に楠木を紹介したのだろう。
「ご老体。ご心配なさらず。畑中親子にはお世話になっていますのでその面子をつぶすような真似はしませんよ。どこの誰が相手でもあなたの大切な方を取り返してきますよ。俺は正義の味方ですので」
いい加減黙っているのも飽きてきた。
老人が先ほど嫌がったにやりとした人の絵悪い笑みを浮かべながら楠木は軽口を叩く。
「ほざいたな若造…………貴様に連れ帰ってほしい者。それは生まれてくるはずだった儂らの子じゃ。四十年前、臨月間近の女房の腹から赤子を連れ去った鬼畜どもから我が子を奪い返してほしい」
長い年月の苦悩と絶望が籠もった老人の声は、呪詛のよう重く響いた。