帰還編 山奥の名医
「おねーちゃん。洗い物おわったよ」
アパートの隣室にすむ元大工という老人手製の踏み台に乗って、朝食の洗い物を楽しそうに片付けていた筑紫優陽は最後の茶碗を水切りカゴに入れて周りに飛び散った水滴を布巾で拭いてから、窓際で夜干ししていた洗濯物を取り入れていた姉の優菜に報告する。
借り受けたアパートの流し台は、小学校に入ったばかりの優陽では踏み台に乗ってもまだ幾分か高く使いづらい。
だが日も昇る前から起きて忙しそうに家事をしている姉の姿に、まだ幼いながらも姉思いの妹は少しでも姉の手助けができたらと思い、自分の事はなるべく自分でやりながら手伝えることは手伝っていた。
今住んでいるアパートは焼け落ちた実家兼診療所の近くのため、父の診療所へと通っていた住民達おり、筑紫姉妹の事情をよく知っていたので、先ほどの踏み台や夕食のお裾分けと何かしら気を使ってくれていた。
「ありがと。お姉ちゃんもあとちょっとで終わるから。忘れ物は無いか確認してて。あ、後ごめんガスの元栓も見て」
「うん。もう見たよ。電気もみとくね」
少しでも電気代を節約するために電気ポットのコンセントを抜いたり灯りの消し忘れを確認する優陽に、我が妹ながらしっかりしていると優菜は思わず感心する。
ついでこれほど楽しそうな優陽は火事が起きた日以降で初めて初めて見た事に優陽は気づく。
優菜自身としてはなるべく妹を気遣っていたつもりだったがこんな単純な事を見落としていたあたり、やはり優菜も父の消失とそれに続く生活の困難で精神的に余裕が無かったのだろう。
優陽が機嫌が良い理由。そして優菜に少しだけだが精神的余裕ができた理由は明白だ。
昨日出会った怪しげな巨漢とその一行。
炎に消えた父が、実は異世界へと召喚されて生きており父を助けにいくとつげた楠木の存在が優菜達の心にあった重石を僅かに和らげていた。
特に優陽など大好きな父が帰ってくるんだと、いつもなら九時には眠っているのに昨夜は嬉しさと興奮でなかなか寝付けず 今朝も朝食を食べながら、おとーさん今日帰って来るかなと待ち遠しそうにニコニコとしていた。
優菜も父が戻って来る日を待ち望んでいるがさすがに優陽ほど楽観はしていない。
いくら何でも昨日の今日で帰ってこれるような簡単な話ではないだろう。
だが不安はあっても、言動が怪しく昨日出会ったばかりの楠木達が父を連れ帰ってきてくれると信頼している。
マヨイガという不可思議な店のマスターから、少しだけだが聞かされている楠木の事情。楠木もまた優菜達と同じように大切な誰かを異世界へと召喚された。
軽口の多い怪しげ言動に混じって微かに見せた怒りや嘆きの色が、それが事実だと確信させていた。
「優陽。忘れ物は無いね? お姉ちゃん帰りは迎えに行くけど一応鍵も持ったよね」
「うん。大丈夫。ちゃんと持ったよ」
狭い玄関口でランドセルを背負った優陽に最後の確認をしてから、優菜は靴を履いて真新しい自分の通学鞄を掴む。
すると優陽が不思議そうに部屋の奥を見た。
視線の先には優菜の竹刀と剣道防具一式が置かれていた。
「お姉ちゃん。剣道のお道具持ってかないの?」
「あ……お姉ちゃんの学校はテスト前でしばらく部活がないから影干しでもしようかなって持って帰ってきたから。でも昨日いろいろあって忘れてたんだ」
剣道部を辞めたと言えば、年のわりに賢いところがある優陽は、姉が家事や優陽の面倒を見るために部活を辞めたのだと気づいてしまうだろう。
そう思い優菜はとっさに嘘をつく。
「そうなんだ。じゃあ優陽が帰ったら干すね。お日様に当たらない風通しの良いところに置けば良いんでしょ?」
「……ありがと。優陽はほんと良い妹だね。お姉ちゃん助かる」
褒められて嬉しそうな笑顔を浮かべる優陽の頭には、寝るときも抱いていた宝物だった通学帽子は無い。
優菜も亡き母を真似して長く伸ばしていた黒髪もばっさりと切ってショートヘアに髪型を変えている。
帰りに新しい帽子を買ってあげないといけないとか、今日学校に行ったらいろいろと聞かれるだろうなと思いながら優陽を気遣ってとはいえ嘘をついてしまった罪悪感を誤魔化すために優菜は妹の頭を優しく撫でる。
「優陽にできることなら何でも言ってね。もう小学生なんだからいろいろお手伝いするよ」
母が亡くなったばかりの頃に自分が父によく似た言葉を言ったなと優菜はふと思い出す。
やっぱり姉妹だなと思いながら、優菜は優陽の頭から手を離してドアノブを掴む。
「頼むね。じゃあ学校に行こう……行ってきます」
「うん。行ってきます」
部屋の奥に出がけの挨拶をした優菜を真似して優陽も行ってきますと声をかける。
『行ってらっしゃい』と父からの返答がない事に少しばかり寂しさを覚えるが、長年の習慣であったしもうじき聞く事ができると思いながら、優菜は年数が経って音を立てて軋むアパートの扉を開けて外に出て、
「………………はっ? えっ!?」
一歩出た瞬間に固まり困惑の声をあげた。
優菜達が借りているのは住宅街に立つ古びたアパート一階の一室。
扉の外にはアパートの住人用の狭い駐車場と隣家とのコンクリートブロックの壁が見えるはず、しかし今、優菜の目の前に今広がっているのは何処かの公園のような光景だった。
涼やかに水を吹き上げる噴水付きの小さな池を中心にして、よく手入れのされた花壇が立ち並ぶ。
花壇には色とりどりの花が咲き乱れて、周囲にも幾つもの樹木が植えられている。
しかしその季節感はバラバラだ。
春の菜の花が黄色を染めて咲いていたかと思えば、その横では夏の薄紫色の朝顔が蔓を伸ばし、秋のキンモクセイの甘い香りが漂よわせる隣で、冬の寒梅が枝一杯に白い花を咲かせている。
ドアの先が見知らぬ場所に繋がっている状況が理解できずに優菜は愕然となる。
「うわぁっっ。おねーちゃんお空すごいよ」
隣に立っていた優陽が空を見上げて感嘆の声をあげた。
妹の声に釣られて空を見上げて優菜もまた目を丸くする。
空が丸かった。
丸い空には張り付く大地があった。
逆さまの大地には木が生い茂る森が点在し、森からは巨大な水路が延びて、水路はいくつにか枝分かれして森の外に広がる農地へと水を運んでいる。
農地の傍らには牧草地まであるのだろうか。ごま粒のような点で動く家畜の群れまで見えた。
「えっ!? な、なに!? ど、ど、どうなってんの!?」
遊園地のアトラクションを見たように純粋に歓声を上げる妹とは違い、あまりに予想外の光景に優菜は狼狽する。
昨日入ったマヨイガも無茶苦茶だが、この場所はさらに輪をかけて荒唐無稽な光景が広がっていた。
後ろを振り返っても先ほど出てきたはずの部屋の扉は姿形もない。
「ここまで喜んでいただけると制作者冥利につきますね。しばらくファンタジー色強めで行きましょうか。理恵さん次あたりは『氷の城』なんてどうです?」
「断固反対です。八菜さん加減を知らないでしょ。絶対に凍死者出ます」
「では逆に火山火口に浮かぶ浮島などは、朝昼夕に時報代わりの噴火付きで」
「どうして両極端なのよ……まったくいい加減にして説明を始めて下さい。やらないならあたしがやりますよ」
優陽達が呆気にとられていると、すぐ近くから楽しげに提案する声とそれに反対する女性達の会話が響いてきた。
こんな近くに人がいると思っていなかった優菜は驚いて声がした方へと顔を向けると、優菜たちのすぐ側に二人の女性が立っていた。
「突然お呼びして失礼しました。驚かれたでしょ」
右に立つ長身でほんわかとした笑顔を浮かべた正体不明の女性が優菜達へと向き直り軽く一礼する。
どうやら最初に聞こえてきた声はこちらの女性のようだ。
純白のワンピース姿の女性に、優菜は何か捉え所がない不可思議な印象を覚える。
普通なら周囲の目を引く目鼻の整った顔立ちなのに、視線を外した一瞬で顔を思い出せなる印象の薄さ。
正体不明で不気味な違和感を持ちながら、それでも不思議と信頼してしまいそうな、人当たりの良いのんびりとした雰囲気を醸し出していた。
もう一人の左に立つ黒色の女性用スーツを身につける女性は20代後半ぐらいだろうか。
「筑紫優菜さん。優陽さん。私は第三交差外路管理人金瀬八菜です。八菜とお呼びくださいな。そしてこちらは特三捜救の女ボス的な畑中理恵さんです」
「驚かせるために呼んだ癖に、あと紹介無茶苦茶です……特殊失踪者捜救救助室室長の畑中です。昨日はうちの楠木が失礼いたしました。あの馬鹿の事だから、八菜さんみたいに自分のペースで一方的に話を進めたでしょ。うちはこんなのばかりなんでごめんね」
小柄な体格で少し吊り気味の目にフレームの細い眼鏡を掛けた生真面目そうな畑中は、額に手を当て軽い溜息を吐き出してから、気を取り直しと優菜達へとにこりと微笑み挨拶を兼ねた謝罪をした。
眼鏡の所為か生真面目で少しきつそうな第一印象だったが、そのイメージが笑顔一つで大分和らぐ。
畑中は優菜とほぼ同程度の背丈だが、その雰囲気が大人の女性だと感じさせる。
「特殊失踪者捜索救助室……楠木さんが言ってた?」
「はい。そうですよ。楠木さんや理恵さんが所属する通称『特三捜救』、所謂正義の味方です。そしてここが第三交差外路。正義の味方達の秘密基地です」
大仰な身振りと弾んだ声で八菜が丸い空の上に張り付く大地を指さした。
見た目的には八菜も十分大人なのだが、どうにも自分のとっておきを人に自慢したくてしょうがない子供のような印象だ。
「八菜さん。ほとんど間違ってますから……あと正義の味方って堂々名乗るの止めません? あの馬鹿はともかく、あたしは恥ずかしいんですけど」
お願いだからその紹介は止めてくれ。
八菜の言葉に、羞恥心をやられ気恥ずかしそうにする理恵の顔にはありありと書いてあった。
一方八菜達の会話を呆気にとられて見ていた優菜だったが、ふと我に返る。
どういう原理で玄関がここに繋がったかなど幾つも疑問点があるが、それよりも今優先すべきは、なんでいきなりここに呼ばれたかだ。
「あ、あのなんでここに呼んだんですか!? 楠木さん達や父に何かあったんですか!?」
こんな非常識な呼び出し方をするなど、緊急事態が発生したのかもしれない。
父が召喚されたという異世界へと向かった楠木達、それとも父の身に何かあったのだろうか。
優菜のあげた不安な声に、事態を把握できていなかった優陽も気づき、不安そうに姉の服の裾を掴んだ。
「いえいえそんな話ではありませんよ。お二人のお父様なら二時間ほど前にこちらにお戻りになりました。それですぐにお会いしたいだろうとお呼びしたまでです。まぁ筑紫さんあちらで少し飲まされ過ぎたみたいで二日酔い気味ですが」
「と、父さん戻ってるんですか?! しかも二日酔い!?」
八菜から帰ってきた答えにいろいろな意味で優菜は再度驚きの声をあげさせられる羽目になった。
「ぁ…………う……」
借りたベットの上で死んだように身を横たえて筑紫亮介は、頭痛を堪えながら呻き声を上げていた。
のどはからからに渇き顔の上に乗せた濡れタオルもずいぶんとぬるくなってきている。
ベットのすぐ横のテーブルの上には冷たい水が入った吸い飲みと洗面器が乗っているが、水を飲むために身を起こすのも自力でタオルを替えるのも億劫だ。
別れの場で主賓である亮介は村人達から礼とともに休む間もなく酒を注がれ料理を勧められていた。
その好意を無碍にもできず全て食べ飲み干してきた結果がこの醜態だ。
しかも亮介に張られていたのは楠木達のような高位結界ではなく低位の結界。
一応口から取り入れたものは現世で該当する栄養として変換、取り込むことはできるが、味までは分からない。
だから勧められた酒も無味無臭で水のように感じて飲み干せていたが、どうやら相当に強い酒だと気づいたのはだいぶ飲まされた後だった。
出された料理も味を感じられない物だったが、手間を掛けて作ってくれた事は判ったのでそれだけで嬉しかったが、さすがにもう食べられないと言うべきだったか。
我が事ながら人が良いというか、断るのが下手と言うべきかと反省しながらも、味がわかったとしても同じような状況にあればまた同じ失敗を繰り返すだろうと半分あきらめてもいる。
昔からそうだった。
独身時代に海外援助で訪れた国の村々でも、宴会に誘われて勧められるとつい断れず飲みつぶれることが多々あった。
宴会に呼ばれるのは異邦人である自分がその村の人たちに受け入れてもらえた証拠であり、別れを惜しんでもらえるのは彼らの役に立てたのだという自負たる思いを抱くことができた。
それだけではない。
同じように海外援助のボランティアに参加していた亡き妻とのきっかけも、今みたいに酔いつぶされた亮介を介抱してくれたのが縁だった。
今のように冷たいタオルを額に当てながらも、お酒に弱いのなら断りなさいだの、医者のくせに自己管理ができていないといろいろと説教を食らったなと懐かしく思い出していると顔の上に乗っていたタオルが急に取り払われた。
「…………ぅ…………」
天井の蛍光灯のまぶしさに目を細めた亮介の視界につやつやとした黒髪の少女と幼児の顔が映る。
少女は少し不機嫌そうな顔で眉をひそめているが、意志の強そうな眼光の鋭い目にはうっすらと涙がにじんでいる。
幼児は太陽のように明るいにこにことした笑顔を浮かべていた。
「…………優菜に優菜?」
亮介にとっては二年ぶりの再会につい尋ねるような口調で問いかけてしまった。
そんな亮介の問いかけに優菜がますます不機嫌そうな顔になった。
「そうよ。もうお父さん何やってるのよ! せっかく助けてもらったのに酔いつぶれて一歩も動けなくなってるなんて! 聞かされたときすごい恥ずかしかったんだから!」
「っ……も、もう少し小さな声で……頭に響くから」
青ざめた顔でこめかみを押さえる父の二日酔いは相当ひどいみたいだがいい罰だ。
取り上げた温くなったタオルを横の洗面器の水にに軽く浸して冷ましてから、固く絞って父の額の上にのせてから優菜は、父の目をみて強くにらむ。
しかしその目からは父がいなくなってからずっとこらえていた涙がこぼれ始める。
「お帰りなさいとか、無事でよかったとか、言いたいことあったけど二日酔いが直るまで言わないからね! だから早くお酒抜いてよね!」
泣きながら怒るという器用なまねをしながら優菜は声を荒げる。
父が帰ってきてくれたのは純粋にうれしい。
しかしもっと感動的な再会をとか要求するつもりはないが、いくら何でもこれはないだろうとやり場のない怒りもわき上がっていた。
攫われた先で攫った人たちと仲良くなって別れを惜しまれて宴会を開いてもらって酔いつぶされた。
実に父らしい。
お人好しで困っている人を見過ごせなくていつも損をしている父そのもの。
目の前の父親の姿に、大好きで尊敬している父が帰ってきたと何よりも実感できるのが余計に腹立たしい。
「……心配かけて悪かったね優菜」
子供に怒鳴られれば自分が悪くても普通の親なら気分を害するものだが、亮介は額の上の濡れタオルを左手でとってゆっくりとベットから半身を起こすと真摯な顔で謝りながら優菜の涙をぬぐい取る。
「おとーさん! 優陽も心配したんだよ!」
優菜の怒声にびっくりした顔を浮かべていた優陽も、姉ばかりずるいとばかりに父の服の裾をつかんで自分の存在をアピールする。
「……うん……優陽もごめんね……っ……」
優陽の頭を軽くなでる亮介は優しい顔を浮かべているがやはり調子が悪いのはどうしようもないようでうめき声を上げる。
「お酒抜くまで本当に言わないから。だからお父さんは寝てて」
優菜は父の体を軽く押して強制的に戻してから亮介の左手のタオルを取り上げその顔の上に戻す。
いろいろ言いたいことはあるが今の父の状態では長話もあまりできそうにない。
ちゃんと文句を言うのとお帰りを言うのは素面になってから。
そう決めた優菜は流れていた涙を袖でごしごしとぬぐってから優陽へと目を向けた。
「優陽。お姉ちゃん。八菜さん達ともう少しお話ししてくるから。楠木さん達にもまだ会ってないから。その間お父さん見てて。そこのお水をたまに飲ませてタオル変えてあげればいいから」
「うん。わかった。優陽ちゃんとみてるよ。あ、でもお兄ちゃん達に優陽もお礼言いたい。おとーさん助けてくれてありがとうございますって」
「判った。楠木さん達に会ったら時間もらえるように頼んでみるから」
子供みたいにかんしゃくを起こして泣き顔みせてしまった自分と違い、純粋に父が帰ってきたことをうれしく思い態度に出せる優陽をうらやましく思いながら、細かな話があると言っていた八菜達へと会うために優菜は部屋を後にした。
案内された八菜の執務室へと優菜が入ると広い机の上でいくつもの資料を積んでいた八菜が意外そうな顔を浮かべた。
その横の机では畑中女史が忙しそう備え付けられたパソコンのキーボードを叩きつつ、プリンターからはき出された書類へと捺印を次々と押している。
「もうよろしいのですか? 私どもの方でしたらお気になさらず。ゆっくりと再会を楽しんでいただいてかまいませんので」
「こちらの仕事が溜まっているから待ってくださいの間違いじゃないんですか。今日中にに関係各省に出さなきゃならない申請書だけでも20枚以上なんですけど。ったくあの馬鹿は事後承諾で動くなっていつも言ってるのに」
室内では無数のファイルや書物が文字通り飛び交っている。
キャビネットから自分の意思を持っているかのように飛び出したファイルが畑中の手元に飛び込んでくる。
そして畑中が必要な書類や資料を抜き出して適当に後方へと放り投げると自然と元あった場所へと戻っていく。
冷静に考えれば十分異常な光景だが、ここに来たときすでに異常な光景を見せられていた優菜の精神は麻痺していたのか特に驚きはなかった。
「あ、はい。大丈夫です。父は調子悪くてまだ話って感じじゃなかったので。あのお忙しいようならあとにしますけど。もしよろしければその間に楠木さん達にお目にかかりたいんですが」
愚痴をこぼす間も休むことなく手を動かしいる畑中の様子に後にした方がいいかと思い優菜は尋ねたが、八菜がやんわりとした笑顔でほほえみながら首を横に振った。
「いえいえ丁度よかったですよ。今理恵さんが作っている書類は優菜さん達に関係があるものです。それに楠木さん達も今は総仕上げのために出かけておりここにはいませんので」
楠木達に今は会えないと聞いて優菜はかすかにがっかりしながらも、八菜の言葉にわずかな疑問を覚える。
二日酔いで倒れているとはいえ父はこうやって無事に帰ってきたのにまだやることがあるのだろうか?
「総仕上げ……ですか」
「はい。奪還とはただその人を現世へと連れ戻せば終わりではありません。お二人のお父様の場合は、元々知名度が会ったこともあり火事で行方不明といった不可思議さ故に報道もされ、いくつか誹謗中傷が飛び交っていますよね」
「……はい」
父が着せられた詐欺を企てたという濡れ衣や根拠も証拠もないおもしろ半分のねつ造記事を思い出し優菜は固い声で頷く。
「そして私どもは、いろいろと諸事情があり今は異世界そして召還事件の存在を公には隠しております。いつか公開する日が来るでしょうがその日までは隠匿されるべきものです。ですのでお父様の無断召還事件も、ただの通常事件へと扱うために行う隠匿処理。それが総仕上げです。そして楠木さんは『正義の味方』 実に私好みの結末を捏造してくれます」
八菜がにこりとほほえむがその目がおもちゃをもらった子供のようにわくわくと輝いていることに優菜は気づかなかった。
一方横の机で仕事を続けながらも畑中は、かすかな変化だがわずかに弾んだ八菜の声だけで楽しんでいることに気づきため息を吐く。
楠木の作り出す隠匿のための筋書きは八菜のお気に入りだが、その大団円のためには手段を選ばない外道っぷりをサポートする畑中からすれば面倒な事この上なかった。
「くっし! 失礼縁さま。結構ほこりっぽいな。マスクでもしてくりゃよかったか」
倒れたテーブルに不作法に腰掛けて書類に目を通していた楠木だったが、不意のくしゃみで肩が大きく揺れたことをいつもの定位置に腰掛ける縁に謝罪する。
トラックでも突っ込んだかのような大穴が開いた壁から室内へと吹き込んでくる風に煽られて、部屋の隅に積もっていた埃が室内を舞っていた。
楠木が今いるのは某県の山奥に作られた元リゾート施設。
いわゆるバブル華やかし頃に無節操に作られて放棄された箱物の一つだ。
「埃ではなくて誰かが噂しておるのじゃろ。畑中の愚痴あたりか。いつも好き勝手にやりおってあやつの苦労も考えてやらんか」
「……それにしても姫さん遅いな。いつまで鬼ごっこしているのやら。後1人なんですけどね。しかも主犯格だし」
縁の説教めいた言葉に旗色が悪い方向に行くと思い話題を露骨にそらしながら楠木は腕時計へと目をやる。
この施設に突入してからすでに二十分ほど。姫桜ならとうの昔に逃げ出した者を全員捕まえてきて当然のはずだが、まだ戻ってくる気配はない。
「人間狩りを楽しんでおるんじゃろあの鬼畜娘は。そこの者達が善人謀り糧を得る罪人達とはいえ、本物しかも玖木の鬼王に追われるのは哀れになってくるわ」
楠木の肩の上で手酌で薄紅色の果実酒をあおっていた縁が、目の前の床に転がされた数人の男達を同情的な目を浮かべた。
ぱっと見に外傷はないが、気絶した男達は夢の中でも恐怖を味わっているのかがくがくと震えながら口の端から泡を吹いている。
姫桜によってよほどの目に遭わされたのは一目瞭然だ。
「まぁ因果応報って事で一つ。人様をだます悪い子にゃおっかない鬼がきますよって所でしょ」
手に持ったファイルをぺらぺらとめくりながら楠木は性格の悪い笑みを浮かべる。
楠木が目にしているのは、この土地だけはやたらとあるがアクセスが不便で放棄されたリゾート施設の再利用案と称した特別養護老人ホームへの改装案と出資募集について書かれている。
高齢化政策の一環として国から多額の補助金も出て、税金面でも優遇措置あり。
専門医師が常駐し、温泉治療なども受けられる充実した医療設備を兼ね備え、訪問家族向けのリゾートも併設。
出資者には高配当を確約しそしてオーナー権利として優先入所権が与えられると謳われている。
「ふん。その理屈でいくならば貴様はとうの昔に鬼の餌食じゃろうが。下らん軽口を叩いている暇があったらとっとと玖木の娘を呼び戻せ」
「あい。了解です。姫さんのお楽しみを邪魔するのは気がとがめますけどなるべく早く戻ってきてもらいましょうか」
肩をすくめた楠木が上着のポケットから携帯を取り出し開こうとしたところで、その足下の影が一瞬で沸き立ち膨れあがり、影の中から玖木姫桜が姿をあらわす。
今日の姫桜は季節に会わせた紗袷と呼ばれる二種の生地を合わせた和服だ。
濃いめの黄で金糸梅を柄に用いた反物を表に用い、裏は白地に夏椿の模様をあしらっている。
常に黒のビジネススーツで寒ければその上からコートを羽織るだけのある楠木と違い、姫桜は毎回着物を替え、その季節季節ごとのデザインをあしらった物を身にまとう。
いったい何着持っているのやらとか、どう考えても一点物で高いという言葉も生ぬるいだろうとか、いろいろ気になる事もあるが、楠木は精神衛生上あまり考えないようにしていた。
「それには及びませんよ楠木様。主に手間をかけさせるとなれば従者の名折れですので。お待たせいたしました。ご希望のお土産ですよ」
まるで水面から浮かび上がってくるように影の中から姿を現した姫桜がにこりと邪気のないほほえみを浮かべる。
しかしその聖女のような微笑みとは裏腹に姫桜の右腕にはまがまがしくねじ曲がったかぎ爪が伸びている。
その爪の先には鶏のように首をしめられた初老の男性が握られている。
不自然に伸びた姫桜の影が男の全身にロープのようにまとわりつき、顔に伸びた影が目隠しと猿轡となり、ろくに身動きもとれず声を上げることすらできずにいる。
しかし床に転がっているほかの男達とは違い、その意識ははっきりとしているようで顔は恐怖で青白く染めてもぞもぞとあがいていた。
姫桜が男の首から手を離すと、内ポケットから拡大された一枚の写真を撮りだした楠木はそこに写る男と床に倒れた男の顔を見比べる。
写真に写るのは背景からしてどこかのパーティ会場といったところだろうか。
中心に写っている男の顔は横を向きピントも合っていないピンぼけした映像だ。
しかしそれも当然といえば当然のこと。
元々はどこぞの慈善パーティ会場でたまたま撮られた別の人物の写真の背景を引き延ばした写真だからだ。
「はいよごくろうさん。ん…………所々変わっているが間違いなくご本人だわな」
上品な風貌と仕立てのよいスーツを身につけたいかにも慈善家と言った風情の男性。
顔の輪郭やあごの形などが変化しており、しかもぼやけていて細部もよく判らないが、間違いなくこの男だと楠木の感が告げている。
「いやいやどうも初めまして。なかなか写真に写らない方なんでちょいと苦労しましたよ。木戸公一さん。あぁ今は三門達也さんでしたっけ? もしくは詐欺師の神林道造さんとお呼びした方がいいでしょうかね」
一見人当たりの良さそうに見えながらもやはりどこかうさんくさい笑顔を浮かべながら楠木は目隠しされた男……筑紫亮介を騙しその高名と人柄を利用して大金をせしめた出資詐欺を専門とする神林に語りかける。
「ん!? んっっうんん! んんぅんう!」
神林が唯一自由になる首を左右に振りながら猿轡の下で声を上げる。
何を言っているのかは判らないが、人違いだとでも言いたいのだろうか。
「やれやれ往生際の悪い男のようじゃな。貴様が紡いだ筑紫亮介との悪縁は、楠木が自分に移しておる。妾の目をごまかせるはずがなかろうに」
しかし繋がりを司る縁の前ではそんな態度が通用するわけもない。
神林に聞こえていないのは判っているが、それでも縁が思わずぼやきたくなるほどに必死に首を振って否定しようとあがいていた。
おそらくは肯定すれば殺されるとでも思っているのだろう。
「それで楠木様。この方をどうするおつもりなのですか?」
そう思わせた張本人はしれっとした顔で楠木へと尋ねる。
「ん。まぁいちおう3通りの使い道があるかな」
姫桜の質問に楠木は実に楽しそうでそして人の悪い笑みを浮かべる。
今回の筑紫亮介の場合はいなくなったことを大々的に報道されている。
この状況では奪還したからといって、すぐにそのまま元の生活へとすぐ戻すわけにいかない。
生死不明だった行方不明者が戻ってきてもおかしくない筋書きを作り出さなければならない。
楠木がそのために考えたのは2つの案だった。
一つ目は火事があった日の深夜に、切れた室内電球を買うために寝ていた娘達には黙ってコンビニへと外出し、その途中で交通事故に遭って意識不明の重体となってしまった。
しかもその事実を隠そうとした加害者によって人里離れた県境の山奥に連れ去られ放置。
だが次の日の早朝、通りかかった林業関係者によって発見され隣県の病院へとかつぎ込まれ一命を取り留めたが、意識不明のまま身元不明者として入院していた。
県を跨いだことと時間帯の誤差もあり県警間での情報共有がうまく機能せず、本人の意識が戻った今日まで誰も気づけなかったという第一案。
この案では警察にミスがあったという泥をかぶってもらう形になるため、その代償として筑紫の捜索から”たまたま”神林の詐欺計画を察知。逮捕へと至ったと筋書きだ。
続いて第二案はもっとシンプルに、筑紫亮介が神林が新たに詐欺を行おうとしていることを偶然知り、妨害しようと公表を考えていた。
それを察知した神林が情報提供者を探るために筑紫を拉致、監禁したというもの。ついでに火事は証拠隠滅を企てた神林の放火というおまけ付き。
どちらの案も神林を逮捕させ事件のすべてを公表することで、筑紫が財団詐欺事件の加害者側ではなく被害者であり、世の中に広まった悪評は真実ではないと知らしめる為のものだ。
楠木の悪巧みを聞き終えた力尽くで無理矢理な計画は実に楠木らしいと姫桜は楽しげにクスクスと笑う。
若い男女二人組の話し声を強制的に聞かされていた神林は先ほどにも勝りうめき声を上げてもがいていた。
この二人が何者かは判らないが自分の身を破滅させようとしていることは間違いない。
しかも二つ目の案に至ってはただの詐欺罪だけではなく、拉致や放火、殺人未遂までも加わる重罪。下手すれば一生塀の中から出てこられなくものだ。
しかし逃げたくとも逃げられず声を上げることもできず、周囲の光景が夜のように真っ暗で見ることができない
まるで全身を縛られ目隠しと猿轡をされているかのようだ。
自分の体を拘束するような感触は一切何も”ない”というのに。
目に見えないロープで縛り付けられているような金縛り体験と、背筋も凍る寒気に理解できない恐怖を覚えていた神林の耳に娘の楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「さすが楠木様。相変わらず無理矢理にハッピーエンドに持って行きますね。 あら? でもそれでは二つだけですよ」
「あぁ、3つめは全く別なんでね。証拠を集めて優菜たちの親父さんの無実は晴らすが、警察さんにはいつかほかの件で借りを返すとしてこのおっさんを渡さないで姫さんへの就職祝いとなってもらおうかなってな。その時は煮るなり焼くなり好きにしていいぜ」
「あらあら。では達磨さんになってもらいましょうか。それともお人形さんがよろしいでしょうかね?」
まるで少女のようなあどけない笑顔を浮かべ子供のようなことを娘は言っているが、その隠しきれない邪気が娘のいう”達磨#や”人形”が言葉通りの意味でないといやでも悟らせる。
このままでは死ぬよりもさらにひどい目が待っていると直感した神林は先ほどよりも激しく体を動かし逃げようとするがただもがくことしかできない。
「まぁどれにするかは本人に決めてもらってからって事で。解いてもらえるかい姫さん」
男の声が聞こえてたかと思うと不意に神林の視界が開けた
暗闇から明るい室内へのギャップに戸惑いながら床に這いつくばったまま顔を上げた神林の目の前にスーツ姿の巨漢がしゃがみ込んでいた。
どこかの格闘家のような鍛えられた体を窮屈そうにスーツに押し込んでいる男は神林が思っていたよりもさらに若い。まだ二十代半ばくらいだろうか。
いったい何者なのか? 先ほどの話から警察関係者の用にも思えるが、その雰囲気はどこか神林と同じアンダーグラウンドの住民のようにも思えた。
「や、ご気分いかがでしょうかね。で。どれになさいます? ちなみに三番目は是非おすすめなんですけどね。この世の地獄ってやつを味わえますよ」
若い男はにやりと人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて神林の顔をのぞき込んできた。
その横には小娘と言っていいほどに若い和装美女が寄り添い楽しげな笑みを浮かべている。
「な、なんなんだあんたらは?!」
いつの間にやら声も出せるようになっていたがそれすら気づけないほどに動揺していた神林は、心中にずっと渦巻いていた叫びを上げる。
「さて楠木様。私どもの正体をお知りになりたいようですがどうお答えしますか?」
女がクスクスと笑う。
その笑みは答えなど決まり切っていますよねと男に無言で語りかけるている。
「姫さん答えは一つってね…………所謂正義の味方さ」
姫さんと呼ぶ女の視線に肩をすくめると男は自分の発言が馬鹿馬鹿しいとばかりに喉の奥で笑いながら神林の質問に、軽薄で心の籠もっていないそれでいて実に楽しそうな軽口で答えた。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
こちらで初めてご挨拶させていただきます。
元々は別サイト様に上げさせていただいていた作品の改訂版となり改訂を機にこちらにも掲載するつもりで上げさせていただきました。
改訂前と大筋はあまり変えず、話数を減らすはずが書きたい物を書いていたら結構長めに……
この話は本人の承諾もない召還とは拉致行為であるという前提の元に書いておりますが、別に召還を全否定する気はありません。
困っていたので呼びました。
戻れませんや戻りたかったら協力しろというのは残された人たちの気持ちを思えば嫌悪感を抱きます。
ただ同時に召還主側もどうしようもなく藁にもすがる思いで託した一縷の望みでないかと思ったりもします。
だから主人公のスタンスも全否定ではなく、場合によっては召還主側に譲歩や協力し絆である縁を紡ぐという形にしております。
むろん譲れない一線は譲らないようにするつもりですが。
次話でそのあたりを書けたらと思っておりますが、スカイリム彷徨っているので次まで時間食いそうですがw
とりあえずその次話予告みたいな物を。
前から書こうと思いつつ考えてはいたのですが、結末どうしようかと悩んでいました話がようやく方向決まったので。
『記憶亡き奪還』
臨月間近の妊婦の胎内よりまだ現世にも生まれていない胎児が異界へと召還された。
まだ見ぬ我が子を思う父母の思いを受け取り、異界へと向かった奪還者楠木が見たのは、貧しくも仲むつまじく暮らす母子の姿だった。
奪還者楠木の選択肢は?
シリアスな感じで行けたらと思っております。
稚拙な小説ですがお読みくださりありがとうございます。
お読みいただいた方にわずかでも楽しんでいただけましたら幸いです。