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奪還篇 山奥の名医⑨ シーン加筆しました

 テーブルの上に置かれた墨汁で満たされた小さな器の前に座る縁は、ふむと小さく頷いてから無造作に右手を突っ込み、墨汁を握るように掴むとそのまま引っ張り上げる。

 引き上げられた小さく白い指は墨に染まっておらず、それどころか掴まれた墨汁が飴細工のように伸びていった。

 延びた墨汁を右手を軽く回して糸を絡めるように手に絡みつかせていく。

 纏わり付いた水が縁の拳大程度の大きさになった所で、左手の人差し指と中指を立てはさみのようにして伸びていた部分を切りはなす。

 切り取られた下の部分はようやく自分が液体であることを思いだしたのか、形が崩れて器へと落ちていった。

 絡め取った水の固まりを両手でこね合わせて成形していく。

 その形は所謂勾玉。

 納得がいく出来になったところで縁は今できた勾玉を横に置いていく。

 墨汁で作られたはずの勾玉は縁の手を離れても形を崩れない。

 型に填めて作ったかのように均一の大きさの勾玉を縁は次々に作り出していく。

 その数が20になった所で縁は手を止めると、今度は右手の親指と人差し指で墨汁の表面を軽く摘みスッと持ち上げる。

 縁の指先に摘まれた墨汁が今度は糸状になって引き延ばされていく。

 引き延ばした糸を左手へと絡ませて蜘蛛の糸よりもさらに細く紡いで、ある程度の長さになった所で切り離す。

 出来上がった糸を勾玉の小さな穴へと糸を通し固定し、次の勾玉へと糸を通し、これを繰り返して数珠繋ぎへとしていった。



「こんな事ならば暇している一柱でも連れてくるべきじゃったか……急造ではある事を考えればまあまあか」


 

 全ての勾玉を通すと糸の両端をしっかりと結び大きな輪を作った縁は自分の作り上げた作品を持ち上げ細部を丹念に精査して小さく頷く。

 縁のサイズから見れば大きめな首飾りのようにも見えるそれは、大人サイズに合わせた腕飾りであった。

 漆黒色の硬質の質感をもつ勾玉と、同色で絹糸のように柔らかい細い糸から作り出された腕飾りは、材料がつい先ほどまで液体であったと思えぬ変化を遂げていた。



「ほれ。生まれ。宿れ」



 勾玉の一つを口元に当てた縁が囁きながら息を吹きかける。

 すると勾玉の表面が風で波打つ水面のように波紋を浮かべざわめく。発生した波は勾玉を縛る糸を奮わせその隣の勾玉へと波を伝える。

 勾玉から糸へ、そして糸から勾玉へと。

 次々と伝播していく波は腕飾りへと飾りつけられた全ての勾玉を振るわせて、最初の勾玉へと戻り収まった。

 すると最初の勾玉の内部。その中央に炎のように揺らめく何かが発生していた。



『軽々ととんでもない事してないかいエニシ? 其処からなにやら結構強い力を感じるんだが』



 楠木から渡された資料に目を通してどうした物かと頭を悩ませていたリドナーだったが、テーブルの上でちょこちょこと動く縁の作業がどうにも気になりつい声をかけていた。 



「雑用じゃ。当初は我らの領域に直接に筑紫を送還するつもりであったが、別れの宴席を設けるとなると別じゃ。この世界で筑紫を元の姿に戻しては異物として弾かれるか消滅の恐れもある。じゃから結界を張らせる眷属神と一時的な神殿結界器を作っておる所じゃ」



『異界滞在用の結界ってあたし等の世界じゃ相当な高等技術なんだけどね。しかも……神様までって』



 属する世界が違うので詳細は分からないであろうが、縁のやった事が本人が言うほど簡単な事ではないのが判るのか、リドナーが表情の中に驚き成分を混ぜた。



「この地に渡る前に筑紫の娘より『髪』を捧げられたのでな。言霊を読み換えて『神』へと変えただけじゃ。生まれたばかりで弱く意志もほとんどないが、元である者の父の手助けをする程度は出来るじゃろうて……あむ」



 誇るでもなく当たり前のように語った縁は袖口へと手を突っ込むと、小さな飴玉の入った袋を取り出し一つ摘んで口へとポイと放り込んだ。



『あんたほんとに凄い存在みたいだね。クスノキやらクキの姫さんが敬って接してるわけだよ。あたし等もそうした方がいいかい?』



「いらん。異なる世の者に崇められる事はしておらん。妾を平伏し崇めよと命じるほど其処まで傲慢ではない」



 ころころと飴玉を口の中で転がしながら目元を緩ませる縁が、胸を張りながら言い放つ。言葉だけ聞くならば傲慢その物であるが、縁の放つ格がその言葉を当然の物としてリドナーに感じ取らせる。



『寛大なことで…………で、その偉大なる神様に仕えているクスノキの方はどうなんだい。あっちの作業もあたしにはよく意味が判らない上に、凄味は感じないんだけどね』



 リドナーの視線につられ顔を動かした縁は、窓際で悪戦苦闘している楠木を見て小さく溜息を吐く。

 楠木の手には何時もの携帯電話。

 そしてその携帯からは一本のコードが伸び、コードの先には片手に乗るほどに小型化されたプリンターが接続されている。

 真剣な顔で珍しく無言な楠木は休むことなく指を動かし、それに合わせプリンターからは細い純白の紙が吐き出され続ける。

 紙には漆黒色の墨で書かれた文章が綴られていた。その色は先ほど縁が勾玉を作り出したの同色である。



「あやつは今祝詞を作り上げている最中じゃ。絡繰りに頼るのは妾は好まぬが、そうでもしなければあの木偶の坊の足りん脳味噌ではいつまでも出来上がらんからな」



『ノリト……なんだいそりゃ?』



「定義や種類はいろいろあるが、簡単にいえば術を発動させる呪文じゃ」



『随分変わった詠唱方もあるもんだね』



「安心せい。あのような珍妙で手間のかかる祝詞を必要とする者など妾の知る限りはあやつ一人じゃ」



 呆れ顔を浮かべて楠木を見るリドナーに対し、縁は溜息混じりに返す。

 奪還に掛かる儀式前の準備時間のほぼ八割はこの祝詞製作にある。

 これがもっと手際よく行えれば……それこそ即興で詠いあげるほどの才能を楠木が持ち合わせていたならば、奪還に掛かる手間や苦労は著しく軽減するだろう。

 しかし才覚が無くとも、その心根に惹かれ選び契りを交わしたのは縁自身。

 楠木を選んだ事は後悔は微塵もないが、不満となると別だ。

 せめてもう少しどうにかならないのかと縁は眉根を顰めた。



『あーとエニシ。誤解されると困るけど、別にクスノキを侮ってるわけじゃないさ。やってる事は理解できないけど、たった半日で送還するのは素直に凄いと思ってるよ。何せ召喚主のディアナですら数年単位、それもポータルポイントを丸々一つつかったほど力が必要だってのにさ』



 自分の言で縁が不機嫌になったと思ったのかリドナーが弁明じみた言葉を口にする。



「あやつが未熟なのは事実じゃ。気にしておらん……リドナーそれよりも祭壇と宴席の準備はどの程度じゃ」



 無いものねだりをしても仕方ないと縁は気を取り直すと、村人総出でおこなっている別作業の進捗具合を尋ねた。

 村の男衆は今現在姫桜の指示の下で祭儀を執り行う場を製作するために、ディアナ達の家からほど近い空き家を改装し整えている。

 改装といっても余分な荷物を全て取り出し、場を清めるための掃除をおこなう程度の作業だ。

 一方で村の女衆は筑紫との別れの宴席の準備に、数年前に潰れた元酒場に集まって料理製作や飾り付けをおこなっている。

 あまり裕福な村ではないがそれでも精一杯の感謝を込めようと手の込んだ宴会料理などを作っているらしい。

 どうやら村人全てが筑紫が無事に家族の元へ帰れる事を心から喜び、同時に深い感謝の念を抱いているようだ。

 

 

『確認してみるよ……………………』



 腰に下げていた聖書の写本を開き目を閉じたリドナーが、改装現場にいるファランと酒場のディアナへと念を飛ばして確認を始める。



『ん…………改装の方はほぼ完成。料理の準備も夕方には終わるそうだよ』



「ふむ。楠木の方もそれまでにはいくら何でも終わるじゃろ。問題はなさそうじゃな」



『まぁこっちはいいさ。問題はあたしのほうさね…………まったく時が合わさるなんてなんの冗談かと思えば、本気だから嫌になっちまうよ。しかも今夜かい。せめて提案ならよかったんだけど確定ってのがね』



 リドナーがテーブルの上に置かれたファイル類を指で軽く叩いた。

 『時計合わせ』と呼ばれる時間同期現象が一方的しかも今夜おこなわれる。

 楠木から聞いた情報は、本来リドナーの役職。異界の影響や暴虐からカルネイドを守る聖人としての本分からすれば看過できる物ではない。

 だが同時に楠木のもたらしたファイルは、時計あわせのデメリットを軽々と覆す、リドナー自身にもカルネイドにとっても、とてつもなく大きなメリットが提示されていた。

 そのメリットとは今宵の時計あわせによって、同時間経過軸に属する数多の世界への紹介状であった。

 他世界への理を求め聖人を異世界へと渡らせるカルネイドにとって、カルネイドと同時間経過軸の世界は貴重。しかもこれほどに大量となれば話は別だ。

 その上紹介を拒否しても時計あわせは、確実にしかも一方的におこなわれる。

 この事態にリドナーが今一番頭を悩ませるのは、他の聖人達をどう納得させるべきかだ。



『縁。この赤色のに載っている世界は明日からでも大丈夫って詠ってるけど、本当なのかい?』



 5ミリほどの薄い赤ファイル、5㎝ほどのぶ厚い緑。その両者の半分ほどの青の三色に色分けされている。

 赤いファイルを手に取ったリドナーがぱらぱらと捲りながら中身をザッと見ていく。



「うむ。そこに載っておるのは異世界からの留学や移民を多く受け入れておる世界や、妾達が多大な貸しを持っておる世界じゃ。明日といわず今この場でもねじ込めるぞ」



 赤ファイルは即交渉成立する世界群。

 青は条件付きながら交渉成立可能性が高い世界群。    

そして緑は同時間軸に属する世界群がそれぞれ掲載されている。

 その総数は千はくだらないだろう。

 全てに目を通したわけではないがカルネイドへと取り込むべき理や技術が存在する世界がゴロゴロと転がっている。



『それにしてもあんた等いろんな世界に繋ぎ付けてるようだね……ひょっとして近いのかい?』 



 関係性の高さや同一時間世界の多さに目を見張るリドナーだったがそこに籠められた意味に不意に気づく。

 世界が終わりを迎えたときに少しでも多くの人が生き残るために。

 渡れるべき世界。新たなる生を迎える事のできる世界を少しでも増やそうとしているのだと。

 


「すぐにではない……じゃが終焉は起こる。僅かなりじゃが兆しは見え始めている。起きてからでは遅いからな。その為の下準備じゃ」

 


 リドナーの疑問を縁はあっさりと肯定する。

 今日、明日という類ではなく、数年いないといった話でもない。

 縁の勘ではあと少なくとも百年ほどは現世は持ちこたえるだろう。

 しかしその先は何時、世界改変力という熱を失い現世が凍りつくかは判らない。

 人の生に終わりがあるように、世界にも終わりはある。

 神代に生を受けながらも、ひょんな事から数多の異世界を渡り歩いた縁は、数多くの終焉をその目にしている。

 現世がその時を迎える日に備え、その名が示すとおりに数多の世界との『縁』を紡ぐ神。

 それが楠木、そして特三と共に歩むことにした今の縁在り方だった。




 

  












「早うせんかこの木偶の坊が。結局貴様が一番まごついておるではないか。まったく上背があるのも考え物じゃな……少し削らせるか」



 楠木の右肩に足を組みながら座る縁は苛立っているのか、早く支度を終わらせろと何度も急かす。



「判ってますって。もうちょっとで終わりますから。それに背があると上側は楽なんですから良しとしてください」



 耳を引っ張るのは止めてほしいと思いながら、片膝をついた楠木は古書体で祈りの言葉が綴られた五㎝幅の長い白い紙テープを綺麗に拭かれた床へ当てていく。

 すると紙テープは糊を使ってるわけでもないのにぴたりと張り付いていく。

 長身の楠木は台を用いずとも軽く背伸びするだけで天井近くまで手が届くので、上に貼り付けるのは楽なのだが、逆に床の方に張る時はしゃがみ込んで這いつくばって貼り付けていく必要があるので苦労していた。



「よしこいつで終わりと。問題無いですよね縁様?」



 全てのテープを張り終えた楠木は立ち上がるとスーツを軽く手ではたき縁に問いかける。

 上側の隅の一角からスタートした紙テープは右回りで部屋をぐるりと取り囲んでスタート地点に戻った後に下へと降りて、今度は上とは逆周りに四隅を通りこれまたぐるりと囲んでいる。

 楠木の貼り付けたテープは上は『天』

 下は『地』それぞれの境界線を現す。

 天と地を定める事によりこの空間を一つの世界として模擬的に捉えて術を施す結界系術のもっとも簡易な陣である。

 


「不備くらいは自分で判るようになれ……まったく。すべて繋がっておる。やれるぞ」



「んじゃ。早速いきますか」



 軽口で答えた楠木は、懐から筑紫である本を取り出すと部屋の中央にぽつんと置かれた机の上に置く。

 空き家を片付け清めた即席の祭場にいるのは楠木と縁。そして奪還対象である筑紫のみ。

 祭儀へと意識を集中させたいので人払いをして姫桜も含めて外で待機してもらっていた。



「いいぞ」



 縁は告げると肩を蹴って宙へと浮かび筑紫と楠木の中間へと移動し、楠木は目の前に竹刀をいれた竹刀袋を横向きに置く。 

 これで準備は完了だ。

表情を真剣に改め直立不動になった楠木は瞼を閉じる。



「では………始めさせていただきます」



 ゆっくりと脈打つ心臓の鼓動に合わせて息を吸い吐き出す。

 己の中。全ての感情の流れを一つとするイメージ。

 取り返す喜び。攫われた怒り。引きはがされた哀しみ。戻る平穏な日々に楽しみ。

 全てはこの奪還祭儀の為に。

喜怒哀楽。

 全てが揃い四心平等の心から、さらにもう一つ上の領域『平常心是道』へと。

 軽く瞑っていた瞼を楠木はスッと開く。

 目の前に信奉する八百万の神たる一柱『退魔捜世救心神刀縁』が鎮座する。

 その背後の机の上には奪還対象である筑紫亮介が変化し一冊の書物がおかれている。

 縁の姿を視界の中央に捉え一度深々と頭を下げ一礼した後に、さらにもう一礼し楠木は片膝をつき縁を見上げる体勢となる。



「尊貴なる神たる御身の前に立つご無礼を謝罪しその大いなるお力にご助力を求める事をどうぞお許し頂きたい」



「許す。述べよ」



 楠木の口上に対し鷹揚に頷いた縁が返答を下賜する。

 縁の声は普段よりも涼やかに響き渡りながら広がり、同時に部屋の上下に張り巡らした紙テープに写された無数の細かな文字一つ一つが己の持つ音を発し始める。

 その音は数万種類にもなる。

 本来それだけの異なる音が狭い室内で一斉に響き渡れば不協和な雑音が耳障りな音を奏でるだろう。

 だが実際には澄んだ音色が響き渡り、むしろ心地よい位だ。



「此度の祭儀は異界へと誘われし、父たる筑紫亮介を現世へと呼び戻さんと欲する筑紫優菜、優陽姉妹の祈願を、御身の従者たる楠木勇也が姉妹に代わり奏上させていただきます」



 一音一音に力を込めはっきりとした発音を心がけながらも、一番に気を使うべき事を常に頭の片隅に残しながら祝詞を綴っていく。

 それは心を込める事……だがこれが難しい。

 姫桜を初めとした生粋の術者達はいとも容易く言葉に力を込め理を操ってみせたり、上位存在から力を引き出してみせる。

 だが生まれも育ちも一般人である楠木にはそれがまず理解しにくかった。

 怒りにまかせて声を荒げたり、哀しみに沈んだ声など言葉に感情を込めるのとはまた違う。

 己が魂。

 存在その物が宿す思いを周囲に広げる事なのだと、縁からは説き聞かされ指導されているが、理解できずに契約直後はしばらく苦労した。

 特三捜救に属する老巫女に発声法や基礎的な大祓の師事を受けたり、大和言葉を用いた祝詞を作ってみたがあまり変わらず、難しく考えたり様式にこだわっても、必要かつ適切な力を縁から借り受ける事は出来なかった。

 結局の所選ばざるえなかったのは、稀少な祭具を使用し利便性に難があり設置に手間はかかるが、縁の力がもっとも高まる場を作り内部で祭儀を執り行う儀式形式であった。

 


「国生みの御柱にして神生みの父神たる伊邪那岐ともに黄泉比良坂を下り黄泉国へと至り、国生みの御柱にして神生みの母神たる伊邪那美を、現世へとその身に変えて奪還なされた神たる剣『天之尾羽張』。御身粉微塵と砕け無量大数の世界に広がろうとも、御霊に宿る神力は些かも損なわれる事無く。剣より刀へと姿を変え真名を変えようとも、御高名に一切の傷もあらず。荒魂より新魂へと昇華し復活なされた御身を我は信奉いたします」



 明朗に響く楠木の声に合わせて掌ほどの大きさの縁の姿が徐々にぼやけていく。

 それに代わり遙か太古神代の時代に失われた伊邪那岐神が十握剣『天之尾羽張』の幻影が姿を現し始める。

 名の通り握り拳十個分の長さを持つ神剣は、偉大なる伊邪那美を現世へと戻す代償に砕け散り、既に無量大数世界のどこにも存在しない。

 だが砕け散った神体たる刀身の欠片と、神魂は未だ健在。

 寝かせていた竹刀袋へと楠木は手を伸ばし握ると手元へと引き寄せ、縛っていた口紐をほどき、竹刀袋からほっそりとした形の漆黒色の竹刀をゆっくりと引き抜いていく。

 その手つきはまるで真剣を取り扱っているかのように慎重で繊細だ。

 竹刀を完全に引き抜き空となった竹刀袋を元の位置に戻してから、右手で柄を左手で弦の張られた峰側を持ち両手で捧げるように前へと差し出す。

 だが宙に浮かぶ剣の幻影とは僅かに距離を離す。

 まだ縁より許可をもらっていないからだ。

 間を詰めるのは縁が許してからというのが決められた約定であり、縁に対する敬い奉る事となる。



「恐れ多くも御身の欠片を宿したる我が刀。霊地に育ち霊木より削り出したる竹刀。神名を一字賜りし黒刀『縁』へと、どうぞ御身を宿しください」



「よれ」



 剣の幻影から響く縁の声とともにテープの文字が発する音がより荘厳に強くなっていく。

 既に室内は異界カルネイドにありながら縁の世界といってもいい。

 だからこそ縁の返答は必要最低限となる。

 元来持つ神霊としての強い言霊と領域が合わされば、ただの人である楠木など縁の言葉一つで存在が変わったり消え去ってしまう。



「失礼致します」



 許可をもらった楠木は左膝を着いた体勢のまま、右足を一歩前に出し縁へとにじり寄る。

 残った左足を引き寄せて乱れた体勢を立て直してから、両手に捧げる竹刀を宙に浮かぶ十握剣の幻影へと重ね合わせていく。

 真っ直ぐに伸びる柄頭から切っ先。

 胴が張る形ではなく、昨今では珍しいほっそりとした刀身。

 細部は異なれど十握剣と竹刀の形や大きさはほぼ同じ。

 何より柄本に埋め込まれた天之尾羽張の神体。十握剣の欠片が両者を結び合わせる絆となる。

 霧が晴れるように幻影が消え失せて黒竹刀へと同化していく。

 その瞬間楠木の中身が劇的に変化を遂げる。 

 圧倒的な開放感を伴う自意識領域の拡大が、つい今し方までの楠木では感じられなかった絆の形『縁』をその両眼へと浮かび上がらせていく。

 天井に張られる板。日に焼けて色あせた壁紙。家具を動かした跡が残る床の古傷。

 部屋の中にある全ての物質が淡い光を放ち、色とりどりの細い光跡を放ちながら外へ、世界へと広がっている。

 この光の先には、天井に用いられた木の親兄弟木や切り出した大工。壁紙を貼った職人。床に跡を残した家具などが存在する。

 例えその先にいる者が生を終えていたとしても墓所やその遺族に繋がっている。

 これこそが『縁』

 常人には目に見えず、感じ取ることはできず、それでも繋がっている絆。


 

「お力をお貸しいただけましたことに感謝を申し上げます。私はこの後も命尽き、魂魄果てる時まで精進を重ね、御身に仕える者として恥じぬ働きをする事を改めて誓わせていただきます」 


  

 両手に掲げる竹刀……宿った縁へと礼と誓いの宣誓を陳べた楠木はすっと立ち上がる。

 竹刀を左手一本に持ち替えて左腰の脇に構える帯刀の構えをとる。



「此度の祭儀の子細は記しました通り。親にして真たる縁を紡ぎ直し、邪なり呪法にして紡がれし縁を断ち、筑紫亮介を現世の身へと回帰させることにあり。供物として捧げられたるは娘筑紫優菜の髪。同じく娘筑紫優陽が帽子。両者とも己が宝を捧げ、己が宝を求めております。その心に一変の嘘偽りなし」



 先ほどまでは縁の声にのみ反応していた文字が、楠木の声に合わせて音を強めながら光を発し始める。

 単に縁が竹刀へと宿り力を通しただけでは無く、楠木自身が縁の力を借り受け一体化したトランス状態へと移行した証だ。

 右手を柄に当て竹刀を引き抜き楠木は正眼の構えをとり緊張を吐き出すかのように小さく息を漏らす。

 縁と契約を結び数多の奪還を行ってきてはいるが、対象を元の姿に戻すこの瞬間の不安と緊張感だけは未だに消えることはなかった。 

 ここまでやれば、後は術を発動させる言葉と動作を放つだけ。

 斬るべき縁や紡ぎ直すべき縁の指定は、部屋を覆うテープに書かれた文字が指し示し識別をしている。

 端末に入力された高精度の術式確認プログラムを使い何度もシミュレートと手直しを繰り返した上で符に刻んだ文字に間違いはないはず……だがそれでも不安はつきまとう。

 斬るべき縁を間違えていないか? 

 繋がなければならない縁を忘れていないか?

 異なる世の神魔を相手に現世との縁を断ち追放し続けた古今無双退魔神刀『縁斬り』の別名が指し示すとおり縁を宿した刀剣の持つ力は強大。

 その力で切り離し繋げた縁は強固となり本人の同意無き再召喚を容易に行わせない神効をあたえる。

 同時にもし見落としがあり失敗した場合、再度祭儀を執り行うにも数十年単位の長い時間をかけた準備が必要となる。

 神々から見れば一瞬の時しか生きられないただの人の身である楠木からすれば、それは実質一回だけ与えられた奪還機会。

 不安も緊張も期待も興奮も全ての感情を飲み込み楠木は祝詞を紡ぐ。



「この一刀は紛い無き正しき義の一振り。強き思いと強き縁の力は無量大数の世界を超え繋がり、世界を隔絶する壁すらも突き破る力となり、現世に和をもたらす物」



 やらなければならない。

 失敗を恐れていては前に進めない。

 取り返したい者を取り返すことが出来ない。

 親しき者を失い嘆き悲しむ人の心はいつまでも晴れない。

 己が正義の味方などという都合のいいまやかしなどに到底なれる者ではないと自覚しながらも、奪還のためにただ突き進み正義と嘯く。

 ゆっくりと深い息吹をおこないながら楠木は両手を頭上へと上げていく。

 拳の握りは額の前ほどに。

 天井ギリギリまで伸びた切っ先は天を突くように伸びる。

 大柄な楠木がもっとも得意とする……得意とした大上段の構え。

 道を離れたといえど幼少より続けていたその構えは堂に入り、何よりも楠木の精神を深く鋭く集中させていく。

 息をピタと止めた楠木は再度筑紫亮介の姿を見据える。

 筑紫もまた淡い光を放ち、その身から無数の細い光跡を世界へと放っている。

 しかしその光跡は所どころ引き千切れたように分断されていたり、明らかに色や太さが違う幾つもの光跡が無理矢理に繋がる。

 召喚術によって生じた歪みを眼に写しながら、同時に楠木は別の形を捉えていた。

 細面で茶色フレームのメガネの下には優しげな目が顔を覗かせ、きっちりと整えられた髪はその性格の几帳面さを表す。

 筑紫姉妹が供物として捧げた物に宿る絆の力『縁』が、取り返すべき者の姿。精神世界であった筑紫亮介の姿をはっきりと映し出していた。



「退魔捜世救心縁! 縁斬り!」



 裂帛の気合いとともに縁の真名を唱えながら楠木は竹刀を振り下ろす。

 空を切り裂く音を奏でる切っ先より発生した目も眩むような強い雷光と雷鳴が室内で吹き荒れる。

 切っ先より溢れる無数の雷光が、偽によって結ばれた光跡を一気に焼き切り、轟く雷鳴が切断された光跡を選別し跳ね上げた。

 筑紫をこの世界に留めていた召喚術の楔が楠木の真っ向の打ち下ろしの一撃によって薙ぎきられ、その書物の表紙が波打つように泡立ち焦点を失いぶれはじめる。

 竹刀を振り下ろした楠木はそのまま、柄より左手を離し右手を引いた溜の体勢へと流れるような動作で移行する。

 黒竹で作られる刀身に幾筋のもの閃光が鮮やかに浮かび上がる。

 光の筋は筑紫優菜が捧げた黒髪と、筑紫優陽が捧げし帽子より取り出された縁。

 筑紫亮介に繋がっていた水よりも濃く、かけがえのない親子の絆。

 刀身が放つ光の強さに、表情を引き締めていた楠木の口元に自然と笑みが浮かぶ。

 不敵で自信に満ちた笑みを浮かべる楠木の口は最後の祝詞を紡ぎ出す。

 縁に仕える歴代の神官にして継承者の中でも、初代と当代継承者である楠木のみがもたらすことのできる祈りの言葉。

 例え姿がどれだけ変貌し魂が堕ちていようとも、どれだけの時が過ぎて老いていようとも、召還時の姿をそのままに全てを取り戻す神の奇跡。



「真にして心たる縁を今ここに! 縁紡ぎ!」



 波打ち朧気な姿へと変化する筑紫の真心に向け、光を纏う竹刀による渾身の突きを打ち放つ。

切っ先を覆う先皮が筑紫亮介である書物へと触れた瞬間、まるで地上に太陽が出現したかのような目も眩む暖かな光が室内を満たした。














 先ほどまでいた幻想の中の診療所はいつの間にやら消え失せ、別空間へと筑紫亮介は放り込まれていた。

 無色無音で上下の区別もつかない果ての見えない世界。

 世界に自分がただ一人だけと孤独を覚えそうな場所を漂う亮介だが、恐怖感はなくむしろ心地よさを覚えるくらいだ。

 事前に楠木から起こる変化を聞かされていた所為もあるだろうが、この場所に何処か懐かしさを感じていたという方が大きいだろう。

 


(お父さん。どうかなこの髪型? お母さんの真似してみたんだけど)



 無音だった空間に不意に少女の声が響く。

 一瞬下の娘優陽の声かと思った亮介だったが、すぐに違うことに気づいた。

 確かに声の感じは優陽によく似ているが、その言葉は上の娘優菜が妻を亡くし気落ちしていた亮介にたいして発した一言だった。

 その頃は剣道の面を被るのに邪魔だからとあまり伸ばしていなかった髪を無理矢理にまとめて縛ったポニーテールもどきだったが、亡き妻によく似た髪色を持つ優菜には似合っていた。

 


(あたしお母さんみたいにはすぐできないけど、もう中学生なんだしちゃんとやるよ。優陽の面倒だってみるから、お父さんはお父さんのやりたいことして。お母さんがお父さんのこと応援してたみたいにあたしも応援するから)



 泣きはらした赤い眼でそれでも亮介を励まそうとした優菜の幻が眼前に浮かぶ。

もっと楽で儲けられる道があるのに、自ら苦労する道を選ぶ奇特な医師。

 妻や子供を省みず、己の名声だけを求める偽善者。

 本人は誇張だと感じていた山奥の名医という名声の一方で、そんな陰口があることは亮介自身も知っていた。

 しかし一番の理解者である妻が陰日向に力を貸し背を押してくれたから、そんな声にも負けず自らの想いで有り原点でもある医師としての道を歩み続けてこれた。

 だがそれも今日まで。

 最愛の母を亡くし、甘えたいだろうに、泣きたいだろうに、それでも父の心配をし背を押してくれようとする我が子を置いていくことなどできない。

 


「…………」



 過去に抱いた感情を亮介は思い出す。

 そうだった。自分はあの時医師である前に一人の父であろうと選択したはずだった。



(おとーさんおと-さん。あのね先生が自分の物には自分のお名前書きなさいってだから書き方教えて)

 


 また声が響く。

 その舌足らずな声は先ほど響いた優菜よりも幼い。

 今度こそ下の娘優陽の声だ。

 そしてこの会話も亮介の記憶に色濃く鮮明に残っていた。

 小学校入学式の夜に亮介の部屋へと、ランドセルや教科書、筆箱、体操着などを一式持って訪れた優陽が発した言葉だ。

 ひらがなでの名前の書き方は知っているはずなのに、どういう事だろうと尋ねた亮介に優陽はあの時笑顔で応えた。



(うん。ひらがなは書けるよ。そうじゃなくてほんとのお名前。漢字での書き方教えてほしいの。だってゆうひのお名前っておかーさんがつけてくれたんでしょ。ゆうひおかーさんの顔は知らないけど、ほんとのお名前を書いておけばおかーさんといつも一緒でしょ)



 年の離れた姉である優菜がよく面倒をみて、通いの看護師や医院を訪れる患者達にも可愛がられていたが、やはり何処かで母親がおらず寂しい思いもしていたのだろう。

 手本として亮介が書いて見せた通学帽の『筑紫優陽』という、幼い優陽には難しいだろう漢字を一生懸命他の物にも書き写し、ひとつ書くごとにこれで合ってるよねと確認したときの笑顔が幻想として浮かび上がる。

 優菜は髪。

 優陽は帽子。

 この二つが娘達にとってどれほど大切な物か、どれだけの思いが籠もっているのか、誰に諭されるでもなく亮介は理解する。

 異世界へと攫われてしまった父である亮介を取り返したい、帰ってきてほしいと心の底から願い、娘達はそんな大切な物を供物として縁へと捧げたのだと楠木は言った。

 自分がどれだけ娘達に思われているのか。

 自分がどれだけ娘達を思っていたのか。



「…………………………帰りたい」



 娘達の想い自らの心をまざまざと見せられ亮介はぽつりと呟く。

 小さくとはそれは心の底からわき上がる深い深い願い。

 亮介が願望を口にした瞬間、無限に広がっていった世界が一気に集束を始める。

 無色だった世界が色づき、重力が生まれ、全てがあるべき場所へと帰り孵っていく。

 孵っていく世界をみて亮介はこの時初めて自分が居る場所の正体に気づきなぜ判らなかったのだろうと呆れ気味の溜息を吐く。この場所が居心地がよく懐かしいのも当然だ。

 この世界は亮介自身だ。

 筑紫亮介という世界が本来あるべき形へと戻っていくのだと。

   

















「ふむ。あの娘達の想いと強き縁は見事じゃな。褒めてやろう」



 雷光で視界をやられて満足に前も見えない中、響いた縁の声に竹刀を突き入れた体勢のまま楠木は応える。

 


「目が眩むわ耳が痛いのが難点なんだが、やっぱり耳栓やらサングラスの対策とか駄目か縁様」



 何とか目を慣らそうと、ぱちぱちと瞼を開いたり閉じたりして動かす。

 これでは筑紫亮介がちゃんと元の姿に戻ったかどうかも確かめようがない。



「当たり前じゃ。この大戯けが……まったく。せっかく妾が褒めてやろうとしておるに情けないことを言うでない。前をちゃんと見ろ。文句なしの成功じゃ。よくやった」

 

 

 ようやく慣れてきた目に映る愛刀の竹刀より縁の叱責が響く。だがその叱り声はどちらかというと優しげでどこか誇らしげであった。

 ようやく目が慣れてきた楠木が前を見るとテーブルの上に一人の成人男性が仰向けに横たわっていた。

 召喚された時が早朝だった為かTシャツとハーフパンというラフな格好だが、その顔や姿形は先ほど浮かんだ筑紫亮介に間違いない。

 その右手首には縁が作った腕飾りが填められ淡い光を放っている。

 理の違うカルネイドにおいても元の姿に戻った筑紫亮介が活動できるように結界を構成しているようだ。



「お褒めにあずかり恐悦至極。縁様ご苦労様でした」



 軽口を叩きながら楠木は己の右肩へと竹刀を当てると、淡く光を放ち中から縁が姿を現す。

 竹刀から出てきた縁はいつもの定位置である楠木の右肩へとちょこんと座ると、楠木の頬を優しい手つきで撫でた。



「貴様もご苦労。筑紫が気づくまで少し休め。汗と動悸が酷いぞ」



 縁を宿し力を借り受けた神憑り状態が解除され、楠木の肉体は疲労を思い出す、

 全身からは冷たい汗が湧き出し流れ、心臓が不規則に荒ぶり四肢からは力が抜ける。

 まともに立っている事もできなくなった楠木は尻餅をつくように床に座り込んだ。

 


「はぁ……疲れる……身体は鍛えてるんで体力は人並み以上にあると自負するんですけどねこれでも」

 


「体力馬鹿じゃからこそこの程度ですんでおると思え。楠木。貴様には術師としての才能がない。だからこそこれほど疲労するんじゃ」



「まぁそれ言われると返す言葉もないんですけど」



 術者としての才能がない。

 それは縁に言われるでもなく今更のことだが、才能の無さをカバーするために体力も気力も尽き果てた己の状態に、僅か数分の儀式で全身全霊を消費する不甲斐なさに苦笑を浮かべる。

 


「じゃが妾の真の担い手にして神官となれる者は今生において貴様しかおらん。だから誇れ。これから先いかなる苦難、苦境、苦行に会おうとも前に進め。妾の名と父母全ての御柱に賭けて誓う…………楠木勇也。貴様が求める者。結城由喜を救い出すその日まで妾は常に共にある」



 結城由喜。

 縁が口にした名前が疲れきっていた楠木に力を与える。

 精根尽き果てたと思っていた心に力が再び戻り、座り込んでいた身体を立ち上がらせる活力へと変わる。

 大切な……大切だった少女。

 由喜が消えたことで楠木の人生は大きく変わった。

 自分が知りもしなかった世界に関わり、世界の秘密を覗き、別の世界すらもかけずり回る羽目になった。

 また会いたいと願った。

 なんで消えたと恨んだこともあった。

 忘れてしまおうとしたこともあった。

 あの頃抱いていた幼い恋愛感情は、流れた10年の月日の中で大きく変質をとげ、今は恋愛感情等という物ではないかも知れない。

 だがそれでも結城由喜を楠木は求める。

 昔の友人、知人、そして由喜の母親…………結城由喜の帰還を求める者は他に何人もいる。

 そして召喚被害者は由喜だけではない。

 今この瞬間も帰りたいと願い、切望しているかも知れない。

 ならば休んでいる暇はない。



「お心遣いありがとうございます。ユーキはいつか絶対助け出します。あいつにはこっちの命令権15回分持ち逃げされてますからね。何やらせるかずっと楽しみにしてますんで」



 胸の中に浮かんだ複雑な感情を全て飲み込んで力へと変えて立ち上がった楠木は、いつもの軽口を返しながら人の悪い笑顔を浮かべて見せた。 

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